「世界に属するすべてのものはただ主観に対して存在するにすぎない。世界は表象である。」
(われわれがア・プリオリに自覚しているこうした客観の形式のすべてを共通に言い表わしているものが、「根拠の原理」Saltz vom Grundeなのであり、われわれが純粋にア・プリオリに知っているものはすべて「根拠の原理」の内容に外ならず、またこの原理の自然の帰結に外ならず、それゆえア・プリオリに確実なわれわれの認識は、もともとこの「根拠の原理」のうちにことごとく言いつくされているのである。)
「だから科学の目的は確実性ではなくて、知識の形式によって知識を容易ならしめること、またこれによって知識に完全さの可能性を与えることにほかならない。」
…尚存在論に就いては特に注意を要する。
存在と云うのは存在して居るもののことであり存在して居ないのかもしれない現象に於いて其れを用いるべきではない。
現象は主観と客観に分解ー分離ーされるものであるゆえ、物自体ー実体ーを認識することは出来ないが表象としてのみ其れが認識され得る。
即ちカントの述べたやうに物自体ー客体自体ーを認識することは出来ないが因果律と云う形式に沿うて主客の違いは認識され得る。
主観に対して存在する表象と其の主観と云う表象が対概念として意識的に立ち現れて居る訳で其れは幻であると同時に真実でありマイナスであると同時にプラスの働きである。
しかも其れは唯心論的ー観念論としてのーに立ち現れ出でて来て居るのみなのだ。
なので科学と云うのは客観の形式なのではなく主観の形式に於ける普遍性の追求と必然的になる。
即ち絶対的に客観的なるものは認識することが出来ない。
また同時に絶対的に主観的なるものさえ認識することが出来ない。
このやうに分解されし現象世界では全てが相対性を帯びる。
と云う事は限定性、有限性の中に全てが閉じられしかも現象物は有ると無いの境を行ったり来たりして居る。
其の限定性に親和的である現象程堅固に現象化され得る。
其の逆の場合には緩やかにのみ現象化され得る。
表象する世界は全てが同時に分かたれて居りよって常に表象は時間的、空間的に連続性がある。
さて科学なき文明はもはや考えられず人間は此の科学技術文明を以降も推進していくのである。
もはや科学技術文明を否定することは出来ずそうかと云って科学技術を盲信乃至は信仰していく訳にもいかぬ。
なんとなれば科学は魔法の杖だからなのだ。
其れは我我にとっての夢を実現して呉れやうが同時に魔の領域への扉が開け放たれて仕舞うものでもある。
なのでおそらくはそのやうなスタンスこそが正しいことであらう。
でももし病気にでもなれば薬や医者のお世話にならざるを得ずまたたとへ山の中でさえ電気が灯り水洗便所があった方が何かと便利なものだな。
「けれども、世界に対するこのような見方は、真理であることには変わりはないが、じつは一面的な見方なのである。」
「並はずれて烈しい意志の運動、つまりどのような興奮Affektも、身体ならびにその内部の機構をゆさぶるであろうし、身体のさまざまな生命機能の歩みを乱すであろうから、なによりもまずこの点に、身体と意志が一体であることは端的に示されている。」
「わたしの身体はわたしの意志の客体性であるといってもいいだろう。」
「以上のような確信をしっかりわたしと一緒に手にした人は、敢えて言うが、この確信をこそ全自然の内奥の本質を認識する鍵におのずとなしうるであろう。というのも、そのような人はいまやこの確信を(自然界の)あらゆる現象にも移して当てはめてみることができるからである。」
…世界は他でもない己の意志が引き起こして居る表象としての現象であるに過ぎない。
だから全て=表象としての主体及び客体は自らの思いとしての鏡そのものであるに過ぎない。
そして謂わば自分の反対のものが其処には映り込んで居る。
またややこしいことに自分自身も其処へ映り込んで居る。
わたくしの体が誰しも意志通りに動き尚且つ動かなくなるのは其の映り込んだ体が動きかつ動かせないからなのやもしれない。
意志のみが物自体であるならばわたくしの体はタダの現象でありならば其処では病気になろうが飢餓に陥ろうがどうでもいいようなものだが勿論実際にはそんな訳にはとてもいかない。
我我の心はむしろ常に現象側にあり意志こそが隠れて居て見えない訳だが見えないものであるからこそ矢張り其れは在るのでせう。
尚遥かな昔に何処かで「生きたいか其れとも生きたくないか」と問われ「生きたい」と答えたやうな幽かな覚えがわたくしにはある。
さういうのは普通人には覚えが無いことだらうが幸か不幸か何故かわたくしには其れがある。
…すべての客観は意志の現象でありこの意志の客体性である、即ち根源的な意志、盲目的な意志が世界を支える根拠であると云う事だ。
即ち表象としての意志の、其の意志としての客体性が世界を形作る。
其の意志こそが生への固執、生きる上でのあがきの大きさを決定していく。
だが其の意志は物自体なので認識され得ない。
我我の認識は其の生きんと欲する盲目的な意欲を認識し得ない。
だが何となく分かる。
まさに直観と云う認識の形式に於いて其れが其れと分かる。
我我の意志は直観的な全体論的認識により朧げに認識され得ることだらう。
「意志はそれ自体根拠を欠いているが、意志の現象は、現象である以上は、必然性の法則、すなわち根拠の原理に支配されている」
「動物のこのような行動には、動物の他の行動におけると同様に、意志が活動していることはなんとしても明瞭である。ただしこの意志は盲目の活動状態にあり、この活動状態はなるほど認識を伴ってはいるが、認識に導かれているわけではないのだ。」
「なぜならば、自然界のいかなる事物のなかにも、根拠をあげることがどうしてもできないなにものか、どんな説明も不可能であるような、これ以上原因を探求しようにもしようのないなにものかがひそんでいるからである。」
…意志には無意識的な内容もおそらくは含まれて居ることだらう。
其れは或は神のやうなものにも見えるがショーペンハウアーの考えに立てばあくまで其れは主観としての意識的な意志でありかつ無意識的な意志のことなのだ。
形而上学
感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野である[1][2][3]。世界の根本的な成り立ちの理由(世界の根本原因)や、物や人間の存在の理由や意味など、見たり確かめたりできないものについて考える[4]。対立する用語は唯物論である[1]。
形而上学における主題の中でも最も中心的な主題に存在(existence)の概念があるが、これは、アリストテレスが第二哲学である自然哲学を個々の具体的な存在者についての原因を解明するものであるのに対し、第一哲学を存在全般の究極的な原因である普遍的な原理を解明するものであるとしたことに由来する。そして存在をめぐる四つの意味を検討してから存在の研究は実体(substance)の研究であると見なして考察した。
以上より引用
形而上学は此のやうに人間以上のものを想定することから出発して居る。
逆に言えば其の普遍的原理は理性によってのみ捉え得るが理性そのものが其れに到達することは出来ない。
即ち限定の思想であり謂わば精神論としての親玉のことだ。