目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

般若心経講義-Ⅲ



Wikipedia-般若
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5

ー同じ悟りの智慧をあらわす遍智(へんち、 परिज्ञा parijñā)と区別される。遍智とは文字通り「あまねく知る」ことで、四諦の道理を無漏(むろ)の智によって知ることである。この遍智を小乗のさとりを表すものとして、大乗の般若と区別するのも、般若を存在の当相をそのままに自覚する実践智と考えるからである。
この般若の意味は、(しき、サンスクリット語: विज्ञान, vijñāna,ヴィジュニャーナ;パーリ語: विञ्ञाण, viññāṇa)とも区別される。識とは、いわゆる知識であり、客観的に物の何であるかを分析して知る分析智である。このような知識を克服して、それを実践智に深め、物の真相に体達するこ と、そのような智をことに般若というのである。たとえば、「生活の智慧」というが生活の知識といわず、「科学の知識」といって科学の智慧といわないようなものである。ー
Wikipedia-般若より抜粋して引用


ともありますように、智慧にも色々とあるなどと大乗仏教は考えるのでありますが、わたくしはそうした区別をすることなくつまり変な分類はせずに考えていく方がより自然であると思うのです。

小乗仏教には小乗なりの癖のようなものがあり大乗仏教には大乗なりの癖のようなものが御座いまして其れが何かと対比構造となって居る事でしょう。


或は詩と小説ー特に大衆小説ーのようなものだという捉え方もまた出来そうです。

大乗仏教は謂わば小説なので其処ではまさに何でもありなのですが、詩の方はより純粋藝術としての香りがして其処ではなにかと一般性と峻別されし精神性が感じられるものです。
元よりわたくしは大乗仏教が悪いなどと言って居る訳ではないのでありますが、兎に角何かと世俗方面に迎合する部分が見受けられる点に於いて其れが不純な仏教であることはほぼ間違いないことではないかと思われます。


此の伝統ある日本の仏教ですが不純なものは不純と申すほかないのですから。

ですから本当は遍智も般若もなく其れは同じ仏教に於ける智慧であると考えておいた方がよろしいのです。


そんな下らないことに固執して貶しあって居るうちにますます地球環境は悪化し人間性は抑圧され精神性は乱れ人間自体、人間であること自体に極悪犯罪者の烙印を押されることとなる。

まあ何せ民主主義の世でありますから我々は皆其の極悪の犯罪者であることは免れません。


からして我々は近代科学や資本主義社会が成し遂げようとして居ることの本質的意味につき是非真剣に考えてみなければならない。

其の帰結は最終的に人間としての首を自ら絞めるという行為なのでありつまりは人間の人間による自殺、自滅ということにほかならないのであります。


科学的理性による分析知ー分析智ーの流れは近代に至り人間の生き方を根本から変えていった。
其れは何か大きいことを為し遂げたのではなく小さいことをのみ為し遂げたのであります。


わたくしが以前述べました如くに、様々な乗り物によりまた経済的連携により世界をグローバル化したことや宇宙への進出を試みたことなどはすべからく小さくかつ狭い範囲での行いです。

大きいということ、または大きく為すことは全体から部分を判断する為の其の智慧の部分が不可欠ですが、近代以降の分析知の流れは其の流れを全て遮断する形で自己増殖して行きました。


