目覚めよ!

文明批判と心の探求と

詩人の日本學ー結局危機を齎したものとは「やり過ぎ」た文明だー

新型コロナ感染拡大でも、日本が「中国人」を受け入れ続ける理由 (2/6)

 

なる程其の「前例踏襲主義」にて意思決定を行ふ官僚システムとは確かに前近代的な「伝統」を多分に引き摺るものでもまたある。

さうして結局其の意思決定にはグローバルに齎される危機への対応力がまるで欠けて居るのだ。

 

其の危機にあたって前近代的な対応しか取れぬ日本の組織の体質其のものが前近代的なものなのだ。

 

なのだけれども、實は鎖国する限りに於ひては其の「伝統」を踏襲し意思決定を縦割りにしておく其のやり方こそが確かに時代に見合っても居たのだった。

事實其の鎖国と云ふ限定主義は長きに亘り日本人を日本人らしく成り立たせても居た。

所謂「家」の制度も檀家制度も其の時代限りに於ひてはおそらくは正解だったのだ。

 

但しさういふ社会制度上の封鎖性が近代的でしかもグローバルな問題には無効だと云ふ指摘はまず間違ひ無ひことかと思ふ。

 

畢竟煎じ詰めれば其れは伝統と進歩の兼ね合ひの問題なのであり即ち伝統國家日本に於ける伝統と進歩の相剋としての問題なのだ。

所謂明治ルールの踏襲にせよ其れは少なくとも時代錯誤であり合理的なやり方なのでは無ひ。

 

だが欧米式の合理的社会は残念ながら地球環境を追ひ詰め破壊を齎す方向性から脱することは出来なひ。

 

合理性は其のやうに抽象的な人間の欲望の為に自然を搾取し尽くす方向へと進んでいくのだ。

 

だから合理化し其処に左翼思想を掲げたにせよ元より其れには無理があるのだ。

 

左翼は確かに頭が良く正しひことも言へるのであるがさうした非限定の恐怖につき考へを巡らせぬ故にわたくしから見れば結局馬鹿である。

 

さうすると右の馬鹿と左の馬鹿が交互に連なりあれこれと言ひ合って居るのが民主制の場なので嗚呼何てバカなんだとイヤになりつひ官僚の方を向くが其の利口な筈の官僚も結局自律的思考を許されぬバカ宦官其のものなのだ。

 

そんな訳で日本の社会制度上の封鎖性は必ずしも無価値では無ひが概して其れは新たな問題には対処することが出来ず鎖国をやらぬ限り其れは無能である。

 

 

新型コロナ感染拡大でも、日本が「中国人」を受け入れ続ける理由 (3/6)

新型コロナ感染拡大でも、日本が「中国人」を受け入れ続ける理由 (4/6)

 

「日中首脳会議」の實現だのオリムピックの開催だの日本経済の成長だのさうした政治的思惑でもってして中国人への入国制限がもしも甘かったのだとしたら其れはもはや感染対策としては命取りだ。

そんなものは止めれば良ひだけのもので国内でパンデミックを引き起こし多くの会社が潰れ催しが中止され医療体制が崩壊するに至ればまさに其処に日本人自体、日本國自体が崩壊するのだ。

 

どうも安倍政権は其処での判断を見誤ったのではなかったか。

 

外交上の成果やオリムピックでの経済的収益だのにつまりは目先での利益を追ひ求める余りにパンデミックを引き起こしたりしては断じてならぬ。

其の点では日本の保守体制ー政府+官僚機構ーは今回完全に危機管理に失敗したのだとさうも言へやう。

 

其の点では左翼の言って居ることの方が至極御もっともであり何でかと云ふとそも潔癖だからなのですね、其れも病気や人権や搾取に関しては。

 

オリムピックに関しては、事實として中止される可能性の方が高くもなって来た。

 

わたくしが述べたひのは、人類はもはやそんなお祭り騒ぎに酔ひ痴れて居るどころでは無くまさにすぐにも所謂低炭素社会と搾取破壊型では無ひ再生循環型の社会システムを確立しなければ其処に未来など無ひと云ふことだ。

 

さうした反体制的でお利口な変革、進歩に関しては官僚は何故か役には立たぬのでいっそのことソヒツ等はカップルにてコネクティングルームにでも是非押し込めて置き真に利口な東大京早慶以外の知性ー何かと苦労を重ねたところでの知性ーが其の未来図への素案を練れば宜しひことだらう。

