目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

生命の秘密としての対義性ー生命の本質に居座る弐元的構造ー

 

ー遺伝子は親から子に受け継がれ、生物の形質(性質)を決定するものだが、遺伝子はDNA上にある

イメージとしては、DNA上にちらほらと点在している

 

遺伝子の正体(本体)がDNAと言われるのもこれが理由である。

全ての生物はこの遺伝子を元に、タンパク質を作る

そしてこのタンパク質が酵素を作り、生物の細胞を作り、具体的な体を作っていく。ー二重らせん構造より

 

分析的では無ひ理性に此のDNAの存在は知られませんが、細胞の合理的分析により今はかうしてDNAが存在することが分かって居ます。

即ち知性が合理化するとまた新たな領域が見へても来る。

 

けだし其の新たな領域には懐疑的なのがわたくしの思考の基本スタンスです。

要するにさうして現象の詳細が見へれば見へる程にさうした分離度の高ひ現象を選択して生きて行くと云った捉へ方です。

 

逆にDNAが見へぬ方が素朴な認識でもってより安全で好ましひと云ふやうなまさに一種後ろ向きでの考へが無ひでもありません。

何故DNAが見へぬ方がよりベターだと考へるかと言へば分離度の高ひ現象を選択して生きて行く時に限りリスクが増大すると云ふ宇宙の摂理みたひなものにすでに気付かされて居るからです。

 

わたくしの認識論又は社会システム論はあくまで限定的に規定されるバランス論ですので、分離度の高ひ現象を選択して生きて行けばー其のやうな認識に至ればーリスクが高く存するより大規模な発展が可能だがあへて其れをせず一種の抑へた認識をして置けば発展はしなひ代はりにより安心で安全だと云ふものです。

 

尚わたくしは当たり前のことを言って居る訳で實のところ現代社会があへて其れとは逆方向の認識を選んで来たが故にリスクコントロールが立ち行かなくなって来て居るばかりでのことでせう。

 

 

但し今更さうして自然科学を全否定しても意味は無ひとさうもまた思ふ。

 

また個人的には自然科学がむしろ好きで特に古生物學の本などは三十代の頃に良く読んで居ました。

 

また宇宙論には大きく興味があり廿代の頃は主にそんな本を良く読んで居ました。

ー其れもとりあへず数式は抜きで其れを考へる訳ですー

 

重要なのはわたくしの観念的立場は自然科学至上主義などではまるで無ひと云ふことです。

ですが何せ自然が大好きですので自然科学による宇宙の理解、世界の把握の方も大ひに参考にして来たと云ふところでせうか。

 

どだひ遺伝子のことが分からずとも歴史は形作られて来て居るのだし其れが分かったからと言って其のことにより人間が本質的に幸せになれる訳では無ひ。

 

其れに遺伝子のことが分からずとも藝術の分野、また宗教の分野は人間にとっての其の本質的探究を異なる領域で続けて来て居た訳でせう。

 

だからどちらが上だと云ふことでは無くむしろ両方が無ければ其の目指すところでの幸福とやらが見へては来ぬのではなからうか。

 

分析的理性⇔非分析的理性

でもってして、おそらくは互ひに密接に関連し合って居る筈なのだ。

 

 

ですが「進歩」と云ふ概念に対しては科学技術との相性が良く其れにより功利的、効率的に社會を組み上げることが可能なので特に戦後はさうした分析的理性を基とする文明が組み上がって来たのだと思ふ。

 

だがわたくしの認識論では其の分析的理性の分離度が常に高ひ訳です。

より具体的に申せば天動説と地動説とでは天動説の方が分離度が低くより安全である訳です。

 

また相対論とニュートン力学とではのニュートン力学の方が分離度が低くより安全でもある訳です。

 

勿論そんなことを言ふ奴は現代の自然科学者の中には一人も居なひことでせう。

でもわたくしは所詮自然科学者では無ひのでさう云ふことを述べる自由などもまたあることかと思はれる。

 

但し何度も述べて居りますやうにわたくしは分析的理性の力を否定して居る訳では無くむしろ其れに接するのが好きな方なのです。

 

けれども實感として自然科学の還元処理には遊びと云ふか隙と云ふかそんなものには欠けて居るのではなひかとさうも思ひます。

 

丁度藝術方面に強ひ人が数式的には割り切れやうが無ひことと同じくしてまた宗教への信仰が数式などでは表しやうが無ひことと同じくして其れ等がまるで違ふものであることもまた確かなことなのでせう。

 

正直わたくしは現代の文明をリスク管理の面に於ひて追ひ込んで居るのは科学技術だとさう考へて居ります。

 

科学技術がもしも無くなれば或は地球はまた人類は助かるのやもしれませぬ。

 

 

自然科学を全否定はしなひとさっき言ったばかりではなひか?

さうでした、どうもすみませんでした。

 

自然科学並びに科学技術は否定されるべきものでは無くされど是非ほどほどに探究されるべきものであり其れ等に全的に頼ってはならぬと云ふのがわたくし個人の分析的理性に対する見方です。

 

逆に言へば宗教や藝術に全的に嵌るべきでは無ひのやもしれぬが實際にはさうしたアナログ的な行き方の方が遥かにリスクは小さくならう筈だ。

ー人文系のものが齎すリスクは自然科学による環境破壊によるリスクよりも常に小さくなりますー

 

 

ー塩基にはいくつかの種類があり、DNAには4種類の塩基が含まれる。

それはアデニン、チミン、グアニン、シトシンの4つで、それぞれの頭文字をとってA、T、G、Cと省略して呼び、この塩基の並びを塩基配列という。

DNAでは、この4種の塩基がバラバラに並んでいるのである。

 

1本の鎖状となったヌクレオチドは、塩基部分で別のヌクレオチドの鎖とまた結合し、対になる

そしてこの結合の仕方には法則があり、AはT、GはCと必ず結合する

ちなみに結合するときには、お互いの向きは逆方向になっている。

 

この塩基同士で対になったものを塩基対と言い、1塩基対、2塩基対・・・と数える。

だから例えば上図の塩基対数は4つである。

 

さらに最後に、この対になって結合したものがねじれてらせん状になり、私たちにおなじみの二重らせん構造のDNAの形になる。ー二重らせん構造より

 

 

重要なことは此の生命現象を司るDNAには塩基対と云ふ形での対義的に形成される相関関係があることです。

おまけに逆方向になって結合するのだとも此処に書かれて居る。

 

其の対義性と云ふことがどうも鍵を握って居るやうにも思はれる。

文系的に言へばまさに其れは二元的結合なのでせう。

いや二元的結合であると同時に二元的分離なのです。

 

まさに其処の処を分子生物学者である福岡 伸一先生が「生物と無生物のあいだ」と云ふ著書の中で述べられて居ます。

 

其れもDNAの構造を解き明かしたワトソン本人が「其れはちょっと考へてみれば誰でも分かることであり、何故なら自然界で重要なものは皆対になって居るのだから。」と云ふやうなことを述べたのだそうな。

 

わたくしは生命工学だのゲノム編集だのさうした訳の分からぬ生命への人為的改変に対しては日頃から拒否感を強く抱ひても居ります。

従って其れ等にはまるで興味が無ひのですが此の対義性ー対構造ーと云ふことには大きく心を揺さぶられる訳だ。

 

で、其の対義的に形成されたDNA鎖がさらにペアリングされ螺旋構造を取って居る訳だ。

此の螺旋構造と云ふのはまさに神社へ行くと注連縄がある訳だが全く其れと同じである。

ー一説には蛇の交尾の様だとも言はれて居るー

 

かうしてDNAは互ひに他を写した対構造をなして居るのだ。

 

確かに生命はかうして対義的に生まれ出て来るものなのだらう。

 

尚わたくしは其れをより分離度が高ひものとして直観して居る訳だ。

 

さう石だの川だの土だのと云った無機的なものに対しより分離度が高ひと見る。

 

なので無機的分離と有機的分離の対概念であるか又は非生命と生命の違ひとはわたくしにとっては畢竟其の分離度の違ひなのだ。

 

 

だが生物學の場合にはDNAにより「自己複製」し得る生命現象は常に無機的存在つまりは生きて居なひものに対し優位性を保つやうに考へて居られがちである。

つまりは生命現象は偉ひとさう捉へられて居ることだらう。

 

でもわたくしの考へでは、其れはより分離されて居るので要するにより「物自体」から分裂が酷ひ訳なのでむしろ下等である。

 

などとも實は考へて居りいや下等上等の価値では無くむしろより「厄介なもの」と云ふ認識が以前から成立してもおる。

 

なのでより成佛しにくひものかと言へば其れはさうなのでは無く何故なら石だの川の水だのは元々成佛する必要などは無くなんとなればまさに其こそが神の被造物であるのだから。

 

成佛するか又は神に救はれるかせねばならぬのは罪深き人間共ばかりなのだ。

 

其の厄介な人間だが其の人間に限りかうして生命の秘密を解き明かすところまで来ても居やう。

 

 

だが其の生命とは果たしてほんたうの生命なのだらうか?

 

ほんたうの生命とは数的記号的還元など出来ぬ厄介な、即ち何でも食ひ且つ食はれてばかり居る獣共の如き奴等なのではなひかひな。

 

ほんたうの生命とはほんたうはそんな情けなひものだがでも同時に其れは美しくもあらう。

 

其の美しさはな、謂はばかけがへの無ひ命の美しさなのだ。

 

 

かけがへの無ひ命とは嗚呼まさに實存的に其処に展開されて居るであらう唯一としての命のことだ。

また其れは人間の命には限らぬことなのだ。

 

かうして宇宙の中で限定的に生きるあらゆる命が其の美しさを身に纏って居る。

 

人間の社會はでもそんな命の煌めきのやうなものに対し余りにも無頓着だ。

 

まさに其の不感症を功利的、打算的に構築された利潤や進歩を追求する人間の社會システムこそが生み出して御座る

 

尚わたくしは命は再現出来ぬものとさう考へる。

 

何故か?

 

何故なら自然界の生命は自然界にあってこそ其の命の輝きを放つからだ。

 

よって人為的に自然界其れ自体を生み出せぬ限り人為的につくられた命は結局其の命の輝きを得ることなどは出来ぬことだらう。

 

 

DNAの構造を解き明かした人類は今其れを基に様々に人体への応用の道を模索し始めた。

生物工学は今後様々な生命を生み出し要するに自然の枠には縛られぬ領域で地球上には存在しなかった新たな生命が生み出されて行くのやもしれぬ。

 

ー最近わたくしは其の事をも許容し始めて居る。其れも無理なこと、罪なことをやらぬ限りはあくまでさうだ。-

 

 

最終的には2050年以降夏の高温に耐へられる人間へと我我は改変させられていくのやもしれぬ。

 

いや、2050年に我はもう死んでるのでお若ひ々がさうなって行くのだろう。

なのでかうした科学技術でもって命が助かるものならばまた其れも良しとしなければならぬのだらう。

文明の「破滅」を描く『2030 未来への分岐点』より

2030 未来への分岐点 (1)「暴走する温暖化 “脱炭素”への挑戦」

2030 未来への分岐点 (2)「飽食の悪夢〜水・食料クライシス〜」

 

まずは此れ等の番組こそが事の眞相、人類の未来に於ける眞實の姿を描くものであることをこそ述べておきたひ。

此の番組から現在の文明のシステムが如何に脆弱で矛盾に充ちたものであるかと云ふことが一目瞭然に分かることだらう。

 

流石は見識を有するNHKだ。

ほんたうのことを言はねばならぬ時に言ふのは勇気も居るのだし何せ世間からの風当たりが強くなりむしろ自分がやられて仕舞ふ可能性すらもがある。

 

わたくしもまたこんなに潔癖に社會を捉へずに何処かでもって👩の尻でも撫でて居れば或はもっと樂しく充實した人生が送れたのやもしれぬ。

だがわたくしは社会科詩人としての使命を全うする為にかうして飽きもせず何度も何度も此の文明は危なひとさう述べ続けて来たのだった。

 

そんなことをやったのは何でかと申しますとわたくしは中学三年の折に京大出の社会科の担任の指導を受けつつ一つの論文ー實はタダの研究発表なのだがーを書ひて居たのだ。

其れは世界の食糧問題と人口問題を同時に扱ったものであった。

 

研究発表は其の担任から特Aの評価が与へられた。

 

まさに其の拾年後にわたくしが塾で社会科を教へたのはむしろさうした必然としての運命の糸に導かれたものだったらう。

 

従ってわたくしは其の詩人であること云々ー感度の良さがあることーは別として兎に角社會の動きー文明のあり方ーに昔から極めて敏感であった訳だ。

 

だからさう云ふ人がワオワオと吠へるとみんなはむしろキョトンとして一体何を言ってるのだ、此の🐺オヤジめが!

いやコヒツは狂ってるよ、きっと頭が悪ひのに勉強ばかりして来たせひで頭が狂ったのだ。

アア可哀想だねえ。

 

 

ばか。

おまへの方がむしろ狂ってるじゃなひか。

そんなおまへらの信じて居るやうな希望だの夢だの未来都市だの何だの、そんなものは全てが幻想でもって其れ以前にまずもって洗脳其のもののことだらう。

 

と申しますとみんなはむしろ其処に多かれ少なかれ反発を感じますのでせう?

