此の度の新型肺炎による感染症の罹患拡大に限らず、今後日本國の社会には其れこそ危険なことが一杯=大きくリスクがある、なのだから皆が一人一人ちゃんと考へて行動しておかなひともう大変なことになっちゃうんだよと云ふことにつきわたくしはずっと述べ続けて来たのである。
さうした國家レヴェルでの矛盾が大きく存する國だからこそ、思想が右だとか左だとかとそんな下らぬことで闘争して居なひでもっともっと大きく幅広く物事を見られるやうにしておかなひとみんな沈没しちゃうんだぞ。
其れも腹を決めた上でさう沈没するならするで良ひのだが大抵の方々はまるで訳も分からぬうちに🐜地獄や渦潮地獄へと吸ひ込まれていくのだから其れでは如何にも日本人が可哀想ではなひか。
さて、此の度非常に感心させられる記事をネット上で初めて発見しまさに吸ひ込まれるやうに読ませて頂ひたのだったが其れが何遍読んでもまさに凄ひ記事なのだ。
面白ひと言ふか鋭ひと言ふか兎に角凄ひ内容なので今後暫くは此の方のお書きになったものをテキストとなしつつ日本の社会のことを考へて行かうかと思ふ。
「新型コロナには一致団結で!」と叫ぶ組織が、残念な結果を招く理由 (1/6)
未知のウイルスの感染拡大を阻止することが出来なかった其の責任は果たして何処にあるのか?
わたくしの場合は日本社会の特殊性、其の体質の独自性が必然としてさうした結果を齎すとさう考へて来て居た。
さうしてどうもノンフィクション作家としてかうして活躍される窪田 順生氏も其のやうに考へて居られるやうなのだ。
「新型コロナには一致団結で!」と叫ぶ組織が、残念な結果を招く理由 (2/6)
さうして日本社会に於ける独自の組織性が危機管理に於ける実戦での負け戦を招ひて居るとさう仰るのだ。
即ちまさに其れが「一致団結」だ。
確かに危機に於ひて、日本の組織はまさにまず「一致団結」して事を乗り切らうとする。
確かに「和をもって」問題の解決を図り謂はばみんなで一緒に赤信号を渡り其れで何とかなるのだとさう思ひ込んでも居る。
かの岩田 健太郎氏に対する「バッシング」にせよ、さうして現場に於ひて危機と云ふ眞實を述べた人のことをむしろ和を乱す不届き者として否定するに至る。
「ほんたうのこと」を述べて居るにも関はらずむしろコイツはウソこきでもって村八分の人間です。
といつの間にか日本の組織は眞實に蓋をしかうして事の真相を語りし者を犯罪者扱ひするのである。
「新型コロナには一致団結で!」と叫ぶ組織が、残念な結果を招く理由 (3/6)
此のやうな危機を危機として明確には見定めず、危機自体よりも危機に対する対処の姿勢としての「和」としての協調性を重んずるばかりに謂はばなし崩し的に問題解決への糸口を其処に見失ふのだ。
其処には元より体制批判などまるで出来ぬやうな一種権威化された空気が張り詰めて居やう。
其処へもしわたくしの如くに「どうもおかしひのではなひか?」などと言おうものならさう言ふコイツこそが頭のおかしひアナーキストだ。
もうこんな奴は金輪際日本人だとは言へぬ。
もうこんな奴は即刻牢屋行きだ。
と其のやうな御裁断が下りわたくしのこれまで書ひて来しものは皆頭のおかしひ自称詩人の書ひたものでありまるで無価値である。
とさうレッテルを張られわたくしは永久に日本の社会からは締め出されるのであった。
しかも事の眞相を反古にして所謂組織の論理を貫く為に隠蔽や改竄を平気でやるのが其の日本型の「和の精神」の負の側面なのだ。
其処に於ひては所謂客観的俯瞰性などは問題では無く要するに事勿れ主義と云ふか和の感情論にて意思決定をなして行くのだ。
其のやうな「型」を持った社会であるからこそ危機管理にはまるで役立たずで須らく失敗することともならう。
「新型コロナには一致団結で!」と叫ぶ組織が、残念な結果を招く理由 (4/6)
さうして人の眼を欺く訳でも責任逃れをしたひ訳でも無く兎に角「一致団結」したひ。
つまり、事に当たり其の「和」=協調と云ふ「型」こそが大事なのだ。
確かに「型」もまた一面では大事なのだがこと危機管理に於ひては其れに拘るべきものでは無ひ。
何故なら危機とはまさに非日常の体験だからなのだ。
危機とはさうした本質として型破りなこと其のものなのだ。
其のやうな場合にはむしろ違ふことを言ふ奴=型破りな奴を尊重して置ひた方が良ひことだらう。
何故なら「型」が壊れることで其の非日常性がまさに現出して仕舞って居るからなのだ。
ところが日本の組織にはさうした逆の意見を認める寛容性、多様性が本質的にはまさに欠けて居やう。
さうした組織の論理としての「和」=協調と云ふ「型」、社会の秩序を乱さぬ「和」=協調と云ふ「型」が日本の社会の底部には深く横たわって居るので其処でもしも逆のことを言へばまるで犯罪者扱ひされまるで価値の無ひものとして無視されていく他は無し。
だがさうした中作家やら詩人の先生方だけはむしろ逆のことばかりを述べて来て居られますね。
其処が素晴らしひところだとむしろわたくしは思ひますのですがさて如何でせうか?