 

 

新型コロナ感染拡大でも、日本が「中国人」を受け入れ続ける理由 (5/6)

 

ー「中国において我が国の対中直接投資額は第3位及び進出企業数は第1位であるように、日中間の経済関係は緊密かつ相互依存的」(外務省Webサイトより)ー

 

さうして事實上「日中間の経済関係は緊密かつ相互依存的」でありどちらが欠けても其の経済協力関係はブチ壊れて仕舞ふ。

 

つまり体制の違ひだの何だのと云ふ個人的な思惑ー感情ーや思想のレヴェルの問題ではもはや無ひ。

 

其処は思想が右寄りであれ左寄りであれ其れとは無関係な国益上の問題なのだ。

 

 

其れ以前に事實上日本の文化は中國が創って来しものだ。

 

老荘思想儒教思想、また禅宗や浄土宗など、漢字文化圏に於ける其の智慧と云ふものは中華文明により齎されしものであり其れ以外の何ものでも無ひ。

 

そんな文化の親、父母としての國を敬わずして一体どうするお積もりか?

 

 

ではあれ、確かに現代の中国人の遊び振りは度を超してもまた居たことだったらう。

 

嗚呼まさに其れは金に目が眩んで酒池肉林に走ったことへの罰だ。

 

其れ即ち老耽の智慧を忘れ資本主義的な遊興の道に従ひしことへの罰だ。

 

全く人間は困ったものだ。

 

 

人間は元気になればなる程遊びたがり御勉強することの大切さをつひ忘れて仕舞ふ。

其のやうな者は皆独房に監禁し其処にて膨大な課題を与へる即ち御勉強浸けとしてやった方が良ひことだらう。

 

 

新型コロナ感染拡大でも、日本が「中国人」を受け入れ続ける理由 (6/6)

 

確かに危機に於ひてこそ日本の國が抱へることだらう「病」の部分が噴出して来るのだらう。

 

でも我我には日頃からそんな意識は微塵も無ひ訳だ。

少しはあるのがこんな作家や詩人でもって、其れで彼等は兎に角社会の危機をいつもかうして述べ続けて居るのだ。

 

ところがみんなはみんなで其れはじぶんのことには非ずとさうタカを括っても御座る。

 

なのだが其れはまさにほんたうのことなので事實としていつかは現實化して仕舞ふことなのだ。

 

 

 

だからと言って日本の國が抱へることだらう「病」のみが病なのでは無ひ、と云ふのが保守的と云ふか変はりたくは無ひ人間であるわたくしとしての結論だ。

日本の其の伝統的な「病」とはたとへば鎖国体制に於ひては其れは病には非ず。

 

問題はむしろ日本が近代化により開国せざるを得なかった部分にこそ存し實は近代文明にこそ其の「病」はより大きく根深ひ形で巣食って居やう。

 

そちらでの「文明の病」を批判して来たのが此のブログの内容なのであり何も最初から日本の批判をしたくてさうして来た訳では無ひ。

 

つまりは「文明の病」の方がより重病であり其はまさに死に至る病なのでもある。

 

 

問題は其の死に至る病と日本の伝統病が複合し襲ひ来る時に起こる大破壊であるとさうも言ひ切ることが出来やう。

 

なのだが日本人が再び精神的に鎖国し即ち「下山」することで其の大破壊を免れることも出来やう筈。

 

 

 

ーぼくは、『百歳人生を生きるヒント』という本で、50代は「事はじめ」で長い下り坂を歩く覚悟を決め、60代で「再起動」して孤独を楽しみ、70代は「黄金期」で学ぶ楽しさに目覚める、と書きました。

「事はじめ」の覚悟とは、人間として権威にも寄りかからず、自立することです。ー下山の楽しみは無限 五木寛之が説く「長寿時代の生き方」より

 

かうして五木先生も人間として精神的に自立するのだとさう述べられて居ります。

さうして孤独を楽しみつつ學ぶことの楽しさに目覚めよとさう仰せなのです。

 

まさにかうして目覚めよ!とさう述べられて居るではありませぬか。

 

 

ー人は得てして国家の言質を鵜呑みにしがちです。特に現代の日本ほど、生活や医療、教育、行政などあらゆる面で国家依存が強い国はないでしょう。年金を期待し、健康保険に頼り、「いざとなれば国が」という意識を持っています。しかし、世界的に見て国家は急速に力を失いつつあります。ー下山の楽しみは無限 五木寛之が説く「長寿時代の生き方」より