でもまさにソコこそが洗脳された価値観に毒されて居る証拠なのです。

 

さて所謂見識の高ひ読者の方々などはすでに此の番組を視られて居ることかと思ふ。

まだ視られて居なひのであれば是非視て置ひて頂きたひ。

 

何故なら今世間で問題とされて居るコロナ感染だのオリムピックの諸問題などよりもずっとこちらの問題の方が重要なものだからなのだ。

左様に世間ー社會ーと云ふものは概ね其の気付きの感度が悪く問題の捉へ方其れ自体に見当違ひな部分を抱へて居るものなのだから。

 

 

NHKは此の種のカタストロフを扱った番組を此れ迄にも多く制作して来て居るが個人的には此の「2030 未来への分岐点」と云ふ番組が此れ迄では一番眞に迫りしかも怖ひ内容の番組だった。

 

で、凄ひと思ふのは此れを全國放送で流して仕舞って居る点にこそあらう。

だから此の番組を視て日頃持って居る自分の文明に対する意識と此の番組で描写される未来ー2050年のーの文明のあり方との乖離に驚き本気で恐怖して仕舞ふ方々などが或は居たのやもしれぬ。

 

さうなのだ、其の大衆の意識の持ち方と眞實との間に深ひ溝が横たはって居ることこそがまずは問題なのだ。

 

其れでも此処を好んで視られて来たやうな意識の高ひ方々ならばまた其れとは違ふ次元に生きて居られる筈だ。

 

でもわたくしが是非治したひと思って居るのは其の大衆の方の意識の持ち方なのだ。

 

わたくしは正直其れが近代的洗脳の産物だとさう考へるに至った。

 

其の洗脳が存するのでまずは社會のあり方を変へやうが無ひ訳なのでもまたある。

 

でもわたくしは別にかのニーチェの如くに是非超人にならう!などと申して居る訳では無く只ありの侭に事實を認めること即ち近代的破壊が存することをしかと見詰めて行かうとさう述べて居るに過ぎぬのだ。

 

 

なのでわたくしは其の正しひNHKと共に何処までも此の眞實をこそ追求して行くのだ!

 

 

1.近代的洗脳

2.社會の無能

3.欲望の危険性

 

1.まずは自分にとっての近代的洗脳を解く必要がある。但し近代的洗脳は容易には解けぬ。近代を推進する側の政治家や學者連中であれば余計に其の洗脳を解くことなどは難しひ。わたくしにとっても其の洗脳はタダの學問好きな元塾の社会科の先生と云ふ立場に於ひて解くことなどは出来やしなひ。只壱詩人の立場でのみ観念的にぶっ飛び其れを否定することが可能となるのだ。

 

2.近代的社會は近代的課題に関しては概して無能であると考へて置ひた方が良ひ。構造的に入り組んだ近代的価値観が其処には堅固に組み上がって居るが故他の価値ヒエラルキーーたとへば脱近代としての価値観ーを其処に組み込むこと自体が極めて難しくなる。

 

3.欲望は無ひと逆に生きて行けぬ訳だがイザ其れがデカくなると破滅を齎すものだとさう考へて置く方が良ひ。近代的な破壊の特徴は其の規模が大きくなることである。たとへば鉄砲位では地球はまさか破壊出来ぬ訳だが核兵器を拾発位爆発させれば矢張りと云ふべきか地球は破壊され尽くして仕舞ふことだらう。温暖化や感染症などもまた同様に世界規模にて進行する問題だ。まさに其の問題がデカくなること自体が文明のあり方として望ましくは無ひものなのだ。

 

で、イザデカひ欲望が暴発すれば地球はさうして破壊されて行かざるを得ぬ。

 

もしも地球が破壊されるのであれば、其れこそ若人にとっての結婚も家の新築も入試も就職も何も無ひことだらう。

だから其れは一体ドッチがより大事な問題なのだ?

 

かうしたことを述べると大抵の場合子宮思考的な価値の側ー一種のバイアス思考のやうなものーから激しく非難されたりもする。

だがそんな現實主義ばかりでは事實として迫り来るカタストロフィにはまるで対処など出来ぬものだ。

 

 

尚相変らず悲観的なことをかうして述べて居りますが2.に関してはまるで希望が持てぬ訳でも無ひ。

 

但し先にも述べたやうに近代性が齎すカタストロフは広範囲に大きく来る、つまるところはドドーンと来る。

 

なので其のカタストロフ其れ自体を免れることは極めて難しひとさう考へて置くべきだらう。

 

だが此れもまた先に述べたやうに其のカタストロフまでの時間を稼ぐか其れともカタストロフへの着地をより緩やかにして行くことなどはおそらく可能であらう。

 

なのでまさに今我我は其処をこそ論じ且つ打開策を實行して行かねばならぬ訳だ。

 

 

また其れは、

 

今更オリムピックをやって居る場合などでは無く、

🚺の地位向上ばかりを目指すものでも無く、

また自民党を支持して居る場合なのでも無く、

誰ぞのやうに石を採って喜んで居る場合なのでも無ひ。

 

すみませんが其の石の採集ばかりは是非限定的に認めて頂けませんか?

でなひとまるで生き甲斐が無くなって仕舞ひますので。

 

 

其の資源の枯渇、まさに其の問題に対し2030 未来への分岐点 (2)「飽食の悪夢〜水・食料クライシス〜」で示されたサファ・モーテ博士ー理論環境学者 メリーランド大学応用数学・システム科学)ーによるグラフには衝撃を受けた。

Human and nature dynamics (HANDY): Modeling inequality and use of resources in the collapse or sustainability of societies

此処でGraphical abstracと題された其のグラフである。

 

「人類は自然が生み出す資源を利用し富を最大化させようとする為資源は減少していく。
富の増大に伴って人口は資源の限界を超へて増加しこの時急増するのは一般の人々だ。

先進国に暮らすような人々の増加は僅かだが富の多くは彼らが独占する。
その後社会は食料などの資源の枯渇に至り一般の人々は人口減少を始めるが豊かな人々はこの危機に気付かぬまま浪費を続ける。

その結果、豊かな人々の富も枯渇し社会の機能が崩壊する。
サファ博士は現在の世界はシミュレーションが示す限界点に近づいていると分析して居る。」

 

此れ迄にも何度も述べて来て居るやうに、富こそはむしろ限定すべきなのだ。

限定した上で、むしろ其の枠の中でのみ最大限の欲望の追求を行ふべきなのだ。

 

つまるところは欲望の追求が全て悪ひのでは無く無制限に行ふ資源の収奪による富の追求ー資本主義による利潤の追求システムーにこそ大問題が存して居るのだ。

さうしてとどのつまりは、此のサファ・モーテ博士のグラフこそが社會崩壊ー文明崩壊ーの過程を如實に指し示して居ることとなる。

 

さらに水資源の枯渇の問題が其の社會崩壊ー文明崩壊ーに追ひ討ちをかける。

實際に効率的な収量を誇る合衆國の大規模な農場では水が枯渇して居るとさう番組中では語られて居た。

 

左様に世界規模での食料の生産には根本のところに大きな矛盾が潜んで居るのだ。

ところが、限定的な食料生産ー我が國での里山での食料自給のやうにーには大問題など何処にも潜んで居やしなひ。

 

其れはかっての日本の食料生産はあくまで自給型ー地産地消型ーのものであり従って大規模に海外から食料を輸入する必要など無かったからなのだ。

また昔は世界中がさうだったのである。

 

特に近代以前は世界的にもほぼさうだったのであらう。

 

 

其れが何でこんなんなった?

其れは特に戦後の國際的で且つ大規模な食料の調達システムの構築が現在の食料供給の様を形作って居ることだらう。

 

其れを一言で言へばまさに功利主義ー資本主義的なーによる合理的食料供給がさうした世界的な食料の供給システムを創り上げて来たのだった。

 

でも實は其れは人類にとってまた文明にとっての夢であり希望でもあったのだった。

 

そりゃさうだ、我が國にせよ江戸時代までは各地で飢饉が起こり要するに飢餓があちこちで蔓延して居たのだからまさに其れでは生きた心地がしなひ。-田舎の方は特にいけなかった訳だ-

 

だから人間としての当たり前の夢でせう、希望でせう、米の飯が腹一杯食へるものならもう死んでもエエと云ふことが。

 

 

なのだが、結果として其の夢であり希望であるものの達成が近代的な大規模で且つより根本的な破壊を生じさせるのだとしたら一体どうするのだ?

つまるところはもう誰も其れには答へが出せなくなって仕舞ふ。

 

でも其処をあへてわたくしは言ふたりますわ。

 

所詮其の夢や希望を持つ事は良ひことでは無ひのだと。

いや持つにせよあくまで自給自足としての枠内で其れを済ませて置くべきだったのだ。

 

 

夢、希望⇔破壊

 

との対概念が生じる訳なので過分なー分裂度の高ひー概念を元々持ってはイケナヒのであります。

 

 

其の夢であり希望である近代的な食料の収量を科学技術が後押しまさに農薬を使ひ地下水を汲み上げることで達成したのだった。

 

ところが其の効率的な食料生産ー食料生産の合理化ーの結果我我人類に残されたものとは土壌の流失であり地下水の枯渇であり地産地消型でのー自給自足のー食料生産方式の崩壊です。

 

 

此処で是非一言。

ー過ぎたるは猶及ばざるが如しー

 

つまるところ、近代的なものの眞の姿とは其の行き過ぎた合理化によるところでの洗脳であり幻想なのです。ー其れも本質的にはさうだと言ふことだー

 

ところが、我我はもはや其の本質的意味を其処に問おうなどとはして居なひ。

 

何故か?

 

1.我我は近代的思想ー合理化思想ーに洗脳されて居る

2.かうして現代人として生き辛ひところに置かれた我我は難しひことを考へることよりもなるべく今の欲望を成就させて居たひ

3.諸問題が絡み合ふことで織りなされる近現代社會に於ける矛盾点はすでに個の範囲では如何ともし難ひ大問題へと発展して仕舞っている

 

要するに現代人、嗚呼まさにアナタ方は時代と云ふ檻の中に捕らえへられし獣の群れのやうなものだ。

 

 

でもおまへもまた其の獣の一員だらうが。

其れにいつも牛丼を食ってるしな。

 

確かに牛肉は水資源の枯渇を招く地球破壊の要因の一番手なのだらう。

だがあんなペラペラの牛丼の肉などまるで大したことは無ひぞ。

欧米人がいつも食ってる分厚ひステーキ肉と比べればまるで和風のものだ。

 

其れにつけても夢や希望を叶へる為によかれと思ってすることが全部裏目に出るのが其の近代的な価値の履行に於ける特徴でせう。

なので夢だの希望だのは基本的には持たぬ方が宜しひことだらう。

 

其れでも其れが欲しひのであればなるべく小さくー限定した上でー其れを持つべきなのだ。

たとへばAAAクラスの石ー石英ーが採りたひと云ふ夢と希望を常に持つ。

 

すると、また採れた。

何だ結構採れるものだな。

 

此の際全部採ったれ。

と自称詩人が日に弐参個の石英を拾って来ても地球は何ら影響を受けなひ。

第一そんな道端の石拾ひ位では元より影響を受ける筈も無ひ。

 

 

でも近代社會がさうして其の夢と希望を抱きつつ地球の合理化に邁進するとなるとまさに其の合理化でもって段々地球がボロボロになって行くのだ。

 

此処からもデカくやる合理化などは須らく✖なのです。

 

農業の大規模化、効率化→✖

宇宙開発→✖

発展途上國支援→✖

地元での石採り→○

社会批判→○

夢と希望の否定→○

自給自足での農業→○

 

合理主義→✖

グローバル資本主義→✖

神佛への帰依→○

理性的限定→○

 

要するに人間はより小さく限定的に価値を構築しつつ生きるべきです。

其れは何故かと申しますとまさに破壊を生じさせぬ為にさうした価値観を選び取るのが信仰のあり方であり且つ眞の意味での理性のあり方であるとさう申して居るのです。

創発ー複雑系ーとしての秩序による文明のリスク・コントロールー世界は元々複雑なものであるー

 

NHK大河「麒麟がくる」架空キャラ批判を一蹴した「本能寺の変」の新解釈

元より過去を取り扱ふ歴史物語とはフィクションの世界のものであることを免れ得ず、よって基本的に其れは想像上の物語なのですが此の「麒麟がくる」はまさに良く出来た大河ドラマだったやうに思はれる。

現代でもかうした作品を作り得ると云ふことが一種の驚きであり新鮮な感想を齎すものであった。

 

現代の文明はまた文化は何処へ行かうとして居るのかと云ふ点につき或は此のドラマが答へを指し示して居るのやもしれぬ。

畢竟其れは現代の価値観は概ね狂って居るのだけれど文化的に良ひものはかうして創り得ると云ふことなのではなからうか。

 

とは言へコロナ禍による具象的限定を受け文化の領域が著しく損傷を受けて居るだらうことは想像に難く無ひ。

 

文化領域もまたさうして限定されて行かざるを得ぬが其れでも猶文化は死せずしてまさにかうして人間が織り為す虚としてのドラマを紡ひで行くのである。

 

文化にはさうした意味での諦めの悪さ、其の文としての不屈のあがきのやうなものがあり個人的には其の非合理性こそが合理主義を超へる何ものかであるとさう信じたひ訳だ。

 

より正確には非合理領域での其のあがきこそが合理主義を諫め変質させて行くことだらう何らかの力又は作用ともならう。

 

かって我が國の文壇に属した大作家の面々が指し示して居たことだらう其の「あがきの力」をこそ我は重視したひ。

 

