目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

真の建設とは破壊なき建設のことである



特に人間にとっての現在とは幻想であり幻想とは建設である

この幻想の建設こそが持って生まれし人間の業の部分である


しかしながら真の建設とは其の幻想によるものではない


真の建設とは破壊なき建設のことである


破壊なき建設は此の生自体を逆転させる


あらゆる二元的対立を超克し

現在を限りなく永遠化していく


我々がこうして今生きて居るのは

ただあるがままの本能をなるがままに生きて居るのである


だからこそ其れは低級なのだ

其のすべからくが低級だ


低級なものは其の根底に自己矛盾性を宿して居る


誤って何か大事なものを此の世に設定し其の価値にこそ酔い続ける


だから其の様こそが幻想なのである



ほんとうのほんとうは

此の世にはどんな価値もなく

またどんな喜びも悲しみもない


そんな虚と仮であることだけが

此の世での実相なのだ



だからそのままでは此の世に何かを建設することが出来ない

成ったと思えし其れは単なる幻想なのである


だが幻想を幻想として生きることの尊さ

たしかに其れもまた人として感じられる何かではある


文化とはだから其の幻想のお化けである

文化とはそうしたトンチンカンな幻想の別名だ




考えることとは死することであり

考えないことが生きることそのものだ


だが考えない生は我々に破壊を押し付けていく

破壊のみを押し付けていく


少なくとも破壊は我々を幸福にはしない

決して幸せにはして呉れないのだ


少なくともあの考えない自然のように

我々は幸せではない



破壊なき建設は

不可能のようで居て其れは可能である


其の幻想の持ちようをほんの少しだけ

ほんの少しだけ変えていけば良いのだ


虚の建設を止め

真の建設へと至ること

ただそれだけなのだ





昨夜Eテレの方で若手の知識人による文明についての討論会を視て居りましたが其処では流石に皆様良く考えられて居り随分感心致した次第です。

だから矢張り二十代、三十代の方々も生きることを必死に考えては居られるのでしょうが逆に其の真剣な議論自体が空回りして仕舞う程に複雑化、深刻化した現代文明のあり方が浮き彫りにされて居たようにも思われます。


