目覚めよ!

文明批判と心の探求と

近代に於ける思想の誤りⅠ


そう心配せずとも、早晩必ずや近代文明は滅びる。


さて、以前に大學の先輩が教えて呉れたのであるが、彼が高校生の頃の社会科の教師が、矢張りと云うべきか近く文明は滅ぶとそう宣うて居たのだそうな。

従って社会科の教師といふもの程嫌らしいものはない。

これはもう、人類にとっての天敵なのだと申すほか御座らぬ。



第一巷で屡云われて居るのですが、社会科を勉強する時には近現代史こそを学ばなくてはならぬ。

ところがテストに出るのは其の近現代史を抜いたものばかりなので、必然的に学生は皆近現代史を勉強しない。

でも其の近現代史こそがほんたうの社会科だったんですねー。



其れをスッ飛ばして一体何が社会の為のお勉強なのか?


社会、此のカスみたいな制度、訳の分からぬ実に厄介なものの為に我我がどんなに苦労をさせられて来たことか。

人間が集まれば、自然と此の社会といふものが形成されようが、もうそんなものは無い方がずっと良いのではなかろうかと長きに亘りわたくしは思うのである。



社会、じゃなく、文學、だとか、知恵、だとか、そちらの方で人間の全てを括って仕舞えないものかしらとそうも思うのだが結局そうはならないので其のドロドロの社会を引き摺りつつ我我は歩んでいく。



進歩史観、其の文明のシンポの力が必ずや人間の未来を切り開き幸福を齎す筈だとさう信じて我我は近代を歩んで来たのである。


しかしながら、ソレはほんたうのほんたうに進歩だったのか?



ソレはむしろ、退化、ではなかったのか。



第一ここまで性道徳が乱れて居てはどう考えてもソレは理性に於ける退化現象である。


どだい理性といふものは刹那の快楽、肉体的な快楽へののめり込みというものを否定するものだ。

そう理性的なものほどそうした獣じみた快楽の追求を醒めた目で眺めるのである。



だから尼僧ないしは修道女、または高学歴で還暦過ぎの未婚の女、などはこれはもうまことに手強いガチガチさを有して居り其処で膝枕などしようものなら警察へでも訴えられる程の剣幕である。


でもその種のガチガチさの方が楽しいぞよ。


其のガチガチな様を無理やり開いていくことだろう其の快感こそがたまらぬのだ。


そのやうな訳で貞操こそが一番淫蕩であるつまりはHである。



一番イヤラしいのはモロ見えではなくチラリズムの方である。

そして其れが其れこそが理性による獣性の制御のことなのでもある。




ところが現代社会では此の理性による獣性の制御が成って居ない。

それどころか、まさに獣、あの666の獣、まるで悪魔の手先のやうな其の真っ黒な下半身が世の紳士、淑女を常に誘惑してやまぬ。



嗚呼、そして、其の場末の木賃宿で、夜毎繰り広げられて居るであらう淫蕩なる、まさにまさに淫蕩な儀式の数々!

まさに其れが見たい、いや、金輪際視たくはない。

たとへばパソコンでそんなものを決して見てはいけない。



いけないのだ。

もう見てはいけません。

そんなものを見るとすぐに目が腐ります。


いや、理性が腐ります。




理性、其れは容易に矛盾化する獣の領域のものである。

畢竟人間に与えられし理性はそのやうなものでしかないのだ。





ゆえに進歩、これもまた可成に怪しい概念である。

人間は進歩したとされては居るが、事実いまだ生老病死の苦しみからは脱け出せて居ない。



では何がシンポしたのだろうと考えてみるに、むしろどうでも良いこと、即ち多少金回りが良くなったとか、女共が化粧をするやうになり多少見栄えが良くなったこととか、其れから病気が減ったことだとか、或は寿命が延びたことだとか、揚句に宇宙の秘密が少しずつ分かって来たことだとか、人権や自由が保障されるやうになったこと、または技術が進み色んなものがより速くよりカンタンに行えるやうになったこととかだ。



然し、其れは本質的な進歩とは云えない筈である。


もし本質的な進歩と云い得るのであれば、何よりもまず人間存在にとっての苦を滅し去らねばならず其のことは科学でも技術でもない、そんな合理主義の範疇ではなくむしろ非合理性を有することだろう心的領域で行われなければならない。



なので唯物論でもって人間の魂が救われるべくもなくそれゆえ現代人は本質的に楽になったなどとはとても言えないのである。




逆にむしろ苦しみは増しておる。

事実あな、苦しや、あれ苦しや苦しや苦しや。



現代人の莫迦理性が其の苦の上塗りをつひやっちまった。



其れでは進歩、は無い方が良いのでせうか?

