目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

犀の角のようにただ独り歩めー『コロナの時代をよむ』の書評ー

さても詩人さんは今何をしておひでなのか?

詩人さんは今銀化ガラス片に光を当て其処より発せられる光彩にこそ酔ひ痴れて居りました。

 

其れも何と其の銀化ガラス片用の容器を入手致しましたのです。

エッ?さうだったのですか。

其れは一体どんな容器ですか?

 

實は其れが非常にマニアックな容器なのです。

それではズバリ申しませう。

其の容器とはコレです。

 

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此の中でのジャンボチョコベビーのポリ容器、まさにコレが銀化ガラス片用に特化した容器なのだ。

尚、チョコベビー(1965~)、マーブルチョコレート(1961~)、アポロ(1969~)、コーヒービート(1971~)などと云った明治のチョコレート菓子群は我我還暦世代が小学生の頃にむしろ其ればっかりを食って居たものだ。

 

其れが左様に何故かデカくなり復刻されスギ薬局でもって売られて居たのでチョコベビーとマーブルチョコレートしか無かったが其れ等を買って来て食ってみたのだった。

すると共になかなか美味くまさにヤミツキになりさうなのだが實は共に値段が高めだった。

 

其の復刻菓子を思ひ付ひた明治製菓を批判する訳では無ひのだが此の手の商法に対し我我還暦世代は飛び付かざるを得ぬ部分がある。

其れも若ひ人々にはどーでも宜しひ菓子なのだらうが我我にとって其れはまさに菓子としての神様であり佛様なのだ。

 

だから多少高からうがどうしやうがかうして此れ等を買ふ。

つまりは小学生の頃に其の味わひが刷り込まれて仕舞って居るが故に。

 

だから近年のチョコ菓子などよりもこちらの方が美味くも感じられやう。

 

 

で、チョコベビーのポリビニール容器がデカくて何せ立派なのにはたと気付き其処に銀化ガラス片数片を入れてみたところが其れがまさに極楽世界の如き七色の光を醸し出しもう其れだけで満足、まさに其処ではもはやガレもドームも要らぬ程だ。

 

つまりは三越松坂屋も皆不要だよ。

 

いやまさか不要では無ひのだがそんな高級品にも匹敵する極美の世界をこんな工事現場から拾ひ集めて来たタダのガラス片が今まさに此処へ現出させて居るのだ!

 

 

わたくしの探究する美の世界はもはや此のやうな達人の域にまで達し實は其れは一見するとほとんどルンペンさん並の拾ひ癖だ。

だが其処にこそむしろかうして無限の美を構築して居るのであった。

 

もはや其れは一般常識人による美への追求などを遥かに超越しておりほとんど其れは神仙の類の域にこそあらう。

要するにかうして拾ひ物にて構築されし美の世界なのだ。ー其れも全部では無く一部がー

 

 

詩人さん、詩人さんはかってそれこそ世界中から鉱物標本だの万年筆だのを集めておひでになられたが今はそんな貧しひもので満足されて居るのですか?

 

まるで貧しくなど無ひぞ。

 

むしろ天に屹立するかの如き大藝術であり世の神秘としての体現のことぞ。

 

 

むしろ其れが分からぬおまへの其の感性こそが貧しひのだ。

 

詩人さん、ではグローバル資本主義にてグローバルに百億円を儲けたとしてもそんな美は手に入らぬともしやさう申されて居るのでせうか?

 

 

まさに其の通りだ。

金に目の眩んだ人間の心の中にはかうして眞の美を鑑賞する審美眼其のものが欠けておる。

なのでたとへ何億使おうとも此の詩人による美意識を得ることなど叶はぬのじゃ。

 

逆に審美眼がもう金まみれ、👩まみれ、酒まみれにて破壊されても居る。

 

だから人間はそんな風になってはお仕舞ひだよ。

 

逆に清貧こそが眞の美を鑑賞する審美眼其のものを磨き込むことぞ。

 

詩人さん、でも、みんなはさうした価値にはまるで生きてはいません。

 

みんなは逆に豪華なものばかりをかうして熾烈に奪ひ合ひ金儲けばかりを目論み生きて居ます。

 

 

だからこそかうなったのだ。

かうしてみんながコロナちゃんにやられているのだ。

 

ではコロナちゃんにやられているのはさうして自業自得なので?

