目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

罪を憎んで美としての此の世を憎まず

本質的に文明ー社會ーは抽象的利益の為の奴隷であり最終的に其れは自己矛盾をなし崩壊して行くものだ。

其れをなるべく被害が少なくする即ちソフトランディングして行く為には地産地消での限定的経済活動をして行く他は無ひことだらう。

 


其のやうにまさにみんなー一般大衆ーの勘違ひとは、社會が正しひとさう心得違ひをして居るだらう大多数の人々の其の意識の保ち方にこそあらう。

対して藝術とは意識を高く保った上での反抗であり分離なので元々美術系、音楽系、作家系の人々の中には社會に対する反骨心がまた存する訳だ。

 


なのですが藝術にはひとつ弱点があり其れ即ち藝術をやる人間が生きて行く為には實は金が要り其の金でもって食料を調達し肉体を維持せねばならぬと云ふことだった。

 


では金持ちの家に生まれし藝術家は皆幸せだったかと云ふとむしろ其の逆で特に昔の文士などは大抵は家が金持ちだと社會主義へと走りむしろロクな死に方をして居らぬ訳だ。

 


其の社會主義は如何にも理性的で正しひのであるが正しひものが此の獣じみた世界に通るとは限らず、と云ふか其の社會主義自体が結局大矛盾を抱へ込んで居るが故社會主義の末路こそがかのプーチンの如くに王様化しまるで過去へと逆戻りして行くのでもある。

或は中國の共産体制化の方も何やら古臭ひ中華思想と結託して居り、よってまたいつか其処に殷の紂王のやうな恐ろしひ暴君が出て来る可能性も否めなひことだらう。

 


つまるところ社會はいつまで経っても馬鹿其のものであり、まさにこんな溜息ばかりが出るやうなバカげたお話のオンパレードであり全くお話にも何にもならぬものだ。

 


と云ふ訳でこんな社會に嫌気がさしたわたくしはもう社會を見捨てる覚悟を固めたところである。

 


金持ち、此のバカバカしひ価値ヒエラルキーのあり方、さうして権威、また権勢、さらに権力、此れ等の虚的な妄念ー抽象的価値ーに振り回されし社會のあり方は今後まず間違ひ無く崩壊の途を辿ることであらう。

 

 

 

其処でまずは自衛の方策をば個の範囲で探って行かねばなるまひ。

 


1.金持ち馬鹿になるよりは清貧の壱藝術家として生きる

2.社會は其の根っこが馬鹿だから其れに従ふとみんなが崩壊する

3.藝術の本質とは負の愛=有の無である

4.馬鹿はたとへ死んでも治らなひ

 

 

其の意識を高く保つと云ふことは「負の愛」を心中に導くことでもある。

「負の愛」とは滅び去るものに対する藝術的な意味での愛の加工のことだ。

 


でも社會に洗脳されし者共はむしろ其の社會にこそ全幅の信頼を置ひて御座る。

 


なのですが航空産業などは戦後ずっと花形産業だったものが今や「飛び恥」などともされて居る位だ。

つまりは飛行機は二酸化炭素の排出量が多ひのでおそらく今後は滅亡する業種であらう。

 


まさに其れが自然による具象的限定を受け淘汰されると云ふことなのだ。

 


また観光産業なども淘汰されて行く可能性がある。

但し地元を中心に地産地消にて回して行けば観光地として生き残ることも或は可能であらう。

 


なのだが大都市に対し屈服するかのやうな経済構造を採って居る地方こそが疲弊と崩壊の度が甚だしくもなることだらう。

 


つまるところ東京もまた大阪も且つ名古屋も少し金がある位のことで實はまるで偉くなどは無ひのだ。

 


第一かの岳見の大豪邸が何故売りに出て居たのか?

其処からも金は本質的な意味での価値とはなり得ぬ訳だ。

 


但し金が無ひと食ひ物が得られず其れでもって餓死して仕舞ふ。

まあ其の時には炊き出しにでも並ぶ他は無ひことであらうが。

 

 

 

大都市圏で少しだけ威張れるのが所謂文化の力があることだ。

なのだがたとへば金沢や盛岡などの地方都市でも「文化力」があるとされて居る都市はある。

 


或は東京や大阪や名古屋よりもさうした文化都市の方が本物の力を宿して居るのやもしれぬ。

 


現代文明の一番おかしなところが此の抽象的な力に対する盲目的な信仰である。

どだひ今株価が高ひ訳だがこんなものは國と云ふか日銀の頭が悪ひー心が悪ひー為に引き起こされて居る虚としてのマネーゲームの世界であるに過ぎぬ。

 


其の現代文明が狂ってる、と云ふ部分こそがわたくしの基礎認識なのであり無論のこと其の意見を撤廃する積もりなど今後に於ひてもサラサラ無ひのである。

 

 

 

なのだけれど、もはや世が余りにもバカバカしくやってられぬと云ふのが實情でありよって其のバカバカしひ世の流れを糾弾することへの無駄を省き無視して仕舞ふ積もりである。ー個としての社會への合理化の断行ー

 


すると其処へ二人の👩神が降り立ちそんな「負の愛」としての言葉を我に語りかけて来た。

嗚呼、其れは「啓示」とも異なるひとつの藝術上の示唆である即ち天恵なのでもあった。

 

 

 

要するに社會的経済活動にはむしろ決定的な価値の倒錯が潜んで居る。

其れに抗ふことは個としての生命を危険に晒すことになるのだからむしろ其処からは避難すべきなのだ。

 


さうして意識を高く保つ個はむしろ自らを限定し生き抜くことが可能なのだらう。

個が持ち得る思想としての其の鍵は「限定」であり且つ「負の愛」の履行である。

 


概ね世間が陥り易ひ誤りとは多様性を認めるが故に限定を解除し愛を認めんが為に正の愛を抱擁して仕舞ふことなのだ。

其れも其の正の愛を抱擁して仕舞ふことこそが所謂子宮思考と結託することとも知らずにだ。

 

 

 

だがたとへ♀ではあれ藝術を解する👩が現世利益へと全的に傾く訳では無ひのである。

また盲信的にかの教祖様を信じ其処へと全的に傾く訳でも無ひのである。

 


つまるところは世に「負としての愛」を保つ意識の高ーひ👩共もまた居るのである。

 


わたくしには其れがようやく分かりひとまずは心の安定を取り戻したところだと申すべきなのだらう。

 

 

 

文明の未来は、つまりは産業は、また政治は概して大丈夫だとみんなはさう信じ込んで御座る。

 


だがほんたうに其れは大丈夫なのだらうか?

わたくしにはむしろ其れ等こそが最も不安定なものに感ぜられて来ても居た。

 


何故みんなは其のやうなものに自らの、また👪の未来を託したりして居るのだらうか?

 


でも其れを言ふなら藝術程胡散臭く且つ不確實なものもまた無ひではなひか。

 

 

 

でも藝術はまさに教科書にも載って居るではなひか。

何故藝術が教科書に載り、大金の儲け方や👩遊びの仕方などが教科書に載らぬのか其れが分かるのか?

 


其れはさうした俗的なヒエラルキーのあり方が人間の持つ本質的問題を解決するやうなものでは決して無ひからなのだ。

 


また盲信的な信仰のあり方でさへもが其の人間の持つ本質的問題を解決するやうなものでは無ひ。

 


但し信仰其れ自体が人間の救済に役立たぬと云ふことでは無論のこと無くむしろ信仰によらずば人間が本質的に救はれることは無ひのだが。

 


要するに信仰のあり方さへもが理性的に処されたものでなければならぬことだらう。

 

 

 

では藝術とは一体何を人間に対し齎すものなのだ?

元より藝術とは救済では無くましてやより良く生きる為の方策なのでも無ひ。

 


先に述べた如くに藝術とはまさに其の「負の愛」であり言はば愛の形としての負を自らの心の中に受け容れることなのだ。

 


然し其れではまるで救はれぬ訳でせう?

 


たとへ救はれずとも良ひ。

藝術とはそんな一種の諦念なのでもまたあらう。

 

 

 

だが其れはたとへ社會的には救はれずともあくまで自らとしては納得出来る生き方とならう筈だ。

藝術を志すとはまさにさうしたことなのであり、故にモリスもまたルドンもさうして賢治も其の自らの小宇宙を生き抜き其の侭に生を終へて行ったのだった。

 


すると藝術家とは決して金持ちにならうとはせずまた社會には無関心で且つ着る物や食ひ物には無頓着でもって作品の構築のことばかりに日々勤しむ変はり者の集団のことなのですか?

 


まあさうであらう。

だが社會を変へやうとした藝術家もまた居るのだしーモリスも賢治もまた一面ではさうであったー着る物や食ひ物に拘る藝術家ーバルザックなどーもまた居たのだった。

 


そんな藝術至上主義ですと、やがては飯が食へずに皆死ぬるのではありませぬか?

其れとも太宰や芥川のやうに🚺問題で行き詰まり折角の天才を反故にし自決する羽目に陥るのではありませぬか?

 


いやわたくしは自決其れ自体に問題があるとは考へては居らず、むしろ藝術家として作品が無ひことに最大の汚点と云ふか情けなさと云ふかみっともなさと云ふかそんなものを常に感じて仕舞ふ訳だ。

 


いやでも確かに太宰や芥川の作品は今小中高等学校の国語の教科書にしかと載って居るな。

 


きっと其のうちに加島 祥造先生の詩なども載ることだらう。

でも流石に天才詩人谷川 俊太郎の「うんこ」と云ふ詩だけは何処にも載らぬことであらう。

 


アンタはかうして社會批判ばかりして社會其れ自体を貶して来た訳だから其の批判の毒にやられてもう何も書けやしなひのだ。

どうだ、ザマアミタカ。

 

 

 

残念でした。

むしろわたくしはこれからです。

 


むしろこれからが其の芸大出の知性との対決だ。

また横山先生の恩師との対決だ。

 

 

 

何でまたさういつも対決ばかりになるのだ?

少しは👩に対し優しくなれよ。

 


其の藝術とは優しさのことではなかったか。

 


左様、確かにモリスの作品は優しひ。

故に優しひものこそが眞に理性的なものなのでもある。

 


対してグローバル資本主義だの技術革新だのと云ふのは眞に理性的なものでは無くまるでもって獣としての闘争の世界のことである。

 


わたくしは其れ等を遮断しモリスやルドンの、さうして賢治や太宰や芥川の優しさへと立ち還る積もりだ。

 


さうだ、其れぞまさに藝術による現在と未来の遮断のことなのだ。

さうして時を止めて仕舞ふのだ。

 


いや過去へと戻るのだ。

 


あの過去としての負の愛の抱擁へと己を巻き戻すのだ。

 

 

 

藝術とはそんな死に対する抱擁なのでもある。

死に対する抱擁こそが其の負の愛を成就させることとならう。

 


現代人の価値観はまさに洗脳され感ずるべき其の死と分断されて仕舞って居る。

だが死があるからこそ生が育まれ其処に美化としての藝術の花々が咲き競ふことだらう。

 


尤も其の花花は美しひだけでは無く常に毒を持つ。

 


其の毒を浴びたとへ此の身が焼け爛れてもさうして美を形作らねばなるまひ。

 


随分と激しひ人だな。

まあ大人しくは見えるのですがほんたうは意外と過激なんです。

 

 

 

モリスとは言ってみれば植物的装飾ーーデザイン作家ーであり藝術では無ひのではありませぬか?

でもモリスは詩人でもあるのだぜ。

尤も其の詩を読んだことなど無ひのだけれども。

 

 

またモリスにせよミュシャにせよまさに其の装飾的藝術表現はむしろ用の美を体現するものなのでもあらう。

 


其の用の美とは?

藝術の持つ一面である優しさを実用レヴェルとして纏めたもののことだ。

 


何故激しひ筈の其の藝術がかように優しくもなれるのか?

燃焼⇔優しさー二元的闘争に於ける燃へ尽きの形としてのー

 

 

のやうな二元構造がどうも藝術作品には潜んで居る。

 


さうして激しく燃焼ー葛藤=対決ーしつつ他方ではとても穏やかで優しひ。

 

 

 

特にルドンの絵画作品などが其の典型例なのであらう。

また宮澤 賢治にせよ其の文語詩にはまさに激しひと云ふかグロテスクなイメージを内包するものが多々あるものだ。

 


佛教徒であり基本的には穏やかな賢治であるにせよ常にさうして彼は異常なものをも抱へて居たのだ。

 

 

 

特にモリスの場合には自然への共感の感度が高くあり其れこそ自然と共生し生きる社会主義者や一部の見識の高ひ女性などには好まれて居るのであらう。

 


あれ、やっぱりモリスは🚺向きなのか?

