ー遺伝子は親から子に受け継がれ、生物の形質(性質)を決定するものだが、遺伝子はDNA上にある。
イメージとしては、DNA上にちらほらと点在している。
遺伝子の正体(本体)がDNAと言われるのもこれが理由である。
全ての生物はこの遺伝子を元に、タンパク質を作る。
そしてこのタンパク質が酵素を作り、生物の細胞を作り、具体的な体を作っていく。ー二重らせん構造より
分析的では無ひ理性に此のDNAの存在は知られませんが、細胞の合理的分析により今はかうしてDNAが存在することが分かって居ます。
即ち知性が合理化するとまた新たな領域が見へても来る。
けだし其の新たな領域には懐疑的なのがわたくしの思考の基本スタンスです。
要するにさうして現象の詳細が見へれば見へる程にさうした分離度の高ひ現象を選択して生きて行くと云った捉へ方です。
逆にDNAが見へぬ方が素朴な認識でもってより安全で好ましひと云ふやうなまさに一種後ろ向きでの考へが無ひでもありません。
何故DNAが見へぬ方がよりベターだと考へるかと言へば分離度の高ひ現象を選択して生きて行く時に限りリスクが増大すると云ふ宇宙の摂理みたひなものにすでに気付かされて居るからです。
わたくしの認識論又は社会システム論はあくまで限定的に規定されるバランス論ですので、分離度の高ひ現象を選択して生きて行けばー其のやうな認識に至ればーリスクが高く存するより大規模な発展が可能だがあへて其れをせず一種の抑へた認識をして置けば発展はしなひ代はりにより安心で安全だと云ふものです。
尚わたくしは当たり前のことを言って居る訳で實のところ現代社会があへて其れとは逆方向の認識を選んで来たが故にリスクコントロールが立ち行かなくなって来て居るばかりでのことでせう。
但し今更さうして自然科学を全否定しても意味は無ひとさうもまた思ふ。
また個人的には自然科学がむしろ好きで特に古生物學の本などは三十代の頃に良く読んで居ました。
また宇宙論には大きく興味があり廿代の頃は主にそんな本を良く読んで居ました。
ー其れもとりあへず数式は抜きで其れを考へる訳ですー
重要なのはわたくしの観念的立場は自然科学至上主義などではまるで無ひと云ふことです。
ですが何せ自然が大好きですので自然科学による宇宙の理解、世界の把握の方も大ひに参考にして来たと云ふところでせうか。
どだひ遺伝子のことが分からずとも歴史は形作られて来て居るのだし其れが分かったからと言って其のことにより人間が本質的に幸せになれる訳では無ひ。
其れに遺伝子のことが分からずとも藝術の分野、また宗教の分野は人間にとっての其の本質的探究を異なる領域で続けて来て居た訳でせう。
だからどちらが上だと云ふことでは無くむしろ両方が無ければ其の目指すところでの幸福とやらが見へては来ぬのではなからうか。
分析的理性⇔非分析的理性
でもってして、おそらくは互ひに密接に関連し合って居る筈なのだ。
ですが「進歩」と云ふ概念に対しては科学技術との相性が良く其れにより功利的、効率的に社會を組み上げることが可能なので特に戦後はさうした分析的理性を基とする文明が組み上がって来たのだと思ふ。
だがわたくしの認識論では其の分析的理性の分離度が常に高ひ訳です。
より具体的に申せば天動説と地動説とでは天動説の方が分離度が低くより安全である訳です。
また相対論とニュートン力学とではのニュートン力学の方が分離度が低くより安全でもある訳です。
勿論そんなことを言ふ奴は現代の自然科学者の中には一人も居なひことでせう。
でもわたくしは所詮自然科学者では無ひのでさう云ふことを述べる自由などもまたあることかと思はれる。
但し何度も述べて居りますやうにわたくしは分析的理性の力を否定して居る訳では無くむしろ其れに接するのが好きな方なのです。
けれども實感として自然科学の還元処理には遊びと云ふか隙と云ふかそんなものには欠けて居るのではなひかとさうも思ひます。
丁度藝術方面に強ひ人が数式的には割り切れやうが無ひことと同じくしてまた宗教への信仰が数式などでは表しやうが無ひことと同じくして其れ等がまるで違ふものであることもまた確かなことなのでせう。
正直わたくしは現代の文明をリスク管理の面に於ひて追ひ込んで居るのは科学技術だとさう考へて居ります。
科学技術がもしも無くなれば或は地球はまた人類は助かるのやもしれませぬ。
自然科学を全否定はしなひとさっき言ったばかりではなひか?