其の様やまあ黴菌ですね、バイキン。

まさに其のバイキンだらけの地球、バイキンだらけの人間の世界、バイキンだらけの文明社会、なのですな。


何よりバイキンなのだから犯罪など恐れてはいません。

いずれは地球を喰い尽くしボロボロにして仕舞いますがそんなことは屁でも無い。


逆に分析知の集積に御大層な賞まで設けて喜んで居る始末ですから全くお話にもならない。


おそらく文明の滅亡間近になりようやく誤りに気付くことでしょうが其の時にはもはや全てが手遅れです。



ですが、其の手遅れなこと自体に何か問題があるのかと云えばそうではなく何ら問題はない。

問題があるとすれば其の位のことは考え、かつ思想と行動を改めておくべきであったことを放置して来たことへの心理的な負荷です。


そしておそらくは其の心理的な負荷こそが原因となり我々はまた此の世か此の世に類した世界に再び生まれ変わり出て参ります。

其れも今度は今の此の世界よりより負担の多い、つまりは苦しみの多いことだろう世界へと転生していくことでしょう。


かくして永遠の苦しみーまさに地獄の責め苦か?-だけが我々を待ち受けて居ることでしょう。


などと申しますとまさに自分でもゾッとするのですがおそらくはそうした事実にしかならないことなので仕方が無いことなのです。


其れで、其の負荷、負債に対し何ぞ宗教でもやって其の罪障をこそ取り除きましょう、其れでもって必ずや貴方は救われる、其れでこそ救われるのだ、 だからどうしてもこの教えに従う必要がある、それでは今ここに教団への入会の書類があるから是非ここに署名が頂きたい、などといった勧誘は正統的な仏教諸派に於いて一切行って居りませんのであしからず。



第一宗教でもって苦しみから救われることなどありません。


ですから仏教とは宗教ではないのであります。

あくまで本来の在り方としての仏教は宗教ではないのであります。
むしろ明らかである筈の事実の積み重ねを考える哲学であり其の事実的苦に対する処方箋であり医師であるだけなのです。

本来の仏教とは世の中が悪いという其の実相をただありのままに見つめ其処からどう脱していくかということが説かれたものです。
其れはかなりに客観的な描写なのであり其の世の悪いこと自体をどうこうするという教えではないのです。


客観視するほかはない外側ではなく内側、あくまで自分の中の悪い部分ー至らぬ部分ーを改善、改良していくという其の方法論につき述べられたものです。

其の悪い部分のひとつが無知であり無関心であることは言うまでもないことです。


近代以降の文明の在り方がまずく、其れで今世紀の末頃には実際に人類の生存の限界性ーつまるところは滅亡のことか?ー科学的に予測されて来ても居ります。

わたくしの印象ではこの科学的予測の方が人文科学が想定乃至は予言する未来よりも遥かに壊滅的な結果となって居るように見受けられる。


其のことをまずありのままに見つめることが大切なこと。

其れを見つめることこそが知恵の部分、即ち智慧の方向性を内面に宿すことなのです。
ゆえに美味い飯や綺麗なねーちゃんや豪邸や贅沢な暮らし、ひいては自分のささやかな幸福のことばかりにかまけて居ないでたまには観念的に現代文明を敵に回してみて下さい。


そうすればひょっとしたら内面の在り方が少しは評価され死んでまた生まれ変わる時にコリン星やM78星雲の星に生まれることなくまた此の地球に戻って来られるのかもしれない。

然し其の地球とはすでにサルが支配する猿の惑星と化して居た!
ではなく、環境がぶち壊されてボロボロでヘロヘロの地球ですでに其処は食いものさえ何も無い死の惑星であった!


ということは大いにあり得ることなのでもしそうなったのだとしてもわたくしは責任を負いかねますが。




キリスト教は死んでからのことが意外に重要な意味を持つ宗教なのですが、本来の意味での仏教は死んでからのことはほとんどどうでもよろしく生きて居るうちにどう正しく心を整えて生きるかという教えの内容です。

正しく心を整えるというのは其処で心の修行を行うことにより考え方そのものを変えて仕舞うことだろうとわたくしは捉えて来て居ります。


ゆえに仏教は心の改造を目的とした思想であり哲学なのであり所謂宗教ではなくても良いのです。

何宗の門徒であるとか、どこそこの寺の檀家であるとか、そんなことは実はどうでもよろしいことなのであり、むしろそんなことには拘らずに 日々お経を読んで居たり、或は仏教哲学的に思索を深めて居たり、過大な欲を遠ざけていたり、大酒は飲まない、綺麗なねーちゃんの尻を追うことは断固として避ける、贅沢過ぎる暮らしには慣れない、そして何より科学技術と資本主義が用意する安楽な世界にはドップリ浸からない、またあの共産主義者のように自然や労働を大切にしよう、少なくとも安倍政権のように脳足りんの政策を良い世の中をつくる為の政治だとは勘違いしないようにする、また食事はなるべく質素にして出来れば菜食主義にしておくのがより望ましい。