 


いや女性に限らず感度の高ひ方々にはモリスは極めて相性が良ひ筈だ。

 


なのだがどちらかと云ふとハイクラスと申しますかハイセンスな人々に人気で家の近辺でもってモリスが大好きだと云ふ人は残念ながら居なひのだ。

 


ではたとへば八事の金持ち連中などは皆モリスが好きなのか?

 


いや金持ちに限らず思想がね、其の思想がある奴=意識が高ひ系の人々に兎に角好まれて居るのだらうよ。

 

 

 

ではおまへも其の意識が高ひのか?

 


すみませんが其の意識が高ひことだけは紛ふ事無き事實だらう。

 


其れにつけても流石は八事の表山だったと云ふことだな。

 

 

 

其れでもってモリス関連の商品のひとつでも買って来たのか?

 


いやひとつも買ってません。

實はひとつ興味があった物があったが其れはペンでは無くお香入れでした。

 

 

但し仏蘭西人が作ったと云ふフルーツケーキを二つばかり買って参りました。

 

 

 

其れはスーパーで買って来るフルーツケーキの味とは可成に違って居た。

どんな風に違ふのか?


何かかう如何にも西洋っぽひものだ。

 


其れでもって以前は世界オークションでもって西洋からアンティークのペンを取り寄せて居たことをつひ思ひ出して仕舞った。

さうしてアンティークのペンは良ひ。

 


まるでモリスのやうに?

さうまるでモリスのやうに用の美を備へて居る。

 


わたくしが今求めて居るのは或は表現したく思って居るのはまさにそんな用の美のことなのだ。

其れも観念としての美のことでは無く過去に存して居たであらう實用としての美の世界のことだ。

 

 

 

故に六月以降は此処をそんな文化と美を描く世界へと変へて行くつもりである。

 


宗教や政治には其の根本のところで失望したが故に是非さうさせて頂く積もりである。

但し宗教に対し失望したのでは無く新興の宗教を奉ずる大衆に対しまさに失望したのである。

 


此の世界は其の用の美を備へる美しき世界である。

此の世がどうしやうも無ひ矛盾に苛まれて居るのは其れは人間の観念のあり方が悪ひのであり故に意識の保ち方により其れが有にもなれば美を育むことさへもが可能な世界なのだ。

 


つまるところは謂はば罪を憎んで美としての此の世を憎まず、と言ったところである。ー其れも佛法の考へ方とは少しく違ふものですがー

藝術としての天恵を授かりし本日

藝術としての天恵を授かりし本日

 

先の水曜日に東山へまた石英の採集に出かけた。

其の折にたまたま岳見の豪邸街を抜け八事表山の近辺へと至ったのだった。プールと能舞台

 

岳見町は豪邸が連なることで有名であるが其れもわたくし達にとっては幼き頃より八事の山へ遊びに行く時の通り道であった。

 

但し我が家の近辺よりは無論のこと弐ランク程上である。

我が家は八事台地の南端部に位置するが故南区から見れば高級住宅街なのだが我我にとっての高級住宅街とは岳見であり又は南山なのだ。

 

参拾年程前は岳見の豪邸のひとつにクラシックカーミュージアムのやうなものを造った家さへもがあった位であった。ー其のミュージアムも今はもう消へて居るのだがー

 

いずれにせよ豪邸街なのでみすぼらしひなりをして自転車にて走って居るとどこぞのドロボウなどにも間違へられて仕舞ふ訳だから其処は充分に気を遣ひ一張羅でも着込んで通らねばならぬ処である。

 

八事表山もまた高級住宅街なのだが其の岳見よりは一ランク落ちる。

が、家の近辺よりは一ランク程山の手である。

 

より高ひところにあるので見晴らしが良く坂道の多ひまさに山の手なのだ。

が、實は金持ちの程度で言へば實は家の辺りと同じ位の感じでもある。-家の辺りは家以外の家に金持ちもまた多ひので-

 

 

で、表山台まで自転車をヘヒコラ押して登り登り坂の頂上へさしかかりホッとして休んで居るとあれ、こんなところに何やら掲示板が。「ラ メゾン デ レギューム」行き方

其処には何とウィリアム・モリスの展示のことが書かれて居た。

 

文學とさほど変はらぬ程に絵画やデザインの分野が好きなわたくしはもう三十年程も其のモリスのデザインを愛し続けて来たのである。

 

だがモリスのことに就ひてはまた後日に是非語りたひ。

 

 

さて問題はまさに其の『ラ メゾン デ レギューム』カフェのことなのだ。

 

かうした隠れ家的なカフェはおそらくは「意識が高ひ系」のカフェであることがほとんどであることだらう。

 

要するにまるで意識が低ひと其処を訪れてもまるで趣味が合はぬと云ふこととなり結局楽しくは過ごせず早々と退散することにもなりかねぬ訳だ。

 

だがわたくしは見ての通りに意識が高ひ、いや高過ぎる。

 

なのでこんなもの位はまるで懼れるには足らずだ。

 

第一わたくしが語る藝術の内容を理解出来る人が其の辺に居る筈は無ひのだ。

 

なのだが、此処に限ればつひ宗教に熱が入り過ぎ色々と書き過ぎて仕舞って来た。

 

其処だけは今大ひに反省して居る。

 

いつの間にかわたくしは美を語る詩人では無く宗教詩人ー解脱を目指すーとなって仕舞って居た。

 

 

だが本質的にはわたくしは美を語る詩人でなくてはならぬのではなかったか。

 

わたくしはかうして美に捉へられた馬鹿なのだから其の馬鹿らしく嗚呼美しひ、美しひといつも言って居るべきだったのだ。

 

其の看板を見詰めた時に即座に其の啓示のやうなものを受けた気がした。

 

其のモリス展は27日迄なので26日に行くしかなひ。-25日は予定があり行けなひので-

 

其れでもって本日わたくしは其のカフェを訪れてみた。

 

こんにちは、モリス展を見に来た者です。

 

「ラ メゾン デ レギューム」行き方

此処での建物の外観は綺麗には撮れて居なひのだが内部は流石に綺麗である。

 

調度品やモリス調の商品などもそつなくさりげなく置かれて居り如何にも意識が高ひ。

だがさうなのだ、完全なるモリス展では無くモリス調の商品の即売会のやうなものでもあった。

 

但しモリスに関連したものと思はれる西洋の古書なども数冊置かれて居た。

 

弐階へ上がるとまた素敵な和風建築でもって使われて居る木材の質が良ひ。

しかも其処から相生山の辺りまでが一望出来る。

 

此れは此れはさぞや夜景が綺麗なことでせうね。

さうですね、夜景は兎に角綺麗です。

 

 

其の店主と思しき女性は40歳前後であらうか。

 

ところがもいま一人客が居たのである。

其の女性客とわたくしが共に販売して居るカップやソーサー、布地などの説明を受けて居る訳だ。

 

だが常にさうして居るのでは無く、時折其の店主と一対一で話をするのだった。

 

わたくしは其の若き店主と文學談義に及んで仕舞った。

 

何故ならわたくしがモリスへ行ったのはかの宮澤 賢治が信奉して居たジョン・ラスキンとの絡みからだったからだ。

 

さう述べると店主はデザインの方からモリスへ入ったとのことであった。

 

其れでもって彼女は東京芸大の出身者であった。

 

 

芸大卒には極めて弱ひわたくしは「芸大出の人は皆違ふからね」とさう述べながらも矢継ぎ早に芸術論をまくしたてるのだった。

 

要するに藝術とは分離だ、分離。

 

太宰は天才だがあれはまさに分離で、三島もまたもっと天才だが分離が酷ひ。

 

でも絵画やデザインの方に近ひのはやっぱり詩だよ。

 

谷川 俊太郎はまた中村 正義は天才だからそんな郷土に関係した藝術家のことをこれから是非書きたひのだ。

 

もう還暦を過ぎたので早く其れを書かぬといつ書けぬやうになることかまるで分からぬ。

 

絵画の方は何を?

 

象徴主義だね、要するにルドンが一番好きです。

 

 

岐阜県美術館へは?

もう五度は通ひました。

 

ー流石に芸大出だけあり其のルドンが岐阜県美術館にあることを良く知って御座るー

そんなことは普通の人はまず知らぬ筈。

 

嗚呼、さうか、藝術には藝術を分かる場があるが故に少なくとも分かる人と話をすべきだったのだ。

 

 

太宰の生家の斜陽館へはかって行きました。

太宰も丹念に読んだのだし乱歩なども好きです。

 

おお、まさに並じゃ無ひぞ、此の芸大出の店主は。

 

いま一人の👩、此の方が頻りと工芸品だの布だのの話をされて居てカップのやうなものを何か購入されて居た。

 

ところが此の方がわたくしにとりまさにとんでも無ひ方であった。

 

元教師の方で、しかも奥三河の方である。

 

其れも鳳来寺自然科学博物館の少し手前にある門谷小学校の校庭でもってパンを売ったりもして居るのださうだ。ーパンを焼くのが趣味なのやもしれぬー

 

 

パンもまた美味ひものですが、わたくしは兎に角石が好きなので鳳来寺方面へは屡行って居ます。

丁度三月まで鳳来寺自然科学博物館にて鉱物展が開かれて居るのでどうしても行かねばなりません。

 

鳳来寺自然科学博物館とは横山 良哲さんが館長をされて居た時からの長ひ付き合ひで、館報なども色々と購入し其処で横山先生の石に関する記事を屡読み込んで居たものでした。

 

其の横山御住職は私の教へ子でした。

 

エッ?さうだったのですか、まさに其れは奇遇です。

横山先生は早くに亡くなられ残念でしたね。

 

月、火、水と校庭で昼からパンを売って居ますから3月には是非来て下さい。

 

また其の方も工芸家のことなどを良く知って居られ普通人が知らぬやうなマニアックな話を店主と続けられて居た。

 

3人に戻ると、木の素材のもの、また現代から見ると温かひ印象を受ける布地などは結局優しひ素材であり其れは一種の有機的な価値だと云ふことで一致したりもした。

 

 

今日は文學の話まで出来て嬉しかったです。周りには文學を話せる人がほとんど居なひので。ー店主ー

3月には是非お越しください。2月一杯は寒ひので休みにしていました。ー元教師の方ー

 

とのことで、此の二人の👩神によりわたくしはスッカリ藝術至上主義ー美の世界ーの方へと引き寄せられて行くのだった。

 

藝術を語る相手と石を採りに行く奥三河での絶好の知己を得たのである。

 

其の二人の女神に感謝したひ気持ちで今は一杯だ。

 

 

さうしてわたくしが書き継ひで行く藝術や石、其れから万年筆の話を是非御二人に御覧になって頂きたひ。

 

何時頃から其れを書ひて行かれるのですか?

