目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

般若心経講義ーⅣ


言うまでも無く此の世界の根本的な対立の様について考えてみることがまず仏教としての役割と申しますか責務なのであります。

おそらく日本の仏教徒の多くはなかなかそうは思えないことでしょうが元々仏教とはそうした現実的でもありある種科学的、論理的なものでさえあるのです。


大乗仏教がそうした論理性を次第に失っていったのは時代の流れの必然ではあったのですが其の様こそが仏教自体の堕落、本質の解体の過程を指し示すものでもまたある。

其れでも現代の文明の抱える問題が余りに根深くしかも解決不能の方向へ陥りつつある事実につきあえて仏教の立場からここで紐解こうとして居る訳です。


現代では思考さえもが分業化されて仕舞い定量的で限定的な思考しか成立しない為、それこそ大学の先生や作家の方々でさえ此の現代の大矛盾を思想的に乗り越えていくことなど能わずです。

要するに自分の立場でしかものが言えないニヒリズムの世界に陥って仕舞っている。




かってニーチェは確かに発狂して独り寂しく死んでいきましたが其の意味では確かに彼には未来が見通せて居たのでありましょう。


其れで、わたくしは思考をあえて全体論化し大きく考えるようにして居る訳です。

小さい考えの巨大なる集積が近現代の思考なのですが其れでは問題の解決に対して埒が明かないので古典的素養と申しますか概念をまず集め大きく考えることにより現代に於ける知の閉塞空間を突破しようとして来て居ります。


   
Wikipedia-六師外道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E5%B8%AB%E5%A4%96%E9%81%93


さて、釈尊が生きて居られた頃にもたとえば六師外道などとも申しまして様々な思想、思考が乱立して居りまさに収拾がつかない程に精神の流れが存 して居たのであります。

ですからあくまで仏教即ち釈迦の思想からすれば他の考えは外道ということとなり、逆に其の外道の思想から見れば釈迦の思想こそが外道なのであります。


現代に於いても、左翼からすれば右翼の思想は外道なのであり、近代主義者からすれば反近代主義者、脱近代主義者などは皆外道です。

またフェミニストからすればわたくしのような良妻賢母思想は女性蔑視論者そのものであり、酒飲みにとってはわたくしの奉ずる禁酒思想などはむしろ最悪の意味での外道です。




要するに物事についての思考は必然的に限定されて仕舞うということです。

立場乃至は思考というものは限定化、定量化された地点でしか成り立たないものなのです。


ですので其処に正と負の区別、或は正邪の区別、まさに良いか悪いか、肯定と否定との区別が生じて来ます。

よって謂わば価値とは限定であり其れがそも二項対立、二元的対立を生じさせる大元の原因なのです。


其の価値自体が自己矛盾して居るということなのですね。

価値を生じさせるような存在ー存在化することー自体が矛盾であるということです。


ですので其の矛盾自体は決して無くなりません。

未来永劫、其の矛盾性は敷衍されていくのです。




ちなみにニーチェはそうした価値の無価値性のこと、矛盾性のことにつきかって色々と論じて居ります。


限定されし存在が生じさせる価値もまた自己矛盾して居り所詮は其れも無価値であり矛盾そのものである。

などとも言えそうですが勿論其れは限定されない価値領域即ち永遠性に対するテーゼでもまたある訳です。


存在化されない領域では二項対立、二元的対立がそも生じない訳ですから問題は生じませんが其の代わりに矛盾自体もまた無いのでそも其処には何も無 く貴方もわたくしもまた貴方やわたくしの考えも其処には無い。