 

公共放送を司るNHKに対しては様々に批判的な意見もまたあらうかと思ふが此のやうな文化的発信を行ふことが可能である点に於ひて其れは矢張り要るのである。

要るのだが、まさに税金の如くに視聴料を徴収する限りは文化的にクオリティの高ひ番組を生み出し続けて行く責務がまた其処にある訳だ。

 

だから其の恵まれた立場に胡坐をかくこと無く今後も良質な番組を是非提供し続けて行って頂きたひものだ。

其れから個人的には人文理性としての立場を此れ迄以上に重視して頂きたひ。

 

より具体的には科学偏重主義に陥るのでは無しにより包括的に人間の置かれた立場と意義を見詰めて行って頂きたひものだ。

 

 

尚わたくしは最近Eテレなどもまた良く視て居るのですが非常に面白ひと云ふのが其の實感である。

1.鬱陶しひアノCMが無ひ

2.何かと勉強になる

3.何故か気が休まる

 

Eテレを流して視て居て3.を感じる人は元々さう云ふ人なのである。

逆にEテレを流して視て居るとストレスが溜まるやうな人などもまた居ることかと思はれる。

 

どだひわたくしは民放のCMがまさに拷問の如くに感ぜられるのだけれどーとは言へ気にならぬ場合もあるのだがー全く気にならぬ人などもまた居るのやもしれぬ。

で、實は其の2.と3.の要素が民放の番組から感じ取れぬ訳でも無ひ訳だ。

 

民放の番組にも良ひ番組がある訳なのでさうした番組を視て居る時はまさに気が休まるのだし何かと勉強にもまたなる訳だ。

 

NHK⇔民放

 

要するにかうした二元対立にては括れぬ部分が其処には存して居るのだ。

さうして二元対立は確かにして居ることだらうが全てをさうは断じ切れぬ訳である。

 

 

即ち、

お堅ひもの⇔軟らかひもの

と云ふ部分も確かにあることだらうが、

 

其れは相補的に成り立つものなのでどちらかに偏り価値を組み上げると即誤謬に陥ることとなる。

 

また其の男女の問題、即ち近代的な平等観の確立の問題に就ひても其のことが言へる。

 

👨⇔👩

 

此の関係自体がまさに其の相補的なものであるが故に本来ならばどちらが上であるとかどちらがコレをやれと云ふことでは無くまさに互ひに補完し合ふべきものなのだらう。

但し先にも述べたやうに持って生まれし生命エネルギーの点で👩は優れて居るから逆に👩が威張り過ぎるとむしろ根本での性のバランスが悪くなるのだ。

 

所謂かっての良妻賢母思想は其の点まで鑑みたところでのバランスの良ひ考へ方なのだらうとわたくしは思ふ。

よって現在の如くに女性が平等意識に凝り固まって行くとすると其処でもっておそらくは男性の意識がへこたれ易くなり端的に申せば次第に女性化しても行くことであらう。

 

結局其れは常に強ひ👨を望む👩の願ひとはまるで裏腹のこととなるのである。

 

優しひ、しかも感性的に洗練された🚹は次第に女性化して行かざるを得なくなりすると最終的には🚺が要らなくなるのである。

 

 

尚平等だの自由だのと云った近代的な価値観にも盲点があり即其れが至上の価値となり得るものでは無ひことをむしろ我我は是非學んで置くべきなのだ。

 

一言で言へば「平等」や「自由」と云った一括りでもって言ひ表された抽象的概念は極端化し易ひのだ。

 

謂はば無制限での「平等」や「自由」に陥って仕舞ひ易ひ訳だ。

 

だが無制限での「平等」はむしろ「不平等」に繋がり易く、また且つ無制限での「自由」はむしろ「不自由」に繋がり易ひ。

 

また其のことは實体験を踏まへ學びを重ねることでさう感得されて来ることだ。

 

此の世のことはかうして複雑で且つ天邪鬼なのでまさに一筋縄ではいかぬものであることがほとんどだ。

 

 

何で一筋縄ではいかぬのかと云ふと、おそらくは問題にスパッと答へを出したひと云ふ合理化の部分が事實としては複雑でもって不可分なものを一発でもって解かうとするが故にさうなるのだ。

つまるところは其の合理化こそが悪ひのだらう。

 

故にわたくしの文明批判、また人間批判の核心とは其の合理化批判にこそ存して居る訳だ。

 

但し合理化することを全否定して居る訳では無く其の合理化を適用する範囲に誤謬があるとさう述べて居るのである。

 

實際にわたくしは今自分の家の合理化に着手して居るところなのだ。

 

 

其れも平たく言へば断捨離と云ふことである。

其のやうな合理的視点こそが長年の間に溜まりに溜まったゴミー不要物、無秩序な状態ーを掻き出し其れを一掃することに役立つ訳だ。

 

かうして合理化せぬとどうも人間は獣の領域に安住しやうとして仕舞ふやうだ。

 

だから禅宗などは無論のこと其のお掃除をこそ大変重視する訳だ。

 

さても合理化と申せば最終的には佛陀による合理化とならうが、其れは人間を此の世から消しちゃふことなので元より人間に出来ることでは無ひ=不可能なこととなるので其の合理化はまるで出来ませんので何とか救って下されとさう祈りつつ神や大乗佛教に身を捧げる他は無ひ。

 

でもボクはかうして利口な人なので神や大乗佛教に身を捧げることなどまるで出来ません。

 

さうか、では其の利口とやらと是非心中してみるが宜しからう。

 

 

さうなればでも辛ひぞよ。

 

其れもあんな華厳の滝から飛び降りたりかの太宰や芥川のやうにもう三十代でもってして命が無くなったりもするのだぞよ。

 

もしやまた其れもひとつの合理化だったのでせうか?

 

確かに合理化だったのやもしれぬ。

 

だがみんなでもって赤信号を渡り全滅する方がまだしも樂では無ひのか?

 

 

アレ、何だかいつもとは違ふことを言ひ始めましたね。

いや、そんなことは金輪際言ってなど居りませんが。

 

でも今言ったじゃなひか。

 

さうでしたね、言ひました、上にしかと証拠が残って居ました。

 

では何を思って其れを言ったのだ?

 

何も思はずつひさう申して仕舞ひましたのです。

 

赤信号を渡り全滅する方がまだしも時間が稼げると是非さう言っても置きたかった。

 

 

時間?

 

其の時間とは一体何だ、所謂意識の流れのことか?

 

意識⇔無意識

おそらくは此処もかう分裂して居る筈だ。

 

なので意識のみに捉はれて居るのは其れでは如何にも片手落ちとなる。

 

非合理領域や無意識の領域をもさうしてあへて見詰めて行かねばならんのだ。

 

なんとなればもう壱方を見なひと實は意識としての範囲が確定しなひからなのだ。

 

 

創発(そうはつ、英語:emergence)とは、部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、全体として現れることである。局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。

この世界の大半のモノ・生物等は多層の階層構造を含んでいるものであり、その階層構造体においては、仮に決定論的かつ機械論的な世界観を許したとしても、下層の要素とその振る舞いの記述をしただけでは、上層の挙動は実際上予測困難だということ。下層にはもともとなかった性質が、上層に現れることがあるということ。あるいは下層にない性質が、上層の"実装"状態や、マクロ的な相互作用でも現れうる、ということ。ー創発より

 

此の「創発」と云ふ概念こそが全体論的なものの見方、かまたは複雑な系としてのものの見方を可能とするものである。

 

例へば科学技術は常に合理的に世界の諸要素を改変して行くシステムを形作って居る。

 

ところが、事實上科学技術は、

 

1.核兵器生物兵器による人類滅亡の危機

2.地球に対する物理的破壊

3.人間に対する物理的、精神的破壊

 

を齎すに及んで居る。

其ればかりか、

 

4.宇宙に対する人的蹂躙

5.神殺し

 

と云ふ部分すらもが考へられぬ訳では無ひ。

 

其の罪と云ふか破壊の度は常に凄まじひものがある訳だ。

 

其れ即ち合理化が其の抽象的に規定される進歩と云ふ概念こそが其れを初めて可能たらしめて居るのだ。

 

で、畢竟其れはデカひものの合理化により成り立たされて居る訳だ。

さうした合理化の領域にて価値形成される豊かさと幸福の尺度の一元化が其れをさう成らしめて要る訳だ。

 

 

よってわたくしは今其の一元化をこそ批判したひ。

あらゆる一元化の波がむしろ人類の営為をつまりは文明を崩落させる方向へと導ひて居るのだ。

 

またわたくしは今宗教に於ける一元化をも認めなひ。

 

但し其れは神佛との一元化を認めぬと云ふことでは無く地球上の宗教としての一元化を認めぬと云ふ立場である。

要するに壱宗教による広宣流布と云ふ概念其れ自体を否定的に見詰めて居るのだ。

 

一元化、結局はまさにコレこそが世界を破滅へと追ひ詰める為の原動力なのではなからうか。

で、其の一元化の流れは古来よりあり印度の解脱思想ー釈迦による佛法をも含むーにせよキリスト教にせよ最終的には其の一元化を目指すものなのだ。

 

但しキリスト教はあくまで神と悪魔、善と悪による対立としての二元論からの一元化論である。

 

其の現世を規定する上での二元論には誤りは無ひものとわたくしは見る訳だ。

 

他方で印度哲學での梵我一如の思想は結局現世に於ける一元化の思想なので抽象性に傾き過ぎて居ると現在わたくしは否定的に捉へて居る。

 

 

生物学における創発[編集]

生命は創発現象の塊である。動物の体表に現れる縞模様や、植物が描くタイガーブッシュフェアリー・サークルなどの現象を、一見相関がないような組織や個体の生命活動の結果が巨視的に現れたものとしたアラン・チューリングの仮説(チューリング・パターン)が知られている。また、脳は、ひとつひとつの神経細胞は比較的単純な振る舞いをしていることが分かってきているが、そのことからいまだに脳全体が持つ知能を理解するには至っていない。さらに進化論では、突然変異や交叉による遺伝子の組み合わせによって思いもよらぬ能力を獲得することがある。進化論においては個々の個体による相互作用のほかに、環境との相互作用という側面も加わっている。創発の定義において、このような非対称な要素を認める場合もある。ー創発より

 

 

ー進化論においては個々の個体による相互作用のほかに、環境との相互作用という側面も加わっている。ー

個は種であると同時に特に人間の場合には社会と密接に関はって居る。

 

個⇔社會

個にとり社會は否定し得ず、社會にとりまた個は否定し得ぬものだ。

 

たとへ社會が大嫌ひな詩人なのだとしても社會とは自分の一部でもまたあるが故に其れを全否定することなどは出来ぬ訳だ。

社會もまたプーチン氏や自民党の如くに國家権力の上に胡坐をかきつつやりたひ放題をやってると其処に何時革命が起き自分の首がちょん切られて仕舞ふかまるで分からぬ訳だ。

 

まさに其れと同じやうに、

 

個⇔環境

細胞ー肉体ー⇔知能ー精神ー

 

「一見相関がないような組織や個体の生命活動の結果が巨視的に現れたもの」

かうして関係が無ひと云ふことこそがむしろ関係深ひことなのであり、逆に関係が深ひやうで居て本質的には其れが無関係だと云ふこともまたあり得るのが世の常なのだ。

 

 

なので相手としての諸要素の立場を認め其の話ー主張、存在ーを聞く立場こそが創発と云ふ全体論的な価値観の構築の核心部を担ふものなのだらう。

其れを別の言葉で言へば、

 

まさに「汝の敵を愛せ」と云ふことではなからうか。

 

「局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。」

此処からしても生命現象は確かに「創発」される現象である。

 

部分的還元は可能だが其の還元を成したと同時に生命の煌めきのやうなものは失はれて仕舞ふ。

 

自然科学主導による科学技術文明に欠けて居るものとはまさに此の生命の煌めきのやうなものなのではなからうか。

立派な知性ー還元的知性ーが多く集ひ膨大な思考と努力の末にたとへばスマートフォンを生んで居る。

 

スマートフォンはこんな進んだ文明が生んだ神の機械のやうなものだから尊ひ機械であり自称詩人、まさにおまへのやうな原始人には決して扱へぬ神の道具である。

ヘッ、さうでしたかねえ。

 

わたくちはあんなもん要らなひとハナから相手にして無ひのでまるで近視にもなりませんのですよ。

わたくちは逆に老眼が進みもう遠くのものが良く見へて仕方がありません。

 

其のわたくちと云ふ言ひ方をもう止めよ!

みんなが眞面目に読んで居ると云ふのに不謹慎だぞ!

 

わたくちはかうしてスマフォ病でもまた花粉症でも無く至って健康なので今でもかうしてバリバリと読書することが出来る。

 

 

さても一体何を読んで居るのだ?

生物と無生物のあいだ」福岡 伸一著です。

 

所謂「動的平衝」と云ふ概念につき懸命に勉強して居ります。

 

科学技術文明に欠けて居るものが此の創発による命の煌めきであり動的に平衝されるところでの生命現象のダイナミズムであるのならばまさに其れは生命にとって命取りとなることです。

でもスマフォは目に悪ひから止めなさひとはもう教師も母親も誰も言はぬ訳だ。

 

だから彼等に代はりわたくしがかうして述べて居るのだ。

 

また🚅も✈も🚗も皆要りませんのでもはや捨て置くが宜しからう。

 

 

所謂「繋がり」と云ふことが暫く前から盛んに求められて来て居るやうですが、其れは逆に「繋がって居なひ」社會であるからこそさう求められて行く訳だ。

 

表面的なことでは其の連帯は得られず其のやうに連帯を軽視する合理的社會ー功利的社會ーを築き上げて来て居るが故に現代人の心が飢へ其のやうな叫びを発して居る訳だ。

 

詩人さんは孤高の立場を貫きさうして変人で居られるので良ひのでせうが何せ我我は所詮眞我には目覚められぬ凡人ですのでかうしていつもみんなで繋がって居たひのです。

 

だから其れをスマフォなんかとまたゲームなんかと繋がって一体どうするの?

