目覚めよ!

文明批判と心の探求と

コロナ下での尾張の御寺巡りー笠寺観音の節分会に出向くー

此の処兎に角寒く寒ひのが苦手なわたくしはつひに風邪を引ひて仕舞ったやうだった。

さう熱は出ぬのでコロナでは無く風邪である。

昔から馬鹿は風邪を引かぬと云ふがわたくしに限り昔から大変風邪を引き易ひ体質なので自分で言ふのも何だが屹度馬鹿では無ひのであらう。

 

昨日は少し体調が回復し天気が晴れても来たが故笠寺観音(笠覆寺)へ行って来た。ー自転車にて廿分程で行けるー

勿論節分会に出向ひたのであるが、其処は無論のこと節分会行事中止でもっておまけに露店なども全く出て居なひ。

 

 

さても其の露店と云ふものはわたくしにとり意外と大事なものである。

とは言へ結局出不精のわたくしは好んで露店の出る場所へと出向く訳でも無ひ。

 

正月に熱田神宮を詣でる時と笠寺観音の節分会に出向く時との年に弐度だけがわたくしにとっての露店との接点なのだ。

 

かうして案外露店が好きな我ながら實は其処にて何かを買ふと云ふ訳でも無ひ。

其処でごくたまに節分の豆を買ふが、勿論其れには青のりなどが付ひて居てなかなか美味ひものである。

 

だがこんな齢になると流石に林檎飴だのチョコバナナなどを購ふのは気が引け、其れに射的だの鮫釣りだのそんなものはやりたくてももはややれぬ故只遠巻きにして子等が其れに興じるのを眺めて居るばかりなのだ。

 

かくしてわたくしは露店やら縁日やらが大好きなのだがいつも其の様を観察することだけが何故か楽しひのだ。

此の観察眼とは明らかに文學的な心理が齎す眼なのであらう。

 

おそらくわたくしはさうして全てを、此の世の全ての事象をまさに其の眼差しでもって眺めて居るのだらう。

 

 

だが今回に限り其の日常としての露店の光景がまるで抜け落ちて居る。

まずは其のことに酷く無常ー非常ーの様を感じて仕舞った。

 

とは言へ、本堂への参拝者は多く居て其れが長ひ列を生じて居た。

だがわたくしはさうした列に加はるやうな性質の人では無ひ。

 

わたくしはかうして皆とは同じ行動を取らぬ。

まさに其処が他との違ひなのだがどうも其の分潔癖過ぎるやうに自分でも思ふ。

 

 

剣豪・宮本武蔵ゆかりの地を画像でご紹介

 

此処にあるやうに笠覆寺十二坊のひとつである東光院はかって剣豪・宮本武蔵が逗留した寺として名古屋市南部の人には良く知られた古刹である。

さうして尾張徳川家への仕官の為にかって武蔵は此処に逗留した訳だったが其の仕官は結局叶はなかったものとされて居る。

 

其の東光院自体は笠寺観音とは可成距離が離れて居るのだが逆に笠寺観音のすぐ際にあるのが西方院である。

此の西方院にて毎年節分会の折に正風華道展が開かれる故にわたくしは毎年其れを訪れて居た訳だ。

 

 

『西方院・笠寺烏瑟沙摩明王』名古屋市南区笠寺町

 

其れも母が其の正風華道の幹部なのでわたくしも毎年其処を訪れ写真を撮ったり花を鑑賞したりして居た訳だ。

が、茶華道などの所謂文化的伝統には個人的に今次第に懐疑的にさへなりつつある。

 

 

特に華道、其れはあくまで反自然での文化的所業なのだらう。

 

そんな訳で華道に対し特に惹かれる訳では無ひのだが其れでも美しひものを見ること自体は嫌ひでは無ひ。

只人為的に飾り付けられたり抽象的に捻じ曲げられたものよりはまさに只具象的に其処に存在する美にこそ見惚れて仕舞ふ訳だ。

 

また能狂言のやうな古典藝能などのことも語れぬ訳では無ひのだが其れもまた同様の理由にて創作されたもの自体に最近は余り心を動かされぬ訳だ。

 

だからたとへば京都よりは奈良の古刹の方をより好むやうなものだ。

 

わたくしはそんなピュアーな心根を持つ文人なのでまさに山の中で自然と戯れ詩を書く位のことの方が余程性には合って居やう。

 

其れでも露店が出て居らずまた華道展も行はれて居なかったことが何とはなしに寂しくも感ぜられたものだった。

 

 

其処からも此の一年で、此の僅か一年の間に人間の社會のあり方が根本的に変はったかのやうだった。

 

さうだ、其れは人間が変はったのでは無くして人間の社會のあり方こそがまさに変はったのだ。

 

一体人間の営為とは、其の日常としての社會のあり方とは一体何だったのだらうか?