文學の徒=文人はさうして世間とは眞逆のことばかりを述べ其の内容は至極面白ひものでせう。
わたくしの場合は其れに加へて屡🐻やら🐅やら🐵やら🐍やらがお話の中に出て来てまさに此れ以上面白ひものは何処にも無ひでは御座りませんか。
「新型コロナには一致団結で!」と叫ぶ組織が、残念な結果を招く理由 (5/6)
其の社会として又は組織として「おかしひ」と言ひ切れる奴が何処にも居りませんのですね。
「おかしひ」のは「おかしひ」のでは無くあくまでさう言ふおまへが「おかしひ」のです。
でも事實として其れは「おかしひ」訳です。
「おかしひ」ので「おかしひ」とわたくしはずっと述べ続けて来たばかりのことで何もおかしくは無ひものを「おかしひ」と言って居る訳では無く「おかしひ」ことをおかしくは無ひと仰る其の論理こそがまさに「おかしひ」のです。
しかしながら日本人は何故かうまで団体主義なのでせうか?
結局は其の団体主義である「一致団結」こそが手段では無くあくまで目的化されて居る訳ですから「一致団結」して事を為すことが美談として語り継がれていく=最大の価値化して行く訳です。
すると個としての意見は矢張りと云ふべきか其処に埋没していく他は無くなる。
或は個としての自律的な思考其のものが抑圧されていく他は無くなる。
なので危機の時には非日常としての其の危機の異質性にはまるで対応出来ずつまるところは「型」としての日常性をそ知らぬ顔をして繰り返すばかりのこととなり結果危機管理には失敗するのです。
「新型コロナには一致団結で!」と叫ぶ組織が、残念な結果を招く理由 (6/6)
ー「みんな」「絆」「一致団結」という言葉を出されると冷静に物事を考えられなくなって社会が暴走を始める。-以上より
「絆」と云ふ所謂善の価値の言葉が妙に流行った時にわたくしは「何だ、其れは?」と独り疑問を投げかけて居りました。
其の「絆」とか「みんな」とか「一致団結」と云った至極便利な所謂善の価値の言葉の羅列にて近代的な諸問題はまず解決出来ぬものと見ておくべきでせう。
要するに其れは伝統的な日本の組織上の価値のことです。
だけれども、其れは基本的に前近代的な価値であるに過ぎぬ。
対する近代的な価値とはある決定に関して正の価値と負の価値が闘争することで優劣を決め決定されて行く価値のことを言ひます。
其の過程を経ずして決定される日本の組織としての価値はまさに幕藩体制までの社会構造上の価値のことです。
なので、其れではまるで江戸時代でのお話となりませう。
だから近代的な価値の決定に於ひて日本の組織は何かと前近代的な意思決定を為すのですから其れではもう社会が文字通りに暴走致します。
但しわたくしは其の江戸時代のやり方でも良ひと思って居るのですよ、實は。
ズバリ鎖国する限りに於ひては其れで良ひのです。
でも今は戦後でしたね。
戦後どころかはや廿一世紀ですね。
だから其処がそもそも「おかしひ」訳です。
意思決定の仕方と先進産業国である日本國の経済規模とがまるで見合って居ません。
尚オリムピックを何故そんなに日本人又は日本政府がやりたがるのでせう?
其れは日本の「和」=協調と云ふ「型」でもって何か大きな事を為すことこそがかの國では一番大事なことでもって其れがまさに生き甲斐のやうなものにもなって居るからなんです。
だからオリムピックを止めよ!などと本気で言ふ奴などまず居ません。
尤もわたくしの場合はあへて何度も言ひましたがね。
ですから、そんな日本の「和」=協調と云ふ「型」でもって何か大きな事を為すのであればむしろ五木 寛之先生が仰るやうにむしろみんなでもって「下山」して行きませう。
みんなでもって頑張るのでは無くみんなでもってむしろやる気を失くして行くのです。
尤もやる気を失くすのは、オリムピックや経済成長やグローバリズムに於ける競争に於ひてであり御勉強の方はこれまでにも増してやっていかねばなりません。
御勉強をして五木先生や芥川先生のやうにみんながお利口さんになれたら此の國は知性に溢れおおまさに輝かんばかりの知性の園となることさへもが出来やう。
オリムピックでの国威発揚や民族性の確認などでは無くみんながもしお利口さんになれたら此の國は知性に溢れおおまさに輝かんばかりの國となることさへもが出来やう。
日本國がそも其の「矛盾國家」であることこそが近代的な諸の危機管理の場面に於ひて決まって上手く対処出来ず即ちみんなでもって赤信号を平気で渡りみんな轢かれて死んじゃふことにも繋がるのですよ。
でも幅広く御勉強して自分の意見を持てるやうになると往々にして組織に対しても逆のことでも言へるやうにもなる訳だ。
幅広ひ御勉強による成果とは其の意思決定に於ける基準を自己の内側に持つことですのでむしろ其れは受験勉強などよりも余程に大事なことでせう。