 

詩人はみんなとは決して繋がらず、でもね、文士の園とはすでに繋がって居ますので全然怖くもまた寂しくもありません。

 

其の孤独であることさへもがね。

 

 

おそらく生命は数的還元などはとても出来ぬまさに「創発現象の塊」のやうなものだ。

或は全体論として把握されざるを得ぬ一種超越的な価値の場なのだらう。

 

生命現象の不可解さは文學に於ける不可解さなどとも或は符合して居るのやもしれぬ。

つまるところ其れは理性にて割り切れぬ部分を常に抱へ込んで居る訳だ。

 

さうしたところは野良猫や野鳥など自然現象に接して居ると次第に理解されても来る。

だがコンクリ製の都会のビル群に閉じ込められて居れば居る程に其れが分からなくなるのやもしれぬ。

 

 

ー複雑な現象を複雑なまま理解しようとする学問、手法は「複雑系の科学」などと呼ばれることが多いが、その源流に眼を向けると、アリストテレスの「全体とは、部分の総和以上のなにかである」といった言い回しにまで遡ることができる。

近代になって科学哲学において還元主義の蔓延に対して警鐘を鳴らすように、全体を見失わない見解を深化させ、個々の分野で具体的な研究として全体性の重要性を説く論文・著書などを発表する学者・研究者らが現れるようになった。現在ではこうした見解・立場の研究は「ホーリズム」または「全体論」などと呼ばれている。科学哲学の研究者達は、現在のいわゆる複雑系を、広義のホーリズムのひとつである、と位置づけることが多い。ー複雑系より

 

「全体とは、部分の総和以上のなにかである」=「全体論

福岡 伸一氏は生物學者としての其の全体論者であり、対してわたくしは自称文人としての其の全体論者である。

 

 

 

複雑系(ふくざつけい、: complex system)とは、相互に関連する複数の要因が合わさって全体としてなんらかの性質(あるいはそういった性質から導かれる振る舞い)を見せる系であって、しかしその全体としての挙動は個々の要因や部分からは明らかでないようなものをいう[1]

これらは狭い範囲かつ短期の予測は経験的要素から不可能ではないが、その予測の裏付けをより基本的な法則に還元して理解する(還元主義)のは困難である。系の持つ複雑性には非組織的複雑性と組織的複雑性の二つの種類がある[2]。これらの区別は本質的に、要因の多さに起因するものを「組織化されていない」(disorganized) といい、対象とする系が(場合によってはきわめて限定的な要因しか持たないかもしれないが)創発性を示すことを「組織化された」(organized) と言っているものである。

複雑系は決して珍しいシステムというわけではなく、実際に人間にとって興味深く有用な多くの系が複雑系である。系の複雑性を研究するモデルとしての複雑系には、蟻の巣人間経済社会気象現象神経系細胞、人間を含む生物などや現代的なエネルギーインフラや通信インフラなどが挙げられる。複雑系よりー

 

 かのマルクス・ガブリエル氏は世界は複雑だとさう述べても居られる。

さう世界又は生命現象は複雑であり、要するにほとんど全てのものが還元処理などすることが出来ぬものに彩られてさへ居る。

 

価値を数的還元するやうな社會=都会の価値観は概ね危機管理に弱く要するにフレキシビリティには欠けたとへば大地震でも起これば大都市圏はほぼ壊滅して行かざるを得ぬことだらう。

重要なことは社會としてのリスク管理として其のフレキシビリティを大きく持たせておくーある面では合理化されぬ部分を大事にしておくーことなのだらう。

 

其のフレキシビリティは複雑系の思考を対象とする學問が或は担って行くのやもしれぬ。

特に今後起こるであらう大都市圏でのカタストロフに対し近代型の危機管理体制ではまるで対処し切れぬことだらう。

 

だから本来ならば公的な機関がまさに其れに携はり手を練って行かねばならぬのだ。

 

だからまるでバカみたひな大臣のポストをつくるよりも何よりもまずは壱番先に危機管理庁を新たに発足させ此処に河野氏みたひに利口さうな奴等を多く配属させ危機への対策の全部をやらせてみるが宜しからう。

其処に感染症対策も温暖化対策もまた脱炭素社會の推進ももう何から何までやらせ給料は拾倍程も出してやれば良ひ。

 

だからまるでバカみたひな自民党老害議員はそも現代社會が極めてハヒリスクな文明であることなどまるで分かって居らず其れよりも何よりもそんな銀座のクラブでもって👩の尻を触って来ることだけを夢見て生きて御座る。

左様な体たらくでは複雑系の此の世界の複雑に絡み合ふリスクに対しまるでマネージメントすることなど出来て居なひではなひか。

 

そんな複雑系の文明に対するひとつの対処の仕方が価値指向のミニマム化でありなるべく劣化の少なひインフラであり且つ原始的な循環性をも取り入れたシステムの構築なのではなからうか。

結局其れをもしやったとしてもカタストロフは回避出来ぬにせよ少なくとも破滅までの時間は稼げ其処から生き延びる為の確率を上げることさへもが出来さうだ。

 

時間と云ふもの、其れも人類に与へられし時間は有限だと常日頃より我は思って居りたとへば今考へて居ることとは其の有限であるところの与へられし時の密度を如何にして上げて行くかと云ふことだ。

 

平たく言へば其れは如何にして残りの時間を有意義にさうして少なくとも建設的に生きて行けるかと云ふ只其のことばかりなのである。

かうして常にわたくしを悩まさせる自民党とわたくしを癒す石の趣味と

麻生太郎財務相も、「(給付金で)当然、貯金は減ると思ったらとんでもない。その分だけ貯金は増えた」「お金に困っている方の数は少ない」などと述べて否定を重ねている。ー

ーその株高を買い支えるのが日銀と国民の年金資金を預かるGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)という政府マネーなのだ。

 日銀はコロナ経済危機を乗り切る金融緩和としてETF(上場投資信託)を大量に買い入れ、現在、東証1部上場企業の株式の約7%(推定45兆円)を保有する大株主となっており、GPIFも国内株を約41.5兆円(2020年9月末)保有している。

 日銀の保有株の含み益はいまや10兆円ともいわれ、GPIFも株価急騰で年金積立金の運用益は大きく膨らんでいる。にもかかわらず、本来国民に配るべき年金はカットする。一体、誰のための株の買い支えなのか。ー

ー「現在の市場は株価が下がったら日銀が買い支える。投資家は投資に見合うだけのリスクを背負わずに済み、日銀やGPIFの政府マネーは株を持つ富裕層だけが潤う補助金のようになっている。

 そんなふうにして日銀から株主や企業にバラ撒くくらいなら、10万円の給付金のように国民全員に配ったほうが明らかにいい。国民全体に配れば世の中に出回るマネーストックが増えるし、富裕層より低所得層のほうが消費に回す割合が大きく、景気も良くなる」ー

ー「日銀は本当なら金融緩和のために国債を買い入れたいが、これまでに買いすぎて市場に残っていないから、仕方なく株(ETF)を買っている。一番いい方法は政府が国債を発行して国民に2回目の給付金を配り、日銀が市場を通じて国債を買う。10万円を2回でも3回でも国民に配ったほうがはるかに有益です」ー国民への給付金は拒むが、株高の演出には熱心な日本政府の姿勢 より

 

左様に今日本國の庶民の金事情は金持ち優遇政策の為にボロボロになりつつある。

尤も我は経済のことには疎ひのだが其の金持ち優遇政策が✖だと云ふこと位は分かる。

 

左様に🐊ー麻生 太郎ーは頭がおかしく、🐵ー総理ーもまた頭がおかしひ。

 

ー株価急騰で年金積立金の運用益は大きく膨らんでいる。にもかかわらず、本来国民に配るべき年金はカットー

 

馬鹿者!!!

年金で食ってる人のことも考へてみよ、まさに我のやうな。

 

其の拾萬の給付を弐、参回やるだけで日本のみんなは息を吹き返すことが出来ると云ふのに其れをやらぬ政府はズバリ選んでやる必要の無ひ政府なのだ。

 

問題は、かうして自民党を牛耳る政治家の面々の頭が極めて悪ひと云ふことである。

要するに全体主義政府ー國優先の政府ーなので國民の其れも力の無ひ國民に対してはびた一文出さず別に死んでも良ひと云ふ考へなのだ。

 

つまるところは其れがおおまさに経済的に特攻を強ひる軍國主義政権の素の姿なのだ。

 

 

我我はかうして壱年間に亘りコロナへの特攻を強ひられもうヘロヘロだ。

にも関はらずさらなる特攻を我我に強ひ其れも今どうなって居るかと云ふに医療従事者や特定の産業がもはやボロボロだ。

 

それでも「死んで来ひ」とさう仰るのか!

 

いやそんなことは許されることでは無ひ。

21世紀になっても何故日本人だけがかうして特攻を強いられて居るのだ?

 

逆におまへらー🐊と🐵ーが是非特攻すべきではなひのか。

🐊と🐵がさうして敵艦めがけて特攻しドドーンとぶつかり粉微塵になって仕舞へば良ひものを!

 

其れにカン。

 

おまへの政策にてコロナ感染者が減った訳ではまるで無ひ。

 

其れは一月の初めに尾張の自称詩人が「減る」と言ったから減ったまでのことで逆に「増へる」と述べて居たら其の侭に増へて居たのである。

 

其れにしてもそんな未来のことが何故当てられるのですか?

 

 

其れはね、まさに感度が違ふからだよ。

 

つまりは詩人は全てをお見通しなのさ。

 

 

ー「(自分がいた頃と比べて)今までの倍時間がかかる。女性(理事)がなんと10人くらいいるのか? (実際には)今、5人? 10人に見えるな」と小ばかにするかのような舌鋒を向け、女性蔑視ととらえられかねない問題発言を繰り返した。

 その後も「女性っていうのは競争意識が強いんです。誰か1人が手をあげて言うと、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです。前の発言に関連したものではなく、思いのままに」ーこれはヤバイ「森失言」で五輪ボランティア消滅危機 より

 

かうして東京五輪パラリンピック組織委員会森喜朗会長の発言内容が国際的に批判されても居るやうだが何せわたくしは天邪鬼なのでまずは其の発言を逆に部分的に認めて置きたひ。

實際に👩は体裁ー社会的評価ーを気にする余りに化粧、着付け、其の他のことなどにおそろしく時間がかかり其れは要するに競争意識と云ふよりは自己肯定感に欠ける自我の持ち主ー眞の意味での自己が無ひーであるが故に他への承認欲求にこそ頼って居るのである。

 

實際に其の辺りでのことは大昔のこととはなるがかのショーペンハウアーが女性を批判して居りし部分のことで基本的にわたくしは其の批判の内容を支持して来て居る訳だ。

 

 

但し、時代の変化と云ふことを見極められぬのでは其れは「老害」以外のなにものでも無ひ訳だ。

 

元より、

 

👨⇔👩

 

と云ふ二元的要素は其れ即ち相剋し且つ相即する関係性の上に生じて居る。

 

なので無関係どころか大抵の場合は大体七参位の割合で互ひに其の要素を持って居る。

 

其れが特殊化すると五分となったり或はオカマ化すると四六位の比率ともなり妙に女っぽくもまたなる訳だ。

 

 

其の観点からはあくまで対等か又は逆に👨を少し立てる位の方が良ひ訳だ。

 

何故👨を立てる必要があるのかと云ふと其れは🚹の方が生命としての力が弱ひからなのだ。

 

其の逆に精神としての力は🚺の方が弱ひのだらう。

 

だから其の根本での違ひがあるので所謂男女平等と云ふ訳には元々いかなひのだしそも完全に同じには出来なひのである。

 

むしろ逆方向としての現象であることを認めた上で互いに相手の立場を慮ると云ふのが正しく男女関係を築く要点なのだ。

 

 

でもアンタは決まって👩には優しく無ひ。

むしろ酷ひことを言ったりもして居るだらう。

 

いやわたくしは元々両性具有的な心理を持つ者なので👩の弱点のことが何より良く見へるのだ。

 

おそらくは其の良さと悪さを同時に見渡すことが出来るのだと思ふ。

 

👩は兎に角意思決定に時間がかかり行動などがトロひと云ふことは確かにある。

 

事實車の運転者で酷くトロひ奴などは大抵が女性ドライヴァーか或は高齢者ドライヴァーだ。

 

だが概ね女性は生命現象に対しては包容力がある、つまるところは生命が危うくなって居る者を見殺しにしたりは出来ぬ本能の力を持って居やう。

 

但し👩はまた👿にもなり得る。

また怨霊にさへなったりする。

 

聖母ともなるが鬼子母神にもなるので分裂の度が酷ひと云ふ感じもまたある。

 

其の分裂性のところが普通🚹には理解出来ぬ訳だ。

 

でもわたくしはさうした部分もまた自分の中にあるので其れが理屈抜きに分かる訳だ。

 

 

で、つひ先日NHK所ジョージの番組でもって石のことが取り上げられて居た。所さん 大変ですよ! 「ブーム到来!?不思議な鉱物の世界」

 

わたくしが一番ショックだったのはヤッパリ👩共は石のキラキラが大好きであったことだった。

 

しかも其れはほとんど本能的にさう規定されたものであるらしひ。

 

すると、我の此の石趣味とは一体何なのだらうか?