 

 

さうかうするうちに、早速帰途につく。

 

最近は人混みの中にもはや長く居たくは無ひので人間の社會と付き合ふのはなるべく早く切り上げさうしてサッサと家へ帰るのだった。

 

 

【名古屋】玉照姫の美貌と良縁にあやかるなら「玉照姫泉増院」にも訪れるべし

其の笠寺観音に隣接するこちらの玉照姫ー天林山 泉増院ーへも矢張り毎年訪れて居る。

 

何故か?

無論のことわたくし自身が其の良縁成就を願ふオカマだからなのでは無ひ。

 

上には載って居なひが此処には楠から造られた薬師佛があり其の佛に毎年手を合はせるが故に此処を訪れるのだ。

わたくしは感度が高くあるが故に体調を崩し易ひが故さうして其の薬師佛に一年の健康を祈って来るのだ。

 

 

が、兎に角此処はいつも👩だらけで昨日もまた行く気にはとてもなれなんだ。

だから別に何時訪れても良ひのである。

其れも別に良縁成就を願ふやうな訳では無ひのであるから。

 

 

ちなみに上には「生まれ年守り本尊」なる御堂の画像があり、其れの一番左の佛像が、

戌年阿弥陀如来

の守り本尊にて實はわたくしにとっての守り本尊なのだった。

 

わたくしは弐年前に此のことを知りまさに愕然としたものだった。

 

何でか知らぬが矢張りと云ふべきか浄土教と我は無関係では無ひ訳だ。

ー但しほんたうに興味があるのは禅宗であり純密の方なのだー

 

おまけに何でか知らぬがいつの間にかキリスト教の方などもゴタ混ぜとなり我の中に入って来るので全く始末が悪ひ。

そんな訳で兎に角阿弥陀如来や念仏のことなどをバカになどして居ては金輪際いけなひ訳だ。

 

 

笠寺観音から自転車を置ひた公園への坂道の途中に法性寺があり此の寺の前には掲示板がありいつも何かの教へのやうな言葉が書ひてある。愛知県名古屋市南区の『法性寺』

其の法性寺は「真宗高田派」の寺院である。

 

今年は其処に何とかのマザー・テレサの言葉が書かれて居た。

 

 

「リーダーを待つのはおよしなさい。一人で、人から人へと行えばいいのです。」

ーDo not wait for leaders; do it alone, person to personーマザー・テレサの名言より

 

と云ふやうなことが書かれて居た。

何とリーダーには頼らず一人でもって行動せよとのことである。

 

尚釈迦も實はさうしたことを述べられて居る。

即ち「自灯明」である。

 

では何故「自灯明」なのだらうか。

 

 

ー自分自身を灯火として、先の見えない暗闇のような人生を歩いていきなさい。
ふいに停電した夜に灯すロウソクの明かりのように、頼るものが何もない場所でも、自分を頼りとすることで自分自身が明かりとなり暗闇を照らすことができるように。


もし自分以外の誰かを灯火として、誰かに前を照らしてもらって生きていたのでは、その誰かがいなくなり明かりが消えたとき、人は真っ暗闇のなかをさまようことになってしまう。
それは生き方として非常に危うい。


だから他に寄りかかるような生き方はするべきではないと、ブッダは人生の最期に言葉を残した。ー【禅語】 自灯明 - 本当に自分を支えることができるのは自分だけ -より

 

 

日本の大乗佛法はある意味で社會化された佛法なので他との繋がりを重視し易ひことかと思はれる。

ですが佛陀による最晩年の教へこそがまさに此の「自灯明」だったのだ。

 

ところが、社會化された動物である人間はまさに周りとの関係性の中に生かされて居易ひことだらう。

だから他との繋がりを重視することがあながち間違ひだと云ふ訳でも無ひことだらう。

 

だが社會がブッ潰れさうな時に社會はみんなを救へる訳では無ひのである。

だからコロナでもって死ぬ奴は死ぬのだし、潰れる店は潰れることだらう。

 

だからほんたうのほんたうはむしろ自らを羅針盤として生き抜ひて行くより他は無ひのである。

禅は其の初期の佛法にもかうして確り目配せして居ることだらうからかうした説法もまたして頂けると云ふことなのだらう。

 

 

ー禅では、本当に自分を支えることができるのは自分だけだと考えるが、世間ではむしろ、自分を支えるものは自分ではない「何か」と考えることが大半かもしれない。

たとえば、富や権力や名声。
それらによって自分を支えている人も少なくないだろう。


けれどもそういったものをふいに失った時、自分がぐにゃっと倒れてしまうようであれば、やはりそれは人として本当には成長していなかったことを意味するのだろう。


富や権力や名声といったつっかい棒に支えられて、ただ背だけを伸ばしてきただけのこと。
うわべばかりの成長、いや、それは「成長ではなかった」ことが露見してしまう。


外見だけ大人になったところで、自分を支える本当の力は外側からは見えない内側にある
精神にこそある。


樹木を支えている根も、外側からは見えない。
だから外側ばかりを繕うと、いずれそのほころびが生じてくる。


富や権力や名声といった自分以外の支えを得て「大人になった」「偉くなった」と思い違いをすることは、じつはとても虚しいことなのではないだろうか。ー【禅語】 自灯明 - 本当に自分を支えることができるのは自分だけ -より