さうだよ、全てが自業自得のことだよ。

 

それでもって、ね、其の縁起の理からしても佛法は正しかっただらう。

其れにイエス様も金儲けを目指すなとあれほどくどく仰られ市場を破壊されても居たではなかったか。

 

嗚呼、仕舞った。

もしや文明はそんな聖人様に背くやうなことをやっちゃったのですか?

 

さうだ、やっちゃったね。

 

其れでも文明は助かりませうか?

 

おそらく助からなひでせう。

其の文明が助からぬことをニヤニヤしながら見詰め其れをやる人間を馬鹿だとかアホだとかウンコたれだとか核攻撃して居るのがまさに此の尾張の詩人さんなのだよね。

 

 

核攻撃?

もしや此処での此れまでの批判の全てが其の核攻撃だったのですか?

 

さうです、其れはまさに精神的な核攻撃でした。

 

どうも物騒ですね。

 

どうも物騒です。

 

でも其れは人間共の営為=文明を目覚めさせる為の一文人としての特攻作戦でした。

 

 

ですが今はコロナちゃんが其れをして呉れて居ます。

 

でもコロナちゃんなどと可愛く書くとみんなが怒りますよ。

 

怒らうがどうしやうがコロナちゃんはコロナちゃんですよー。

 

 

壱自称詩人、まさかおまへは此のコロナ野郎の味方なのか?

 

まあ味方なのやもしれません。

 

何せわたくしはかうして精神が常に人とは逆方向に向ひて行くのでね。

 

 

詩人さんはさうして日がな一日ジャンボチョコベビーのポリ容器入りの銀化ガラスの切片と戯れ其れでもって高度な藝術を完成させたとさう信じ込んで居られるのですか?

 

でも其れってほとんどビョーキの世界のことではありませんか?

 

さても詩人さんの頭の中は大丈夫ですか?

一遍🏥へでも是非行くべきなのではありませぬか?

 

いや全てが全然健全な美の世界ですよ。

人形フェチだとか暗黒劇だとかそんなものよりはむしろずっと健全なる感性の世界だ。

 

其れに生ものではありませんのですしね。

 

嗚呼、さう云へば石も生ものでは無ひですね。

 

でせう?

 

でも野良猫は生ものでせう?

 

實はさうなんです。

 

實は其処が今まさに悩みなのです。

 

 

丁度君等が今👪の将来につき極めて不安なのとまるで同じだと云ふことだな。

 

 

さて、本日は先日七五書店にて買った『コロナの時代をよむ』を読んでみました。別冊NHKこころの時代 宗教・人生 『 コロナの時代をよむ』

 

結論から申せば素晴らしひ内容の本でした。

百十頁しか無く活字も大きめなので極めて読み易く六十歳以上の方々には特に御奨めです。

 

最初は立ち読みしやうと思ったのでしたが、歌人ー科学者でありしかも歌人の方ーと僧侶との対談の本ですので是非じっくり読んでみたく購入した次第である。

 

 

其の内容として気になったところ、又は勉強になったところにつき以下のやうに論じさせて頂く。

 

 

釈 徹宗氏ーTVでもお馴染の浄土真宗如来寺の御住職ー

永田 和宏氏ー歌人でもって細胞生物学者の方ー

 

 

まずは釈氏により二律背反ー矛盾した二項対立ーの命題が述べられて居るところがある。

 

さうして我我が日常を取り戻すには矛盾した二項対立を簡単に手放さなひ心と體の態度が大事だとさう仰る。

コロナ禍にて「ケ」と云ふ日常性の大切さが立ち上がって来たともさう仰る。

 

「ハレ」-近現代の文明による進歩-⇔「ケ」ー日常性ー

 

 

元より近現代の文明の速度は人間の日常性をも追ひ越して仕舞ふものだ。

 

まさに其の「ハレ」ばかりを追い求める文明のあり方其のものがビョーキであらう。

 

其のどっちをも見て置かなひとまさに其れはビョーキだよ。

 

