目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

西部 邁先生追悼 弐 -死んだ先生以上に文明は罪深いー

「これまでに三度、自死の準備に真剣に取り組み、すべて予期不可能な事態の出来で頓挫している。」

自死への構えは23年前におおよそ定まり、2年ほど前に打ち消し難く、その具体的な行為の細部に関するまで、固まってしまっていた。」





 








さて西部 邁先生はもう随分前から死にたいと考えられて居たやうだ。

其の死にたいと云うのは、生きにくいとか人に迷惑をかけたくはないとかさういうことではなしに謂わば第一級の知性としての精神的苦痛から齎されたものだと思う。

何せバカは考えなくても生きていけるのである意味で楽だがインテリになればなる程余計に考えなければならず当然のことながら精神的には其のインテリの方がずっと苦しい。


ゆえに西部 邁先生の死は矢張りと云うべきかかの藤村 操の如き精神的な死なのだらうと思う。


精神的な死を選ぶことの出来る人=一級の知性の持ち主はごく限られて居るゆえ其れ以外の人にはかうした死が基本的に理解出来ない。

でもわたくしの場合は分かる。


と言っても先生程博識でもなければ現代文明に於ける矛盾を突き詰めて考えて居る訳でもない。

だが現代文明がお先真っ暗であること位は常に感ぜられて居る。

さう論理的にと云うよりもたましひの方でさう感ずるとでも云うかどうもそんな感じである。



わたくしの強みと云うか人より優れたところは其の両方いける部分にこそ存して居る。

常に男性的で論理的な癖に同時に感覚的でもあり細やかで女性的でもある。

さうした普通両立し得ない領域をわたくしは生きて来ざるを得なかった。


確かに學問の方も不得意な訳ではないがさうした直観が強く働くところこそがわたくしの独壇場なのだ。



そしておそらく先生は絶望されて居たのだと思う。

特にご専門の経済学の分野に於ける現実=欲望としての現実に大きく絶望されて居たのだらう。




     
経済論
以下の主張を核とする正統派経済学に対して批判的である。
1、人々は合理的な存在である。
2、市場は効率的な資源の配分を行う自律的なシステムである。
西部にとっての人間の社会的行動とは、合理的な面と不合理的な面の二重性を本質的に保持し、この不安定な二重性を均衡させる力を、西部は「慣習」または「伝統」と名付けた。例えば、賃金が「慣習」で決定されることで、経済の安定と不安定との平衡化を実現するのである。企業投資は将来の不確実性を常にはらむが、これに対抗するために企業は労使間の軋轢を最小化する道を選択する。労使間の対立は7企業の不確実性を増長するためだが、このことが経営者側が長期雇用契約を選択する動機になっており、労働者側としても将来の生活安定を考えたとき長期雇用契約を受け入れる。このような力学が日本企業の採る長期雇用関係を「慣習」や「伝統」として日本経済全体の仲にも組み込んでゆくと考えた。また貨幣が社会的価値を交換可能にすることが社会の安定化に寄与する反面、強い不確実性ショックに直面した際には、貨幣がむしろ社会の平衡を危機にさらす可能性を指摘した。例えば、強いデフレが貨幣価値の急騰を引き起こした場合、人々は消費や投資、さらには教育雇用といった人間そのものへの投資すら控え、貨幣を貯蓄することに向かう。西部はインフレのほうがデフレよりも社会を不安定にさせると考えたが、デフレ(=貨幣バブル)の再均衡化のためには「貨幣=慣習」の価値を微調整すべきという政策論を持っていた[73]。以上より引用



まさに此の正統派経済学の合理性偏重=非人間性に嫌気が差して思想の方へとシフトされたのが西部先生であり佐伯先生なのである。

経済=金の流れが人間の心を破壊するほどまでに肥大化=虚無化しているのが資本主義の末期状態としての現在の流れだ。



要するに経済システムが合理的に過ぎるのである。

また同様に近代科学も合理的に過ぎる。



するとどうなるか?