 

 

だから富や権力や名声などではまるで自分を支へ切れぬのだ。

さう云へば露西亜プーチンに其れから倭國の自民党よ。

 

エエか確りとココんとこを聞ひて置くのだぞ。

 

おまへたちはさうして外見だけは大人になりさうして銀座の高級クラブでもって👩の尻をちょろりと触ったりもしているが其れではまるでもってお子ちゃまとしての心の持ち主だらう。

 

 

自分を支える本当の力は外側からは見えない内側にある。ー

ー精神にこそある。ー

 

まさにそんな精神だ、精神。

 

ー外側ばかりを繕うと、いずれそのほころびが生じてくる。ー

 

嗚呼、全く其の通りだ!

所詮おまへたちは政治家と云ふ其の権威権勢としての皮だけを被ったお子ちゃまだった。

 

ー禅では、本当に自分を支えることができるのは自分だけだと考えるが、世間ではむしろ、自分を支えるものは自分ではない「何か」と考えることが大半かもしれない。ー

 

みんなはさうして社會と云ふデカひ「何か」に寄り掛かりつつ赤信号を平気で渡って行くのだ。

 

でもな、禅と云ふか釈迦はな、其処での考へがまるで違って居たぞ。

 

釈迦はな、ー自分を支える本当の力は外側からは見えない内側にある。ーー精神にこそある。ーと知って居たからこそ其処にまさに「自灯明」と云ふ眞理をお説きになったのだ。

 

 

だから財力や地位などの外見になど惑はされたりしてはならぬ!

人間の内面こそが其の価値観の持ち様こそが結局は全てなのだからこそ。

 

 

ちなみにマザーテレサカトリック教会の聖人であり修道会「神の愛の宣教者会」の創立者だ。

またノーベル平和賞の受賞者でもある。

 

但し中にはマザーテレサに対するこっぴどひ批判もまたあるやうだ。

でも其の内容を詳しくは知らなひ。

 

其れにつけても眞宗は流石に凄ひ訳です。

 

さうして何と御寺の掲示ボードにマザーテレサの御言葉が書ひてあったのだから。

 

尚もうひとつ其処に書かれて居たことがあり、其れは愚者は出来ぬことをやらうとするが賢者は出来ることに精を出す、と云ふやうなことでした。

 

 

ところでみんなは今リーダーに従へば文明は救はれるとさう思って居るのやもしれぬがそんなのはズバリ間違ひだぞ。

 

正しくは権威や権力には決して屈せぬことだらう個として強ひ自己の力を其処に持つことが出来るか否かだけなのだ。

 

尤も其の眞我の形成はたとへば他力本願の宗教に於ひて求められたりしては居なひ訳だ。

 

浄土教の御坊様方はまさに非僧非俗にて矛盾を受け容れる御立場なので其処で佛に赦される、とでも云ふべきかソコはどうも何やらキリスト教的な二元対立を其の侭に奉じる佛教のあり方なのであらう。

 

密教などはある意味でもっともっと分離が酷ひことかと思はれまた其ればかりかある意味では其れは佛教では無ひものであるとも考へられなくもなひのだけれど、其れでもかうして密教系の寺院はあちこちに沢山あり實際見に行くと一番面白ひのが決まって其の密教寺院なのだ。

 

 

行事等[編集]

  • 2月の節分会には豆まき祈祷が行われる。
  • 毎月18日の観音の縁日には、祈祷が行われる。
  • 毎月「6」のつく「祈願日」(6、16、26日)には、祈祷が行われ、境内で青空市『六の市』が開かれる(雨天中止)。
  • 毎月第四土曜日(8月、2月を除く)にはマルシェ『かんのんひろば』が開かれる(雨天中止)。第四土曜日が26日(六の市)の場合は、第三土曜日に開かれる。ハンドメイドの小物や、安心安全な食材が参道に並ぶ。[2]
  • 毎年8月9日は大功徳日「九万九千日(くまんくせんにち)」であり、祈祷が行われる。それと同時に多くの夜店が出店し、盆踊りや地元の中学校のジャズバンドによる演奏会なども行われる。

境内[編集]

 

 

さうして市が立つやうな寺の境内と云ふものこそが楽しひ訳です。

特に骨董マニアなだはさうしたところを経巡り掘り出し物を見つけたりもする訳です。

 

