目覚めよ!

文明批判と美の探求と

わたくしと云ふ人文の知性が今認識して居ること

 

「役に立つ」が社会をダメに ノーベル賞大隅発言にネット沸く

 

だから其の「役に立つ」社会は社会をダメにする以上に壊して行かう。

だが其れ以前にそも「役に立つ」社会を目指すこと自体が誤りだ。

 

人間にとり役に立つ立つ何か、と云ふことを考へること自体がまるで不遜でもっておこがましひ考へ方だ。

正しくは人間でもってすみません、即ちー生まれてすみませんー-太宰 治-だらう。

 

すみませんが何処ぞに置ひて頂けませんでせうか?

こんな大馬鹿者でも其の倉庫だの納屋だのに置ひては頂けませぬか。

 

 

宜しひ、汝等がひれ伏しさう願ふのであれば是非何とかしてやらう。

そうりゃ、地にバラ撒ひてやったぞ。

 

さうして地に充ちよ、増へよ。

 

人間共がさうして世界にバラ撒かれやがて繁殖し始めた。

 

だが其れが善きことか其れとも悪きことなのかはあくまでキリスト様とお釈迦様にしか判断出来ぬことだ。

 

 

其れも小賢しひ智恵などで其れを判断しやうなどとは不届き千万な輩だ。

 

 

「日本学術会議」の正体とは 「非民主的」「野党のようなもの」大学教授ら語る

 

ほうりゃ、分別智ー相対概念ーなどは其処にてたちまち紛糾し矛盾化しやうぞ。

 

「このことに加え、使用済み核燃料の処理についてなど、日本学術会議は政府の方針と反する声明や提言を出しています。もともと大学コミュニティは思想的に左に傾いている人も多い。左翼的カルト集団ではありませんが、学術会議はほとんど野党のようなもので、だから政府・自民党と対立するのではないでしょうか」「日本学術会議」の正体とは 「非民主的」「野党のようなもの」大学教授ら語るより

 

「大学では文系よりも、学術会議の声明が研究内容に直結する理系の方が影響は深刻だと思います」(同)

 

「特に理系の研究分野では学術会議の推薦がなければ大型プロジェクトは進みません。例えば、岩手県宮城県の山間部に作られる予定だった素粒子の大型実験施設・国際リニアコライダーは、学術会議が最近ネガティブな評価をしたことで政府が及び腰になり、ほとんど計画が頓挫してしまいました」  一度目をつけられれば、研究者も蛇に睨まれた蛙になってしまうというわけだ。実態も「学者の国会」とはかけ離れているそうで、

「新規の会員は選挙ではなく、別の会員に推挙してもらうことで初めて国に任命される。決め方は非民主的です。自然、思想的にも似た人が集まるので、とてもじゃないですが、学者を代表する組織とはいえません」(同)

「日本学術会議」の正体とは 「非民主的」「野党のようなもの」大学教授ら語るより

 

 

左様に須らく概念による意思決定は矛盾化する。

即ち社会的な意思決定こそは矛盾化する。

 

概念とは矛盾であり、其の矛盾を解き解すのが人文の分野による理性の働きだ。

対する理系はより分離して居るー概念的に分離化、客観化されて居るーので矛盾其のものを解き解す為には使へぬのだ。

 

じゃあ人文理性のみが正しひのだと?

だから其れは正しひか正しく無ひかの問題なのでは無く畢竟其処で何を見詰めて居るかの違ひの問題なのだ。

 

言語=概念と云ふ相対分離がまた人文と理系と云ふ二元的分離を為しておるのだ。

だが人文の智恵には主客の対立が少なひ分より概念としての俯瞰的視野が得られ易くもならう。

 

 

話が難しひ。

では話の抽象度のレヴェルを落とさう。

 

では何で大学コミュニティは思想的に左に傾ひて居るのですか?

 

おそらく其れは「理性」があるからなのではなからうか。

 

すると理性的には共産革命が矢張りと云ふべきか理想なのだらうか。

 

おそらくは理想なのだらう。

でも現實的には其れは全体主義化し純粋な共産國家は成立などせぬ。

 

また其れがほぼ概念の自己矛盾と結び付ひてもおる。

概念は理想を求めれば求める程に自己矛盾するとさう云ふことなのではなひかひな。

 

 

じゃ一体どーしたら良ひのでせう?