 

要するにわたくしの本質が👩っぽひと云ふことなのではあるまひか。

 

が、わたくしは両面派だから男性的な意思決定力や批判力にもまた長けて居る。

 

なのだけれども優しく闘争を好まぬ性質を持ち合わせて居る。

 

 

エッ?

 

何処が優しひの?

 

其れもこんだけ社會をクソミソに貶しながら其れの一体何処が優しひの?

 

其れに優しさなど愛じゃ無ひ、教育とは鞭打ちだと確かさう述べても居られましたが。

 

まさに其れがわたくしに与へられし分離としての壱極なのだらう。

 

 

で、わたくしは数学のセンスにもまるで欠けて居るが藝術的なものには常に強ひ。

其処もまた自らイヤだなあと思ふところではある。

 

さてもアンタやっぱし馬鹿なのか?

いや馬鹿は風邪を引かぬので馬鹿では無ひのだと思ひますよ。

 

番組中でいつも石に触れて居なひと寂しひと云った若ひ👩が居たのだったが實は其の気持ちが我には分かる。

 

我などは寝る折に寝袋の中で石を握りしめつつ寝る。-布団を合理化し常に寝袋にて寝て居る-

 

 

もうひとつショックだったのが、一般に女性は色には敏感だとされていると云ふ部分を聞ひた時だ。

何故ならどう考へても我は色には敏感なのだが其れが👩の得意分野であることが分かり何だかイヤな気分にもなった。

 

兎に角わたくしは色には限りなく焦がれて居るので其処は女性的感性の方が発達して居るのやもしれぬ。

 

絵画や鉱物が好きなのも其の色自体が好きでもって其れ等に興味があるのやもしれぬ。

 

 

が、若ひ鉱物女子達は標本を集めネット上で見せ合ひ「可愛ひ子」などと石を呼んでいるが其処はモロ子宮思考にてわたくしの場合石が「可愛ひ」とは思へず只美の基準の上での等級を付け其の等級に応じ「綺麗」だと思ふに留めて居る。

尚、重要な観点だが石からは癒されると云ふことが確かにあり其れも明らかに精神的に癒されるのだ。

 

番組中でも看護師の方が難しひ仕事の後の折に夜独りで晩酌をしつつ石を眺める場面などが出て居たのだったがまさにさうしたことであらう。

 

美しひ石は何よりさうして心を癒して呉れるのだ。

 

其れもガサツな🚹などには不要なのやもしれぬが繊細で感度の高ひ🚹には是非さうした時間が必要となるのだ。

 

つまるところオパールを瓶に入れかうして眺めて居るだけでさうして心が癒されるのだ。

 

♀的に色に対する感度が高くある我もまた兎に角色とりどりの石に惹きつけられる訳だ。

 

 

番組では糸魚川でのヒスイハンターが海岸にてヒスイを探す様子などもまた映されて居たが確かにヒスイは良ひものはなかなか採れぬものだ。

 

漁船を借り海の中で地引網でも引ひてヒスイを探せば相当のものが採れさうなのだが其れはまず無理なのだらう。

 

不変の美しい石を眺めて居ると心が休まる。

 

だから鉱物趣味とは最終的には値段やグレードを競ふやうなものなのでは無く自然界の美に直に触れて心が休まったり喜んだりすることなのだらう。

 

自然其れ自体と戯れることが出来るまさに上品な癒しとしての趣味なのではなからうか。

 

で、たとへ還暦のオッサンでも勿論其れをやって居ても良ひ訳だよね?

 

まあわたくしの場合は主に机上にて石から癒されて居る。

 

現代の文明を考えることはある種辛ひことでもあるので石に癒さつつ何かにつき書ひて居るのだと言っても良ひ訳だ。

コロナ下での尾張の御寺巡りー笠寺観音の節分会に出向くー

此の処兎に角寒く寒ひのが苦手なわたくしはつひに風邪を引ひて仕舞ったやうだった。

さう熱は出ぬのでコロナでは無く風邪である。

昔から馬鹿は風邪を引かぬと云ふがわたくしに限り昔から大変風邪を引き易ひ体質なので自分で言ふのも何だが屹度馬鹿では無ひのであらう。

 

昨日は少し体調が回復し天気が晴れても来たが故笠寺観音(笠覆寺)へ行って来た。ー自転車にて廿分程で行けるー

勿論節分会に出向ひたのであるが、其処は無論のこと節分会行事中止でもっておまけに露店なども全く出て居なひ。

 

 

さても其の露店と云ふものはわたくしにとり意外と大事なものである。

とは言へ結局出不精のわたくしは好んで露店の出る場所へと出向く訳でも無ひ。

 

正月に熱田神宮を詣でる時と笠寺観音の節分会に出向く時との年に弐度だけがわたくしにとっての露店との接点なのだ。

 

かうして案外露店が好きな我ながら實は其処にて何かを買ふと云ふ訳でも無ひ。

其処でごくたまに節分の豆を買ふが、勿論其れには青のりなどが付ひて居てなかなか美味ひものである。

 

だがこんな齢になると流石に林檎飴だのチョコバナナなどを購ふのは気が引け、其れに射的だの鮫釣りだのそんなものはやりたくてももはややれぬ故只遠巻きにして子等が其れに興じるのを眺めて居るばかりなのだ。

 

かくしてわたくしは露店やら縁日やらが大好きなのだがいつも其の様を観察することだけが何故か楽しひのだ。

此の観察眼とは明らかに文學的な心理が齎す眼なのであらう。

 

おそらくわたくしはさうして全てを、此の世の全ての事象をまさに其の眼差しでもって眺めて居るのだらう。

 

 

だが今回に限り其の日常としての露店の光景がまるで抜け落ちて居る。

まずは其のことに酷く無常ー非常ーの様を感じて仕舞った。

 

とは言へ、本堂への参拝者は多く居て其れが長ひ列を生じて居た。

だがわたくしはさうした列に加はるやうな性質の人では無ひ。

 

わたくしはかうして皆とは同じ行動を取らぬ。

まさに其処が他との違ひなのだがどうも其の分潔癖過ぎるやうに自分でも思ふ。

 

 

剣豪・宮本武蔵ゆかりの地を画像でご紹介

 

此処にあるやうに笠覆寺十二坊のひとつである東光院はかって剣豪・宮本武蔵が逗留した寺として名古屋市南部の人には良く知られた古刹である。

さうして尾張徳川家への仕官の為にかって武蔵は此処に逗留した訳だったが其の仕官は結局叶はなかったものとされて居る。

 

其の東光院自体は笠寺観音とは可成距離が離れて居るのだが逆に笠寺観音のすぐ際にあるのが西方院である。

此の西方院にて毎年節分会の折に正風華道展が開かれる故にわたくしは毎年其れを訪れて居た訳だ。

 

 

『西方院・笠寺烏瑟沙摩明王』名古屋市南区笠寺町

 

其れも母が其の正風華道の幹部なのでわたくしも毎年其処を訪れ写真を撮ったり花を鑑賞したりして居た訳だ。

が、茶華道などの所謂文化的伝統には個人的に今次第に懐疑的にさへなりつつある。

 

 

特に華道、其れはあくまで反自然での文化的所業なのだらう。

 

そんな訳で華道に対し特に惹かれる訳では無ひのだが其れでも美しひものを見ること自体は嫌ひでは無ひ。

只人為的に飾り付けられたり抽象的に捻じ曲げられたものよりはまさに只具象的に其処に存在する美にこそ見惚れて仕舞ふ訳だ。

 

また能狂言のやうな古典藝能などのことも語れぬ訳では無ひのだが其れもまた同様の理由にて創作されたもの自体に最近は余り心を動かされぬ訳だ。

 

だからたとへば京都よりは奈良の古刹の方をより好むやうなものだ。

 

わたくしはそんなピュアーな心根を持つ文人なのでまさに山の中で自然と戯れ詩を書く位のことの方が余程性には合って居やう。

 

其れでも露店が出て居らずまた華道展も行はれて居なかったことが何とはなしに寂しくも感ぜられたものだった。

 

 

其処からも此の一年で、此の僅か一年の間に人間の社會のあり方が根本的に変はったかのやうだった。

 

さうだ、其れは人間が変はったのでは無くして人間の社會のあり方こそがまさに変はったのだ。

 

一体人間の営為とは、其の日常としての社會のあり方とは一体何だったのだらうか?

 

 

さうかうするうちに、早速帰途につく。

 

最近は人混みの中にもはや長く居たくは無ひので人間の社會と付き合ふのはなるべく早く切り上げさうしてサッサと家へ帰るのだった。

 

 

【名古屋】玉照姫の美貌と良縁にあやかるなら「玉照姫泉増院」にも訪れるべし

其の笠寺観音に隣接するこちらの玉照姫ー天林山 泉増院ーへも矢張り毎年訪れて居る。

 

何故か?

無論のことわたくし自身が其の良縁成就を願ふオカマだからなのでは無ひ。

 

上には載って居なひが此処には楠から造られた薬師佛があり其の佛に毎年手を合はせるが故に此処を訪れるのだ。

わたくしは感度が高くあるが故に体調を崩し易ひが故さうして其の薬師佛に一年の健康を祈って来るのだ。

 

 

が、兎に角此処はいつも👩だらけで昨日もまた行く気にはとてもなれなんだ。

だから別に何時訪れても良ひのである。

其れも別に良縁成就を願ふやうな訳では無ひのであるから。

 

 

ちなみに上には「生まれ年守り本尊」なる御堂の画像があり、其れの一番左の佛像が、

戌年阿弥陀如来

の守り本尊にて實はわたくしにとっての守り本尊なのだった。

 

わたくしは弐年前に此のことを知りまさに愕然としたものだった。

 

何でか知らぬが矢張りと云ふべきか浄土教と我は無関係では無ひ訳だ。

ー但しほんたうに興味があるのは禅宗であり純密の方なのだー

 

おまけに何でか知らぬがいつの間にかキリスト教の方などもゴタ混ぜとなり我の中に入って来るので全く始末が悪ひ。

そんな訳で兎に角阿弥陀如来や念仏のことなどをバカになどして居ては金輪際いけなひ訳だ。

 

 

笠寺観音から自転車を置ひた公園への坂道の途中に法性寺があり此の寺の前には掲示板がありいつも何かの教へのやうな言葉が書ひてある。愛知県名古屋市南区の『法性寺』

其の法性寺は「真宗高田派」の寺院である。

 

今年は其処に何とかのマザー・テレサの言葉が書かれて居た。

 

 

「リーダーを待つのはおよしなさい。一人で、人から人へと行えばいいのです。」

ーDo not wait for leaders; do it alone, person to personーマザー・テレサの名言より

 

と云ふやうなことが書かれて居た。

何とリーダーには頼らず一人でもって行動せよとのことである。

 

尚釈迦も實はさうしたことを述べられて居る。

即ち「自灯明」である。

 

では何故「自灯明」なのだらうか。

 

 

ー自分自身を灯火として、先の見えない暗闇のような人生を歩いていきなさい。
ふいに停電した夜に灯すロウソクの明かりのように、頼るものが何もない場所でも、自分を頼りとすることで自分自身が明かりとなり暗闇を照らすことができるように。


もし自分以外の誰かを灯火として、誰かに前を照らしてもらって生きていたのでは、その誰かがいなくなり明かりが消えたとき、人は真っ暗闇のなかをさまようことになってしまう。
それは生き方として非常に危うい。


だから他に寄りかかるような生き方はするべきではないと、ブッダは人生の最期に言葉を残した。ー【禅語】 自灯明 - 本当に自分を支えることができるのは自分だけ -より

 

 

日本の大乗佛法はある意味で社會化された佛法なので他との繋がりを重視し易ひことかと思はれる。

ですが佛陀による最晩年の教へこそがまさに此の「自灯明」だったのだ。

 

ところが、社會化された動物である人間はまさに周りとの関係性の中に生かされて居易ひことだらう。

だから他との繋がりを重視することがあながち間違ひだと云ふ訳でも無ひことだらう。

 

だが社會がブッ潰れさうな時に社會はみんなを救へる訳では無ひのである。

だからコロナでもって死ぬ奴は死ぬのだし、潰れる店は潰れることだらう。

 

だからほんたうのほんたうはむしろ自らを羅針盤として生き抜ひて行くより他は無ひのである。

禅は其の初期の佛法にもかうして確り目配せして居ることだらうからかうした説法もまたして頂けると云ふことなのだらう。

 

 

ー禅では、本当に自分を支えることができるのは自分だけだと考えるが、世間ではむしろ、自分を支えるものは自分ではない「何か」と考えることが大半かもしれない。

たとえば、富や権力や名声。
それらによって自分を支えている人も少なくないだろう。


けれどもそういったものをふいに失った時、自分がぐにゃっと倒れてしまうようであれば、やはりそれは人として本当には成長していなかったことを意味するのだろう。


富や権力や名声といったつっかい棒に支えられて、ただ背だけを伸ばしてきただけのこと。
うわべばかりの成長、いや、それは「成長ではなかった」ことが露見してしまう。


外見だけ大人になったところで、自分を支える本当の力は外側からは見えない内側にある
精神にこそある。


樹木を支えている根も、外側からは見えない。
だから外側ばかりを繕うと、いずれそのほころびが生じてくる。


富や権力や名声といった自分以外の支えを得て「大人になった」「偉くなった」と思い違いをすることは、じつはとても虚しいことなのではないだろうか。ー【禅語】 自灯明 - 本当に自分を支えることができるのは自分だけ -より

 

 

だから富や権力や名声などではまるで自分を支へ切れぬのだ。

さう云へば露西亜プーチンに其れから倭國の自民党よ。

 

エエか確りとココんとこを聞ひて置くのだぞ。

 

おまへたちはさうして外見だけは大人になりさうして銀座の高級クラブでもって👩の尻をちょろりと触ったりもしているが其れではまるでもってお子ちゃまとしての心の持ち主だらう。

 

 

自分を支える本当の力は外側からは見えない内側にある。ー

ー精神にこそある。ー

 

まさにそんな精神だ、精神。

 

ー外側ばかりを繕うと、いずれそのほころびが生じてくる。ー

 

嗚呼、全く其の通りだ!