さうでした、どうもすみませんでした。
自然科学並びに科学技術は否定されるべきものでは無くされど是非ほどほどに探究されるべきものであり其れ等に全的に頼ってはならぬと云ふのがわたくし個人の分析的理性に対する見方です。
逆に言へば宗教や藝術に全的に嵌るべきでは無ひのやもしれぬが實際にはさうしたアナログ的な行き方の方が遥かにリスクは小さくならう筈だ。
ー人文系のものが齎すリスクは自然科学による環境破壊によるリスクよりも常に小さくなりますー
ー塩基にはいくつかの種類があり、DNAには4種類の塩基が含まれる。
それはアデニン、チミン、グアニン、シトシンの4つで、それぞれの頭文字をとってA、T、G、Cと省略して呼び、この塩基の並びを塩基配列という。
DNAでは、この4種の塩基がバラバラに並んでいるのである。
1本の鎖状となったヌクレオチドは、塩基部分で別のヌクレオチドの鎖とまた結合し、対になる。
そしてこの結合の仕方には法則があり、AはT、GはCと必ず結合する。
ちなみに結合するときには、お互いの向きは逆方向になっている。
この塩基同士で対になったものを塩基対と言い、1塩基対、2塩基対・・・と数える。
だから例えば上図の塩基対数は4つである。
さらに最後に、この対になって結合したものがねじれてらせん状になり、私たちにおなじみの二重らせん構造のDNAの形になる。ー二重らせん構造より
重要なことは此の生命現象を司るDNAには塩基対と云ふ形での対義的に形成される相関関係があることです。
おまけに逆方向になって結合するのだとも此処に書かれて居る。
其の対義性と云ふことがどうも鍵を握って居るやうにも思はれる。
文系的に言へばまさに其れは二元的結合なのでせう。
いや二元的結合であると同時に二元的分離なのです。
まさに其処の処を分子生物学者である福岡 伸一先生が「生物と無生物のあいだ」と云ふ著書の中で述べられて居ます。
其れもDNAの構造を解き明かしたワトソン本人が「其れはちょっと考へてみれば誰でも分かることであり、何故なら自然界で重要なものは皆対になって居るのだから。」と云ふやうなことを述べたのだそうな。
わたくしは生命工学だのゲノム編集だのさうした訳の分からぬ生命への人為的改変に対しては日頃から拒否感を強く抱ひても居ります。
従って其れ等にはまるで興味が無ひのですが此の対義性ー対構造ーと云ふことには大きく心を揺さぶられる訳だ。
で、其の対義的に形成されたDNA鎖がさらにペアリングされ螺旋構造を取って居る訳だ。
此の螺旋構造と云ふのはまさに神社へ行くと注連縄がある訳だが全く其れと同じである。
ー一説には蛇の交尾の様だとも言はれて居るー
かうしてDNAは互ひに他を写した対構造をなして居るのだ。
確かに生命はかうして対義的に生まれ出て来るものなのだらう。
尚わたくしは其れをより分離度が高ひものとして直観して居る訳だ。
さう石だの川だの土だのと云った無機的なものに対しより分離度が高ひと見る。
なので無機的分離と有機的分離の対概念であるか又は非生命と生命の違ひとはわたくしにとっては畢竟其の分離度の違ひなのだ。
だが生物學の場合にはDNAにより「自己複製」し得る生命現象は常に無機的存在つまりは生きて居なひものに対し優位性を保つやうに考へて居られがちである。
つまりは生命現象は偉ひとさう捉へられて居ることだらう。
でもわたくしの考へでは、其れはより分離されて居るので要するにより「物自体」から分裂が酷ひ訳なのでむしろ下等である。
などとも實は考へて居りいや下等上等の価値では無くむしろより「厄介なもの」と云ふ認識が以前から成立してもおる。
なのでより成佛しにくひものかと言へば其れはさうなのでは無く何故なら石だの川の水だのは元々成佛する必要などは無くなんとなればまさに其こそが神の被造物であるのだから。
成佛するか又は神に救はれるかせねばならぬのは罪深き人間共ばかりなのだ。
其の厄介な人間だが其の人間に限りかうして生命の秘密を解き明かすところまで来ても居やう。
だが其の生命とは果たしてほんたうの生命なのだらうか?
ほんたうの生命とは数的記号的還元など出来ぬ厄介な、即ち何でも食ひ且つ食はれてばかり居る獣共の如き奴等なのではなひかひな。
ほんたうの生命とはほんたうはそんな情けなひものだがでも同時に其れは美しくもあらう。
其の美しさはな、謂はばかけがへの無ひ命の美しさなのだ。
かけがへの無ひ命とは嗚呼まさに實存的に其処に展開されて居るであらう唯一としての命のことだ。
また其れは人間の命には限らぬことなのだ。
かうして宇宙の中で限定的に生きるあらゆる命が其の美しさを身に纏って居る。
人間の社會はでもそんな命の煌めきのやうなものに対し余りにも無頓着だ。
まさに其の不感症を功利的、打算的に構築された利潤や進歩を追求する人間の社會システムこそが生み出して御座る
尚わたくしは命は再現出来ぬものとさう考へる。
何故か?
何故なら自然界の生命は自然界にあってこそ其の命の輝きを放つからだ。
よって人為的に自然界其れ自体を生み出せぬ限り人為的につくられた命は結局其の命の輝きを得ることなどは出来ぬことだらう。
DNAの構造を解き明かした人類は今其れを基に様々に人体への応用の道を模索し始めた。
生物工学は今後様々な生命を生み出し要するに自然の枠には縛られぬ領域で地球上には存在しなかった新たな生命が生み出されて行くのやもしれぬ。
ー最近わたくしは其の事をも許容し始めて居る。其れも無理なこと、罪なことをやらぬ限りはあくまでさうだ。-
最終的には2050年以降夏の高温に耐へられる人間へと我我は改変させられていくのやもしれぬ。
いや、2050年に我はもう死んでるのでお若ひ々がさうなって行くのだろう。
なのでかうした科学技術でもって命が助かるものならばまた其れも良しとしなければならぬのだらう。