 

今のところは6月からです。

 

3月、4月、5月は家全体の大掃除と山や森でのトレッキング、其れに美術館巡りだのまた石の採集などでも大忙しです。

 

そんな訳で藝術の話題をメインに据へ後は物質としての美ー画像付きでーを論じ精神的なものは御寺巡りの話として其処に佛法的なものをも織り交ぜた形で続けて行きたひ。

 

かくして天恵を得結果として藝術や教育ー石ーの分野で知人を得ることが出来たのだった。

 

其れもたった一時間程で其れがなったのだ。

實際人生は何が起こるか分からずかように運命の糸に導かれ良ひ出会ひをすることもまた可能なのだ。

 

今後の文明社會の問題で押し潰されさうになって居る今のわたくしの頭の中を二人の美の女神が救って下さったのだとも言へる。

 

わたくしをして大きく希望を描かせて呉れる其の二人の👩は矢張りどう考へてみても神の使ひか何かであることだらう。

「人類生存の持続可能性」より

ー開発に当たる技術者は、技術が不可避的に有するトレードオフ関係から目を逸らしてはならない。と同時に、気候変動問題のように科学的知見が決定的でない際には、予防原則(precautionary に基づいて「早期の対策」 (early を取ることを怠ってはならない。最後に、スティーブ・ジョブズに倣って、21世紀の技術者は人文学や社会科学と融合されたテクノロジーの持ち主を目指さなければならない。ー人類生存の持続可能性より

 

此れ迄に何度も述べて来て居るやうに科学技術は極めて抽象的な人類の知的過程であり其れが還元知を基とする部分論であるが故に暴走し易ひのだと言へる。

尤もひとつひとつの科学技術が悪ひと云ふことでは無く其の集積としての複合的結果が抽象度の低ひ自然環境とそぐわず其れにより破壊が引き起こされて仕舞ふ訳だ。

 

科学技術以前に自然科学其れ自体が合理化されたものであるので、其の合理性が暴走せぬやう常に人文、社会科学の側から監視し且つ其れに歯止めをかけて行かねばならぬ訳だ。

但し事實上もはや其れは難しく従って可能なこととはむしろ科学技術其のものが自身で変化を起こして行くことなのだらう。

 

 

ー「持続可能な開発とは、将来の世代が自らの欲求を充足する能力を損なうことなく、今日の世代の欲求を満たすような開発」。この定義は「人間中心的にすぎる」との批判が浴びせられることがあり、例えば、『新世界環境保全戦略』( 1990 年)は「持続可能な開発とは、人々の生活の質的改善を、その生活の支持基盤となっている各生態系の収容能力の限界内で生活しつつ達成すること」という、生態系を重視する定義もあることを断っておかねばなるまい。
ともあれ、20世紀末になって、大量生産、大量消費、大量廃棄を旨とする「 20世紀型産業文明」が 21世紀には「持続不可能」となることが、特に天然資源の枯渇、地球環境の汚染、南北問題の深刻化と関連する文脈で、広く認識されるようになったのである。ー人類生存の持続可能性より

 

「持続可能な開発」とはひとつの矛盾概念であり、持続可能となるのであればむしろ「開発」を止める=経済成長を放棄する、と云ふことになるのだと思ふ。

元より生命体には生存を可能とする為の許容量ー限度ーと云ふものがある訳だがまさに其れを人間存在だけが外して仕舞って居るが故に「持続不可能」で且つ破壊的な人間の仕業と云ふものがかうして現れるに至って居る。

 

即ち其れが眞に理性的に推進された文明ではなかったことは明らかなことだ。

逆に眞に理性的な文明は其のやうに野蛮な成長だの発展だのには寄り掛からぬ価値を構築して行くものだ。

 

野蛮さとはまさに其の大量生産、大量消費、大量廃棄のことである。

其の野蛮さとは結局其の獣のやうな欲望に基づき社會を組み上げて来たことへの

 

野蛮とは其処に反省力が無ひと云ふことだ。

事實獣共ー🐕、🐈、🐒等のーには反省力が無ひ。

 

だが彼等は抽象的な欲を持たず自然の内側を只グルグルと回り続けて居るのみなのだ。

なので彼等は眞の意味での獣なのでは無ひ。

 

彼等はさうして神の被造物としての素直さを身に付け生きて居る。

 

だが果たして人間はどうなのだらう?

人間は其の喰らひ振りだのウンコの垂れ方だけは彼等とまるで同じだが他面では頗る根性が悪く抽象的な価値ばかりを追ひ求め生きて御座る。

 

其の抽象的な価値はむしろ無用なものである可能性が高くあり大体に於ひて其の抽象度の高ひ価値ヒエラルキーに毒されて居ることの方がむしろ人間の社會では持て囃されたりもするものだ。

 

即ち価値観其のものが其処では絶望的に逆転して仕舞って居る。

 

其れもコレも結局「 20世紀型産業文明」が豊かさを求め我我にさう強ひて来た結果なのでもまたあらう。

 

20世紀の産業文明は我我に豊かさを齎したが其の豊かさとは心の豊かさのことでは無く単なる物質的な豊かさのことだ。

 

物質的な豊かさにせよ抽象的な価値であるにせよ「持たざる者であるよりは持つ者である方が良ひ」との価値観=プラス思考へと偏った価値観に陥ることでむしろ世に破壊を齎して居るのだ。

 

要するに文明の根本での其の価値観のあり方其のものがむしろ一番オカシヒ訳だ。

 

 

ー20世紀型産業文明をこのまま持続すれば、将来世代の福利( welfare )を損なうことにならざるを得ない」との、ブルントラント委員会の打ち鳴らした警鐘は予想を超える反響を招き、 1988 年 6 月のトロント・サミットにおいて、地球環境問題が初めて議題に採り上げられた。その直後に、カナダ政府主催の「地球環境問題を巡る国際会議」が同じトロントで開催され、「仮に今のペースで二酸化炭素の排出量を増やし続ければ、 21世紀末には、地表の平均気温は3度上昇し、海面は60センチ上昇する」という、ショッキングなシミュレーション結果が報告された。ー人類生存の持続可能性より

 

さうして文明に洗脳される形にて我我は生きて来た。

其の洗脳を解くには常に意識を高く保ち少なくとも文明に対し批判的にならねばならぬことだらう。

ちなみに21世紀末には其の地表の平均気温が4度上昇する可能性すらもがまたある。

 

もしも4度上昇するとすれば事實上人類は存続不可能となるに違ひなひ。

いや其れでも貴方方の子孫は生き残るのやもしれぬ。

 

さうなのだが、其の破滅への足音をあへて彼等に聞かせるやうな様にあくまで結果的にはなるのやもしれぬ。

 

尚温暖化では無く寒冷化を取り沙汰する學者が中には居るが確かに其れはひとつの可能性としてはあるのだと思ふ。

またより低ひ確率でもって温暖化が寒冷化により相殺されると云ふケースも無ひでは無ひことだらう。

 

だが事實上温暖化こそが今後あらゆる災厄を文明に対し齎す元凶となることだらう。

 

では温暖化こそが悪ひと云ふことなのだらうか?

 

いや温暖化とは結局自然界の摂理であることに過ぎぬ。

さうした自然界の摂理を無視しつつ歩んで来た我我自身に全ての責はあるのだ。

 

 

ーでは、なぜ20世紀に入り技術革新が相次いだのか。その答えの一つは、 19世紀末に、人類が石油と電力という二つのエネルギー源を手に入れたから。技術革新の結果、私たちの生活の利便性を高め、より快適な生活を実現せしめた新製品が次々と登場したが、そのいずれもが電力か石油をその動力源として用いている。その意味で、 20世紀を「電力・石油の世紀」と言い換えてもよい。しかし、その裏を返せば、20 世紀は「二酸化炭素排出の世紀」だったということになる。すなわち、二酸化炭素の排出量を増やし続けることにより、私たちは「豊かさ」を手に入れてきたのだ。 ー人類生存の持続可能性より

 

其の技術革新によりまさに我我人類の生活は一変した訳だ。

謂はば其処で抽象的に豊かさを追ひ求めて行く社會へと変化した訳だ。

 

ところが實は其処で個としての欲望に大きく変化が強ひられた訳では無かった。

個はさうして相変はず生に傷つきー悩み苦しみーのたうち回りながら死んで行くのである。

 

で、其の悩み苦しむことの度合ひを實は文明の方がより深めて来て居るのだった。

 

さうして競争に明け暮れ心を鬼と化しつつ其の近代の「豊かさ」と云ふ果實を我我はガリガリと噛み砕くのみだ。

 

さうして化石燃料を消費し電灯を灯し我我は廿世紀の夜を明るく照らし出して来た。

 

さう我我は夜を放逐し特に都会の繁華街はまさに不夜城と化して行ったのだ。

 

一体何の為の不夜城なのだ?

其の酒池肉林の為の不夜城だ。

 

さても其の不夜城としての或は人工の樂園としての廿世紀とは誤りだったのか?

冷たひ言ひ方かもしれぬがわたくしは其れが誤りだったのだとさう考へて来て居る。

 

まさに其れは理性による過ちだったのだ。

理性はより注意深く文明を俯瞰視して居るべきであったがまさに其れがならなかった。

 

かうして「豊かさ」を手に入れた其の代償として我我は其の大事な視点を見失ったのだと言へる。

 

 

ー20世紀の科学技術は、経済発展・成長に寄与することを、その目的に据えていた。しかし、 21世紀の科学技術は「持続可能な開発」に寄与することをその目的に据えなければならないことは確かだ。ー人類生存の持続可能性より

 

其のあくまで洗脳のレヴェルにある一般大衆の認識は正直申して危機としての事實関係をすら正しく把握出来ずに居る訳だ。

よって彼等に危機感などサラサラ無ひのだと言へる。

 

さらに申せば其の認識の甘さの一因に一部の宗教に於ける現世利益性の追求と云ふことがあらうかと思ふ。

即ち其の宗教其のものが現世での永続性を願ひ求める余りに終末論的な世界観をまるで絵空事のやうに信じ込まさせて来て居る訳だ。

 

だがわたくしには最近其の終末論としてのハルマゲドン、末法思想、又は法滅尽に至る其の社會の崩壊の様が充分にあり得ることとして認識されるに至って来て居る。

 

左様に21世紀の科学技術はもはや「豊かさ」をまた「利便性」を追ひ求めるやうなものであってはならなひ訳だ。

さらに付け加へれば延命や人間のアンドロイド化、スーパーマン化を目指すやうなものであってはならぬのだ。

 

さうでは無く文明が廿世紀に仕出かした不始末に対する始末をつけるやうなものでなくて何とする。

我我はすでに充分に仕出かして来て仕舞った。

 

其のことが分からぬのは結局君等の感度が至極悪ひからなのだ。

 

ー21 世紀は「環境の世紀」だと言われるが、それには二つの意味がある。一つは、地球環境問題がますます深刻化するであろうこと。もう一つは、環境制約が技術革新を駆動する力となるであろうこと。ー人類生存の持続可能性より

 

コロナ禍は其の地球環境問題の序章であるに過ぎぬ。

また日本國の場合には大地震が起きる可能性が高くある。

 

其の大地震が来た時に上手く壊れすぐに建て直すことが出来る簡素な家ーまるでかの竪穴式住居のやうなものかーを造るのが利口な人がやること。

此の地震國日本に威厳のある石又はコンクリ造りの立派な家を造るのは要するにバカだけだ。

 

地球環境問題がますます深刻化すると食料の供給が滞る虞がまた大きくあらう。

従って第一次産業を重視し所謂自給自足の食料供給体制をつくって行かねばダメだ。

 

第一大地震でもって日本の主要な産業区域が壊滅的な被害を被る可能性もまた高くある。

そんな金をつくれぬ國へ一体誰が食ひ物を恵んで呉れやうか?

 

さてもおまへたちはさうしてのうのうと株で儲けたりもして居るがほんたうのほんたうに馬鹿か!

 

其れではもうほんたうのほんたうに馬鹿ばかりだぞよ。

 

ーこれからの技術革新のバネとしての「制約」と「不足」は何なのかというと、次の二つが挙げられる。一つは、不老長寿と無病息災への尽きせぬ願望である。こうした万人共通の願望を叶えるべく、生命科学に巨額の公的研究費が投入されている。過去四半世紀の医療の進歩には、誠に目覚ましいものがある。ー人類生存の持続可能性より

 

ズバリ言ふが不老長寿と無病息災を釈迦やキリストは決して願っては居なかった筈である。

 

不老長寿と無病息災とは要するに現世利益を目指す精神の流れが生み出したもので救済を旨とする本物の宗教に於ける精神の流れとは別系統でのものであらう。

だが誰しもがまた其のことを望んで居やう。

 

でもわたくしに限れば必ずしも其れを望んで居る訳では無ひ。

わたくしが望むのはむしろ此の概念的な闘争に打ち克ち其処で眞の意味での精神の自由を得其の侭に野垂れ死ぬことである。

 

不老である筈も無くまた無病である筈も無ひ此の限定された己と其の侭に心中すると云ふことである。

即ち現世利益には元より拘ってなど居なひのだが反面最近到達しつつある境地として「有の無」と云ふ概念を玩び始めたところである。

 

無ひから有るのであれば、有るから無ひと云ふことがまたあらうかとも思ひ其の考へにて一種の有体ー實体ー解脱論を組み立てて居る最中なのだ。

 

 

ー新製品が消費者に対して類例のない快適性・利便性を、もしくは生産者に費用削減の便益を提供するからである。したがって、技術の非可逆性を容認せざるを得ないからには、技術の孕むリスクを最小限に止めるための技術の改編、そして社会システムの改編が求められるのである。ー人類生存の持続可能性より

 

其の新製品が消費者に対して類例のない快適性・利便性を与へることはさうなのだとしても、たとへば藝術にせよ万年筆にせよ必ずしもさうでは無ひ訳でありむしろさうした分野は過去に対し価値が開かれて居る訳である。

確かに技術は不可逆のものとして我我に便益を提供するのやもしれぬのだがさうした意味でのむしろ過去へ遡る技術の分野に今わたくしは深く興味がある訳だ。

 

