目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

地獄と極楽ー無常と云ふ地獄ー


平家物語  祇園精舎

 
「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風 の前の塵に同じ。
祇園精舍の鐘の音には、諸行無常すなわちこの世のすべての現象は絶えず変化していくものだという響きがある。娑羅双樹の花の色は、どんなに勢いが盛んな者も必ず衰えるものであるという道理をあらわしている。世に栄え得意になっている者も、その栄えはずっとは続かず、春の夜の夢のようである。勢い盛んではげしい者も、結局は滅び去り、まるで風に吹き飛ばされる塵と同じようである。」以上より引用
 
 
中学三年生の頃の担任の先生が京大出の社会科担当でありかつわたくしの恩師でした。
 
其のI先生が此の平家物語の冒頭部を覚へろと言はれたのでクラスの皆が此の部分を暗唱したのでありました。
 
ゆえに今でも此の部分だけはスラスラと出て参ります。
 
 
ちなみに其の先生は真面目な話ばかりではなくエロ話の方もチラリとされて居たやうな覚えがあります。
 
曰く、「女性の足は妙にいやらしい。男が惹かれるのは此のいやらしい足の形のみだ。」と云うやうなことさへ述べられて居たのです。
 
けだし名言ではないかと個人的には思ふ。
 
五年程前に亡くなったハゲてチビでデブの先生でしたが兎に角存在感の凄ひ先生でした。
 
 
 
 
(これより雪山偈とも言われる。
「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。」この半偈は流転門。
「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」「為楽」というのは、涅槃楽を受けるというのではない。有為の苦に対して寂滅を楽といっているだけである。後半偈は還滅門。)以上より引用
 
 
即ち其の永遠不変ではない、所謂不滅ではない不完全な世界の性質こそが幼き頃よりわたくしにとり重荷だったのであります。
 
だって生まれつきわたくしは直観の方が効くでせう。
 
なので其処で其の苦の受け取り方もまた違ふのであります。
兎に角昔から変化其のものが嫌ひでしたね。
 
要するに観念的構築を人よりも堅固に行ふタイプだったのでせう。
 
 
 
其れでもって無常、だとか云われてもとても認めたくは無ひ訳だ。
 
逆に言うとまさに神の如き強固かつ完全な存在が何処かに居て呉れなければならなかった。
 
だから其の固定と云うか固着がそもそも好き♡なんです。
 
 
たとへば寝る時なんかでも、おそらく皆様は羽毛布団だとかそんな柔らかひものに包まれ寝て居ることでせうがわたくしの場合板の間やら土間やら兎に角さうした固い地盤の上で無ひととても寝られなひのです。
 
とは云え確かに若い頃は西洋式のベッドなるものにて寝て居た記憶もまた御座ります。
 
 
 
左様に兎に角動きたく無くしかも変はりたく無ひのです。
 
なので融通が利かないまさにアスペルガーとしての典型的な資質でせうね。
 
 
また同様の理由で枕も固い枕が好きなんです。
 
何処かに木製の枕とかがあれば其れを是非使ってみたひ程に。
 
またカタい男とカタい女とが好きです。
 
 
が、実は其ればかりでもなく場合により羽毛布団も使はぬものでも無ひ。
 
 
 
さて問題は何故諸行が無常ー非常ーとならざるを得なひのかと云う部分です。
 
何故なら生滅を設定するやうな主客を生ずる認識主体を設定する限りかうして無常な様が苦として捉へられざるを得なひことだらう。
 
と云う捉へ方が仏法に於ひて常になされて居る。
 
 
 
無常と云うからには所謂生老病死のことが其処に語られて居るのだと思はれる。
 
またより本質的には死による喪失のことが其処に述べられて居ることだらう。
 
 
尚死のことに就ひては我はいつも考へて来てさへ居ます。
 
勿論死は恐ひのですが、死のことに就ひて考へることはむしろ好きである。
 
 
要するに暗ひ、つまり陰気なのだ。
 
さうかなあ、むしろ明るひ部分さへあるんですがね、其れもほんたうのほんたうのところではね。
 
 
 
尚死とは本質的には語り得ないもののことです。
 
言葉乃至は概念として捉へられないものでもまたある。
 
つまりは所謂哲學で云ふ物自体と云うものに近ひ、或いは其のこと其のものなのかもしれない。
 
 
 
だから実はさう心配するやうなものでもない気が最近はして居ます。
 
どだい死ぬ時には脳内麻薬がドバっと出るのでもう何が何やら分からぬうちにおそらくは死んじまひます。
 
多分強力な麻酔を打たれた時のやうなものです。
 
むしろ其の前の大病の段階での苦しさこそが怖ひのだが。
 
 
 
ですが其の遥か以前に兎に角動きたく無ひのです。
 
其の動きたく無ひと云うことは無常を認めたく無ひと云ふことにも繋がりませう。
 
 
だからもう永遠の神様が人間を完全に創り直して下さり神の園で永遠に楽に生きて居たひ。
 
其れでは然し完全にキリスト教徒ではなひか?
 