 

まあ悩んで置け。

トコトン悩み苦しみ概念其れ自体と闘って置け。

 

なる程アナタの思想はまさにそんな「悩み苦しむ」教なのですね。

 

さうじゃ、わたくしの教義こそが其の「悩み苦しむ」教じゃ。

より正確には馬鹿野郎、そんなもんやっとれるか教でありアホンダラ、もっとちゃんとシッカリせーや、此のクソ社会、教である。

 

おおまさに凄ひ教へだな。

 

 

學ぶと云ふことは、其の理性と云ふものは元来自己利益ー現世利益ーに傾ひてはならぬことだ。

どだひかっての文學は決して自己の利益になどは傾ひては居なかった。

 

まさに其れは人間の追求ー社会の追求ーであり自己の探究であった。

だから文學者は皆最終的に此の世と自分の関係を放棄しさへした。

 

 

さうしてアナタは文學者の自決を讃美して居られるのか?

 

いやさうでは無く、其の放棄こそが本来の理性の目的だとさう述べて居るのだ。

理性とは其のやうに現世利益を追ひ求めて行くことでは無く、逆に自己及び其れが属する社会を限りなく冷徹な眼差しでもって見詰めて行くもののことだ。

 

わたくしの基本的な思想的立場は其の理性としての本来の意義が失はれつつあると云ふものだ。

 

其れが治りますかね?

治りゃあせぬ。

 

治りゃあせぬから逆に「今」があるんだよ。

 

「今」と云ふのはさうした相対認識が生み出す倒錯認識なのだ。

故に現在に「目覚める」とは逆に其の虚的に構築されて居る「今」を滅して行くことなのだ。

 

 

また話が哲學的過ぎて難しひ。

 

アレ、御免、御免。

 

どうしてもかうして佛教哲學の方に流れて仕舞ふのですぐに話が難しくなって仕舞ふ。

 

つまりは説法の方に傾き易ひのだな。

 

そもそんな人文科学と佛法とキリストの教へをゴタ混ぜにしみんなを教化しやうとしてもそんなもん元々無理な話なんじゃなひか?

無理かどうかはやってみにゃあ分かりませぬ。

 

 

要するに今回は其の理性に於ける功利主義化ー現世利益化ーと云ふ一種の精神の堕落に就き述べて居る。

また其の論ずるテーマが兎に角難しひ。

 

 

でも姉ちゃんの裸のことなど幾ら考へてみても何ともならなひぜ。

うはー、いやらしひ。

 

此処は一体アカデミズムの殿堂なのか、其れとも場末のストリップ小屋なのか?

 

 

其の理性による概念意思決定は社会化すればする程に自己矛盾の度が酷くなる。

 

人間は個としてまずは矛盾的存在だが、其れが社会化した時点で其の矛盾が言はば二乗化されて行く訳だ。

 

何故人間はさうして自己矛盾する生命なのだらう?

 

対して自然界の生命は自己矛盾するに至らぬのだらうか?

 

 

結論から言へば自然界の生命は決して自己矛盾へ陥らぬ。

 

だが人間の場合は概念化=観念化=言語化=抽象化する癖があるが故に自己矛盾することからは免れ得ぬ。

 

では自然界の生命とは何ですか?

 

あくまで肉体的分離なのだとさう捉へられる。

 

肉体的にはあくまで分離されて居るので其れは感覚を持ち相対世界を認識しては居る。

だが基本的に其処でもって相対認識を為して居るのでは無く其れをタダ「感じて」居るのみだ。

 

つまりは其処でもって主客分離を抽象的に成り立たせるのでは無く其の主客分離を具象的感覚的にのみ成り立たせて居る。

 

対して人間の場合は其の主客分離を抽象化して行ふことが可能だ。

 

但し具象的感覚的に成り立たせて居る主客分離を保存した上で其の上部に抽象的に構築される主客分離をも展開して行く。

 

 

其れは例の大脳新皮質と旧皮質の関係のやうなものなのですか。

まさにさうしたことなのだらう。

 

矛盾の観点で言へば肉体的分離ー肉体的相対認識ーはそも矛盾して居やうが其れは種の劣化ー種の絶滅ーを生むだけのことで自然其れ自体を劣化又は絶滅へと追ひ込む訳には非ず。

即ち矛盾的推進として自然其れ自体は駆動され続け進化または変化は続き其れはたとへ地殻変動や隕石の衝突、気候変動などと云ったどんな天変地異が引き起こされやうが継続されて行くことだらう。-持続可能性がある-

 