まあ当たり前のことなのだが、ビョーキの文明は所詮ビョーキなので結局ビョーキにもならざるを得ぬ。

 

 

其の二項対立を引き起こすのは認識の誤りによるものだが、もっと簡単に申せば其れは欲望の持ち様の過ちによるものだらう。

 

欲望の持ち様をこんな自称の詩人さんみたく数片の銀化ガラスでもって充たされる位にして置けば世界への破壊など其れは生じやうが無ひ。

 

人間の営為=文明が世界を破壊するに及んで行ったのはズバリ生ものへの欲望を持ち過ぎるが故にだ。

 

 

生ものへの欲望ー執着ーの例(酒色に溺れ大金に目が眩みまた自分や👪ばかりを大事にすること)

生もの以外への欲望ーより安全度は高くあるが其れもなるべく小規模なものとしておくべきー

 

で、其の生ものへの欲望が自然と文明のバランスを崩し今まさにコロナ苦を現出させつつある。

 

 

また釈氏の御意見から。

 

佛教には個人の見解が通用せず我見は智恵の蓄積を反故にする、と云ふやうなことを述べられる。

 

宗教⇔藝術

宗教は個による智恵を超へた普遍としての眞理を説くが藝術は個に纏はる不変の眞實を指し示す。

 

まさに其処で立場は異なるがー普遍と個としてのー其処に本質的なものを扱ふ点に於ひて方向性は同じだ。

 

 

同じく釈氏の御意見から。

 

エビデンスー情報ーベース」⇔「ナラティブー物語ーベース」

 

科学ーエビデンスベースー⇔宗教ーナラティブベースー

 

個別の物語⇔大きな物語

 

 

佛教は大きな物語を本質として其処に抱へる。

だが現代社会ー科学技術文明ーはナラティブベースにはなれずで、つまるところは宗教にはもはや共感出来ずだ。

 

 

其処へのわたくしの理解

 

エビデンスベース=合理化ー数値化ー⇔ナラティブベース=感性化ー物語化ー

 

情報化とは何より合理化の極致のことだらう。

 

だが情報としての利益や情報としての愛や死に人間の感性領域ー肉体領域ーはむしろ破壊されて行かざるを得ぬ。

さうして其の合理化により人間のあり方にアンバランスが生じるので感性的、肉体的に現代人はむしろ貶められても行く。

 

即ち合理化が人間の具象性ー感性的、肉体的なまともさーを破壊するに及んで行くのだ。

科学とは無論のこと其の合理化を完遂させるが為の道具である。

 

 

永田氏の御意見

 

歌=ナラティブベース

コロナ禍とは、情報化ーエビデンス化ーされた社会へのナラティブの側からの逆襲である。

 

 

釈氏の御意見

 

だがエビデンスとナラティブは両方を抱へて行くべきもの。

どちらかを手放すのでは無く決して弐者択壱のものには非ず。

 

其処へのわたくしの理解

 

エッ?浄土眞宗って結局さうだったんだ。

 

いやあおみそれ致しました。

其れはまるでわたくしが辿り着ひた思想と瓜二つですよ。

 

 

釈氏の御意見

 

エビデンスを担保しつつナラティブにより救はれて行くべきだらう。

ナラティブが無ければ我我は生きて行くのが辛くなって行くのだから。

つまるところは両方が必要なのだ。

 

其処へのわたくしの理解

 

わたくしは基本的に合理化が次第に人類ー文明ーを追ひ詰めて行く筈だとさう述べて参りました。

 

されどさらに合理化しなければ解決が不能となる事態にすでに文明は追ひ込まれて来て居ることだらう。

 

故に其の両方が必要だと云ふ視点こそが最も大事なものだ。

 

思へば悪人正機を唱へる浄土眞宗は人間の両面を常に見詰める宗派なのやもしれぬ。

 

また貧乏人や無学な人等のことなどもしかとさうして見詰めて来て居られる。

 

さらに言へば世界のあり方が地獄と極楽にしかと分れてるのも浄土教の特徴だらう。

 

ま、其れはキリスト教の場合にもまるで同じなのだけれども。

 

 

其れにつけても浄土眞宗、恐るべし。

 

恐るべし、浄土眞宗

 

 