また石の場合などは古ひ、新しひも無く皆太古の昔に地球の中で出来た石である。

と云ふことは此れもまた過去に通じて居る何かである訳だ。

 

わたくしはさうしたものを通じ過去を振り返る。

 

物ばかりでは無く書物なども皆さうなのだ。

昔買った多くの本はいまだ古びずむしろこれから読むであらう本であることがまた多ひ。-此れまでは時間が無く読めなかった本-

 

即ち本もまた過去に通じて居るのである。

 

だがデジタルのものは其の記憶が分断されサッサと全てが新たに更新されて仕舞ふ訳だ。

本質的にはわたくしはさうしたものが嫌ひである。

 

わたくしは最近また筆記具の世界の方にも戻り初めて居る。

石が過去の浪漫であるのであれば万年筆の方もまた過去の浪漫である。

ーコロナ禍の直前に印度から購入したエボナイト軸にプラチナの首軸が嵌ることが分かりさうして改造万年筆となし愉しんで居るー

 

米國の万年筆屋などはほぼ壊滅状態なのだけれど其の印度の店は相変はらず世界オークションにて出品中である。

 

さうかうするうちに丸善から久々に「世界の万年筆展」の案内状が届ひて居る。

 第12回 世界の万年筆展 展示即売会 -手書きと過ごす-

 

其処に新製品として高額な万年筆ばかりが並んで居るが其の印度の万年筆の軸は確か三千円程だった。ーわたくしはかって高額な限定万年筆のコレクターであったが現在は安価な万年筆をかうして自分流に改造して使って居るー

 

さうして技術は不可逆であるにせよ他の価値は過去に遡ることが可能でつまるところは復活するのである。

 

要するにアナログの価値は再生出来る、いやむしろ最新のものとして個の範囲で出遭うことが出来る訳だ。

 

其の過去を発掘し其処に一級の価値を見出すのは會社でも國でも無く個である。

 

個にとって心地良ひものを発見して行くことはまさに其の「有の無」としての哲學の実践でもあることなのだ。

 

 

ー20世紀最後の四半世紀の始まりとともに、それまで科学技術の中枢部に居座り続けてきた科学(物理、化学)、技術(電気、機械、化学、建設、土木)に代わり、科学(情報、生命)、技術(医療、情報、環境)が一躍脚光を浴びるようになった。こうした科学技術の主役交代もまた、時代文脈の変遷、とくに成長・発展から持続可能性への価値規範の変遷を反映してのことである。ー人類生存の持続可能性より

 

確かに時代文脈の変遷と云ふことが起こり得て居るのやもしれぬ。

先にも述べたが成長・発展と云ふ其の目指す価値が「野蛮」なものである以上理性は其の過ちを認め野蛮では無い理性的な文明の秩序をつくり上げることなくして近代と云う時代の尻拭ひなど出来はしなひ訳だ。

 

野蛮→理性

元々人間の欲望は抽象的に規定され何ともならぬものである。

 

其処を何とか抑へ込むのが實は理性の働きなのだ。

だが獣の衣を身に纏った贋の理性が暴走し始めれば其れこそ如何ともし難ひこととなって仕舞ふ。

 

故にスティーブ・ジョブズ氏が述べた提言に倣って、「21世紀の技術者は人文学や社会科学と融合されたテクノロジーの持ち主を目指さなければならない」のである。

「持続可能な開発」とは、其のみんなの頭の中の洗脳を解くことのことだ

 

サステイナビリティに関して論ずるにあたり、まずは其処でもってわたくしが取る立場が特殊なものであることをまずはお伝へしてして置く必要があらう。

 

先に述べたやうにわたくしは其の社會的危機に関してもう長く學び且つ其れに関して思考を進めて来た者である。

勿論其れは人文、社会科学の領域からの追求だったのではあれ其れを長くやって来た訳だ。

 

だから其の持続可能性への様々な論点に就き様々な方法にてすでに検討済みなのである。

 

其のやうな観点から、わたくしはまず自然科学者による結論とはまるで違ふことを述べることだらう。

 

だが貴方方には其のわたくしの結論を否定する根拠などは何処にも無ひ。

 

何故ならわたくしはもう長く此の問題と向き合ひ其れに対する自らの意見を表明して来て居るからなのだ。

 

1.環境問題の解決が難しひことの最大因とは大多数の人間による其れへの無関心にこそある

2.其の無関心とは文明による洗脳によりさう引き起こされて居る

3.環境問題の犯人とはまさに科学技術によるものなのだが眞犯人の方はまた別に居る

4.結局無知や常識ーによる洗脳ーが其れを加速させて居るのだと言へやう

 

無論のことわたくしはいつも環境問題と向き合って来た訳では無ひ。-第一わたくしは環境學者でも無く自然科学者でも無く、只の自称文人だ。-

だが長年に亘り其れと向き合ふことでひとつの結論を得るに至った。

 

また其れがひとつの悲観論であることは論を俟たぬことであらう。

だが其処に全てが悲観的に結實されるものでもまた無ひのである。

 

最終的にわたくしは其れを心の問題であるとさう捉へるに至った。

 

さう人類の心の問題なのだが最終的には其れは個としての心のあり方に収斂して行くであらうものだ。

 

心のあり方なのだからほとんど其れは宗教の課題に重なって行く。

 

ところが宗教の課題では無く科学の課題だと一般の方々はさう考へがちなのだ。

 

なのでわたくしがかう述べると何だか胡散臭く思はれ信じて貰へぬ筈だ。

 

 

だが其処をあへて言はせて頂かう。

 

ズバリ其れは我我自身の心の持ち方の問題なのだと。

 

尚わたくしがかうして本音でもって環境問題を論ずるのはおそらくは此れが最後となることだらう。

 

其れと云ふのもわたくしは此れ迄ずっと人間の内なる獣と闘って来たが其の獣と闘ひ続けることの無意味さを今悟ったのだ。ー獣=邪なる欲望としての者ー

 

わたくしはかの宮澤 賢治と同じやうに闘ひ続けて行く積もりだったのだがすでに刀は折れ矢は尽き満身創痍である。

 

其の獣と闘ふのは是非宗教に御任せしたひ。

いや元々宗教が其れを担ふべきものであり修羅だなどと申しつつ其れをやること自体が不遜なことだったのだ。

 

 

君等はまたわたくしが逃げたとさう嗤ふことであらう。

 

だが君等はまさにわたくしのやうに修羅と化するまで此の問題と正しく向き合ふことが果たして此れまでに一度でもあったことだらうか?

即ちわたくしは長きに亘りさうして決して逃げなかったのだ。

 

さうしてボロボロの身になりいやヘロヘロの身と心になり其の問題其れ自体から離れやうとして居るのだ。

 

 

持続可能な開発目標 SDGs

SDGs 独創研究ユニット

 

○持続可能な開発(Sustainable Development)に就ひて


人類の進歩と調和ー大阪万博のメインテーマー


かの「爆発」する藝術家としての岡本 太郎氏は人類の進歩は調和など生み出さぬとかってさう述べた。

つまるところ、まさに其処にこそものが「分かって居る」人間と「分かって居なひ」人間との相違が存して居る訳だ。


無論のこと「分かって居なひ」人間の側こそが其の「進歩と調和」と云ふお気楽でもって且つバカバカしひテーマを掲げ其処でむしろ進歩は偉ひ、偉ひのだ!とでも言ひたげなのであった。


だが其処でもってほんたうに頭の良ひ人か又は感度が良く意識が高くある人々はまず考へる。


さうだ、其の「進歩と調和」こそがあり得ぬ話である訳だ。

文明の進歩とは元より自然の攪乱であり加工である。


元より自然はさうして攪乱され加工されることで大きく損傷を受ける。


だが全体論を理解する知性ならば其のことはむしろ最初から分かって居る。

或は宗教的に表現すれば、大自然の法則ー自然の摂理ーに反したことを其処でやる訳だから其れが壊れて来るのはむしろ当たり前のことだらう。



問題は、其の「進歩と調和」と云ふ其のお気楽でもって且つバカバカしひテーマが何故掲げられるに至ったかと云ふことである。


わたくしは其れを「洗脳」として今捉へる。


其の「洗脳」とは「全体主義」と云ふことに近ひ概念だ。


たとへば戦時中に「戦争反対!」とは誰も言へぬ訳だがー尤も弐、参人のアナーキストなどはむしろ其れを声高に叫び投獄され或は獄死したのやもしれぬー其れと全く同じことだ。



かうして心でもって感じると戦争は至極悪ひことだー個の論理ー=戦争は悪⇔御國の為に歯を食ひ縛って特攻して来ひ!ー御國の論理ー=戦争は善


さてでは戦争ー大量殺戮ーとは善悪で云ふ一体どちらでせうか?


其の答へ

個にとっては悪、でも所詮全体主義なので善としてやって来ます。-個としての立場-=悪魔化する個

御國にとっては善、だから個が「戦争反対!」を叫ぶのは悪の行ひだ。-社會全体としての立場-=悪魔化する社會


なのでいずれにせよ其れはさうして悪魔化して行くので✖の行ひです。


で、其処に「戦争」の代はりに「進歩」を入れてみて下され。


さうして實は共に全体主義なのだ。


言ってみれば其の近代化其のものが全体主義なのだ。



でも「進歩」は其処で大量殺戮を行ふ訳では無く人類の幸福の達成の為にむしろ行ふものだ。

でも進歩は最終的には自然を殺して仕舞ふ。


其れは自然と連なった神々を殺すのだと考へても良ひことだらう。


で、個にとっては悪である戦争でも社會が其れを欲するのだから其れは悪であっても善だ。

だからまずは従はねばならぬ。


其の全体主義に洗脳されることこそが個としての悪魔化なのである。



其れをわたくしは獣とさう名付けた。

即ち現代人のほとんどが其の獣なのだった。


以前わたくしは其れを「悪なる善者」と名付け「善なる悪者」と区別して居たものである。


即ち「悪なる善者」であるよりは「善なる悪者」である方がむしろ善=神佛の徳に近ひ訳だ。


たとへば修羅や堕天使は其の善をも知った👿でもある訳だ。



要するに其の「悪なる善者」の群れが全体主義を成り立たせるひとつひとつの細胞のやうなもので其の正体とは洗脳を受けた大衆の脳細胞のことである。


此処で勘違ひして頂きたくなひのは、わたくしは大衆を自分の考への無ひ馬鹿の群れで其の群れは悪魔であるとさう決め付けて居るのでは無ひのである。


わたくしもまた其の大衆の一人であると云ふ自覚があるのだしまた多くの考へられる力を持つ方々もさう従って行かざるを得なひ。



結果として我我大衆がさう支持するが故に其の全体主義の構造ー社會のあり方としてのひとつの構造ーが成立する。

さうして其処には大量殺戮や自然破壊が實際に引き起こされて行く訳だ。



我我はさうして逆に事の本質に無関心である侭に其の大量殺戮や自然破壊に大きく加担して行くのだ。


しかも自分のことをむしろ社會の為になる善人であり其れも可成に役立つ人だとさう思って居る始末である。


で、其のおバカさの集積こそが結局其の全体主義を成立させて行くのだ。

其れは



つまるところ、人間は社會的な欲望を推進力とする限り「悪なる善者」=結果的な👿であるより他は無くもしも自分が善人だとさう思ひ込んで居るのであればそんなものはむしろ洗脳であらう。

なので人間に対し性善説は成立せず成立し得るのはむしろ性悪説のみである。


尤も優秀な個は其の悪の匂ひ=偽善なる様を見抜きそれぞれに独自の精神の道を御歩きになって居ることだらう。


わたくしは其の優秀なる個に対しては全体主義を離れた者であると見做し且つ彼等を常に尊敬して居る。


但し其処では常に「最大多数の最大幸福」の原理が社會的に働き其の個の努力は其のパワーに粉砕されて行き易ひ。


つまりはまた其処でもさうして社會が邪魔をして全体主義を強ひて来る訳だ。


今月の初めに社會的なリーダーシップのことに就き少し述べたが、また其処にも其のやうな全体主義性が生じ其処に個が圧殺されて行くと言った面が否めぬ訳だ。



だとするとおまへは社會ー現体制ーに従はぬアナキストでしかも👿のやうな奴だなと皆様はさう仰りますが其れはさうでは無ひ。

わたくしは只全体主義をやり自然の破壊者になりたくは無ひばかりなのだ。


みんながさうして戦争にさうして進歩に従ふのとは違ひかうして価値観がシフトして居るので大自然の摂理の方をより重視すると云ふまさに其の事ばかりでのことなのだ。



で、「持続可能な開発」とは一体何のことでせうか?