人間の心や自然が必然的に其れ等に圧迫されて仕舞う。



心なき金の流れ、其れも巨大で虚ろな金の流れや進歩が一番大事なことになって仕舞う。



だがそんなものは元より大事なものである筈がない。

そんな独りで十億も二十億も或は百憶も二百億も稼いで一体どうするつもりなのか。

確かに一億程あれば楽に死ぬまで暮らせやうがかの左翼国家日本では金が無くても飯位は恵んで貰えやう。

事実上なかなか餓死は出来ないのだし金がなく腹が減って死にそうだ‐、と其の辺で騒ぎ立てれば多分施しの類が色々と集まろう。



たとへばSEXさせてくれと表で叫んでも女共は誰もさせては呉れないが飯を呉れ今すぐに恵んで呉れと言へば其の女共から即座に恵んで頂けやう。



だから経済の合理化と云うこと自体がそも無意味かつ背徳的な領域のことだ。

まさに反宗教的であり倫理や道徳をないがしろにする悪徳の行ひそのものである。



共同体主義者であるかのマイケル・サンデルなどもさうした行き過ぎた合理化に対して警鐘を鳴らし続けて居る文明への批判者である。
ちなみにマイケル・サンデルとわたくしの考えには共通項が多い。


経済学に於ける此の悪魔振り=拝金主義による人心の破壊と地球の破壊が地球温暖化よりもずっと早く文明を破壊に至らしめることだらう思想の誤りとしての元凶のことだ。



過剰性と云うか余剰の醜さと云うかさうした領域に刺し貫かれて仕舞って居ることが合理主義経済学が陥った深い病の部分である。

また科学偏重主義も同時に其の過剰性と云うか余剰の醜さと云うかさうした領域に刺し貫かれて仕舞って居りまさに其れこそが合理主義が陥った深い病の部分である。



其のやうに合理主義経済学とは極めて合理的に推進される科学そのものなのである。

また数学であり確率論でありまさに血も涙もない世界のことだ。



此の血も涙もない文明の本質に気付ける人はごく少なく、マイケル・サンデルも佐伯 啓思もそして西部 邁も其の文明の悪魔振りを嫌と云ふ程分かって居たのである。

要するに一級の知性だからこそ文明の欲望の其の救い難さを直視し其処での絶望もより深いものがあったのだ。



だから我なんぞ金なんか無い方がまだずっとマシだと言って来て居たのである。

金が無ければタダ飯が食えるわ、そればかりか過分な欲が抑えられるわ、また経済成長なる愚かな現象に一喜一憂することなく常に安定してまともな心で居られる。


其れにガストで何とかステーキを食ひ其れでもって、どうもどうも御馳走様で御座いました、大変美味しゅう頂きました、またすぐにでもタダ飯を食いに参りますが其の折にも是非よろしゅうお願ひ致します。


金なんか無しで生きられるやうにすることこそが経済学者の本来の仕事だと云うのに其の本義を忘れまさに利己的に異常な富の蓄積の世界に埋没する経済学こそが悪魔の思想そのもののことだ。



どだい市場が何処に資源の配分などして呉れると云うのだ?