永田氏の御意見

 

感染者数の数字に表情や人格は無ひので其れは他人事にしかならぬもの。

だから其処にコロナの死者への悲しみが抜け落ちて仕舞ふ。

 

 

釈氏の御意見

 

死者儀礼が大幅に省略されて仕舞へば、後々になり残された人へのダメージが懸念されても来る。

 

永田氏の御意見

 

大昔から人間は死の苦しみや別離の悲しみを詠って来た。

だからさうした状況を歌に詠むのは大事なことだ。

 

愛している人を失ふ悲しみとは其の人の前で輝ひて居ることが出来た自己の喪失なのでもまたある。

 

 

 

わたくしは死んではいけないわたくしが死ぬときあなたがほんとうに死ぬ      永田 和宏

 

笑ふより外はえ知らぬをさな子のあな笑ふぞよ死なんとしつつ       窪田 空穂

 

 

 

かくして自分はあくまで相対的なものだ。

 

故にコロナ禍により人と人の関係性や距離感が問はれて居ることだらう。

 

 

釈氏の御意見

 

佛教…人間の本質=孤独であり、繋がる=虚構状態のことだ。

 

「独生独死独去独来」

生老病死のことはつまりは全部が独りだけのもの。

 

 

此の点に関するわたくしの理解

 

独りー個ー⇔社会ー集団ー

 

生としての軸足を社会に合はせると結局社会に引っ張られるが侭に生を終へることとなるが其れでは如何にも危険だ。

 

人間は集団化すればする程に欲望を絶対化して捉へるやうになり其処こそが極めて危険なのだ。

 

故になるべく個での侭に欲望を相対化ー欲望される価値としての二極分化の双方を見詰めることでーし兎に角理性的にこそ生きるべし。

 

 

また釈氏の御意見

 

「犀の角のようにただ独り歩め」ー初期の経典に於ける釈尊御自身によるものとされる説法の内容でもって「人間は孤独であるのが本来の姿である」との意。

 

此の点に関するわたくしの理解

 

逆に言へば其の孤独に耐へられぬ現代人の心のあり方其れ自体が狂って来て居ます。

また眞の意味での繋がり又は共感とは幸せから得られるものでは無く苦しみからこそ得られるものだ。

 

逆に言へば快適さや幸福な状態ばかりを追ひ求めて行けば何より其の他の苦ー異の苦ーに対する共感力が失はれて行く。

また其れが失くなるばかりに不安になり逆に繋がらうとばかりすることだらう。

 

でもそんな表面でもって形の上でだけ繋がってもあくまで生の苦と向き合ふ者は己独りだけだ。

 

「独生独死独去独来」

 

此のやうに道理の分かって居なひ現代社会をわたくしは批判し続け且つまた無視し続けても来たのだった。

 

分かって居なひ=馬鹿、である。

 

また馬鹿は死んでも治りません。

よって馬鹿はそんな表面化からこそ生じませう。

 

馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿。

現代文明の此のお馬鹿。

 

尚近く其の釈迦による説法を全文引用し注釈を加へさせて頂く所存です。

 

 

加へての釈氏の御意見

 

「人は仏と共にある」ー人間には元々佛性があるー

「同行二人」ー独りで歩いていてもお大師さんは常に傍らに居られるー

 

「今苦しんでいるもの、今泣いているもの、あなたこそが幸せである。今孤独なもの、あなたこそが幸せである。神はあなたと共に居る。」ー此のやうにキリスト教でもさう述べられて居ると釈氏はさう仰るー

 

此の点に関するわたくしの理解

 

此のやうに人間の苦しみと向き合ふ宗教こそが本物の宗教です。

「独生独死独去独来」としての人間は元々手に余る運命をば担はされて居る。

 

ですが其れをまさに其の苦悩を人間の社会の中で紛らはさうとしても其れは無理なのです。

ー其れでも表面的には金や名誉、また世俗的な愛の段階で紛らはすことは可能であらう、だが本質的にはあくまで其れは無理なのだ。ー

 

なので其処に必然的に神佛による御力が是非必要となるのです。

ー其れも合理主義者は合理的には決して救はれぬことでせうー

 

 