「持続可能な開発」とは、ズバリ其のみんなの頭の中の洗脳を解くことだ。



もしや宗教もまた其の洗脳のことなのではありませぬか?


確かに宗教もまた其の洗脳を生じる可能性が常にある。


だから教祖様を崇めるやうな宗教よりもさうでは無ひ宗教の方がより望ましくある訳だ。


教祖様よりも何よりもまずは大宇宙の摂理こそが大事、たとへば釈迦の佛法で云へば法こそが大事でまさに其のことが法灯明なのだ。


其れは釈迦と云ふリーダーが必ずしも大事なのでは無ひと云ふことを指し示して居る。


だがどちらかと言へば他力救済の宗教に於ひては教祖様が崇拝されることが事實として多ひことだらう。


但し其の場合にも過ちの多ひ人間を崇拝するよりはまさに神の子であるとか、また佛ー佛は人間には非ずーであるとか神佛の方へと擦り寄って行くことの方が過ちを繰り返すことが無くなることだらう。



個人的な捉へ方としては個人崇拝をする宗教や政治体制は邪教であり全体主義であるとさう見て居る。

其の点では自力救済を目指す釈迦の佛法や禅宗に於ける脱観念性=非個人崇拝性は徹底されたものだらうとさうも見て居る。


無論のこと「持続可能な開発」とは政策上のことであり環境技術によるものであることが現實の上でのことであらう。

もしも今後科学技術が其れを成し遂げることが可能なのであれば文明の崩壊をソフト・ランディング化して行くことさへもが可能であらう。


但し其の「持続可能な開発」とは畢竟矛盾的概念なのである。


正しくは「開発の中止」でこそ其の持続可能性は達成されることであらう。


文明はまた科学技術は何かを「やる」ことで常に利益を最大化しやうとして躍起である。


だがほんたうはもっともっと単純に「やらぬ」ことでこそむしろみんなが幸せになれるのだとしたらどうする?


其の「やらぬ」ことの価値、又は役立たずの価値と云ふことを文學より學びし我はまさに其の事を文明に伝へたかった。

 

「やらぬ」ことは怠けることとは違ひ「やる」部分の位置を変へ或は価値観を変へて生きることである。

 

其の積極的な「やらぬ」ことの価値、又は役立たずの価値こそが世界を変へる契機となることを今は心より願ふばかりである。

 



其の個人崇拝をする宗教は結局身分的なヒエラルキーを生み出し全体主義ー軍國主義ーを生み出して行くのだ。

しかしながら多くの新興宗教が其の轍を踏んで仕舞って居る。


でもそんなのではあくまで邪教となるに止まることだらう。

其の逆に聖教となり得るのがまさに個人崇拝を捨て去った宗教のことなのだ。

矛盾した科学にて文明を収束させて行かねばならぬと云ふことのディレンマ

  • ある問題に対して2つの選択肢が存在し、そのどちらを選んでも何らかの不利益があり、態度を決めかねる状態。葛藤
  • 哲学や議論、修辞学の分野において前提を受け入れると2つの選択肢の導く結論がともに受け入れがたいものになることを示す論法。日本語では両刀論法[1]ともいう。ージレンマより

 

此の世は複雑だと云ふ其の複雑さとは或る厄介さのことである。

 

要するに其れはまさに矛盾であり二律背反のやうなものが常に生には用意されて居ると云ふ其のことなのだ。

謂はば論理的にはー理窟的にはーどうしやうも無くなるであらう観念に於ける段階が其処にはしかと横たはって居る。

 

だから人間は何とか其の矛盾なり二律背反の状態を克服しやうとするのだが恐ろしひことに其れを合理化しやうとすればする程に其の合理化としての罠に捕らへられて仕舞ふ。

つまるところは其れが科学の自己矛盾であり嗚呼まさに恐怖の現實として確認されることなのだ。

 

尚わたくしは科学に挑むことの可能な稀なるラヒターだからこんなことは何処を見たって書ひてありはしなひのだ。

 

何故科学を批判出来るかと云ふに我は其の反対の文學の世界を知って居るからなのだ。

要するにもう長く合理主義とは反対のものを見詰めても来た。

 

 

さても其の合理主義、合理化の怖さとは何か?

わたくしはむしろ其れが生のあり方を狭めるものであるやうな気がしてならぬ。

 

尚わたくしは科学的で明快な論理をむしろ誰よりも好む人間なのだ。

わたくしは科学的な主題に対しあれこれと思考する癖があるのだが其れは哲學的な洞察を主とするもので数式のやうな還元性により導かれる結論なのでは元より無ひ。

 

其れでも結論はかうしてわたくしなりに導かれて行くのである。

 

尚最近わたくしが考へて居たこととは科学が陥るディレンマのやうなものに就ひてである。

 

 

  • ある問題に対して2つの選択肢が存在し、そのどちらを選んでも何らかの不利益があり、態度を決めかねる状態。葛藤
  • 哲学や議論、修辞学の分野において前提を受け入れると2つの選択肢の導く結論がともに受け入れがたいものになることを示す論法。日本語では両刀論法[1]ともいう。ージレンマより

 

「科学が進むとより生きにくくなるにも関はらず文明は科学により幸せにならうとして躍起である。」

 

何故科学が進むとより人間が生きにくくなるのかと言へば、其れは要するに科学には心が無ひが故に合理化にてみんなが幸せになるとさう信じ込んで仕舞って居るからなのだ。

 

 

例1.ー原子力をやるとエネルギーが物凄く得られ其れによりみんながより幸せとなる

 

例2.ーゲノム編集をやると悪ひ病気も治せまた悪ひ出来の子なども良ひ出来の方へと変へられる

 

例3.-月や火星に宇宙基地を創りたひ。何故ならもはや地球が壊れ始めて居る。このままでは危なひ。早う宇宙へとみんなでもって逃げて行かう。

 

 

全くお話にも何にもならぬ幼稚な考へばかりで呆れて仕舞ふ。

 

 

なのだけれども、科学が言ってることこそはむしろほんたうのことなのだ。

其れもほんたうに科学が仕出かしたことの顛末を述べて御座る。

 

でも文學者達は此の狂った文明のおかしさを其の鋭ひ感度でもって見破り自決して行った可能性が高くあることだらう。ーまさに世捨ての境地にてー

 

 

要するにわたくしは何を言ひたひのか?

 

まさに其れは科学の自己矛盾性に就き論じて居るのだ。

 

 

「科学が進むとより生きにくくなるにも関はらず文明は科学により幸せにならうとして躍起である。」=かうしてほぼキチガヒでの盲信振り、つまるところはいつしかマッド・サイエンティスト状態へと陥って行くのだらう。

さて以前に笹井 芳樹氏と云ふ超秀才の科学者が自殺して居るのだが此の方は愛知県立旭丘高等学校ー超秀才高ーの出身者の方であった。

 

例のSTAP細胞の事件の折に全ての責任を被るやうな形にて死んで仕舞ったのだった。

 

当時わたくしは🏥に勤めて居て、色々と目の当たりにする職員の不祥事の数々に呆れ返り次第に人間不信に陥って行くかのやうであった。

バカ上司が小保方晴子はどうも色っぽひとか言ふのでわたくしはただ一言、こんなバカ👩に振り回されて居てはイケナヒ、とさう言ったのだったが事實其の後其の通りにバカ事件勃発となって行ったのだった。

 

 

まず皆様に知って頂きたひのが、科学は案外馬鹿である、と云った部分なのだ。

かってわたくしは電力会社の研究所に13年勤め其の科学の馬鹿さにちゃんと付き合って来ても居た。

 

さう云ふ部分はまさに内部告発でもせぬ限り分からぬ訳だ。

 

さうしていつも科学的な成果に振り回されて居てはいけなひ。

 

其れはわたくしが其処で最終的に學んだことであった。

 

でも、である。

でも現在地球を救へる可能性のある力があるのは其の科学技術によるもののみなのだ。

 

即ち還元的知性こそが文明の實質的な力を握って御座る。

 

だが文系の知性はまた其れとは違ふ領域から科学を見詰めて居る訳だ。

其の外部からの見方こそが科学にとっては其れこそ大事な視点であらう。

 

かうして科学は正しひ。

正しひのだが外側から見る限りはあくまで間違って居るのである。

 

でも宗教よりもずっと其れは確かだ。

ともしさう仰るのであれば其の認識こそがおそらく誤りだらう。

 

何故なら宗教はたとへ邪教であれ地球を破壊に至らしめるやうなことはしなひからなのだ。

逆に宗教は良しにつけ悪しきにつけ心の制御の仕方を我我に教へる。

 

 

即ち科学は心の面を欠くが故に極めて強ひ増幅力、拡張力のやうなものがある。

 

合理的理性⇔非合理的理性

 

合理的理性は謂はば+思考の塊であり進歩への強ひ力を生むものだ。

対する非合理的な理性ー人文、社会科学的な理性ーは其の種の推進力には欠けて御座る。

 

推進力には欠けるのだから近代以降は理解がしにくく人気が無ひ。

 

人気があるもの=正しひものとするのが最大多数の最大幸福なので要するに其れは功利主義が選び取る還元的思考なのだ。

 

ところが、最大多数の最大幸福と云ふ考へ方は赤信号をみんなでもって渡り易くして行くものであるに過ぎぬ。

 

 

尚、科学と🚺との相性は案外良ひ。

要するに科学技術こそが其の現實主義を進めて行くからなのだ。

 

以前からわたくしは現實主義ー現世利益的な思考ーは♀的なものだとさう考へて来て居る。

さうしていつの間にか其の現實主義こそが此の世界の価値を規定する中心原理ともなって仕舞った。

 

無論のこと其処には🚹による思考力が大きく関わって居る。

其の♂としての論理的に物事を考へる力が其の現實主義に於ける期待と結託した上で現在を成り立たせて居る訳だ。

 

現實的に役に立つ考へ⇔現實的には役立たぬ考へ

 

此の二元対立に於ひてどちらがより良ひか、又は正しかと問はれ役に立つ考への方を選ぶのが功利主義であり現實主義だと云ふことなのだ。

逆に現實的には役立たぬ考へを選ぶのが藝術や宗教であるかまた哲學の領域でもあることだらう。

 

で、結論的には他方に偏り選び取ると共に誤謬に陥り易ひと云ふことともなる。

 

たとへば科学者の中には本気で人類を宇宙生命に仕立て上げやうとする向きがまたあるのだけれど文系の妄想にていつも宇宙へ思ひを馳せて居れば實際に宇宙へ行かずとも其れだけで満足され得る筈だ。=想像力の涵養によりさうなる

 

さて其れでは其処にて果たしてどちらが馬鹿でどちらが利口なのでせうか?

 

其れは宇宙生命にならうとして居る方がむしろとんでも無ひ馬鹿科学者で只机上にて想像を愉しむ文系の役立たずの方がずっとお利口さんだと云ふことと必然的にならう。

 

 

要するに此の世の問題、即ち文明の問題、人類の課題とは須らく其の価値観のあり方ー観念としての立ち位置ーの問題なのだ。

観念に於ける制御ー抽象性に対する抑制ーが甘ひと合理主義に傾き易く逆の立場だと己の中での非合理領域が増し神秘主義的な結論へと傾き易ひ=悲観し自決へと傾き易ひ。

 

 

で、一般人は幽霊を信じて居るよりは科学を信じた方がマシだとさう思って居る筈だ。

ー但し一流大を出て居る位ではまず其の一般化は卒業出来ぬ。偏差値教育の勝者では無く考へる力の勝者こそが脱一般の精神の域へ達するものと相場が決まって居やう。ー

 

なのだがどうも残念でした。

 

可能性としては幽霊や超能力を信じて居ることの方がより安全で且つ安心である。

 

 

では何故非合理的知性は衰退して行って仕舞ったのでせうか?

 

其れは非合理的知性が結局役立たずだったからなのです。

元より其れではダメで、父ちゃんは兎に角一円でも多く稼ひで来ねばならずのみならず科学者様は夢想家の文人などよりは遥かに知的且つ高尚な知性の持ち主でもって偉ひ人ばかりだとされたばかりに。

 

でもそんな偉ひ人人がまた何でまたSTAP細胞事件のやうなバカ事件を起こしたりするのでせうか?

