人間というものは元々限定されし存在なので其の儘では其処に永続的なもの、実体的なものは無く同時に其れは普遍化することも出来ずで、要するにそれは闇の中に閉じ込められし迷える魂を持って世に出て来て居るだけの存在なのである。
かってナーガールジュナは以下のように述べたそうである。
「実体とは、自立・不変・永続的なものである、と。実体は他のものに依存しない、つまり、縁起しないで、それ自体のみで存在するものであり(自立的)、あくまでも自己同一性を保っていて、変化しないものであり(不変)、生じることもなく滅することもなく、永久に存在するもの(永続)である。」
然し私はこの文言を知って居た訳ではなく自分で自分なりの存在論を考えてみた後に初めて知ったのである。
即ち、実体というものは<在るもの>であり、非実体的なものとは<無いもの>である。
そして実体というものは他とは関わらずそれだけで存在するものであるからむしろ無いものー存在としてはーである。
ゆえに実体と考えられて来て居るもの程本当は無いものであり、一見無いものに見えるような非存在的なものこそが実体なのである。
其処をかって私は、観念性と結びつけて捉えてみた訳である。
観念性の極致こそが其の無いものに見えるような非存在的な実体なのではないだろうか。
いや、仏法では悟りへ至るために観念性さえをも捨て去るなどとも屡云われて居るので其れは悟りそのものではないのでしょうが、其処を哲学的に構築化すれば矢張りどうしてもそうしたこととなる。
私の考えでは<在るもの>としての実体性は実は無いものでありつまりは物質化ー存在化ーされて居ないもののことである。
逆に<無いもの>としての非実体性は実は在るものでありつまりは物質化ー存在化ーされて居るもののことである。
つまるところ、存在して居るもの、この世での諸の現象は実はすべからく<無いもの>の方のことである。
よってそういう不確かで虚妄なものに拘って生きて居ることこそが自己矛盾性により深く囚われていくこととなるのだ。
一方実体としての存在して居ないものの方では其れは<在るもの>として存在するだけなのであるから物質的な現象とは無縁で実は何も考えて居ないんだな、これが。
其の観念化の極点に於いてもはや何も考える必要が無くなって居るのかもしれないんだな、これが。
で、私がまたいきなりややこしいことを述べて居るのは、どうも昨今の気候の滅茶苦茶振りからしても文明というものはそんなに長くは持たないのではないかと思えて来たので是非こうしたややこしいことも述べておかなくてはならないのである。
文明というものは一面で人間の心理の集積であり、人間としての全体の心理の向かうところでのものだ。
其れが最大公約数的に向かうべきところが決められて居たりするものである。
然し、おそらくは其れが間違って居たのであろう。
我々のような存在化されし凡夫は存在化されない実体的なものを<無いもの>と思い込み、逆に存在化されし非実体的なものを<在るもの>だと思い込んで来て居る。
しかも其れを何と数千年にも亘り続けて来て居る。
だからこそ其の倒錯の思想の果てに近代という心無き時代、精神無き世紀を迎えなくてはならなくなったのだ。
そして其の結果が今であり、そしてこれからなのである。
無論のことこれからもドンドン雨は降って来る、鉄人のオモチャをつい盗んで仕舞う五十代の男さえもが出て来る、でもまあ其の位はまだ序の口で、私の予測では五十年後の将来はまさに地獄の様である。
存在化されない永続性のあるものこそが、実体的なものである。
対して存在化されし限定的なものは、非実体的なものであるに過ぎない。
我々凡夫は存在化されし限定的なもの、非実体的なものにばかり群がり、貪り、満足を得ようとする。
愚かなり、其の様や。
本当の本当はそうしたこととなる。
単なる哲学では無く、所謂仏教哲学の方からも明らかにそう云える筈だ。
其れと私の存在論からも明らかにそう云う事が可能だ。
不幸にも存在化されし我々はこの世の事象の諸に深く縛られ其れ等を悉く在るものとして見て居る。
この世のすべてが、いや、この世のすべてではないのだが其の半分位は楽しいこともまた多い、位に思って居る。
全く、凡人だなあ、S先輩よ。
俺なんかは見ての通りの世捨て人で頭の中はすっかり世間離れして居るもんでこの世のすべてが、いや、其の半分位にしてもだ、其れが本質的には楽しいことなどではなくむしろ苦しいことばかりであることをすべてお見通しなのさ。
されどこれまで我は色んなコレクターをして来て仕舞って居る。
ま、我も根が馬鹿だからついそうしたことに関わっちまったんだろう。
其れで今宵も実は、翡翠のことばかり考えて居たのだ。
ついさっきまでは。
其の翡翠が<無いもの>であるとは矢張りどうしても思えないのだぜ。