 
 
よりによって仏教の話をして居る最中に何故そんな急にぶっ飛んでいくのだ、話が?
 
分からぬ。
 
兎に角正直にありのままを述べて居るだけのことですので。
 
 
 
もう兎に角生老病死のことなど金輪際認められません。
 
ちなみに三十歳位まで本気で自分は死ななひなどとも思って居ました。
 
ところが今思へばむしろさう云ふので行く方が長生き出来るのかもしれないとさうも思ふのです。
 
 
 
「あらゆるものは刹那(一瞬=きわめて短い時間)の間にも変化をくり返している。」以上より引用
 
 
所謂刹那滅と云う考え方で諸行が無常であることの論拠となって居るものです。
 
また縁起により仮に構成されて居る現象はどの一瞬を取ってもタダの仮の瞬間であるに過ぎない。
其の連続は不変のものでなくましてや普遍のものでもなくまるでもうタダの紙屑のやうな無価値なもの。
 
また其れが御大層にも持続して行われて居り、つまりは瞬時瞬時が連なりさもほんたうの時の流れのやうに見えるので余計にタチが悪ひと来てる。
 
 
 
そんなものまるで有り難くなどは無ひですって。
 
全然感謝でも何でもないですよ、かうして生きてるってことはね。
 
よって有り難ひのはむしろ仏法のみなのです。
 
 
では其の有り難くは無い筈の刹那の連続としての虚の現象にしがみつき自らを絶対化して居るおまへとは一体何者なのだ?
 
 
うーむ、まさに痛いところをズバリと突かれましたね。
 
ハイハイ、分かりましたよ、全部わたくしが悪う御座ひました。
 
わたくしめこそが宇宙一の大悪人で其の我執の権化、即ち悪魔でもってしてしかも地獄の住人で御座ります。
 
 
 
尚刹那滅を説き瞬間、瞬間の生起または消滅を過去、現在、未来の位相で捉へたのが部派仏教としての説一切有部である。
 
其処では現象を構成する極微の要素を実として捉へ過去、現在、未来と三世に亘る實有を説いたが要するに其れは形而上学的に流れた仏法なのだと言へることだらう。
 
 
ですが其処は面白ひ考へ方なのでもまたある。
 
過去、現在、未来と云う時間的な流れの中での縁起の継続性を説いたのはわたくしの知る限りでは此の説一切有部のみだ。説一切有部
 
後の大乗仏教などは全てを空、としたので所謂時間の流れ=歴史的縁起と云うものが其処に全否定されて仕舞ふのだ。
 
 
ところが説一切有部の論理に従へば生起とは、存在を構成する要素(ダルマ)が未来から現在に現れ出ることであり、対する消滅は現在から過去へ去ることであるともされる。
 
 
 
森羅万象(サンスカーラ、: saṃskāra)を構成する恒常不滅の基本要素として70ほどの有法、法体を想定し、これらの有法は過去・未来・現在の三世にわたって変化することなく実在し続けるが、我々がそれらを経験・認識できるのは現在の一瞬間である、という。未来世の法が現在にあらわれて、一瞬間我々に認識され、すぐに過去に去っていくという。このように我々は映画のフィルムのコマを見るように、瞬間ごとに異なった法を経験しているのだと、諸行無常を説明する。 以上より引用
 
 
ああ、何やら兎に角面倒臭い。
 
但し未来から現在が来て現在が過去へ去ると云う所謂時間の流れの部分だけはむしろ我我の実感に即したものだ。
 
 

業感縁起[編集]

説一切有部は人間のの直接の原因を、(カルマ、: karman)と見て、その究極の原因を煩悩(惑)と考えた。すなわち人間の存在を惑→業→苦の連鎖とみ、これを「業感縁起」という。それゆえ人間が苦からのがれ涅槃の境地を得る(さとり)ためには、煩悩を断ずればよいことになる。このようにして説一切有部108の煩悩を考え、この断除のしかたを考察した。すなわち四諦の理をくりかえし研究考察すること(四諦現観)によって、智慧が生じ、この智慧によって煩悩を断ずるのである。すべての煩悩を断じた修行者は、聖者となり、阿羅漢: arhat)と呼ばれる。