 

 

ちなみにかって宮澤 賢治は申しました。

其の「役立たずこそが一番偉ひ」と云ふやうなことを彼は正面切ってさう述べて居たのであります。

 

でも其れはもはや現代社會には通用せぬ価値観のことです。

 

要するに功利性ー現實性、現世利益化ーに毒され其の役立たずの眞の偉さを見失ひつつある。

 

さう申しますと何だか誰もが思ひ返したりもする筈です。

 

さう言へば中学や高校の頃に国語の授業でもってそんなことを學んだやうな気もする。

 

色んな詩人や作家が其処で変なことを言って居たやうにも思ふ。

 

 

でも結局は科学だな。

 

大事なのはかうしてちゃんと月給が貰へて👪を養って行くことだな。

 

だがおそらくは其の月給の多くの部分を今科学技術の力が成り立たせて居るのだぞ。

 

 

そんな訳の分からぬ魔道に落ちて其れでも君は其の現實主義を貫ひて行く御積もりか。

 

洗脳だ、そんなものはまさに洗脳の産物なのだ。

 

君は其の洗脳と心中する御積もりか?

 

さうして地球を破壊し尽くし宇宙へと逃げて行く御積もりなのか?

 

 

元より空想ー想像力ーと現實は違ひますが、概して自然科学は其れをごちゃ混ぜにしても居ります。

 

要するに観念領域ー抽象領域ーへと現實を引き込み突き進んで行くのである。

 

 

でも文學による空想もまた其の観念領域ー抽象領域ーへの接近其のものではなひか。

 

いへ其れは違ふのです。

 

文學は空想を現實化など決してしやあしません。

まるで一篇の詩のやうに甘美な夢として其れは終はるものなのだから。

 

一篇の詩とはさうした甘美なる夢のこと。

でも夢であるからこそ其れは救はれて居るのです。

 

 

かうして自然科学に身を委ねて居ると文明は滅ぶとさう仰りたひので?

いやさうでは無ひ。

 

先にも述べて居るが如きにもはや文明は其の科学技術にて救ふ他は無ひ。

 

だが少なくとも科学を信仰すべきでは無ひ。

 

では何故宗教は信仰しても良くまた何故科学技術を信仰してはイケナヒのか?

 

 

結局宗教は非合理領域へも分裂して行く。

即ち、

自力救済ー合理的宗教ー⇔他力救済ー非合理的宗教ー

 

とのことだ。

たとへば同じ大乗佛教でも禅宗は根本のところが観念的なのだが最終的には合理的に解脱することをこそ目指して行くのであらう。

逆に他力救済に合理性が無ひと云ふ訳でも無くよって其処には分離としての相剋し相即する関係が成立する。

 

信仰とは元来其の分裂を前提として営まれる一元的作用のことである。

ただあくまで其れは分裂されて居る。

 

だが自然科学及び科学技術は其の分裂を免れて居る。ー一元的分裂ー

抽象領域としてすでに一元化されて居るが故に純粋に目的論的ー合目的的ーなのだ。

要するに自然の有様と其はかけ離れて居るものだ。

 

確かに自然科学は自然を対象とするが其処で見詰めて居るものとはあくまで自然の部分である。

故に自然科学は自然の美しさを謳ひ詩を成立させたりすることが出来なひ。

 

たとへAIでも其れは不可能か?

 

最終的には言葉の羅列は可能だが其処には心がこもって居なひ。

 

 

科学技術を一言にて評すれば其れは如何にも一方通行であり其の癖分離度は大きひ。

 

現實⇔夢

 

其処ではまるで夢を現實化して居るかのやうだ。

 

でも宗教もまた解脱だの神の國だの何だので其れこそ夢の現實化なのではあるまひか。

 

だが宗教の目的は夢の現實化では無く此の世からの個の救済である。

 

なのでもしも現世にて夢が現實化したとすれば其の救済も何も無くなる訳だ。

 

 

そんな世界が果たして訪れるのでせうか?

 

いや、其れは無ひ。

 

無ひからこそ宗教の意義がまたある訳だ。

 

何故其れが成らなひのか?

 

結局は世界が限定されたものであるからだ。

 

対して人間の欲望ー観念的欲望ーはまさに限りが無ひ。

 

 

たとへばより高くて美味ひものが食ひたくなる。

より美女とねんごろになりたくもなる。

また幾らでも金が欲しくなる。

 

より良ひもの、高級なものにさうして惹かれ続ける。

 

其ればかりー世間的な欲ーに限らずより長生きしより繁栄を続けたくも社會は望む。

 

 

なる程、其の社會の欲望とは個の欲望とまるで相似形なのですね。

 

相似形なのだがまるで規模が違ふので社會の欲望は結局世界を破壊して止まぬこととなる。

 

なる程、すると自然科学ー科学技術ーとは人類にとりよりデカひ欲望を成就させる為の諸刃の剣なのですね。

 

まさに其の通り。

 

凄ひ進歩の裏側にはドロドロの破壊が起きて居るとさうしたことなのだ。

 

でも科学技術の内側からは其のことが見へて来なひか極めて見へにくくなる。

何故なら其れが文明の推進力其のものだからなのだ。

 

 

では其の文明の推進力を否定しまさに山にでも籠り座禅やら山行だのを繰り返しやり解脱、とまでは行かぬにせよ兎に角さうして修行しまくりでやって居れば個として救はれるとでもさう仰るのですか?

 

まあ其れもまさにマニアックな生の追求だが合理化洗脳され都会でくすぶって居るよりは其の方が合って居る人もまた居るのであらう。

 

重要なことはまさに其の文明の推進には暗黙の了解があり我我は意思表示をして居らぬにも関はらず其の破壊者の一員として生まれつき現代社會に組み込まれて仕舞って居ることだ。

 

 

其の抽象的進歩にこそ問題が存して居やう筈なので其処に具象的限定を行ふことで其の近代の呪ひのやうなもの、最初に述べたところでの文明のディレンマに対抗する術が得られやう筈なのだが結局は其れが成らぬのでむしろ抽象的により進めてみる。

 

すると様々に新しひ領域での考へ方が出て来るので最終的にはむしろ其れにて抽象的限定を行って行く他は無ひことだらう。

 

其の「破壊者の一員として生まれつき現代社會に組み込まれて仕舞って居る」個を理解するにはおそらく強靭な文系力ー気付きの力ーが必要なのでせうね。

 

 

いや其の位のことは文人レヴェルの方々なら誰しもお持ちになられて居ることかと思ふ。

 

其れに宗教家の方々などにも分かって居られることだらう。

 

問題は結局其の域へはなかなか到達し得ぬ大多数の人々が信仰を変な処へ刷り込まれて居ることにこそ存して居る。

 

だがあくまで合理化することでしか此の病んだ地球を救ふことなど出来ぬのだ。

 

だとすればみんなでもって此の侭に赤信号を渡って行く他は無ひ。

 

ヘッ、では皆でもって赤信号を渡って行く他文明の未来は築けぬと云ふ訳だ。

 

 

さうだ、まさに人間ー人類ーとは世界の必要悪であると言えるのやもしれぬ。

其れもさうして数々の煌びやかな価値を創出した挙句に持続可能性を放棄し自決して行く。

 

結局科学に為し得たこととは其の自決の道を引いたことと同時に最大限の力で其の自決を阻止すると云ふ相反する要素のことだ。

 

要するに自分等でもって地球の諸を破壊し最後に自らが破壊されぬやうに必死の思ひで文明を防衛する、と云ふやうな極端な作業に勤しみつつ科学は其の使命を終へて行くのやもしれぬ。

 

 

東京大学などがグローバル・コモンズをテーマに世界中の有識者たちと議論「持続可能な人類社会の実現へタイムリミットは10年」Tokyo Forum 2020 Online

 

尚地球が破壊されつつあると云ふ實感が一般人にはまず無く學者や其れに準ずる學びをする人々に限り其れがあることとなる。

 

一般人はさうして文明に洗脳されればされる程に眞實ー事の眞相ーへの感度は鈍くなるやうにさう飼育されて仕舞ふ。

 

だが地球の破壊への危機感を抱くことが可能な一部の読者の方々などは幸ひである。

 

其の文明の破滅を前提として現在を組み立てられて居るのだがらつまるところは其の危機感が齎す新たな認識でもってようやく人類のー文明のー価値観は正されることとならう。

 

よって次回は此の「グローバル・コモンズ」と云ふ新たな指標に対し意見を述べてみるつもりである。

藝術家とされる分からず屋の世の中に對する不屈の闘ひ

 

美しひものが好きな我は美しひものと心中するなら其れも本望だと日頃からさう思はぬでも無ひのだけれど、だが美しひものには大抵の場合毒が潜み其れも良く良く観察してみるに美しひものが其の侭に美しひのは其れは自然界に於ける美だけなのであり、対して所謂人間の感覚でもって捉へられし美と云ふものに限りむしろ汚ひか或は悲惨なところまで見詰め切った文物の方が眞に迫ると云ふか本物だと云ふか少なくともわたくしの好みのものなので大抵はそんな毒までをも含んだ藝術と云ふものがわたくしにとっての眞の藝術の場なのだ。

 

従ってわたくしにとり快ひもの、或は心地良く感ぜられるタヒプでの藝術作品は眞の意味での藝術作品なのでは無ひ。

 

たとへば美しひものに限れば世に幾らでも美しひものはあり、第一自然は美しく中でも空や海、また木立や山々の様などはもう全くに美しひものでしかも其れは元々人の手を離れて居る。

さうした部分から出て来る石や動植物達などもまた決まって美しひ。

 

其れも無垢なる美しさ、言語による形容以前での美しさに溢れて居り宗教的に表現すればまさに其れは神の被造物であり其れ以上付け加へるべき部分が何も無い完全なる美を有して居る。

 

対して人間界にもまた美は存して居るが其れは謂はば毒の無ひ美と毒のある美に二元分裂して居るのだと思ふ。

 

屡都會での美、其れも建築物に於ける美だのまた芸能に於ける美だのまた🚙だの✈だの刀剣類や萬年筆や時計だのーさうした工芸品や工業製品をも含めーが持つ形式美だの機能美だのの場合は大抵の場合は毒を抜かれた美でありむしろ見て居て心地良ひものであることが多ひ。

 

だが藝術の其れも一級の藝術作品が対象とする美はそんな心地良ひものばかりなのでは元より無ひ。

 

藝術家と一般人の感覚の違ひを決めるのはまさに其の毒のある美に対する感受性の違ひなのでもあらう。

 

藝術家は多かれ少なかれ其の毒を持って居るが其の毒が噴き出る時期などにもサヒクルがあるので彼がいつもさうした頭のおかしひ人なのでは無く藝術上希求するコンセプトの違ひなどから或る藝術家からはむしろ其の毒が垂れ流しとなるがまた或る藝術家からは心地良ひ音色や文が紡ぎ出されても来る、と云った具合に表面的な毒の噴出の上での差異が生じて来る訳だ。

 

尚わたくし自身は藝術家と云ふよりはむしろ學者ー人文科学としてのーや思想家に近ひ側面を元々多分に持って居る。

 

なのだが他方では感受性が豊かだと云ふか實質的にも神経過敏な方である。

まさに其処が藝術家的な感度の持ち主でもあると云ふことなのだらう。

 

と云ふことはつまるところ其の毒に対する感受性もまた常に高く保って居る訳だ。

 

 

先に述べたやうに藝術家にも弐タヒプがあり其れは毒まで見通すかむしろ毒を撒き散らすことを藝術の主題に据へて居るタヒプとあへて其れを封印しまた違った意味での社會的に意義のあるものを構築して行くタヒプとであらう。

毒を撒き散らす藝術家のタヒプは逆にあへて自己中心に生きて居る訳でありだからなのか生きて居るうちには周囲にまるで其の作品の価値が理解されずむしろ周りから酷評されたりもし故にまるでもって貧乏でしかも悲惨な藝術家としての人生を辿り易ひものと大抵はさう決まって居る。

 

たとへば画家のゴッホなどが其の典型例で彼は藝術としての毒をしかと把握して居たことだらうが其の作品は周囲にはまるで理解されず挙句につひに気が狂ったのか拳銃にて自決するに及んで居る。

ー部屋を掃除して居たら「ゴッホ―魂の日記 大型本 – 1990/12/1」と云ふ立派な画集の本が出て来た。其れも此れ迄ほとんど読めなかった本である。 ー

 

また此の種の悲惨な藝術家が實は多く、いや悲惨と云ふか過激な藝術家が結構居て中には懊悩の果てに自ら灯油をかぶり焼死した人なども居た程だ。

 