論客の中に一人だけ僧侶の方が混じって居られ其の方が可成に世間離れしたことを述べられて居たことが印象に残ったと申しますかまさに痛快でありました。


其の方は此の世にはどんな決定的な価値解釈も無いというようなことを述べられ、それこそまさに超然とした視点で終始一貫されて居るように見受けられた。

要するに此の世のあらゆる権威的な価値、其の価値ヒエラルキー自体を超越する為に存在して居るのが仏法上の思考であり行いなのでありましょう。


ゆえに仏法というものは、其れもより純粋な形での仏法というものは、まさに非常識極まりないものなのであり所謂凡夫の願望とは悉く離反する類のものなのであります。


何故そんな風になって仕舞うのかと云えば結局先に述べた人間の持つ幻想領域を極小化していく試みであるからこそ煩悩にまみれた我々にはそんな風に感じられるのであります。


人間というものは其のように幻想を設定しーそも設定出来ないにも関わらず其処にあえて設定し生きざるを得ないという意味でのー此の世を生きるべく運命づけられた存在です。




逆に云えば幻想の現在であるからこそ生きられて居るのが人間なのだということです。

真実または真理領域を生きることが出来ないのが人間という存在であるということです。


だから元々人間は真理領域を常に生きて居なければならない存在ではない。


然し近代は人間の持つ幻想を極限的に肥大化させていって仕舞いました。


其の結果、今や自然はほとんど回復不可能なまでに破壊されつつあります。



ですから其れがまさに破壊の為の幻想だとわたくしは言って来て居るのです。

其れは決して建設の為の幻想ではないと言って来て居るのです。



我々庶民は直接的に其の破壊に加担して居ないようで居て実は直接的に加担して来て居るのであります。

民主的に近代を承認して居る我々は実は直接的に其の責任を担って居るのです。


ですからそういうのをも含めもう少し考えていきましょうとわたくしは提案して来て居るのです。

何故皆様はそうしたことにつき考えようとしていないのでしょうかと、其の様に申して居るので御座います。


わたくしのような詩人で哲学者でつまりは超変わり者のような人間はむしろ幼い頃から其れにつきずっと考えて来たのであります。

皆様がギャンブルや酒や女のことを考えるように何故か自然に其の事を考えて来ざるを得なかった。


其の代わりにいまだに女房もなく子も無く酒飲んで羽目をはずすといった愉しみもまた無い。

つまり人生に於いて何にも楽しく無い訳ですがただひらすらに考えて来ては居ります。





小池龍之介さんインタビュー
http://www.mammothschool.com/2015/09/ryunosuke-koike-monk/


それにつけても、この方は只者では御座いません。

是を読んでみたところ、素晴らしく明晰な仏教解釈です。

特に「無我」はある意味、サイエンティフィックな事実であると言って居られるところなどはまさに其の通りのことなのでしょう。

最近の私の考えからも其の事実の積み重ねとしての仏教ということが確認されます。


元々仏教とは実は宗教じゃないんです。

宗教なのは、北伝の大乗仏教を中国から輸入した日本の仏教各宗派のことなのであり、対する釈迦の説いた原始仏教は非常に論理的で所謂宗教色が余り感じられないものとなって居る。

つまり宗教臭くなって仕舞った仏教とは悟りを開いて居ない凡人の各宗派の高僧により齎されたものであるに過ぎないのです。


尚この方は非常に頭脳明晰な方とお見受けしましたが矢張りというべきか、かの東京大学を出て居られるようで其処は何よりやっぱりねと思わせて呉れる部分が御座いました。

無論のこと釈迦もまた東大位は楽に入れる位の頭脳をお持ちだったことだろうと思われますが。


仏教は哲学でもまたありますので、当然ながら頭脳の明晰さも是非必要です。

我が国では鎌倉以降の庶民の為の仏教宗派が其の肝心のところを飛ばして仕舞い、仏教は信心こそが大事である、観念などは二の次で兎に角此の有難いお経を唱えれば其の意味など分からずとも必ずや成仏出来る、などとついやって仕舞いましたが、無論のこと其れは本来の仏教のあり方からすれば明らかに間違いです。

まず個としての観念を突き詰めて追及していき、やがては其の観念の追求の限界を知り観念に執着しなくなることこそが本来の仏道修行のあり方なのだと申せましょ う。



「仏教は確信犯的に、もっと道具的なものでいいと思っているんです。儀式や戒律に執着するのではなく、実践に重きを置くといいましょうか。知見や瞑想法を本式に装置として備えている点で仏教はすばらしいと私は思っていますが、だからといってその実践に必ずしも仏教という名がついていなくてもいいと思うのです。心をより平和にして、他人にもやさしくなれる人が増えることを望んでいます。それが仏教徒であるかどうかにこだわりはないのです。」ー以上より引用ー


全く素晴らしいご意見です。権威や形式に拘らない本来の仏教観の持ち主とお見受け致します。

其れと、あくまで仏教は実践ですね。

何の為の実践かと云えば、「破壊ある建設」に至らない為の実践ですね。


近代科学や資本主義社会が犯した其の過ちを繰り返さない、同じ轍を踏まないといった意味ででの実践です。




Wikipedia-小池龍之介
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B1%A0%E9%BE%8D%E4%B9%8B%E4%BB%8B


それにしてもこのお坊さん、何かとひどい体験をされて来て居るお坊さんですね。

でもこれだけひどい人だからこそ、何か真に迫るものを攫んで来られて居ることなのでしょう。

つまるところ常識や権威や形式に拘って居るうちは真理に関することなんて何もつかめない筈なのです。


それと此の方、何と原始仏典に基づいたヴィパッサナー瞑想サマタ瞑想の指導を行って居られるのだそうだ。

そして実はこの分野、今後わたくしが是非踏み込んでいきたいと願って居る分野なのである。


もはや座禅を飛び越えて、此のヴィパッサナー瞑想の方へこそ行こうかと思って居るところなのである。