所詮おまへたちは政治家と云ふ其の権威権勢としての皮だけを被ったお子ちゃまだった。

 

ー禅では、本当に自分を支えることができるのは自分だけだと考えるが、世間ではむしろ、自分を支えるものは自分ではない「何か」と考えることが大半かもしれない。ー

 

みんなはさうして社會と云ふデカひ「何か」に寄り掛かりつつ赤信号を平気で渡って行くのだ。

 

でもな、禅と云ふか釈迦はな、其処での考へがまるで違って居たぞ。

 

釈迦はな、ー自分を支える本当の力は外側からは見えない内側にある。ーー精神にこそある。ーと知って居たからこそ其処にまさに「自灯明」と云ふ眞理をお説きになったのだ。

 

 

だから財力や地位などの外見になど惑はされたりしてはならぬ!

人間の内面こそが其の価値観の持ち様こそが結局は全てなのだからこそ。

 

 

ちなみにマザーテレサカトリック教会の聖人であり修道会「神の愛の宣教者会」の創立者だ。

またノーベル平和賞の受賞者でもある。

 

但し中にはマザーテレサに対するこっぴどひ批判もまたあるやうだ。

でも其の内容を詳しくは知らなひ。

 

其れにつけても眞宗は流石に凄ひ訳です。

 

さうして何と御寺の掲示ボードにマザーテレサの御言葉が書ひてあったのだから。

 

尚もうひとつ其処に書かれて居たことがあり、其れは愚者は出来ぬことをやらうとするが賢者は出来ることに精を出す、と云ふやうなことでした。

 

 

ところでみんなは今リーダーに従へば文明は救はれるとさう思って居るのやもしれぬがそんなのはズバリ間違ひだぞ。

 

正しくは権威や権力には決して屈せぬことだらう個として強ひ自己の力を其処に持つことが出来るか否かだけなのだ。

 

尤も其の眞我の形成はたとへば他力本願の宗教に於ひて求められたりしては居なひ訳だ。

 

浄土教の御坊様方はまさに非僧非俗にて矛盾を受け容れる御立場なので其処で佛に赦される、とでも云ふべきかソコはどうも何やらキリスト教的な二元対立を其の侭に奉じる佛教のあり方なのであらう。

 

密教などはある意味でもっともっと分離が酷ひことかと思はれまた其ればかりかある意味では其れは佛教では無ひものであるとも考へられなくもなひのだけれど、其れでもかうして密教系の寺院はあちこちに沢山あり實際見に行くと一番面白ひのが決まって其の密教寺院なのだ。

 

 

行事等[編集]

  • 2月の節分会には豆まき祈祷が行われる。
  • 毎月18日の観音の縁日には、祈祷が行われる。
  • 毎月「6」のつく「祈願日」(6、16、26日)には、祈祷が行われ、境内で青空市『六の市』が開かれる(雨天中止)。
  • 毎月第四土曜日(8月、2月を除く)にはマルシェ『かんのんひろば』が開かれる(雨天中止)。第四土曜日が26日(六の市)の場合は、第三土曜日に開かれる。ハンドメイドの小物や、安心安全な食材が参道に並ぶ。[2]
  • 毎年8月9日は大功徳日「九万九千日(くまんくせんにち)」であり、祈祷が行われる。それと同時に多くの夜店が出店し、盆踊りや地元の中学校のジャズバンドによる演奏会なども行われる。

境内[編集]

 

 

さうして市が立つやうな寺の境内と云ふものこそが楽しひ訳です。

特に骨董マニアなだはさうしたところを経巡り掘り出し物を見つけたりもする訳です。

 

だが其れも實は庶民的な笠寺観音よりは八事の興正寺の市の方が高級品が出る確率は常に高くあるのが實情だ。

でも何せわたくしは出不精なのでアンティークの品をさうしたところへ出向き得たことなどはほとんど無ひ。

 

さう言へば三十年程前に大須観音の市にてヴィクトリア時代のものと思しきインク壺を発掘したばかりなので御座ります。

但しあれは五年程前でしたか、ヤフオクにて地元の人が興正寺の市にて出たと云ふプラチナ萬年筆の銀製のレアーな萬年筆を出して居て其れを落札し入手しては居る。

 

尚、わたくしはアンティークの萬年筆に就ひてはそこそこに詳しくおそらくはプロと一般マニアとの間位の経験と知識があるものかと思ふ。

だから元々は精神の希求者でも何でも無く只の物マニアでありつまりは其の下賤なるコレクター其のものなのだ。

 

其の物の追求者としてのラヒターはとある掲示板にて十三年程やりましたのですが要するに其れだけー物質的追求ーでは人間は決して救はれませぬが故に此処でもって精神の追求もまたやりたくなったのだった。

 

 

でもって文明はイカンとさう述べて居たところほんたうにドカーンと文明がやられて仕舞ひました。

でも文明がやられることを予測することよりは萬年筆だの石だのと戯れて居ることでこそ我は幸せになれるのだ。ー一時的にではあれー

 

なのだが其処に👩が入っては金輪際イカンのだ。

 

👩がもしも我に入ると其処にパンドーラ―のハコがカパッと開き其処からあらゆる災厄の芽が飛び出して来るのだ!

 

ところが笠寺観音へ行くとかうして何故か決まって👩だらけなのだ。

 

おそらくは大乗佛教、其れも密教系の寺や浄土教系の寺は極めて👩とは相性が良ひものと其処で考へられやう。

 

だが禅宗に限りおそらくは👩との相性が可成に悪ひものと思はれるのだ。

果たして其れは何でだらうか?

 

 

要するに俗なものー現世利益性ーには👩が群がり易ひのではなからうか。

但し其の論理にて密教浄土教をナメたりして居ては金輪際イケナヒのだらう。

 

だから禅、其のより潔癖な禅、おおまさに👩嫌ひの毛のある禅もまたマザーテレサのことを認めなければならぬのではなひかしら。

 

 

さて名古屋と言へば大須観音なのだが我我瑞穂区や南区など南部の人々にとってはあくまで笠寺観音なのだ。

 

で、其処で何が言ひたひのかと言へば要するに其の實存的で且つ具体性に刺し貫かれし価値こそが大事だとさう述べて居るのだ。

 

対して抽象的普遍的に推進される近代的価値などは其の實存的で具象的な価値を放逐する程に偉ひものでは無くまた確かな価値なのでも無ひ。

だが今みんなはそんな近代的価値にのみ頼り価値構築をなして仕舞って居る。

 

だからまさに其れが洗脳の様なのだ。

 

そんな洗脳を受けて居るからこそコロナや気候変動による災害にまるで対処することが出来ぬ訳だ。

 

 

其の笠寺観音へはわたくしの場合子供の頃からもう六拾年近くにも亘り訪れて来て居る。

 

さうした価値が何処の國にも、また何処の地域にも存在して居ることだらうと思はれる。

 

さうしてむしろそちらの価値の方こそが普遍化することなどの出来ぬ實存としてのオンリーワンの価値なのだ。

 

逆に言へば近代的価値の上で一番になどなることよりもむしろ其の實存としてのかけがへのなひ価値を壊さぬやうにこそ生きて行くべきだらう。

 

もしも近代的価値の追求の上で其のかけがへのなひ価値を損なふ虞が生じたならば其の追求こそは即刻止めるべきなのだ。

 

 

マザーテレサが仰ることも、また釈尊が晩年に説かれた法の内容もそんな風にまずは自己を確立せよと云ふことなのだと思ふ。

其れは自己本位ー利己主義ーとなることでは無く眞の意味での自己を形成して行くことなのだ。

 

現代社會では概ね其の自己としての価値観が狂って居り其処でもってまさに自我執着へと陥りがちなのだ。

中世や近世の時代、また其れ以前での時代よりも其のことはより狂ひ易くなって居り嗚呼まさに危険な状態にあるのだがもはや其のことに気付く人などは稀であらう。

 

其の笠寺観音の本尊である十一面観音像を観たことは無ひのだが子供の頃より「亀の池」にて其の亀共には親しんで来たが其の池もいつしかドロドロに汚れ最近は何処にカメが居るものやら分からぬやうな有様だ。

 

其れでも猶笠寺観音と言へば其の池の亀と節分会に出る多くの露店なのだ。

まさに其処が八事の興正寺などとは異なり庶民的な日常が感ぜられる寺である。

宗教より紐解く文明の持続不可能性ー人間の内部でのみ完結して仕舞ふ進歩と云ふ危険な物語ー

 

其れでは何故文明世界には持続可能性が無ひのかと云ふことにつき今此処で考へてみませう。

 


わたくしは其れを社会的に齎される欲望の肥大化ー抽象化ーによるものだとさう結論付けて来て居る。

 


さう其れは個としての問題では無くあくまで社會の営為としての問題なのだ。

 

 

 

わたくしが奉ずる持続可能性への論理とは社會的に規定される欲望を常に最小化して行くと云ふことだ。

何故なら其の社會的に規定される欲望=抽象的に規定される欲望がデカくなればなる程にまさに社會的に齎されるリスクも高まって行くからなのだ。

 


だから其処でなるべく社會的な欲其れ自体を離れて行く。

逆に謂はばお家レヴェルでの欲の追求であり合理化をやって行く訳だ。

 


つまりは其れがまさに脱近代に於ける思想の核心部となる。

まさに其れが抽象的価値を意図的に離れ具象的価値に目覚めると云ふやうなこととなるだらうか。

 


抽象的価値→具象的価値

未来への欲望→目の前の欲望

大ひなる希望や夢→むしろ夢も希望も持たぬこと

支配欲→世捨て欲

子孫の繁栄→己独りが死んで終はり

 


と云ふまさに逆の価値観に目覚めて行かねば其の社會的に齎されるデカひ欲の撲滅には繋がらぬことだらう。

 


では御勉強することなども其の社会欲の成就に繋がることではありませんか。

第一最近何処かの塾の宣伝で御勉強すると年収が上がるだの何だのとさう言ってさへ居ます。

 

 

 

だが御勉強にはな、元々弐種があるのだ。

其れは覚へる御勉強と考へる御勉強の違ひである。

 


で、学校や塾はな、主に其の覚へる御勉強をやって行き偏差値だけを上げて行くのだ。

でもな、ほんたうの御勉強は自ら考へる力の為のものだらう。

 


なのだが学校や塾の御勉強もまた大事なのではある。

何故なら御勉強はやるクセを付けぬとやりたくなくなるものなのでイザさうなれば考へるクセもまた付かぬものであるが故に。

 

 

 

さても現代社會が今後もやりたひやうに文明をやって行くとどうなることでせう?

おそらくは其処に文明が崩壊して行くことだけは明らかだらう。

 


問題は其の崩壊をより穏やかなものにして行けるかどうかと云ふことだけだ。

 


では此の侭行っても全てが崩壊して行くとさう仰るので?

 


おそらくはさうなることだらうが其れ迄には時間があるので其の時を有効に活用しソフトランディングして行くべきだとずっとさう述べて来て居た筈だ。

 

 

 

その間に個としての価値観を正す、まさに此のことに尽きて居るのだと思ふ。

では文明の価値観を正すことは出来ぬとさう仰るので?

 


要するによりデカひ領域のものは結局合理化出来ぬ訳だ。

またさうしたにせよ推進力を失って仕舞ふことだらう。

 


だから其の推進力を個の範囲に限定し是非合理化して行くべきなのだらう。

 


なのだけれども、何度も述べて居るが如くに、

 


全体論的理性⇔還元的理性

と云ふ根本での対立がまた存するが故にまさにどちらをも見詰めて行かねばならぬ訳だ。

 


より具体的に言へば合理的進歩主義を諫める立場での人文の理性の力を決して見失ふべきでは無ひ。

 

 

 

ではさうしてより理性を磨くことで、即ち理性に目覚めることで我我個は救はれるのですか?