無いということは我々存在の側からすれば外道そのものなのですが、逆に非存在の側からすれば我々存在こそが外道そのものである。

つまりはこの辺りで思考の限界性が露呈されて仕舞うということなのです。


思考はどんなに突き詰めて考えていってもこの自己矛盾性の牢獄に閉じ込められて仕舞うのである。



勿論其の根本の存在の業のようなものを乗り越えていく為に釈尊は仏法を説かれたのである。

ゆえに存在する世界の二元的対立を乗り越えていく為の教えがまさに釈尊が説かれた仏法なのです。


ただしご注意下さい。

大乗仏教はあくまで釈尊が説かれた仏法ではないということを是非知っておく必要が其処にありましょう。




Wikipedia-断見
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%AD%E8%A6%8B


この断見と常見の見方につき考えることはとても重要です。


正式なー釈尊のー仏教の考え方は断見と常見という二元的対立の超克にこそあります。

其の両極の偏った見方には与しない立場、即ち中道の実践にこそあります。

其れが不断不常の中道ということです。


然し両極を否定するからこそ、真ん中の道が初めて其処に拓けるのである。

両極を否定せず、ただ世間での諸の対立的要素の真ん中、平均値を選び取ることは中道では無くタダの中庸である。

其れはタダの中庸の徳なのである。


中庸の徳は往往にして結果的に世間の流れに迎合することも多いものだが、中道の実践にはそうした妥協のようなものは基本的に見受けられない。




断見(だんけん)とは、因果の法則を無視して、人が一度死ねば、断滅してしまい二度と生まれることがないとする見解のこと。反対語は常見(じょうけん)。

原始仏教、つまり釈迦が在世の頃にあった六十二見のうちの1つで、この世界・世間の断滅を主張したものである。「見」とは見解・意見・見方のこと、あるいは邪見や執見との否定的な意味も含む。
人の一生・人生はこの世の一回限りであるとして、死後やその運命を否定して、この世における善と悪の行為やその果報を無視し否定する見解をいう。『長部』では「肉体は壊れることにより断滅し、死後は存在しない」と述べている。
断見の反対語は常見といい、この世は永遠で不滅であるという見方であるが、仏教では中道無記を説 き、両方の偏った見方に依らない、不断不常の中道を宗旨とした。
なお、大乗仏教の教義が発展すると、不断不常の中道から、対立する見解とは違う次元で如来我すなわち仏性の常住を説くようになった。ーWikipedia-断見より抜粋して引用ー



ここからも如来我の常住即ち仏が存在するか否かという問題は二元的対立の超克にこそかかって居るのだと申せましょう。

其れは謂わばあらゆる概念的な立場の放棄であり忘却でもある訳だ。


何故なら概念的な立場の構築は両極の偏った見方に繋がることと必然的になろう筈。

ですので此の世に於いては一切の高級な思考というものがそもそも成り立ちません。


近代を為し遂げしどんな高級な思考、発明、発見にしても実は紙屑の如き思考でしかあり得ないのであります。

本当の知というものは、むしろ其の様な領域にこそ切り込んでいくものなのです。


かのヘーゲル弁証法の中で提唱した揚棄止揚ーという概念がありますが仏教的な智慧のあり方も其れに似た部分もまたありかつ全然違う部分もまたある。

其処にはどうも高め方の差があるように思われます。



仏教的な智慧のあり方では少なくとも上昇思考ではない訳です。
ヘーゲルが歴史的弁証法過程を構築し近代が始まり其れが今に続いて居る訳ですから近代とは上昇思考過程そのものです。


然し仏教や老荘思想などの東洋思想に於いては上昇も下降もしない一種のやる気のなさがむしろ大切にされて居るように見受けられる。

と申しますか、やる気満々、元気満々、という状態はむしろ下品でしかも何も分かって居ない状態なのですね。


でも本当に上品な精神、智慧というものはあえて上昇思考に近づくことはない。

其れも本当の本当はやる気がないのではなくむしろ西洋思想以上にやる気があったからこそ抑えて居るんです、自ら律して居るという訳です。


謂わばやる気の積み上げ方の其の方向性が違うのです。


現代文明が抱える諸問題とは、其のやる気の積み上げ方を違えた西洋思想から齎されて居るものです。


然し其の事につきあえて批判を行わないのが真の智慧に達した東洋での思考なのです。


悪いものを悪いものとして排斥、否定したいところですがそういうのは全て善の構築となりつまりは其処で二元的世界観に留まりやがては二元的対立から其の世界観自体が矛盾化していくことでしょう。



ですのでキリスト教的な救済思想に於いて其処に真の意味での智慧は無いのだということにもなりましょう。

現実的な意味での知恵は十分にあるが、此の世の二元的対立の超克を果たす程の智慧は其処には無いのだと申せましょう。


仏教というものは、かって類稀なる思考力を持って居たところのシッダルタというネパールの哲人が生み出しし本気で此の世から人間自身を脱出させるという思想のことです。

其れは宗教でもなく儀式、儀礼の類でもなくましてや僧侶という職業のことでもない。


元々人間には出来ないことつまり不可能なことへの挑戦が仏教に於ける本義なのです。

其れを所謂元気、やる気でもって達成するのではなくむしろやる気を削いでいくことで自ら心を鎮め達成していくのです。


近代とは上昇思考過程そのものだと申しましたが其れはあくまで現象世界での上昇即ち常見的な思索から齎されるものなのでしょう。

西洋思想には神という概念が不可欠ですが人間は神と繋がることで此の不完全な現象世界をある種現実的に脱出することが出来るそうです。


信仰の力により千年王国という理想世界に再生される手筈なのですから謂わば此の世に居ながらにして永遠の世界に生きられることともなろう。

ですが其れでは常見に捉われて居るのだともまた一面では申せましょう。


本来の意味での仏教の目的とは断見でもなくかつ常見でもない、ということはつまり断見を否定し其処から距離を置き常見を否定し其処からも距離を置いたところに自らの思考を高めていくということにほかならない。

ですので仏教の目的とはまずこの観念上の二元論を超える修行の実践にこそある。
観念上如何にして二元的対立の超克を果たしていくかということこそが仏教に於けるほとんど全ての修行の内容である。