形而上学は近代以降は頻りに批判されかつ否定されて来た経緯がある。
今やもう誰も形而上学など振り向かないと云った感じである。
要するに限定性を念頭に置いた思想、限定の解除など認めない考えのことなので古臭くしかもいかめしくまさにクソジジイの考えみたいなものだ。
だが私の思想に限れば其れはほぼ形而上学なのであり、其れも四十台、五十台と齢を重ねるごとに自然と其のやうになっていったのである。
だから人がどう思おうが本来関係ないのである。
重要なのはわたくし自身が其れを考えて来たと云う其の道程にこそある。
重要なのは其処で自分で考えざるを得ない程に人間にとっての「ある最も大切な問題」につき追い込まれて居たと云うことだった。
尤もいつも哲學書を読みつつ考えて居た訳では無い。
少し哲學を齧ったのは二十台の後半から三十台の前半位までのことで、以降十五年余りは本など読むことはなく専ら万年筆の愛好家をして来たのだった。
然し其の折にむしろ色々と考えることが出来たのである。
わたくしの存在論はまさに其の実体の直観的把握内容のことだ。
其処に曰く現象は限定-有限ーであり実体は無辺ー無限ーである。
何だか当たり前のやうなことにも聞こえるがまさにさういうことなのだ。
時間は限定でありただし内的時間に限り其れは無限化する。
世界は存在するのかどうかと問われれば存在などしやうがないと即座に答える。
ただし意見が百八十度変わる場合も往往にしてあり、よっていつまでも同じことを言い続けて居るとは限らない。
意識も物質も皆現象化して居るー仮象としてーだけであり其れこそ鏡に映った其の仮のものを認識して居るに過ぎない。
神は居るかどうかと問われれば居ないがゆえに居ると答える。