 

國民國家の歴史は結構新しく其れは案外頼りにならぬものでもあり至極流動的なものであると捉へておくべきものなのでせう。

 

とは言へ五木先生のやうなお金持ち作家では無ひ我我庶民は其の頼りなき國家に頼る他は無くしかも年金や健康保険が無ければ皆死んじゃふのであります。

 

死んではイカン、死んではならぬ各々に定められし寿命までは。

 

とさう思ひ続けてわたくしは庶民の為の日本學を考へ続けて参りました。

 

 

其処には確かに毒もありませうが根の処ではさうして弱きをたすけ強きをくじく。

 

一体全体我我か弱き庶民は一体何をよすがとして生きて行くべきなのでせう。

 

 

ー先日他界した西部邁さんが影響を受けたスペインの思想家オルテガ・イ・ガセットに、「Together & Alone」という言葉があります。「和して同ぜず」という意味です。ボランティアや句会、民謡、多くの人の輪に加わり楽しめばいい。まずは人に和して、あとは「一億一心」ではなく「一億一億心」でいいんです。ー下山の楽しみは無限 五木寛之が説く「長寿時代の生き方」より

 

 西部 邁先生はとても知性的な方であらせられ以前本を読みましたがわたくしには正直可成に読みにくかった。

尤も西部先生の弟子としての佐伯 啓思先生の本は其れとは対照的にとても読み易く兎に角分かり易ひ。

 

西部 邁先生は理性的に自決することを選ばれたのだが勿論今でも多くの著作物を遺されて居り其処から其の知性としての切れ味を學ぶことが出来るのです。

 

オルテガがかって「和して同ぜず」などと言って居たとはまるで知りませんでした。

五木先生はいつもかうして作品中に偉人や哲學者の言葉などを上手く引用されたりもして居られます。

 

其の「同ぜず」と云ふ部分こそが大事だとわたくしは思ふ。

 

人間の考へ方や感じ方は皆違ふ筈であり要するにそれぞれに個性がある。

 

其の個性を最大限に伸ばした人がたとへば藝術家であり作家であり詩人なのでせう。

 

だから自分を持って居る、或は持ち過ぎても居るのが文人

 

オルテガはかって大衆化と云ふ無責任な人間存在其のものを批判して居りますがたとへば大衆とは其れとは反対に個性を失ふことで自己利益を最大限に遂げる者のこと。

 

でも文人の場合には最低限自分の発言には責任を持って居ります。

 

 

元より大衆は精神の貴族では無ひ訳なので「和して同ずる」ことに何の躊躇ひも持ち合わせて居なひことでせう。

 

なのだけれども或いは其の大衆其れ自身が今危機を迎へつつあるのやもしれぬ。

 

「和して同ずる」ことで再び國家や体制の犠牲になって行かざるを得なひのではなひか。

 

まさにさうだとすると果たして個性を失ふことで自己利益を最大限に遂げることが非難されるに足ることなのかどうか。

 

 

大衆は何も好んで自らを無責任化して國家や体制つまりは文明に従って生きて居るのでは無ひ。

何も好んで自らを無思考化し國家や体制つまりは文明に従って生きて居るのでは無ひ。

故に其の文明の意識の持ち方の誤りによりまるで虫けらのやうに殺されて仕舞ってはならぬのだ。

 

よって「和して同ぜず」だらうが「和して同ずる」だらうがもはやそんなことはどーでも宜しひことだ。

 

「和して同ぜず」だらうが「和して同ずる」だらうがかうして今は皆に命の危機がさし迫っても居やう。

 

結局其の危機を齎したものとは「やり過ぎ」た文明なのだ。

 

感染症を世界中に蔓延させた中国人だけが悪ひのでは無くまた安倍政権だけが悪ひのでも無く今まさに暴走する文明が世界の危機を迎へて居るのだ。

 

 

正直次第に社会的な日常が壊れて行きつつもあります。

 

こんな時は立ち止まってどう生き延びるかを静かに考へてみるべき。

 

何が悪ひのかと言へば其れは文明が悪ひのだから基本的に大衆の責任には非ず。

 

温暖化もパンデミックも全ては文明のせひで我我の責には非ず。

 

我我の罪には非ずしてあくまで其は社会の罪なり。

 

全ては社会化せざるを得なかった人間としての原罪なり。