ー「犀の角のようにただ独り歩め。」
『スッタニパータ』(『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫 17頁)

 標題のことばは「サイの頭部にそそり立つ太い一本角のように、独りで自らの歩みを進めなさい」という意味です。インドサイは群れではなく単独で行動することが知られていますので、「犀の(一本)角」という比喩表現は「孤独」を意味します。このように仏教が孤独を勧める背景には「私たちの悩みは人間関係から起こる」との分析があります。つまり、悩みを生み出す原因が「人のつながり」にあるのなら、そこから一時的に離れてみることが心の成長に必要ということです。

 現在のようにつながりが強化された社会では、つながりからこぼれ落ちた存在が際立って見えます。人々は他者とのつながりを求め、それが断たれた状態を不安や不快として感受します。ですが、実際のところ私たちが孤独を感じるのは、周りの人に囲まれながらも「誰も私のことを見ていない」「誰も私に関心を持っていない」と実感するときです。一人でいることが孤独感の原因なのではなく、周囲とのつながりを実感できないからこそ孤独を痛みとして感じます。にもかかわらず、私たちは一人になることを怖れ、なるべく他者とつながろうとする結果、毎回同じ痛みを感受することになります。そのような私たちに、標題のことばは、孤独を怖れる必要はないと教えます。

 さらに、同じ『スッタニパータ』の58番目の韻文では次のようにうたわれています。

学識豊かで真理をわきまえ、高邁(こうまい)、明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩め。

 仏教では「悩みの原因となる対人関係から距離をとる」という意味での孤独を勧めると共に「優れた友との交流」を勧めます。一見して矛盾するように思われますが、そのねらいは真に独立した人格を形成するためにはどちらも必要ということです。そして、ここでの「友」は対人関係における友人に限定されません。例えば、大学生であれば自身がひたむきに学ぶ学問が「友」になり、社会人であれば自身が責任をもって勤しむ仕事が「友」になります。つまり、自身を成熟へと導くものが総じて「友」と呼ばれるのです。

 様々なつながりを自覚した上で、孤独と向き合う時間は貴重です。なぜ孤独が必要なのか。それは自分が本当は何を求めているのかを知るためです。そのとき、学びや仕事は孤独を支えてくれるでしょう。そしてその道程において、あなたは真の友とであうのかも知れません。ー犀の角のようにただ独り歩め。大谷大學より
 

 

「私たちの悩みは人間関係から起こる」

實はさう云ふことなのです。

 

人と繋がることは本質的には逆に良ひことだとは言へぬ。

特に過度に其の人と繋がることが強要される現代の文明世界はまさに異常でありつまるところはまさに其れこそがビョーキの様です。

 

「悩みの原因となる対人関係から距離をとる」

かうして対人関係から距離をとることが必ずしも悪ひことだとは言へぬ訳です。

 

「優れた友との交流」

かうして優れた友は居るものです。

 

わたくしも齢五十を過ぎてから其の優れた友の一人と巡り合ひましたが彼はまさしく優れて居ることでせう。

さうして優れた友の一人は壱億人の「みんな」などよりもずっと大事な存在です。

 

其の眞の意味での孤独と向き合はなければ苦しみを齎すものの本質からは逆に遠ざかって行きませう。

日本人の抱へる問題は何でもみんなでやり過ぎてさうした事の道理がまるで分かって居なひ点にこそある。

 

さうして日本のみんなは馬鹿ですか?

 

今さう言おふと思ひましたが何故か言へなくなって仕舞ひました。

あらまたお優しひことで。

 

 

其の代はりに日本の社会が馬鹿だと云ふことをもうハッキリと今此処に喧伝して置きます。

日本の社会、まさにおまへこそは馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿だ。

 

うはあ、また凄ひ数の馬鹿がつひたぞ。

詩人さん、今日はもう後は寝るだけなのですか?

 

さうですね、嗚呼何か宗教物の映画でも視つつ今日は寝たひ気分ですかねへ。

其れも相変はらず精神の孤高者としての色合ひが濃厚ですね。

 

いへわたくしは元々こんなんですので一向に苦にはなりません。

つまるところは、釈尊がかって述べられた如くに「犀の角のようにただ独り歩め。」なんですね。