ところが逆に人間の場合を考へてみるとすぐに分かることながら、不可逆的な流れとしての進歩の思想はあくまで抽象的に構築される主客分離による人為的なー加工物としてのー価値其のものなのだ。ー持続不可能な価値の追求ー

まさに肉体的相対認識⇔観念的相対認識なのであらうから、其の観念的相対認識の部分こそが常に自然に対しては如何にもアンバランスな加工物とならざるを得ぬことだらう。

 

すると自然の場合は部分的にはまた時代によっては壊れることがあっても自然其れ自体は持続可能となるがまさに其の観念的相対認識の部分でこそ人間は自己矛盾する即ち自分で自分の首を絞めより長く時を経ずして滅び去る他無ひ訳だ。

 

すると人間と云ふ生命こそが化け物であり怪物であり👿なんですね。

 

まさに其の通りで、其の観念性による自己矛盾の分だけより業が深くあり救ひ難ひと云ふことなのだ。

 

 

其の化け物であり怪物であり👿である人間を救ふ其の手段が宗教だが多くの宗教は不純化されて居り其処には人間を救ふに足る力などは無ひとさう見て置くべきだらう。

 

それじゃあ一体どうしますか?

此の侭グズグズとタダ崩れて行くだけなの?

なし崩し的にかうして壊されて行くだけなの?

 

じゃからお釈迦様とキリスト様の原初の教へに立ち戻るべきなのだ。

 

なのだけれども、其れはすでに我我現代人にとりハードルの高過ぎる心理的内容となってる。

第一僧侶や神父の方々のやうな専門家でも其の心的領域を實現することなど可成に難しひ訳だ。

 

なのでまずは其の人間の理性の抽象的な癖に着目する。

 

其の観念的相対認識の度合ひをむしろ減じ謂はば価値構築其れ自体を逆ヒエラルキー化して行く訳だ。

 

 

しっかし矢張り話が難しひ。

東大生や京大生でもまさかこんなことは考へて居なひのではなからうか。

 

いや東大生や京大生ならこんなこと位はすぐに分かる。

其れが分からぬのはズバリおまへの頭が悪ひからだ。

 

早稲田大學の學生なども分かるのでせうか?

無論のこと天下のワセダならば瞬時に分からう。

 

でも馬鹿田大學の學生にはよもや分かるまひが。

 

 

ところで其の理性の癖とは何ぞや?

 

さうさな、まさに其れが人文知と理系知のことだらう。

 

人文知は事の本質を見詰めて行くが理系知は事の本質は問はずに客体の変化のみを追ひ求めて行く。

 

かくして本質は動かぬが非本質の部分は動く。

 

尤も人文知に於ひても其の非本質主義が蔓延り出してすでに久しひ。

 

但し基本的には人文知は功利性ー合理主義ーにより駆動されるものには非ずだ。

 

 

すると學問は常に本質を問ひ続け抽象的な変化=進歩を止めた方が良ひとさう仰るのですか?

 

佛法に於ける哲學的要素と照らし合はせた場合には必然的にさう結論されざるを得ぬと云ふことだ。

 

だがより重要なことは概念ー相対分別による知ーには限界があり人文知とて本質的には矛盾からは逃れられぬと云ふことなのだ。

 

何だ、それじゃあもう考へても仕方が無ひな。

 

それでは早速👩と酒に手を出してみやうか。

 

 

オヒオヒ待て、待て、今暫くの間だけ待たれよ。

まさに其処へ行ってはお仕舞ひよ。

 

それではおまへの理性が腐るぞ。

 

おまへの理性がボロボロとなり馬鹿になっちゃふのだぞよ。

 

だってどんなに考へてもそんなもん何ともならねへことじゃねへか。

 

だから何年か前にさうして東大生が捕まったところじゃなひか。

 

 

ズバリ今の此のイケイケ社会には人文による知性、其れも抑制的な知性、事の道理を深く考へ本質的論議を展開する知性こそが求められて居やう。

 

何故なら現代社会は思考する必要の無い社会をかうして組み上げつつあるからだ。

 

今此の文明世界ではそも思考すること自体が求められては居なひ。

 

ー其の「役に立つ」社会は社会をダメにする以上に壊して行くー

 

ダメにする=おバカ化する

壊す=自己矛盾し自己崩壊する

 

 

つまりは其のおバカ化することにより社会は自己崩壊して行く。

まさに其れがわたくしが予言するところでの今後の文明社会だ。

 

左様におバカ化して居るのにも関わらず自分達はお利口化して居るとさう思ひ込んで御座る。

逆にわたくしの如き本質主義者を世間は嘲笑ふかの如くだ。

 

だがどう笑はれやうがわたくしはもはや構はぬ。

 

此の馬鹿詩人め!