市場なんてそんな抽象的なものが資源やら利潤やらそんな現実的果実を分けられる筈がないではないか。

第一数学、其れで人間の未来を幸せに導ける筈がない。



一たす一は二。

嗚呼其れは間違ひだ。

何故なら其の一と一は夏目 漱石と坂口 安吾である可能性もまた高い。



するとたとい夏目 漱石と坂口 安吾の文學を一緒くたに読んでもまさか其処で二倍の夏目 漱石にはならずさらに二倍の坂口 安吾になど決してならない。



さうした当然の如くに存する人文の悩みの領域を経済学は悉く無視して動いていく。

さうした当然の如くに存する人文の悩みの領域を自然科学は悉く無視して動いていく。



だから悩んで居る。

兎に角悩んで居る、かの夏目 漱石と坂口 安吾はかって確かに悩んで生きた。

でも其の悩みの深さは数値化することが出来ない。



また愛による苦しみ、信仰の深さ、こんな全くクソ野郎ばかりの人間の醜さと煩さ、さうしたものでさえ数値化することなどとうてい出来ない。

またかのデカルトのバカ、コイツのやうには合理主義にまるで染まれない。




ゆえに、

人間は合理的な存在などではない。

まさにコレが結論だ。





「政治はポピュラリズム(人気主義)に汚染され、社会にはテクノマニアック(技術狂徒)が乱舞し、経済はマモニズム(拝金主義)に狂奔している。」『保守の遺言』より



近代そのものが汚染であり基本的にあるべきものではないものです。

堅固な左翼思想の権化たる三大国の思想が其の衛星国の思想をも蹂躙し破滅へと導いていく。


国家と云うよりも文明其れ自体を破滅に導いていきます。



第一此の度の豪雨、コレはまさに想定外の豪雨であった。

勿論誰も豪雨でこんなに死者が出るなんて思っても居ません。


でもわたくしはそれみたことか、などと思って居るのではない。

さうではなく、常に悲観的にもみなければならないものがあると言って来て居るばかりだ。



かうして人生には悲惨なこと、不条理でもってまるで受け容れられないことが多い、いや、そちらの方こそが生の本質をなして居やう。


其のやうな苦を、苦としての現実をしかと見据え我々に指し示して呉れるのは文明を推進する側ではなく文明を諌める側の方である。其の例ー宗教、文學、哲學。




第一そんな天災など経済学が或は自然科学が防いだり無かったことにして呉れたりするのだらうか。

そんなもの出来る筈がない、バカ経済学が或は莫迦自然科学がそんな人間の生き死になど規定し得るべくもない。



大馬鹿文明がそんな大豪雨だのスーパー台風だの防ぎ切れる訳がない。


即ちイケイケ主義でもってしてバカと云う其の典型的な文明の気質、そんなものが自然災害=天の怒り、地球の怒りに立ち向かえるはずもない。



だからそんなものは年々酷くなる。

其の神の怒り、人間に対する戒めの力は次第次第に強くなる。

ドンドンドンドン雨が降る、ドンドンドンドン風が吹く、ドンドンドンドン人が死ぬ、ドンドンドンドン文明が壊れる。




「グッドバイそしてグッドラック」『保守の遺言』より


元々死にたい一級の知性がそのままに死んでいいのかどうかは分からない。

このやうに往往にして頭が良いと人間は死にたくなるものだ。



勿論多くの宗教は自殺を禁じて居やう。

だが多くの宗教にとっての殉教はむしろ良い方での死だ。

無論死に良いも悪いもあろう筈もないことだが価値ヒエラルキーとは実はさうした等級を死にさえ課す。



西部先生は其の価値ヒエラルキー自体と決別したかったのかもしれぬ。

或いは女自体と決別したかったのかもしれぬ。



何せ此の世は女なんで。

此の世の本質がスッカリ女だ。



だからこそ世の本質がバカでしかありえないのであらう。



尚釈迦の仏法では自殺=自決が禁じられて居る訳ではない。

ですが結果的に其れは仏との縁を切ること、其れも自ら仏との縁を断つと云う行為となる。


だから成仏することが出来なくなる。

永遠に成仏することが出来なくなるかは分からないのだがとりあえずはさういうことだ。


いやむしろ永遠に成仏することが出来なくなるのは過分に金を求めたり過分に女とSEXしたり過分に科学的追求に狂奔したりする方のことで、さういうのこそがまずは間違ひなく地獄へ堕ちる大罪である。


そればかりか地球を壊して大豪雨を発生させたり温暖化を起こしてスーパー台風を発生させたりすることも自殺=自決以上に悪い地獄へ堕ちる大罪であらう。