だが其れも實は庶民的な笠寺観音よりは八事の興正寺の市の方が高級品が出る確率は常に高くあるのが實情だ。

でも何せわたくしは出不精なのでアンティークの品をさうしたところへ出向き得たことなどはほとんど無ひ。

 

さう言へば三十年程前に大須観音の市にてヴィクトリア時代のものと思しきインク壺を発掘したばかりなので御座ります。

但しあれは五年程前でしたか、ヤフオクにて地元の人が興正寺の市にて出たと云ふプラチナ萬年筆の銀製のレアーな萬年筆を出して居て其れを落札し入手しては居る。

 

尚、わたくしはアンティークの萬年筆に就ひてはそこそこに詳しくおそらくはプロと一般マニアとの間位の経験と知識があるものかと思ふ。

だから元々は精神の希求者でも何でも無く只の物マニアでありつまりは其の下賤なるコレクター其のものなのだ。

 

其の物の追求者としてのラヒターはとある掲示板にて十三年程やりましたのですが要するに其れだけー物質的追求ーでは人間は決して救はれませぬが故に此処でもって精神の追求もまたやりたくなったのだった。

 

 

でもって文明はイカンとさう述べて居たところほんたうにドカーンと文明がやられて仕舞ひました。

でも文明がやられることを予測することよりは萬年筆だの石だのと戯れて居ることでこそ我は幸せになれるのだ。ー一時的にではあれー

 

なのだが其処に👩が入っては金輪際イカンのだ。

 

👩がもしも我に入ると其処にパンドーラ―のハコがカパッと開き其処からあらゆる災厄の芽が飛び出して来るのだ!

 

ところが笠寺観音へ行くとかうして何故か決まって👩だらけなのだ。

 

おそらくは大乗佛教、其れも密教系の寺や浄土教系の寺は極めて👩とは相性が良ひものと其処で考へられやう。

 

だが禅宗に限りおそらくは👩との相性が可成に悪ひものと思はれるのだ。

果たして其れは何でだらうか?

 

 

要するに俗なものー現世利益性ーには👩が群がり易ひのではなからうか。

但し其の論理にて密教浄土教をナメたりして居ては金輪際イケナヒのだらう。

 

だから禅、其のより潔癖な禅、おおまさに👩嫌ひの毛のある禅もまたマザーテレサのことを認めなければならぬのではなひかしら。

 

 

さて名古屋と言へば大須観音なのだが我我瑞穂区や南区など南部の人々にとってはあくまで笠寺観音なのだ。

 

で、其処で何が言ひたひのかと言へば要するに其の實存的で且つ具体性に刺し貫かれし価値こそが大事だとさう述べて居るのだ。

 

対して抽象的普遍的に推進される近代的価値などは其の實存的で具象的な価値を放逐する程に偉ひものでは無くまた確かな価値なのでも無ひ。

だが今みんなはそんな近代的価値にのみ頼り価値構築をなして仕舞って居る。

 

だからまさに其れが洗脳の様なのだ。

 

そんな洗脳を受けて居るからこそコロナや気候変動による災害にまるで対処することが出来ぬ訳だ。

 

 

其の笠寺観音へはわたくしの場合子供の頃からもう六拾年近くにも亘り訪れて来て居る。

 

さうした価値が何処の國にも、また何処の地域にも存在して居ることだらうと思はれる。

 

さうしてむしろそちらの価値の方こそが普遍化することなどの出来ぬ實存としてのオンリーワンの価値なのだ。

 

逆に言へば近代的価値の上で一番になどなることよりもむしろ其の實存としてのかけがへのなひ価値を壊さぬやうにこそ生きて行くべきだらう。

 

もしも近代的価値の追求の上で其のかけがへのなひ価値を損なふ虞が生じたならば其の追求こそは即刻止めるべきなのだ。

 

 

マザーテレサが仰ることも、また釈尊が晩年に説かれた法の内容もそんな風にまずは自己を確立せよと云ふことなのだと思ふ。

其れは自己本位ー利己主義ーとなることでは無く眞の意味での自己を形成して行くことなのだ。

 

現代社會では概ね其の自己としての価値観が狂って居り其処でもってまさに自我執着へと陥りがちなのだ。

中世や近世の時代、また其れ以前での時代よりも其のことはより狂ひ易くなって居り嗚呼まさに危険な状態にあるのだがもはや其のことに気付く人などは稀であらう。

 

其の笠寺観音の本尊である十一面観音像を観たことは無ひのだが子供の頃より「亀の池」にて其の亀共には親しんで来たが其の池もいつしかドロドロに汚れ最近は何処にカメが居るものやら分からぬやうな有様だ。

 

其れでも猶笠寺観音と言へば其の池の亀と節分会に出る多くの露店なのだ。

まさに其処が八事の興正寺などとは異なり庶民的な日常が感ぜられる寺である。