わたくしはさうした藝術の世界認識の激しさのやうなものに深く興味があり、と云ふことはまさに激しさを持った藝術家、謂はば酷く自我が分裂して居てやることなすことが極端な藝術家こそがむしろ好みなのだ。

 

いや極端と云ふか兎に角毒をあへて撒き散らしあへて死んで行った藝術家こそが好きなのだ。

 

 

ー其の毒とは實は薬なのだ。

其のことを世間の人々は普通知らなひ。

 

いや其のことには気付けなひ。

逆に世間的な常識の方こそが毒であらうかと云ふのに。

 

藝術とは、其れに根差した価値観とは眞の毒としての所謂常識の正体を見破ることにこそある。

眞の藝術とは其の毒の素肌に接し其れに傷付き且つ破壊されて行く自己の様を只其の侭に表現することにこそ尽きて居やう。ー

 

 

さて其の毒々しひ藝術家にも厳密には弐タヒプがある。

 

其れは其の過激さが世ー社會ーに認められたか否かと云ふことだ。

 

たとへば岡本 太郎氏などは矢張りどう見ても其の藝術乃至は思想が過激だが實際には世に認められた著名な藝術家だった訳だ。

 

だが其れとは異なり社會とは関はりを持たずにさうして埋もれた侭に死んでいった鋭ひ感度の持ち主などもまた多く居たことだらう。

 

 

藝術とは其の世の毒としての深度を測るものでもまたあるのだ。

 

美ー讃美ー⇔醜ー毒ー

 

まさに美とは世界ー事象ーへの讃美である。

藝術家の内面に於ひて其れは激しく感じ取られるものだ。

 

なのだが其の強く感ぜられるか或は希求されるべき美があるからこそまた醜ひものー毒々しひものーへの目が開ける訳だ。

 

其のやうにより深く幅広く世界ー事象ーを彼等は見詰めて居る。

いや我もまた其の一人としてさう見詰めて来ても居る。

 

だが其の激しひ内面の分裂による世界との関はりは世に認められぬ限り周囲と和解することが出来ぬ。

 

よって多くの場合和解すること無くさうして自決に及ぶか病に罹り早逝する他は無ひ。

 

さうして多くの藝術家がまさに其の道を選び其の生を終へて来たのだ。

 

結局眞の美とはさうした認識の次元に於ひてのみ垣間見へて来るもののことだ。

 

 

ー尤も我は適度に俗化されても居た。我を此処まで生かした力とは畢竟其の常識としての社會の力だ。イヤイヤながらも其の社會の従僕であったことが我をして此処まで生き永らへさせて来た。だが其のひとつの歴史としての社會の時間を得ることは本質的には藝術としての死を意味して居る。謂はば我我は死ぬることでしか此の世界を生きられぬのだ。ー

 

ー故にほんたうに生きやうとしたのはむしろ病を得て早逝し或は自決に至った藝術家ーより感度の高ひ人々ーの方だ。まさに其れは社會化することのならなかったより純粋なる魂の持ち主達の故であった。だが古より存して居た其の構図を社會のあり方が変へた。さうして藝術家は近代医學の力でもってむしろ生の方へと縛り付けられて行くこととなる。ー

 

ー宗教もまた次第次第に合理化され生の方へと縛り付けられて行くこととなった。=現世利益化されたー

 

解脱⇔無明

救済⇔迷ひ

 

だが生の方へと縛り付けられて行くことはむしろ「無明」=「迷ひ」を増大させて行くことだらう。

 

其れも無制限に「無明」=「迷ひ」を増大させて行くことなのだらう。

 

「無明」=「迷ひ」の領域が増へれば増へる分だけ我我は余計に生き延びむしろ其の毒の効力を再確認して行くことさへもが不可能となることだらう。

 

 

 

ところで、

 

藝術は美的洗練の為の一手段である。

 

と云ふやうな価値観を振り翳す人々は實際に多ひことだらう。

 

 

其の美的洗練を価値ヒエラルキー化し其処でまるで建築物に於ける美だのまた芸能に於ける美だのまた🚙だの✈だの刀剣類や萬年筆や時計だのー工芸品も含めーが持つ美の最上位の価値であるかのやうに思って居る訳だが其れは誤りであらう。

むしろさうした価値ヒエラルキーを粉砕しマイナスの要素即ち毒をも見据へた上で創造されていくものこそが眞の意味での藝術のあり方なのだらう。

 

 

即ち藝術は工芸作品とは異なり心地良ひやうなものであってはならなひ。

心地良ひやうなものをむしろ破壊する、いや其れも意図してさうするのでは無くより本質的な美の探究より生ずる二元分裂を意図的に受け止めむしろ其れに身と心を委ねることこそが其れに該当する。

 

すると己の周りの世界は軋み始め突如として不協和音を奏で出す。

 

其の苦行に耐へることこそが藝術家としての過激さに与へられし使命であり天命なのだらう。

 

さうだ、藝術家はさうして常に毒々しくあらねばならぬ。

 

其れもかのベートーヴェンのやうに深く激しく燃え尽きるべきなのだ。

 

 

さうした社會に認められた過激な藝術家と云ったタヒプがまさに存して居やう。

 

たとへば恵那の出の人で熊谷  守一などがさうだ。

また中村  正義 (日本画家)が居て彼は豊橋の出の人だ。

 

まさに共に過激な程に藝術の毒に対し純粋でまた天才と呼ぶに相応しひ画家である。

 

ちなみにわたくしはかうした天才画家や作家のことにつき前々より是非書ひてみたかった。

 

熊谷 守一は過激ではあれ所謂仙人画家なのだが中村 正義の場合はより反体制的で異端的な要素が色濃く感じられる内容を持つ。

ー以前にわたくしは某掲示板に於ひて其の熊谷 守一の画業に就き論じて居るー

 

 

反逆の天才画家 中村 正義

 

創るとは、対立すること ー異端と呼ばれた日本画家ー

 

さうして元々天才日本画家であったと云ふのに何故彼は異端の道を歩んで行ったのだらう?

元より藝術家は天才的であればある程其の二元分裂の様を激しく抱へて居る訳だ。

 

だからより高ひ認識に於ひて美を見詰めることが可能となるのだが他面ではより深く迷ひ即ちより深く苦悩し魔的なものをも見詰めて行かねばならぬものだ。

ーさうしてより罪深くありより業の深さに苛まれる訳だー

 

 

さて中村 正義の絵の方は元々知って居りましたが其の人生の経緯に就ひてはまるで知らなかったが故にネット上で調べてみて愕然と致しました。

要するに彼は反権威主義としての己の藝術を貫き其の病の身を持ってして藝術が持つ毒のさ中へと殉じて行ったのです。

 

果たして此れ以上に過激な藝術家としての生を貫ひた人が居たことでせうか?

 

いや、勿論我が國には古より物凄ひ画家の面々が居た訳です。

たとへば村山  槐多だの関根  正二だのと云ったまさに天才の名に相応しひ画家がかって居たこともまた確かなことです。ーちなみに村山 槐多もまた豊橋の出の人ですー

 

正義の生涯は病との闘いでもまたあり、其れも二十代で結核を患ひ挙句に後年癌を発症し52歳という若さで世を去って居る。

要するにまんま體が弱く感度のみが高くある藝術家なのだらう。

 

 

尚わたくしもまた最近は体調がすぐれずよって弐、参ヵ月程休養させて頂こうかとも考へて居る。

其れも春になり気温が上がればまた元気にならうから此のブログは其れ迄閉鎖し再出発してからは社會批判は止めて藝術や自然を論ずる場へとコンセプトを変更して行く予定である。ー其れこそより文化的に再構築する予定であるー

 

但し宗教のことは続けて書ひて行くつもりである。

實際には休養以上に家のことでやることが山積みなのでまずは其れを片付けてからまたゆっくりと復帰したひともさう思って居る。ーおそらくは六月以降での再開となることだらうー

 

 

其れにしてもだ、結核を患ひまた癌を患ひ其れでも猶権威に屈しなかった彼の生き様其のものが生粋の藝術家魂でなくて一体何なのだらう?

 

藝術はさうして権威でも権勢を求めるものでも無く、また工芸品や工業製品のやうに心地良く見へ社會や人生にとり快楽を与へるものなのでも無ひ。

 

煎じ詰めれば藝術とは其の生死との闘ひの様を写し取ったもののことだ。

 

だが其れは現代に於ける宗教のやうに社會化されたー権威化、現世利益化ーものでは無くまさに内面でのより限定され純化された個としての闘ひの記録である。

 

さう其の個としての闘ひは信仰のやうには普遍化され得ぬことだらう。

 

 

だがまた其れも結局は普遍化され得る。

即ち世に認められし藝術こそがさうして其の普遍性を獲得して行くのだ。

 

 

だが世に認められぬ藝術に意味が無ひ訳では無くむしろ其れは普遍化することが無ひ分より純粋であり個別の精神性に彩られても居るものなのだらう。

 

かうして苛烈に生きた画家は如何なる外部からの圧力にも屈せず己の道を進み其の藝術を全うしたのであった。

其れでも彼の藝術は周りから認められて居たのだった。

 

そんな分からず屋の世の中に對する不屈の闘ひをこそまた是非書き描ひてみたひものだ。

梅原 猛先生の文明に対する悲しみ ー思うままに 人類が存続する道はーより

 

最終的にわたくしが此処にてやりたかったのは文明に対する全的で且つ根本的な批判である。

何故文明を批判するのかと言へば、結局大元での社会システムの方が悪ければ其の体制の枠内の中で何を言ってもまた何をやっても徒労に終はって仕舞ふからなのだ。

 

まあさう云ふのは随分と青年っぽひ考へ方つまりは青臭ひ考へだなとさう思はれるのやもしれぬが其れはさうでは無ひ。

わたくしは其の青臭さもとうの昔に卒業しかっては物欲まみれ、👩まみれになって居たことさへもがありしが還暦を過ぎて逆にまた昔へと戻った。

 

結局悪ひのは其の誤魔化し、現世利益と云ふ甘露に群がるまさに蝿の如き「大人の群れ」である。

さうしてとどのつまりは生活すると云ふ其の根本での部分が其の誤魔化しの世界に直結されて居るものだから其れにはまさか文句は言へやしなひ。

 

あへて其処で文句を言へば会社は首になるは、おまけに共同体より村八分にされるはで其れではまるで生きた心地がしなひことだらう。

 

 

嗚呼其の同調圧力の物凄ひことよ。

 

なので其れはむしろ引退してから言ふべきことなのである。

 

さう思想的に過激な壱老人としてかうして吠へて居れば良ひことなのだ。

 

さう云ふのを文學的に表現すれば老年修羅と云ふことにならうかと思ふ。

 

かの宮澤 賢治は自らの立場を「修羅」だと捉へて居た訳だが其の修羅とは今の幸せに満足する者のことでは無くほんたうの幸ひを追ひ求めて行く者のことを言ふ。

 

 

だが修羅とは所詮馬鹿のことだ。

晩年賢治は自らの生涯を振り返りまるで後悔したかのやうな言葉を並べて居る。

 

馬鹿はさうして社會と闘ひ其れでもって傷付き深手を負ひ倒れる他は無ひのだ。

賢治もまたほんたうの幸ひの為に闘ひ元々弱ひ體を酷使したが故に不治の病を得て若死にをした。

 

尤も賢治は熱心な法華経の信徒であったが故に其の宗教の立場が社會と闘ふものでは無ひこと位は分かっても居た訳だ。

宗教は主に内面と闘ひ其のあり方を正して行く手段のこと故實は社會を批判したり其れと闘ふものでは無ひのである。-本質的には-

 

されどキリスト教や大乗佛教のやうな他力救済を旨とする宗教ー禅宗を除くーに於ひては其れは必ずしもしもさうでは無ひことであらう。

 

大乗佛教は結構現代社会のあり方を批判したりもするのだしキリスト教の場合には余計に科学的なものや進歩主義への批判をなして居ることだらう。

 

だが佛教での根本での目的とは所謂自らの無明による相対分離世界への執着の抹消にこそあらう訳で故に世直しをするだの何だのとはまるで関係無く自らの心のあり方を正すことにこそある。

 

だからまさに其れを目指すのが聖者なのだ。

逆に修羅は聖者などでは無ひ。

 

 

修羅⇔菩薩

 

しかしながら、修羅の他面にはまた菩薩も含まれて居ることかとさう存ずる。

尚批判が少しでも入ると必ずや修羅化するのだとわたくしはさう考へて居る。

 

 

で、修羅でも無く菩薩でも無ひ現代の一般大衆とはタダの獣のことだらう。

其の獣は修羅ーキリスト教で云ふ👿ーよりもよりタチが悪ひと来てる。

 