こうして凡夫はそれぞれの境涯に適した思い込みー煩悩ーを持たされ、本質的には決して癒されることの無い存在ー人及び物、さらに精神、観念ーへの執着を捨てきれぬまま日々をのらりくらりと生きていくことしか出来ぬものだ。
かってナーガールジュナは以下のように述べたそうである。
「実体とは、自立・不変・永続的なものである、と。実体は他のものに依存しない、つまり、縁起しないで、それ自体のみで存在するものであり(自立的)、あくまでも自己同一性を保っていて、変化しないものであり(不変)、生じることもなく滅することもなく、永久に存在するもの(永続)である。」
然し私はこの文言を知って居た訳ではなく自分で自分なりの存在論を考えてみた後に初めて知ったのである。
即ち、実体というものは<在るもの>であり、非実体的なものとは<無いもの>である。
そして実体というものは他とは関わらずそれだけで存在するものであるからむしろ無いものー存在としてはーである。
ゆえに実体と考えられて来て居るもの程本当は無いものであり、一見無いものに見えるような非存在的なものこそが実体なのである。
其処をかって私は、観念性と結びつけて捉えてみた訳である。
観念性の極致こそが其の無いものに見えるような非存在的な実体なのではないだろうか。
いや、仏法では悟りへ至るために観念性さえをも捨て去るなどとも屡云われて居るので其れは悟りそのものではないのでしょうが、其処を哲学的に構築化すれば矢張りどうしてもそうしたこととなる。
私の考えでは<在るもの>としての実体性は実は無いものでありつまりは物質化ー存在化ーされて居ないもののことである。
逆に<無いもの>としての非実体性は実は在るものでありつまりは物質化ー存在化ーされて居るもののことである。
つまるところ、存在して居るもの、この世での諸の現象は実はすべからく<無いもの>の方のことである。
よってそういう不確かで虚妄なものに拘って生きて居ることこそが自己矛盾性により深く囚われていくこととなるのだ。
一方実体としての存在して居ないものの方では其れは<在るもの>として存在するだけなのであるから物質的な現象とは無縁で実は何も考えて居ないんだな、これが。
其の観念化の極点に於いてもはや何も考える必要が無くなって居るのかもしれないんだな、これが。
で、私がまたいきなりややこしいことを述べて居るのは、どうも昨今の気候の滅茶苦茶振りからしても文明というものはそんなに長くは持たないのではないかと思えて来たので是非こうしたややこしいことも述べておかなくてはならないのである。
文明というものは一面で人間の心理の集積であり、人間としての全体の心理の向かうところでのものだ。
其れが最大公約数的に向かうべきところが決められて居たりするものである。
然し、おそらくは其れが間違って居たのであろう。
我々のような存在化されし凡夫は存在化されない実体的なものを<無いもの>と思い込み、逆に存在化されし非実体的なものを<在るもの>だと思い込んで来て居る。
しかも其れを何と数千年にも亘り続けて来て居る。
だからこそ其の倒錯の思想の果てに近代という心無き時代、精神無き世紀を迎えなくてはならなくなったのだ。
そして其の結果が今であり、そしてこれからなのである。
無論のことこれからもドンドン雨は降って来る、鉄人のオモチャをつい盗んで仕舞う五十代の男さえもが出て来る、でもまあ其の位はまだ序の口で、私の予測では五十年後の将来はまさに地獄の様である。
存在化されない永続性のあるものこそが、実体的なものである。
対して存在化されし限定的なものは、非実体的なものであるに過ぎない。
我々凡夫は存在化されし限定的なもの、非実体的なものにばかり群がり、貪り、満足を得ようとする。
愚かなり、其の様や。
本当の本当はそうしたこととなる。
単なる哲学では無く、所謂仏教哲学の方からも明らかにそう云える筈だ。
其れと私の存在論からも明らかにそう云う事が可能だ。
不幸にも存在化されし我々はこの世の事象の諸に深く縛られ其れ等を悉く在るものとして見て居る。
この世のすべてが、いや、この世のすべてではないのだが其の半分位は楽しいこともまた多い、位に思って居る。
全く、凡人だなあ、S先輩よ。
俺なんかは見ての通りの世捨て人で頭の中はすっかり世間離れして居るもんでこの世のすべてが、いや、其の半分位にしてもだ、其れが本質的には楽しいことなどではなくむしろ苦しいことばかりであることをすべてお見通しなのさ。
されどこれまで我は色んなコレクターをして来て仕舞って居る。
ま、我も根が馬鹿だからついそうしたことに関わっちまったんだろう。
其れで今宵も実は、翡翠のことばかり考えて居たのだ。
ついさっきまでは。
其の翡翠が<無いもの>であるとは矢張りどうしても思えないのだぜ。
こうして凡夫はそれぞれの境涯に適した思い込みー煩悩ーを持たされ、本質的には決して癒されることの無い存在ー人及び物、さらに精神、観念ーへの執着を捨てきれぬまま日々をのらりくらりと生きていくことしか出来ぬものだ。