とさう揶揄されやうともまるで構はぬ。

 

いや別に馬鹿大卒だと言はれたことは一度も無く馬鹿と言はれたことなども一度も無ひ。

 

だが何やら感じの悪ひ対応を受けることはわたくしの場合實は多ひ。

 

おそらく其れはわたくしが本質的に社会の批判者であるからなのだらう。

 

つまりは何かと注文だの文句が多ひ訳だ。

社会の批判者はかうして世間からつまはじきにされ易ひことだらう。

 

 

「役に立つ」社会はまた「役に立つ」宗教は人間をダメにし最終的には社会其れ自体を壊して行く。

 

かうして現世利益を追ひ求めるあらゆる営為は自己矛盾化して行かう。

 

此の世での物事はほとんどが裏腹での事情がある。

 

残念ながら其の二面があり裏側にこそ其のものの本性が隠されて居る。

 

 

其の本性を暴く作業こそを理性の働きと云ふ。

 

これまでに藝術が哲學が文學がさうして宗教が成し遂げて来たことが其の理性の働きだった。

 

 

さう述べると「ヘエッ?」と思ふ人々がまた居ることかと思ふ。

 

そんなもんは逆に理性が無ひものかと思って居ました。

 

理性とは東大や京大へ行くことであり、また一流の科学者としてノーベル賞を貰ふことです。

 

だが誰もが思って居る其の価値観にこそ現世利益による洗脳が行はれて居ることだらう可能性が高く存する。

 

 

其処では価値観が狭窄化し且つ正の価値ヒエラルキーに洗脳されもはや正常な判断を失って居る可能性がまた高くあらう。

 

アナタ方の持ってる価値は根本から間違って居る。

 

とわたくしがさう言おふものならすぐにみんなは逆上することだらう。

 

アノ尾張の頭のオカシヒ自称の詩人が今日もまたみんなの大事な価値観を踏みにじって行ったぞ。

 

 

コヒツを早う捕まへ肥溜めにでも落とさぬともうみんなが辛くて苦しくてタマラナヒ。

でもわあっはっはっはっのはー、頭がおかしひのは君等の方だよ。

 

「ヘエッ?」

 

一体何処がオカシヒので?

 

かうしてちゃんと毎日八時間労働しても参りました。

 

宗教の活動なども眞面目にやって来たのであります。

 

 

まあ宗教はまた阿片、即ち麻薬のやうなものでもあるのだよ。-カール・マルクス

 

 

ー一部のマルクス主義者は宗教に対して否定的な立場をとることがある。実際、ロシア革命以降、ソ連アルバニア中華人民共和国などの共産主義国家において、政策として宗教が弾圧され、聖職者が殺害されたり教会が破壊された。

その根拠としては、カール・マルクスが、宗教を阿片になぞらえたことが挙げられることがある。マルクスの『ヘーゲル法哲学批判序論』に「宗教は、逆境に悩める者のため息であり(中略)、それは民衆の阿片である」とあるが、この文章に先立ち、ドイツの詩人でマルクスの親友でもあるハインリヒ・ハイネ1840年の著作『Ludwig Borne iv(ルートヴィヒ・ベルネ)』中の「宗教は救いのない、苦しむ人々のための、精神的な阿片である」という文章があるとの指摘がある[1]。またそのハイネに先立ちノヴァーリスの断章集『花粉』 (Blüthenstaub)(1798)に同様の文章がある[2]

この阿片については『ヘーゲル法哲学批判序論』に痛み止めである旨の記述もあり、当時の緩和医療での疼痛などの痛み止めとして使用される医薬品の意であり、「麻薬」を強調したものではなかった。

 

宗教的世界観は科学的事実としばしば衝突してきた。近現代においても、宗教的世界観に基づく創造論インテリジェント・デザイン論が公教育の場で教えられるべきであるという主張がアメリカ合衆国でなされ、それに反対する人々と論争になっている。動物行動学者のリチャード・ドーキンスは、そのような主張に真向から反対し、宗教そのものに対しても有害でしかないとする立場をとっている。 ただし、すべての科学者が反宗教的であるというわけではなく、スティーヴン・ジェイ・グールドを始めとする科学者たちは、科学の領域を宗教が犯さない限りは問題としない立場(NOMA, Non-Overlapping Magisteria, 非重複教導権の原理)をとっている。ー反宗教主義より

 

 

其の理性的分離は近代以降加速して行はれて来た。

まさに其れが近代人としての相対分別ー抽象的思考作用ーを推し進めて来たのだった。

 

では何故宗教はかうして軽んぜられるか又弱められて来たのだったか?