 

さてわたくしは此のところ我が家の合理化に着手し始めた。

まさに此れは大仕事でおそらくは弐、参ヵ月の期間を要することであらう。

 

其れでまず手始めに自分の部屋を掃除して居たところ重要な壱枚のコピーが出て来た。

 

自分の部屋を掃除すると言っても完全にやらうとするとまさに大仕事である。

たとへば重ひ本がぎっしりと詰まった書棚ー本棚にして居るが實は只の家具ーの本をどけると其処には大量の埃とゴミが溜まっておる。

 

要するにそんな本の裏側までは廿年位は掃除して居なひものだから兎に角酷ひ状態にある。

其れを取り除くだけで何やらせひせひするものでまさにこんな風に欲望の方も掃き清めて置きたひものだと其の時にさう思った。

 

 

其のコピーとは地元の中日新聞のコピーであり2016年11月28日付けでの梅原 猛先生が書かれた記事である。

 

「思うままに ニヒリズムの時代」ー人類が存続する道はー 梅原 猛

 

かってわたくしは梅原 猛先生との縁が深くー其れもあくまで思想的にー一時期さうして「思うままに」の連載記事をほとんどコピーして居たのだった。

さうは言へ手が回らずコピー出来なかった部分もあり、其処は区の図書館へ出向き其処を閲覧して来て居る。

 

梅原 猛先生の思想は梅原日本學などとも言はれて居り一見右の思想にも見へまた實際に日本の文化文物をも含めた東洋文明を高く評価して居られるが故に亜細亜主義的なものでもあるのだらう。

だが西欧近代思想を手厳しく批判されて居る点から鑑みた場合には必ずしも右だとは決め付けられぬ。

 

 

どだひ梅原 猛先生の思想は所謂京都學派の流れを汲むものなのだらう。#京都学派(京大人文研)

梅原 猛先生も京都大學で学ばれかの大哲學者西田幾多郎の影響を多かれ少なかれ受けて居られたのだ。

 

で、梅原 猛先生の思想、其れも哲學の方に関しては相当にブッ飛んで居り西欧の近代哲學に対して可成に批判的で且つ挑戦的だ。

梅原先生はアノ三島 由紀夫先生とは同ひ年だったのださうだが三島 由紀夫先生が過激な思想の持ち主であったのと同じくして梅原 猛先生の哲學も結構過激なのだった。

 

勿論わたくしは其処からも影響を受けて居るのだけれど、わたくしが西欧近代と云ふ時代又は文明を批判するやうになったのはむしろかって塾でもって社会科を教へて居たと云ふ経緯の方がより大きく影響して居りむしろ其れは哲學以前での近代社会のあり方其のものに素朴に疑問を抱ひたからなのであった。

 

見方にもよるが梅原 猛先生の哲學は西欧近代をほとんど全否定して居り其処は物凄く東洋びいきであり日本びいきでもまたある訳だ。

だから右の思想の立場の方々には喜ばれ易ひ哲學者なのだ。

 

たとへばかってわたくしは元警察官の其れも幹部だった方と梅原 猛先生の哲學に就ひて論議したことがあった。

此の方は一流高校卒で兎に角見識の高ひまさに尊敬出来る理性をお持ちの方だった。

 

 

其のN氏が梅原 猛先生の思想は好きで「思うままに」を毎回欠かさず読んで居るとさう仰るのでわたくしは梅原 猛先生の思想の核心部は西欧起源の哲學其のものへの批判にあるとさう長々と講釈を始めるのであった。

尚、わたくしに此の種の講釈をやらせたら弐時間だらうが参時間だらうが實際何処までもやっていくことであらう。

 

先生の思想は宗教との相性では佛教との相性が良くまた実践倫理宏正会などとも相性は悪くは無ひことだらう。

 

個人的に梅原 猛先生の思想から學んだこととはまさに其の西欧起源の哲學其のものへの批判の部分である。

だが西欧起源の哲學を全否定されて居るのでは無くあくまで西欧近代と云ふ文明のシステム其れ自体をほとんど全否定して居られたのではなかったか。

 

 

哲学たいけん村「無我苑」

碧南市哲学たいけん村無我苑

 

此処に名誉村長:梅原猛とあるやうに梅原先生は此処の村長を長年に亘り務められ毎年のやうに哲學としての講演会を開かれて居たものだった。

わたくしは其の講演会に弐度程訪れて居る。

 

またわたくしは無我苑の会員である。-年会費を払ひさうして会員になって居る-

 

元よりわたくしが出来ることとは生活することでは無く思考することなのだ。

其の思考することが得意であるばかりにむしろ此れ迄随分と悩んで来ても居る訳だ。

 

何故なら一般社會はむしろ其の思考を嫌ふことの方が多ひやうに見受けられてならなひからだ。

一般社會ではあへて思考せず酒でも飲んでどんちゃん騒ぎをやり👩の尻を追ひかけることこそが正常なのでソコがまさにわたくしの性分にはまるで合はぬ訳だ。

 

 

拾年程前のことだったがわたくしは其の梅原 猛先生の講演会へと意気揚々として出向ひてみた。

講演の内容は主に西洋近代哲學への手厳しひ批判であった。

 

だが細かくは其の内容を覚へて居なひ。

良く覚へて居るのはわたくしの前の席に何処ぞの御坊様が居られ其の坊主頭が常にわたくしの目の前にあり其れが妙に印象的なことだった。

 

最後に行った講演の折に覚へて居るのは講演が終はり移動されやうとした梅原先生の足がもつれて危うく転ばれるところだったが脇に居た人が咄嗟に體を受け止め事無きを得たこと位である。

まさに其処がたとへ哲學者であっても年齢には勝てなひと云った部分なのだらう。

 

ちなみにわたくしのものを考へる為の感度は近年また研ぎ澄まされて来て居る。

即ち観念の感度に限り實は老化することが無ひのだ。

 

観念は年を取っても衰へるどころか益々活性化して来る。

つまるところどうも不老不死であるのは観念の力だけなのではなからうか。

 

だから人間は観念の力をこそ是非磨き込んで行くべきなのだ。

 

さすればたとへ肉体は滅びても其の観念の力だけは何処かに残らなひでもなひことだらう。

 

わたくしはかうして此れ迄に随分と観念力を鍛へて来た。

 

だから哲學だの宗教だのと云った分野に対し元々強ひ訳なのだ。

 

 

で、此処からがようやく其の「思うままに ニヒリズムの時代」梅原 猛の内容に対する感想である。

 

まず梅原先生はポピュリズムニヒリズムに繋がるとしてトランプ政権の発足当時のことを捉へ述べて居られる。

 

但しわたくしはむしろトランプ政権を支持して居たのだし同時にトランプ政権はポピュリズムによるものでは無かったとさう捉へて居る。

トランプ政権は反グローバリズムとしての保守としての自衛の流れが成立させたもので要するに其れは至極当たり前のことだったのだ。

 

どだひ日本人であれ、経済や労働がもしも完全に自由化され其の結果として外国人労働者ばかりが街に溢れ日本人の多くの父ちゃんが職を失ったりじぶんの娘が訳の分からぬ外人とケッコンしたりしたら果たしてアンタは我慢が出来ますか?

 

其れは何処の國の人でも我慢がならぬことなのです。

なのでトランプ政権が必然的に組み上がり自由主義と国際協調への限定をまさに行ったのです。

 

其れでもってどちらかと言へば保護主義鎖国的な政策を断行したのだった。

 

 

尚其の「自由」だの「平等」だのと云ふ概念はあくまで理想論でありズバリ申しまして限定された地球と云ふ資源環境の中では元々實現が無理なことなのです。

でもあへて其れを押し通せばまるで此の戦後世界のやうにあちこちに矛盾が生じ其の中でも一番の矛盾点とはまさに自然の大破壊でせう。

 

つまりは右の政党であるかまた左の政党であるかに関はらず「限定」して置く政策の流れこそが「ぜんたひの幸ひ」を見詰めた政治のあり方なのであり其れぞおおまさに正しく選択された文明のあり方なのだ。

 

であるからこそグローバルに一億総活躍するなどと云ふ考へは時代錯誤もエエところで、其の遥か以前に西欧近代思想による経済成長と進歩を旨とする其の思想其れ自体にこそ大矛盾ー破壊の根ーが存して居るのです。

其れが何故貴方方には分からぬのだらうか?

 

 

其の立場から致しますればグローバルな近代的価値の展開はまさに思想的に✖なのであり、また世間で喧伝されて居る如くに兎に角女性が頑張って管理職をやるなんて云ふのもまるで✖でせう。

 

なので🚺は良妻賢母をやっていることこそがおそらくは一番幸せな筈です。

 

ですが、近代社会は此れ迄男性をこき使って来たので次第次第に🚹が弱体化して来て居ります。

 

さうか、では此の際余計にへこたれてみませう。

かの太宰の如くに全部ヘコタレ仕事を🚺に丸投げし全ての🚹は寝て食って哲學でもして行くのが宜しからう。

 

 

ポピュリズムはたとへばタレント議員か若しくはタレント的な議員の活躍などでむしろ日本で起きつつある現象なのだらう。

 

また梅原先生は今ニヒリズムの時代が到来して居ると其のポピュリズムを通じて論じて居られる。

ニーチェは現代に於ける理想の崩壊を的確に予言しつまるところ其れは現代社會に於ける理念的低次元化、考へる力の喪失による大衆の意思決定の幼稚化、原始的退行化の有様、要するに非観念化、非精神化の流れ其のものだったことでせう。

 

ニーチェはそんな精神的退廃の様がデカダンスー道徳的価値の喪失ーとして表れて来るともまた述べて居る。

道徳的価値が喪失することはキリスト教的道徳の死、つまりは神の死でもまたある訳です。

 

梅原先生はそんなニヒリズムの時代の到来を縄文文化の滅亡に結び付けて論じて居られます。

されどわたくしは必ずしもさうは思はずニヒリズムは科学技術が必然として齎すものだとさう結論付けても居る。

 

 

其のニーチェの予見の次にカントの批判哲學に就ひても先生はまた論じて居られる。

 

まずはカントの論じた実践理性ー定言命法ーがあくまで理想論としてしか機能しなかったことに就き述べられて居る。

「全ての人格の中にある人間性を常に同時に目的として扱い、決して単に手段として扱わないように行為せよ。」

 

即ち人間性を手段化して仕舞ったが故に戦争は引き起こされ其処で大量殺害が連続して行はれても来たのだった。

 

さらにカントは人類にとっての永遠の平和を他の誰よりも望み続けて居た。

 

だが現實は厳しく、其の好戦的な人類に対し聊か失望した彼は「永遠平和は人類の巨大な墓地の上にのみ築かれることとなろう」と結局はさう述べたのだった。

 

さらに皮肉な言い方をすれば、

人類の墓地、其の文明の墓標の上に築かれるであらう永遠の静寂にこそ幸あれ、だ。

 

 

梅原先生は然しまさに此のやうな時代の流れを深く悲しんで居るとさう書かれても居る。

デカダンスを克服し何とか人類を生き永らへさせることが出来るやうな哲學を創造し生を終へたひとさう締め括られて居る。

 

其の哲學の創造はどうやら間に合はなかったやうだ。

 

つまるところ此の記事こそがまさに人類が存続する道を問うて行くものだった訳だ。

 

文明にとっての持続可能な道、まさに其の道を見出すこと程人類にとり難しひ事業は無ひ。

 

さうなのだ、事業とはまた会社とは只単に儲ける為にあるべきものでは無ひ。

 

でもそんなことは哲學する人にはおそらく誰でも分かって居る筈だ。

 

だが自分の頭で考へぬ輩には永遠に其れが分からなひことだらう。

 

 

個人的には迫り来る破滅の危機に対し文明をソフトランディングさせることは可能だとは思ふのであるが其れも此の侭の意識では変はりやうが無ひ筈だとまたさうも思ふ。

さう重要なことは意識の変革である。

 

其れも社會的な意識の変革がまずは必要なのだが結局社會は個が変はらねば変はりやうが無ひ。

個が変はることとは今持って居る意識をより高めると云ふことなのだと思ふ。

 

意識を高めると云ふことは、より成功を望みより多くを欲することでは無ひ。

 

さうして見識が高みに登れば登る程にむしろ万事に抑へが効ひて来るのである。

其の抑へこそがカントがかって論じた実践理性のことであらう。

 

またわたくしが常に述べて居るところでの理性による「限定」と云ふことなのだ。