有余涅槃・無余涅槃[編集]

 

かくして涅槃を説一切有部は二つに区別した。
  1. まだ肉体が存する阿羅漢の境地は肉体的苦があるので不完全とみなし「有余依涅槃」と称した。
  2. 阿羅漢の死後を完全な涅槃とみて「無余依涅槃」と称した。以上より引用

 

かように説一切有部は人間が生きて居るうちに成道はならなひとさへ考へて居たのである。
さらに例の百八の煩悩を定めたのも此の説一切有部である。
 
まあ其処での数は如何にも説一切有部らしく多過ぎるとは思ふのですが。
 
 
其れと重要なのは苦の原因が業であるとした点である。
 
此の部分なども我我にとり悪ひ業の持ち主こそが確かに悪ひ奴である感もして居るのである意味ではすんなりと分かり易ひ。   
 
 
いずれにせよかうして大乗仏教には偏ることなく満遍なく仏教の教説を調べてみた方が我我の実感に於いて分かり易い部分もまた出て来ると云うことであらう。
 
 
現象は縁起により刹那滅を繰り返すが現実的には時間の流れにより其の縁起関係が断滅されることはむしろ稀なことで即ち連続性のある事象形成が時の流れの中には確かにあると云う事があらうかと思ふ。
 
 
ならば其の歴史的過程を空として一言にて葬り去ることが出来るものかと云う疑問と言えば疑問の部分が其処には必然的に生ずる。
 
即ちたとへ無常こそが真理なのだとしても一定期間に限ればはむしろ常である。
 
何故なら文明の歴史、国家の歴史、共同体の歴史、家庭の歴史、個人としての歴史と云うものは明らかにさう存在して居る。
 
文明、国家、共同体、家庭、個人は空と云う虚の概念で括れるものではなく謂はば元々は無ひのだけれども歴史的には確かにあるーあったー現象なのでもある。
 
 
 
其の歴史過程を即ち時間の経過を縁起の理窟により反故にして仕舞ふことにはどうにも納得がいかぬ。
 
つまりは時間の解釈が余りにも無常に過ぎるのが特に大乗各宗派のちょっとおかしひ点なのではあるまいか。
 
時間の経過並びに変化する主体としての有無の問題は大乗仏教説一切有部の間での本質的差異の問題でもある。
 
 
 
さうした部分こそが例の輪廻転生の本質問題へと連なっても行くのである。
 
 
実は輪廻転生を積極的に認めて居る宗派は少なくおそらく其れは浄土思想のみであらう。
 
釈迦は何せ頭が良ひので輪廻転生など認めて居なかった可能性すらあるのだが但し其処は詳しく調べてみなければ分からない。
 
尚釈迦は兎に角頭が良ひので回りくどひことは言はずに直観的真理をある意味では論理的かつ正直に述べられて居たのではなかったか。
 
 
ですが其処は所謂対機説法が得意であったらしくたとへば諸行が常住=固定不変なるものとして「常」の立場から執着する者に対しては諸行が「無常」なるものとして其の固執する立場を否定されたのである。
 
逆に諸行が無常=生滅変化するものとして「無常」の立場から執着する者に対しては諸行が「常」なるものとして其の固執する立場を否定されたのである。
 
 
まさにさういうのこそが中道の真理である。
 
なので実はどちらに傾き過ぎてもいけないのである。
 
二元的分離即ち二項対立の両極を離れる為にこそ仏法に於ける其の二重否定の意義が其処に見て取れやう。
 
 
 
尚所謂「無記」に就いて述べれば、要するに形而上の問題につき釈迦は其れを「語り得なひ」ものとして捉へられ決して論じやうとはされなかったとのことだ。
 
 
たとへば死後の世界の有無につき釈尊は論じられて居ない。
 
其れは先にも述べたやうに死が「語り得なひもの」だからなのだ。
 
其の概念の本質上有るとも無ひとも言へぬものだからなのだ。
 
 
尤も死の本質が語り得なひものであるだけで其の死の言語的定義がまるで出来なひ訳でも無ひ。
 
どだい釈迦の語る仏法とは其れそのものが其の語り得なひものであった可能性が高い。
 
 
なので初め仏陀は説法を躊躇われて居たのだと云う。
 
要するに幾ら単純化し理窟化しても俗世間のアホ共にはとても理解出来ん教へなのでもう止めとこうかと思はれて居たのである。
 
 
ちなみに其の説一切有部の刹那滅の理論は後に独逸の哲学者ハイデガー存在論に大きく影響を与へて行ったものとされて居る。