あのニーチェはかって仏教を衛生学であると受け止め仏陀のことを生理学者であると述べたそうです。

そしてニーチェの著書である「善悪の彼岸」には毒矢の譬の記述があったそうです。

ブッダにまつわる逸話集

此処の下の方に「形而上哲学の超越-毒矢の譬-」として其の逸話が出て参ります。

ただしニーチェの仏教観と-毒矢の譬-についてはまた後日触れてみたいと思って居ます。




さて自然と人間の関係は常に自己矛盾的ですが元々自然自体が自己矛盾過程そのものなのであり人間自体もそのことを免れるものではない。

逆に人間であることがより一層自己矛盾領域を拡大させていきます。


なんとなれば自然と人間の差とはまさに観念力の差である訳です。

自然は本能領域での自己矛盾過程であるところの第一の矢を受けまさに其の自然として存在化されしものです。
対して人間は其の第一の矢を受けー本能領域にてー、其れにとどまらず第二の矢として観念の領域での瑕疵性をも与えられ地球上に存在化して居ります。

謂わば本能的な意味での苦と観念的な意味での苦の二重の苦しみが人間という存在には与えられて仕舞って居る。
ところが自然ではこの観念的苦の度合いが顕在化しないレヴェルにあり従って本能的な苦のみを受け生まれ老い病となり死んでいくのですからまだましな方なのです。


しかして人間は、其の本能的苦だけでは済まされず観念的苦の方も大いに加算されて来るのですからこれはもう如何ともし難い程に苦しい。


もうまるで苦しいばかりです。

全部が苦しい。
然し苦しいということには理由があり其れが観念的固執であり本能的固執なのであります。


そして実は其の観念的固執自体に観念的固執を滅していくことの鍵が与えられても居ます。

何故なら自然が本能的苦を滅していくことは其れは不可能なことだからです。


ですが人間には観念的苦を滅していく可能性だけは大いに残されて居ります。

自我の範囲にとどまる何かが其の観念的苦を生み出して居ることだろうから。


ですので人間は心を変えるつまり精神性を高めることで此の観念的苦のみを克服し自我を制御し個としての自分を調律して行くことが出来る。


ただしあくまで本能的苦ー主に肉体的な苦ーからは免れ得ない訳であります。



だが是非ご留意下さい。


実は観念的苦こそが人間存在としての本質としての苦のほとんど全てなのです。

本能的苦の方は実は誰も超えられず無くすことも出来ず、たとえば仏陀にしてからもがこの苦痛を滅し去ることなど到底出来ないのです。


従って釈尊にしても入滅される時は矢張り肉体的に随分苦しい思いをされたことだったでしょう。


然しすでに涅槃に入られて居た釈尊は精神的には何らの苦しみをも受けずに亡くなられていったのであります。


ここまで書けばすでにお分かりのことかと思われますが、仏教に於ける苦の消滅とはまさに此の観念的苦の消滅をはかるということにほかならない。


即ち人間としてのー人間として感ずるー苦は自然が自然として感ずる苦よりもより苦しいのです。


だから自然自らが精神に於ける薬や医者を欲さないのだとしても、人間には必然的に精神に対する薬や医者が必要となり、即ち仏教こそが其の薬や医者に当たるのであり、其処からも仏教こそが我々をして楽にあの世へ行かせて呉れる有難い存在なのだと確かに申せましょう。




尚暫く多忙となりますので一月程はたまにしか投稿出来ないことと思われますがこの講義はまだまだ続けていく予定です。