其の通りで無い方が良いことも多い。




第一人間は理性でもって良くなる、必ずや幸せになれると考える其の近代主義に於ける考えこそが誤りである。



何故なら人間の理性とは、之はもうほんたうに名ばかりの理性で、即ち自己矛盾化することが避けられない分解度の高い知のことであるに過ぎない。

そんなものを信じ振りかざしてやって来たことのツケが、其の報いこそが未来の地獄の様を描き出す。



だから人間の理性とはそんな不完全な理性だ。

不完全なことこの上ない、まるでもうケモノ臭い、まさに場末の木賃宿で、毎夜繰り広げられて居るであらう淫蕩なるアノ儀式のやうに実にはしたないものだ。





   
然し近代は此の思想をこそ至上のものとして掲げつつここまで進んで来た。   


自由であり、平等であり、幸福であること、其れを理性により実現するべく兎に角必死になって突き進んで来たのだ。



然し、実は前近代的な世界に於いても自由であり、平等であり、幸福であることは部分的に成り立って居たのである。


封建時代には確かに病気には弱かったが其れでも皆それぞれに其の短い寿命を精一杯全うして居た筈だ。



問題は、寿命が延びても、また性が解放されても、さらに自由が得られても、たとへ平等になったとしても、其処にほんたうに幸せであることの実感が無いこと、即ちシンポだシンポだと日々追いまくられ、おまけに低賃金でもって長時間こきつかわれて、しかも男性は女性化する即ち牙を抜かれ、女は女でもう威張り散らしてホストにばかり目が行き、おまけに環境がもう限界だ、頼む、もう何とかして呉れと地球が断末魔の叫びを叫んで居るといふのに、社会は此の理性を欠いた社会は金に目が眩み魔性の女共の色香に負け、しかも大酒をくらい精神をば酒浸りにし、さらに道義心をブチ壊しまるで仏を敬わず欲望を、其の暗い悪魔の如き欲望を垂れ流して居るばかり。



オイコラ、其処の犯罪者共。

バイキン共、死んでも治らないバカ共。


君等はもうほんたうに心を入れ替えてやらないと滅ぶのだよ、滅んじゃうんだぞ。

コノ獣らめが!

ほんたうに聞いて居るのか居ないのか。


無論のことちゃんと授業を聞いて居ない奴は皆地獄へ堕ちるのだぞよ。






問題は、其の近代主義は善なるものだといふことなのである。


たとへば自由は善である。

其れも絶対的な善なのである。


そして民主主義は善である。

其れも絶対的な善なのである。


さらに平等も善である。

其れも絶対的な善なのである。


然し、其の善といふのは、あくまで理性としての近代的自我の枠内での善なのである。


ところが其の理性は容易に自己矛盾化し本能の領域へとなだれ込んでいく。



だから其の自由も、平等も、民主主義も、容易に利己主義へと流れ込みつまりは云いたいことを言うー権利ばかりを主張するーばかりで理性的に自らの欲望を抑えることには繋がらなくなる。



そしてこれが、コレこそが近代主義を無制限に認めるー普遍化しさらに絶対視することーことの必然としての結末である。

権利の主張に制限が効かなくなる即ち収拾がつかなくなり社会秩序が崩壊して仕舞う。




けれど社会といふものは、本来ならば限定されしものである。

社会の及ぶ範囲と其の構成員である人間自体が限定されしものなのだ。


然し近代に於ける観念的普遍化が其処に必然として限定されない人間と社会とを生じせしめる。



ところが当然のことながら人間と社会は元々限定物である。

つまりは限定品なのだ。




従って近代をして近代たらしめることだろう其の支柱の思想には重大な誤謬乃至は欠陥が潜んで居る。

其れを一言で云えば、限定物の中に無限の可能性乃至は無限の果実を求めて仕舞うことの愚そのものである。




其のやうな抽象性、謂わば現実離れした理想論のやうなもの、其れこそが近代が支柱に据えたところでの思想の本質的誤謬である。


尚、此の理想論は、今日左派右派の区別なく、即ち革新と保守の区別なく絶対化され普遍化されているものだ。





また進歩すること、近代が生み出しし技術による進歩でもって人類の幸福を実現しようとする向きにも此の普遍主義が成り立って居る。


また其れが絶対的に価値化されても居る。


しかしながら其れは、いや其れこそがまさに全体主義である。

あらゆる批判を封じ込め突き進むことだろう一つの巨大な全体主義そのものである。




其のやうな抽象化、即ち観念化し理念化すること、理性の体現としての現在であることを近代の思想は望んだ。

然し其の近代に於ける現在は果たしてほんたうの現在だと云えるものだったのだろうか。




おそらくはそうではなく、所詮其れは無理強いのやうなものだったのではなかろうか。


何故なら此の世界自体がさうした根を、抽象的かつ観念的な意味でのあらゆる根っこを植え付けるには余りにも脆弱で頼りない処、其処でもってしてまるで絵に描いた餅を実際の餅、現実のものであるかのやうに描き出したところでの虚の行為そのものではなかったか。



そのやうな誤った行為により、近代に於ける現在は限りなく解体されまさに虚の姿を晒すことになる。

虚としての本質を時代として抱え込む以外なくなるのである。



今を生きる我我の生がどこまでも暗く未来を見失いがちであることは其のやうな思想的誤謬から齎されたものであることはもはや明白である。

我我の時代が、そして生がそのやうなニヒリズムに陥り其処で未来を失い実感としての幸せを築けないのは近代といふ時代に潜むひとつの大きな思想の誤りにこそある。