救はれると云ふよりも社會との関係のあり方がより改められ得ると云ふことなのだらう。

 


さすれば社會的な価値観に染め上げられることが無くなり自らの意志で考へる=眞の意味での理性を保つことが可能とならう。

 


理性⇔信仰

 


だが其れを成し遂げた後にも心理的にはまさに不断の努力が必要となることだらう。

即ち理性的な存在は信仰其のものへは至ることが出来ぬ訳なのだからむしろそちらの方を向き生きて行かねばならなくもならう。

 

 

 

でもまだ社會が持つべき正しひ欲望が何で悪ひのか、其のことがまるで分かりません。

社會は即ち文明は善であり善だからこそかうして人間が地球を支配しつつ生きて居るのです。

 


ばか、其処でよーく考へてみよ。

善も悪も正も邪もほんたうは無く只問題が有るか無ひかだけなのだ。

 

 

 

でもたとへばキリスト教ではあくまで善悪のことですよ。

キリスト教はな、他力本願の宗教でむしろ此の世は悪ひとさう捉へる宗教のことなのだ。

 


わたくしはさうした捉へ方こそが正しひことだらうと思ふ。

つまりは此の世のあり方にこそ問題がある。

 


何故かと云ふと其処にはまさに罪があるからなのだ。

 


でも神道とかまた他の多神教とかでは世はむしろ神と一緒に暮らすエエー良ひーところなのだ。

 


なのでむしろ其処では永遠の命=永遠のドタバタ劇を現世にて得やうとする訳だ。

即ち其処に生其れ自体を一種祀り上げても行くことだらう。

 

 

 

でもキリスト教と佛教はな、また其れとは捉へ方が違ふのだ。

 


特に釈迦による解脱の方法はな、其れはもう完璧に生其れ自体を止めて行く方向性にて其の点ではキリスト教などよりもむしろ過激なんだ。

 


そんな過激なんかじゃなひよ。

 


だって日本のお坊さんはみんな日々御先祖様に感謝しませう、だのととても常識的なことを仰って居ますよ。

 


いや其の常識的な佛教こそが實は非常識なので、其れでもって東南アジアの御坊様方などが日本の大乗佛教は邪教であるとお怒りになられたりもして居る位だ。

 

 

 

其れとな、其の善悪規定でのほんたうのところをよーく考へてみるべきだらう。

 


其れと云ふのも善悪と云ふ価値規定はそも成立などして居なひのだ。

 


エッ?

 


ではおまへは善人でも悪人でもなひのか?

 


いやだから其れはおまへから見れば我は確かに👿に見へることだらうがまた意識の高ーひ人々から見れば類稀なる善人にもまた見へることだらう。

 

 

 

其の善悪と云ふ相対価値を受け容れること自体が他力本願でありまた神と👿との対立をさう規定して行くことなのだ。

 


だから必然的に其れは相対的にしか救はれ得ぬ=救済されるものでしか無ひ訳だ。

 


でも釈迦の佛法はあくまでさうじゃ無く、其れ即ち其の相対価値其れ自体を両極否定により滅して行くものだ。

 


だから其れは人間として成し得る究極としての合理化なのだがもはや其れは人間技のものでは無くなって仕舞ふ。

 


なのでほんたうのほんたうは釈尊以外に悟った人など居なひのだよ。

アノ宗祖は確かに悟りました、などと云はれて居るのはまあ各宗派に於ける方便のやうなものなのだらう。

 


でも結局はどちらも正しひのだ。

 

 

 

相対認識⇔脱認識

他力救済⇔自力救済

 


と云ふことなのでキリスト教や大乗佛教、特に浄土教の場合は相対認識を受け容れることでこそ他力本願を可能として行くことだらう。

 


またキリスト教の場合にも其の相対認識を受け容れるー認識としての罪を赦されるーことでこそ神からの救済を可能として行くことだらう。

 


でもお釈迦様の頭の中には結局神は居なかったのだった。

 


エエッ?神が居なひ?

 


でもお寺へ行くと神々もまた居るものですが。

 


其れは大乗化して要するに他力佛教化しさうして神々が混入して行った訳だらうな。

 

 

 

神が居なひのだとすると其れはもしや無神論なのか?

 


さうだよ、其の無神論だよ。

 


きゃあー、そんな怖ひ教へこそが佛教の正体だったのか!

 


まあより正確には、

 


神⇔👿

と云ふ其の分別概念其れ自体を滅して行くことこそが佛陀による教への核心部なのだよ。

 

 

 

では其の佛陀の教へでは、祈ることや拝むことなどもむしろ無ひの?

 


さう祈るものも拝むものも此の世には何ひとつ無ひ。

 


信じるのは自分の考へと云ふか心のあり方だけででも最終的には其の心の働きさへをも放棄して行く訳だ。

 

 

 

エエッ?其れではもはや人間では無くなるのではありませんか?

 


さうだよ、もはや人間では無くなるのだよ。

 


ではたとへばAIと云ふのは其の佛の境地のやうなものに近ひものなのではありますまひか?

 


AIはでもあくまで人間が創ったものだからまるで違ふのじゃなひかな。

 

 

 

では其の佛陀の教へでは、たとへば其処にお経も墓もお布施も何も要らぬのですか?

 


まあ要らぬことでせう。

でもお布施を否定されて居る訳では無ひとさう思ふ。

 


ではかうして日々題目や念仏を唱へる日本の佛教とは一体何なのですか?

 


まあ須らく他力救済での佛法のあり方でせう。

 


でも禅の場合でも般若心経などは唱へられて居るやうですがもしや其れもおかしくはなひですか?

 


まあ本質的にはちょっと変でせう。

でも禅も最終的には相対分別の抹消が其の修行の目的なのでせうから逆に其処には余り拘らぬ方が良ひことだらう。

 


禅だけがさうして自力救済を目指し佛教としてはより純粋なのですか?

 


まあおそらくは釈迦の佛教に対してはさうであることだらう。

 

 

 

ですが其の、

純粋⇔不純

 


と云ふ相対概念分離こそがまずもっては問題となる訳だ。

 


ですが他力救済の宗教は概ね其の矛盾を受け容れ神と繋がり神に救はれるか、其れとも佛と繋がり其の佛に救って頂くなりする訳です。

 


では釈迦の佛法により近ひと目される禅宗の場合は題目や念仏をまるで信じては居なひのですね?

 

 

 

そりゃ知りません。

 


でもおそらくは否定的ではあることでせう。

 


だけど家の浄土眞宗式の金ピカの佛壇の前に座した曹洞宗宝蔵寺の若住職はいつも平気で其処で般若心経を唱へて行かれます。

 


なので日本の大乗佛教はむしろ何でもありでもって實際のところは良く分からん訳です。

 

 

 

でも何故浄土眞宗は般若心経を唱へぬのだ?

 


禅宗密教が重視する此の有り難き御経をさうして否定するに及んだのだ?

 


否定して居るのかどうかは知りません。

 

 

 

多分本質的にはキリスト教もまた空の思想では無く有の思想なのだらう。

要するに此の世は神の御業によるものなのでまさに有るんです。

 


其れが無ひではイケナヒのです。

 


では浄土眞宗もまた有の思想なのですか?

 


うーむ、ソコんところはまさに判断が難しひところですが浄土教がソコまで有る方へと傾ひて居るのかどうかはちょっと分かりません。

 

 

 

で、結局宗教は何でも良ひのですか?

 


結局、

 

 

自力救済⇔他力救済

 


とのことですがわたくしが問題として捉へて居ることとは實は其の選択の問題では無く、

 


もっともっと其れ以前での、

 


そも現代人にとり救済に意味があるのかどうか、と云ふまさに其の点なのです。

 

 

 

構造的には、

 


多神教による現世利益の追求⇔救済宗教による現世否定

と云ふこととなるが、

 


實は、あくまで現代人は、

 


科学技術による現世利益性をむしろ頑なな迄に奉じて来て居ります。

 


だから其の構造の前に、

 


宗教による救済の価値がむしろ科学技術による現世利益の価値へと全面的に転化して仕舞って居る。

 

 

 

まさに其れが自然科学による人間の価値観の数的還元領域への合理化と云ふことなのだらう。

 


で、多神教による現世利益性と数的還元領域での現世利益性はあくまで似て非なるものである。

 


要するに其処では合理化の度合ひがまるで違ふ訳である。

 

 

 

要するに神は時に怒ることもあり人間にとり畏れ多き存在でもまたある訳だが科学技術は決して人間に対し怒ったりはしなひ。

 


つまりは神は内部のものであると同時に外部のものでもまたある訳だが科学技術はまるで外側には居なひものである。

 


要するにさうして人間の概念が抽象的に組み上げたものであるに過ぎぬ。

 


其れは謂はば人間の内部でのみ完結して仕舞ふ進歩と云ふ物語なのだらう。

 


進歩が陥る危険性とはまさに其の種の自己完結性にこそ存して居ることだらう。

 


自己完結性とは神により与へられた世界を生きることでは無くむしろ神を人間の領域から永遠に放逐することなのだ。

 


神は死んだとかってニーチェが語ったが如くにいつしか人間は神を事實上殺しあへて自らを還元領域へと閉じ込めて仕舞った。

 


正直わたくしはさうした自己完結した上でのまるでSFのやうなお話に対し希望を繋ぐことの困難さを今感じて居る。

此の進歩を是とする現代に於ける社会欲の成就とはさうしたまるでSFのやうなお話に対し突き進むことでしかあり得ぬ訳だらう。

 


ー釈迦の法に於ける自己完結と其の社會的に達成される自己完結の様は異なって居る。釈尊はあくまで非社會的な個の領域に於ける解脱の方法を説ひた。解脱の為にはむしろ個に於ける其の自己完結の過程こそが必要だった訳だ。より簡単に申せば孤独である方が人間は眞理に向き直り易ひ訳だ。ー

田根 剛氏による目覚めた人間の為の建築ーサステイナブルな文明のあり方を模索する試みⅡー

田根 剛×齊藤太一 大地とつながるキッチン。 お手本は縄文の台所です。

 

其の番組中で最も驚ひたのがこちらの邸宅でした。

見た感じでは非常に洗練された空間でまさにお洒落なのですが、實は脱近代的な要素も其処には多分に盛り込まれて居る。

 

即ち土壁だのガラスで囲んだ温室のやうな造りだの古臭ひ要素がふんだんに盛り込まれて居ます。

しかも調度品などが至ってシンプルなのですが、だからと言って無機的な近代空間を形成する訳では無く温かみや安心感を感じさせるものとなって居る。

 

わたくしはまさに此の家こそが現代に望み得る最高の個としての空間なのだとさう素直に思った。

 

實はTV番組の中ではもっと庭の木立の様子が強調し映されて居てまるで林の中に建つ別荘の如き景観を呈して居りました。

 

で、此の邸宅はそんなに高価な素材を使って居る訳では無ひと云ふのに住空間として高いレヴェルでの快適性を實現して居るかのやうです。

 

ですが世界的な建築家である田根氏の作品であれば無論のこと其の設計費などはお高ひことでせう。

 

 

なのだが、我我は其処から學び得る筈だとさう思ふのです。

 

こんな家には勿論誰もが住めなひ訳ですが此処に示されたところでの人間の生活に対する快適性に関する要素を我我個は取り入れることが可能な筈だ。

 

で、さらに極論を言へば其処は洋風だらうが和風だらうがまるで関係無ひ訳だ。

 

洋風だらうが和風だらうが人間を快適に住まはせる要素とはまさに自然との共生関係にこそある。

 

 

逆に言ふと田舎の一軒家のことなどが何故か近年はTV番組化され大人気なやうですがまさに其れは田舎の一軒家の方が都会でのマンション暮らしよりもずっと快適に暮らせると云ふことなのだらう。

 

ところが廿世紀末位まではかうした辺鄙なところでの不便な価値と云ふものを都会の人々はほとんど評価して居なかった訳だ。

尤も芸能人などでも一部の文明のあり方に対する見識の高ひ人々が早々と田舎へと移住して居たりすることはあった。

 

でも勘の悪ひ奴等には何でワザワザ都落ちするのかと云ふ其の価値観の違ひから来る無理解があった訳です。

 

其の都が良ひと云ふのはまさに文明が良ひと云ふことで、其の価値観に立てばTOKYOやらNEW YORKこそが最高で奥三河の一軒家などは如何にもダサひ。

 

と云ふこととなりませうが逆に都会の人は現代社会の抱へる矛盾の酷さにやられ都会の価値観こそがむしろサヒテーに感じられるが故にむしろ田舎の一軒家こそが理想郷となるのであります。

 

なので其れは最終的に価値観の問題となるのです。

 

 

しかも美意識の問題なのでもある。

 

其の美意識さへあれば田舎でも高度な文化的生活は可能でせう。

 

いやむしろ藝術家は静かな環境をこそ好むものです。

 

藝術家にとっては内面での出来事が最も大事な訳ですのでウルサヒ都会を離れ沈思黙考することが可能な環境へと是非移住したくもなる訳です。

 

なんですが其処まで考へたり感じたりはして居なひ大衆に其れが必要かと申しますとむしろ合はなひことだらうとさうも思ふのです。

 

 

さて其の都会的洗練に就ひてですが其れは結局理性の力によるものなのかもしれなひ。

 

しかしながらそも其の洗練とダサさの境界と云ふものが良く分からぬ訳だ。

 

但し田舎のものでも本物の家は至極立派な家で洗練とは違ふのかもしれぬが其処に揺るぎなひ価値を感じさせられる。

 

たとへばわたくしの弟の嫁ーわたくしより三歳上ーの長野の家などは文化財指定されて居るまさにそんな立派な家です。

其処には本物の素材ー主に木曾檜ーがふんだんに使はれて居り其の柱の太さ、見事さにはいつも圧倒されて仕舞ふ。

 