 

まさに其れが其の「役に立つか」「役に立たぬか」の認識上の転換点を指し示して居やう。

 

即ち人間の認識の功利化=現世利益化=利己主義化へのコぺルニクス的な転回をこそ其れがまさに指し示して居ることだらう。

 

其の利己主義こそはさうして唯物的な思考、また科学的な思考が生み出して来ただらうことはまず間違ひ無ひことだらう。

 

其の利己主義化することにより人間の精神は逆に貧しくなる。

 

今やどんな社会的な活動、即ち抽象的な活動もまさに其の利己主義化して居ることだらう。

 

利己主義にはまず他への思ひやりと云ふものが無ひ。

 

次に自分が利口だと常にさう思って居やう。

 

 

何だかおまへの頭の中にも一見似て居るやうだが…。

 

アホたれ、かうして我は思想的に人類を導ひて居るではあーりませんか。

まさに思想的にみんなのこと、社会の不始末のことをかうして案じてばかりおる。

我がほんたうに利己主義だとすればもうとっくの昔に山の洞穴にでも逃げ込みもうこんなトコへは出て来ませんよ。

 

アア、ありがたや、ありがたや、コレゾまさに洞窟詩人様の御言葉だぞー。

 

 

故に其の抽象的思考作用に於ひては特に警戒感を持って置かねばなるまひ。

其の事件をやりかって捕まった東大生の利己主義化や科学技術の暴走の部分も皆此の功利化=現世利益化=利己主義化へのコぺルニクス的な転回、即ち「精神」の貧しさによる功利化=現世利益化=利己主義化=幼稚化?から引き起こされて居ることだ。

 

尚、學者ドーキンスは結局話にもならぬ馬鹿である。

 

対してグールドはわたくしが心より尊敬する数少なひ科学者の一人だ。スティーヴン・ジェイ・グールド

廿年近く前にグールドのワンダフルライフ (書籍)を読んだのだったが興味深く示唆に富む内容で此れを繰り返し読んだ記憶がある。ワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語 (ハヤカワ文庫NF) (日本語) 文庫 – 2000/3/1

 

ーもう一つは生物進化の歴史に対する新しい見方の提唱であり、グールド自身の主張の部分と言える。彼によれば、一般に地質年代を遡るほどに動物は原始的で単純なものばかりになり、その多様性は低くなると考えられているが、それは誤りであり、いつの時代も動物は様々に適応して暮らしていたこと、そして、絶滅して子孫を残さなかったものがたくさんおり、それはすなわち、過去の方が多様性が高かったことを意味するものだという。この化石群からわかるのは、カンブリア紀には現生の動物門のすべてが出現していた可能性があること、そしてそれに含まれないものも多数あったこと、したがって、動物の体制の多様性はカンブリア紀が一番高かったのだ、と述べている。もう一つ、子孫を残さなかったものが、環境に適応していなかった劣った系統とは考えられず、それはおそらく単なる偶然の産物だという。たとえばもう一度地球の歴史の巻き戻しが行われたら、我々は生まれなかったかも知れない、とも言っている。ーワンダフルライフ (書籍)より

 

 

さても動物は過去のものは下等で現在のものの方がより高等なのか?

 

否である。

 

絶滅は下等ー能力が無ひーであることが故に引き起こされて居るのか?

或は進化する生命はより高等ー能力を持ってるーなのか?

 

否である。

 

ー単なる偶然の産物ー

 

さうおそらくは進化も進歩も単なる偶然の産物なのだらう。

 

では人間は萬物の霊長であり一番偉ひのか?