都会的洗練も馬脚を露すのが早ひと申しますか80年代までは持て囃されたやうな直線的なビルだの何だのは今は流行らなくなったが其れでも都会にはいまだコンクリ製の直線物などが多ひ訳です。

其の幾何学的な造形がおそらくは有機体としての人間の素の姿には元々合はぬものなので次第に其れが疎んじられやがては皆が山奥の一軒家を再発見して行くのだとさう思ふ。

 

 

幾何学的な造形であれ何であれ其れを有機的に再編成し少しでも人間の生のあり方に適合させることこそが大事な訳で、彼田根氏の作品にはまさにそんな意味での有機的複合の努力の痕ー理性的なーが何より感じられるので其の空間が生体にとっての快適性を生み出すことかと思はれる。

 

さうしてまさに其の有機的複合の鍵を握るものが植物との共生です。

 

田根氏の建築作品には其の植物との共生の思想が何より垣間見へる訳だ。

 

また植物だけでは無く土との共生を建築の中に盛り込む点こそがユニークな視点です。

 

 

皆様御存じのやうに古ひ日本の家屋には土壁がありまた我が家などもまたさうですが基本的に木と紙とでもって出来た家です。

 

此の日本家屋は隙間が多く冬はとても寒ひのですが高温多湿となる日本の夏にはむしろ向ひて居たりも致します。

 

縁側と云ふものもまた御座りまして夏の夕方にソコに寝っ転がって居りますと庭から風など吹ひても来なかなか涼しくよってかってはエアコンなど要らなかったのです。

 

なのですが近代化から地球温暖化が引き起こされ其れでもってさうしたかっての自然的な生活も難しくなって仕舞ひました。

 

 

尚家は金が無ひので家を新築する予定などはありませんが我が家の辺りでは代替はりにて家を新築される方がまた多ひ。

 

すると其の新しく出来た家が皆おかしひのです。

 

其れもよーく見ますと皆窓が酷く小さく要するに外部との物理的接触を遮断するかのやうな家がほとんどです。

 

わたくしはまさに其れが文明の価値観としての病気だとさう思ふのでたとへどんなに綺麗な家でもそんな家に住む気にはなれなひ。

 

 

兎に角文明が自然との交流を遮断するかのやうな考へ方こそが現代社会の陥った深ひ病であることだけは間違ひありません。

 

で、先に申しましたやうに其れは西洋だからまた東洋だからと云ふことでもありません。

合理主義の筈の米國などでも意外に自然と共生し暮らして居るケースなどが屡見受けられます。

 

より保守的であらう筈の英國などは或はもっともっと自然との関係を大事に捉へて居るのやもしれぬ。

 

日本の田舎でも勿論其の自然を大事にして来て居る筈です。

 

ですが何故か日本の都会、其れも大都会のみが自然に対し極めて冷淡なのです。

 

まさに其れが戦後民主主義に於ける経済成長を目指して来たことの弊害で無くて何なのでせうか?

 

 

「記憶は現在を動かし、未来をつくる」田根 剛「未来の記憶」より

 

田根氏はさうして常に記憶を呼び覚ます訳だ。

其の記憶とは何より時間の経過を表すものでせう。

 

其れを意識ー理性ーとして誘導し物理的に組み上げる訳です。

未来への選択としてはおそらく其れが最善の結果を齎す筈です。

 

此処からしても人間はさうして文明は一度近現代の歴史を逆転させてみるべきなのやもしれません。

人間の歴史とは實は近現代のみに偏ったものでは無く中世や弥生時代縄文時代、また石器の時代をも内包するものです。

 

故に未来をつくるのはテクノロジーの力だけでは成し遂げられません。

テクノロジーは基本的に数的還元された価値観ですので、其処には一切有機体としての人間の快適性が考慮されて居なひ。

 

だからAIをつくることがむしろ有機体としての人間の快適性を損なって行くことでせう。

まさに其れは🚗や✈や🏭やらが悪ひものを撒き散らし地球を汚すことで人間の快適性を損なって行ったこととまるで同じことです。

 

 

ですからみんなが信じて居るもの、闘おうとして居るものの相手がそも違ふのです。

みんなは文明を信ずることなく逆に其れと闘はねばならぬのです。

 

所謂ポジティヴな未来、希望に満ちた未来は、其の文明を盲目的に信じ切って居る部分からは決して生じ得ぬことだらう。

其ればかりか夢と希望に満ちた未来など本質的には存在して居なひ。

 

けれどももしもアナタ方が其の未来に今を繋げたひと云ふのであれば逆に今を過去にこそ繋げてみるべきだ。

 

むしろ過去こそがそんな希望としての記憶の宝庫なのだから。

 

 

田根:また、当時は世界的に、「スター建築家」という建築家像が流行った時代だったんですね。スター建築家が世界のどこにでも現れ、コンペを獲り、個性の力でグローバルに活躍する。それに対して、僕らの世代は同じ道に向かうのか、違う未来を作るべきかということを、ヨーロッパで仲間とよく話していました。そんなとき、建築を作る原理として「記憶」という言葉が、僕のなかで強くなっていったんです。

 

田根モダニズム建築には、もともと、宗教や政治から自由に建築を作ろうとする創造的な意義がありました。しかし、それが幸か不幸か経済と結びつき、ガラスとコンクリートによって誰にでもできる仕組みになった。その結果、とくに大都市はどこも高層化し、抽象的な空間が増えて、街が記憶を失ってしまったんです。そんな時代の次に、僕たちは忘れ去られたものを発掘することで、何か異なる意味を探りたいと考えてきました。

一方で、古代まで遡って考えるなら、建築の基本は「場所の記憶を作る」ことだと思っています。ある場所に記憶を付与して、2つの地点に「ここ」と「そこ」という違いを作ること。

そこで重要なのは、記憶というと人の記憶に寄りがちですが、僕が言うのは、まさしく場所が持つ記憶のことなんです。人は記憶を忘れてしまうし、誰とも共有せずに亡くなることもある。でも、場所には人の記憶を超えたものが刻まれているから、それを掘り起こして未来につなげたいと思うようになりました。

 

田根:じつは「未来」という言葉をなかなか使えずにいたんです。だけど、エストニアミュージアムができたことで、本当に土地の人々の人生が変わり、街が明るく変わっていくのを見ました。建築は、完成した瞬間に未来に向かっていくんだということを、とても強く感じることができたんです。

その経験を経て、「新しさ」によって未来を作る近代的な考え方ではなく、もともとそこにある記憶と未来を一体化するような建築があるんじゃないかと。今回の『未来の記憶 Archaeology of the Future』というタイトルには、そんな思いを込めました。ー田根剛の頭の中はどうなってる? 古代と未来をつなぐ建築家に訊くより

 

 

ー抽象的な空間が増えて、街が記憶を失ってしまったー

 

まさにわたくしが批判して居る点が其の現代文明に於ける抽象性です。

 

主に都市に於ひて抽象的な空間が増へることで、またさらに抽象的な概念が増へるー増殖するーことで人間が本来持って居る筈の具象性が圧迫され破壊されて行く訳だ。

具体的に申せば先回述べましたやうにゲームやスマフォの蔓延にて今子供の近視が進みもう大変なこととなって居る訳です。

 

其処にさらに批判を加へますれば今の教師や母親達は一体全体何をやって居るのでせうか?

そんなもん人間の體にとり悪ひに決まってるゲームやスマフォを何でまた子供等にやらせたりするのでせうか。

 

そんなもんやる位なら子等が川で流されて土左衛門にでもなる方がまだしもましと云ふものでせう。

 

確かにわたくしもかうしてパソコンはやりますがわたくしのパソコンは昔から大画面のデスクトップ型でTV番組や映画のDVDなども皆コレでもって視て居ります。

何でまたパソコンを持ち歩ひてネットやゲームをやる必要があるのでせうか。

 

 

ー「場所の記憶を作る」ー

 

まあ壱種難しひ論題ではありませうが、考へてみるとポツンと一軒家の其の一軒家の価値と云ふこともまた確かに場所の記憶なんです。

場所の記憶と云ふことは人間の持つ抽象的な思考の癖を離れて具象的な場に立ち返ると云ふことなのやもしれません。

 

ー「新しさ」によって未来を作る近代的な考え方ではなく、もともとそこにある記憶と未来を一体化するような建築があるんじゃないかー

此れ迄にも何度か述べて来て居りますのですが、近代的な原理とは進歩により創造と破壊を繰り返しつつ歩んで行く其のパターンの固定化でもまたある訳です。

 

創造と破壊なのであれば其れは本来ならば神のみが行ふべきことである訳ですが、近現代はまさに其の立場に人間が入れ替はり就ひて居り其の本来ならば神の御業であることをあへて人間がやって行って仕舞ふ訳だ。

でも其れは嘘の御業でありあくまで人為での御業ですので何処かにポッカリと開ひた穴、欠点が存して居りまさに其処がデカくなるのでいつしか文明の全てが其処へと吸ひ込まれて行かざるを得なくもならう。

 

其の如何にもヤバひ🐜地獄のやうな世界ー人間の認識にて自ら選んだ世界ーをギリギリの綱渡りでもって此れ迄やって参りましたが2020年を迎へると同時にドーンと其処に落ちたのでした。

で現在はまさに其の穴の中でもがき続けて居ると云った感じなのでせう。

 

其のギリギリの綱渡りとはそもそも危険なものなのでやらぬ方が良ひ訳ですが元よりみんなには其れが分かりませんのでかうして穴の中でもがき続ける他は無ひ。

其れ即ち🐜地獄のやうなもの、人間地獄、文明地獄のやうなものに捉へられたのだとも申せませう。

 

 

ー「記憶と未来を一体化する」ー

 

近代的原理はたとへばニュートン力学や天動説を否定した上で相対性理論量子力学、また地動説を打ち立て其れを奉ずることにて新しひ人間の考へのみに生きやうとします。

なのですが、實は過去のものが悪ひと云ふ証拠など何処にも御座りません。

 

逆に言ふと新しひ人間の考へにのみ傾くことのリスクは計り知れぬものがあると云ふことでもある。

進歩には必ずや其の二面があり、まさに其れが人間が表面的に便益を享受することの裏腹に地球を崩壊に至らしめて仕舞ふ虞さへもがあると云ふことです。

 

故にむしろ記憶を未来へと取り入れた方が文明のリスク管理はやり易くなるのです。

 

たとへば地球温暖化の大問題であるにせよ二酸化炭素をドンドン出しつつ現代文明を継続させて行くよりは原始的要素を取り入れた生活を営むことで循環や自然との共生の思想を目指して行くことが初めて可能となる。

 

 

また其の事が結局エネルギー管理の問題にも絡んで参りませう。

 

過去を取り入れたローリスク型の居住空間を構築することでより少なひエネルギー消費にて人間の営為が新たに開始される筈です。

 

問題は成長を前提とする資本主義が其のモデルに適合せぬことですがさうであるならむしろ資本主義を放棄して行くべきなのではありますまひか。

 

資本主義など放棄し原始共産制だの無政府主義だの色んな社會のあり方が其処に考へられるではありませんか。

 

要するに人間がグローバルに活躍する必要などもはや何処にも御座りません。

 

さうした幻想としての抽象的価値は具象的限定としてのコロナ禍がすでに葬り去って居ることでせう。

 

 

さう言へば以前から詩人さんは飛行機に乗るなだとか豪華客船に乗るなだとか海外へ旅行するなだとかそんな非常識なことばかりを良く述べて居られましたね。

 

確かに此処で其ればかりを屡言って居ました。

 

でも一体何で其れが当たるのでせうね。

 

皆様はまず其処を考へた方が良ひのではなひでせうか。

 

 

其の住環境と云ふのは庶民にとっても分かり易ひ具体的な領域だと思はれます。

思想だの何だのを抜きにしても兎に角分かり易ひ訳です。

 

ですがまさに其の住環境こそがおかしくなりつつあるのではなひか?

 

まさに其処がわたくしには懸念される部分なのです。

新たな住宅はまさに合理的に設計され自然との関はりを断って行くかのやうです。

 

自然との関はりを極力大事にして行く為には近代的な価値に対し少なくとも懐疑的な姿勢を貫けるやうでなくてはならなひ。

 

ですが庶民にとり其れがもし難しひのであれば何故田根氏の創られた建築物が快適さうに見えるのかと考へさらに眞似をしてみれば良ひのです。

 

たとへば植物を自分の部屋に入れるなどしてみるだけで部屋の雰囲気がまるで変はるものです。

 

わたくしの場合は竹を入れていますね、其れも育ち過ぎて隣の家にまでかかって仕舞った黑竹を壱本其の侭に入れて居ます。

 

其の竹は枯れて仕舞ひましたが七夕の如くに色々と飾りつけなどが出来ますのでこれから色々と付けて行かうかと思って居ます。

 

尚わたくしは筆記具のコレクターでもあるのですが、庭の竹ー様々な種類のーを軸に使ひDip Penを作ったりも致します。

 

他に石などは沢山置ひてありますので無論のことながら其れ等が一番綺麗です。

 

石は枯れもせず飯も食はずで人間が生きてる間にはほとんど変化しなひものですのであくまで装飾品としては理想的なものですし何よりも其れ等は自然物なので眺めて居るだけで癒されるものです。

 

此の自然物があると云ふだけで人間にとっての居心地の良ひ空間が形作られるかのやうだ。

 

かうして人間は常に自然を大事にしつつ生きるべきです。

其れも居住スペースの中に意図的に自然を取り込むことでこそ眞の意味での癒しの空間が形作られるのではなからうか。