 

否である。

 

 

此の人文理性の権化としてのわたくしが捉へる限りに於ひてはむしろ人間が最も性悪でもって救はれぬ生命其のものなのだ。ーまさに罪深き存在ー

であるからこそもっともっと謙虚に生きねばならぬのに此の馬鹿共がイケイケ社会をやったが故に結局全部がブチ壊れ人類に残された時間はあと五十年程ともなっちゃった。

 

まったくイケナヒ奴等よのう、此の人間共は。

 

だが最初から此の調子で述べると此の野郎、まさにトランプみたひな非理性的な奴だなと読者の方々よりお叱りを受けるが故に上でもって理論的にも説明して置ひた積もりだ。

 

其のやうにものの考へ方には大きく幅があり右左、上下、と如何様にも変化させられるものなので其のやうな幅の何処かで文明の認識が今選択されて居るのだとさう見て置くべきことなのだ。

 

さう學問の世界の意見もまたさうした相対認識ー抽象的構築主義ーから免れ得るものでは無ひ。

 

謂はば其れは正しひか、其れとも正しくは無ひかの選択では無く其の時々に見合った選択=認識を其処に選び取って居るだけのことなのだ。

 

 

さてキリスト教では進化論は否定されるのですか?

 

其処はまあ以前から調べてみたひ大きなテーマなのではあるが時間が無く詳しくは分からなひ。

 

但しキリスト教の人間中心主義に就ひては最近擁護論を組み立ててみたりもまたして居る。

ーわたくしは合理主義の否定者なのでありあくまで宗教の擁護者なのだからしてー

 

まずキリスト教は「罪」の宗教であり、其の人間の罪深さに就ひてはまさに良く分って居る宗教なのだらうと思ふ。

 

キリスト教はあくまで其の人類の原罪の部分に大きく焦点を当て人間のみを救おうとして居る。

其の人間の救済の部分とは實は利己主義には非ず。

 

何故なら人間を救済せねば地球が壊れちゃう=終末観へとなだれ込んで行く他は無ひからなのだ。

 

まあ大体其のやうな考へ方です。

 

 

では佛教では進化論は否定されるのですか?其れとも肯定されるのですか?

 

本来の佛教では外側ー客体世界ーのことよりも内側ー主観を含む内面世界ーのことこそが大事だ。

 

故に本質的には外側ー客体世界ーがどう変はらうが問題となるのは常に其の人間の内面のことだらう。

 

尤も利己主義化した現代社会の精神のあり方は其の人間の内面のあり方として望ましひものであるとは言ひ難ひものだらう。

 

 

佛法の根本には人間に対する根本の部分での認識への批判がある。

 

其の認識への批判の部分こそがキリスト教ではまさに人間の原罪として逆に認識されて居る訳だ。

 

かくしてキリスト教と佛教のあり方は対立的でもあるが同時に似通った部分もまたあることだらう。

 

まさに其れこそが現世利益の否定であり功利性に基づく利己主義化への警戒であり否定なのだらう。

 

 

佛教での幸福のあり方の根本的概念

 

人間の幸福➡ただみんなが豊かになり楽しく末永く暮らして行くこと=✖

 

人間の幸福➡みんなが豊かさへの妄執を去りあらゆる拘りを捨て其処でもって正しひ認識に目覚め涅槃ー精神的に死ぬことーへと至ること=〇

 

キリスト教での幸福のあり方の根本的概念

 

人間の幸福➡ただみんなが豊かになり楽しく末永く暮らして行くこと=✖

 

人間の幸福➡みんなが神を信ずることで神からの愛に目覚め其処でもって正しひ認識に導かれ👿の価値観を離れ神の國へと生き直すこと=〇

 

 

誤った宗教的な価値観の例

 

壱ー自分が属する宗派だけが宇宙でもって一番だ=利己主義

 

弐ー自分は佛教徒だからキリスト教なんて邪教だ=利己主義ー自分はキリスト教徒だから佛教なんて邪教だ=利己主義

 

参ー自分の寺と👪また檀家だけが大事だ=利己主義ー自分の教会と👪また信者だけが大事だ=利己主義

 

四ー佛教とキリスト教以外は宗教では無ひ=利己主義

 

五ー特にイスラム教は頭が悪ひ=利己主義

 

六ー科学などは要らぬが宗教だけは永遠だ=観念的利己主義

 

七ー佛教徒は神社や教会へ行ってはならなひ=利己主義ーキリスト教徒は寺や神社へ行ってはならなひ=利己主義

 

八ー現世利益信奉者は皆地獄へと堕ちよ=観念的利己主義

 

九ー無神論者は地獄へと堕ちよ=観念的利己主義

 

拾ー社会が悪ひので社会其のものが地獄へと堕ちよ=観念的利己主義

 

と云ふことにならうかと思ふ。