尚わたくしは今此の世に於ける無限を認めないのである。
此の世はあくまで分解即ち限定のものなので、其処にあらゆる超越的な存在乃至は無限に創造される何かと云うものはない。
だから此の世こそは限定である。
限定だから本来ならば人間のやうなカタワの生き物も確り限定されて居なければならない筈なのだが其れを人間だけが其の限定を突き破り考えて仕舞うー認識して仕舞うーのでまさに其れこそが苦の始まりである。
とそう捉える。
つまりは認識論がなって居ない。
だから夢幻の如き生を何かさも大事なもののやうに、全き良きものの如くに祀り上げて仕舞う。
だから其れがそもそもの間違いだ。
其の認識がそも間違いだから、人間乃至は文明は常に進むべき方向とは逆方向へ流れ続けていき最終的にはみな地獄へ堕ち滅びるのだ。
其れは真理と云うか事実なので変わりやうのない決定論のことだ。
ズバリ運命である。
人間の運命は自滅である。
さて、其れでは、ほんたうのところはどうなんだ、と云う話にもなる。
ほんたうのところは此の世に価値があるのか無いのかと云えばまずは其れが無い。
此の世は神々の戯れの世界であり佛の戯体としての世界に過ぎないのであるからもうまるで嘘の世界である。
嘘の世界であるからこそ此の世での諸を信じて居たりして居てはいけない。
其の信仰の破壊と云うか放棄こそが仏教に於ける最終段階での修行である。
逆にキリスト教は此の虚=悪の世界に善を構築して悪魔による諸の悪の構築を破り去るのである。
むしろ神と云う嘘をほんたうのものと信仰することにより根本の嘘=虚を一時的に滅し去るのだ。
無限が夢幻に過ぎないのは、此の世が嘘=虚の世界にほかならぬから。
無限は此の時間の流れる世界には展開しない。
何故なら時間そのものが限定なのだから当然そうだ。
時間、形態、意識、法則、といった要素に分解されし限定の世界の本質は空乃至は虚である。
ゆえに流れるもの、在るもの、そのやうに見えそのやうに感ぜられるものこそが無いものである。
逆に在るものは流れず、見えず、しかも感ぜられないものである。
其れは概念では捉えられない。
謂わば言葉の限界を超えたものなのだ。
そう云うものだけが逆に存在して居る。
だから所謂お化けの方がむしろ其の実体には近いものなのやもしれぬ。
存在しないものに対する凡なる人間の心の反応だけが歴史乃至は文明を構成して居る。
聖者は其れを在るとは見ず、神乃至は佛のみを在ると見るのでもはや此の世には居ないのである。
正確には、心此処に在らず、なのである。
ところが其の心此処に在らず、の方が実は正しい。
認識としてはあくまで正しいのだ。
最終的に其の認識に到達し得ない者は皆地獄へ堕ちる。
ゆえに文明とは或は人間とは其の堕地獄への過程そのもののことだ。
此の世がそのやうな限定であるといふことを理解する時、即ち分解としての限定に気付く時にようやく認識は実の世界を垣間見あらゆる欲望の檻から解放されていく。
つまりは目覚めるのだ。
盲目では決して見えなかったものが其処に見えて来る。
其れは認識に於けるコペルニクス的転換のことだ。
其のやうに釈迦が悟りし認識の虚妄に重ね合わせて気付くことこそが目覚めである。
何故なら苦はまさに虚妄の認識から湧き起こり其の虚妄の認識自体も虚妄であるがゆえ。
其の虚妄の認識の集積が形態と意識ー色心ーを練り上げ虚の世界と虚の苦を生み自らを其処へ閉じ込めるのじゃ。
其れが生の実相なのであり生とは其れ以外のなにものでもない。
即ち生とはまさに厭うべきものなのであり其処に群がって喜ぶやうなものでは断じてない。
無いのに、在ると見る。
まずは此れが根本の認識の誤謬である。
そのやうに考えると、此の深き認識の檻、誤った認識に捉えられし我我人間の哀しさのみが浮き彫りにされ見えて来る。
であるからして我我の生は動植物即ち自然の生よりもはるかに罪深い。
そのやうな地点から認識された時に初めて其れはー人間または文明はー特等に罪深い。
菩薩、とまではいかずとも少なくとも声聞、縁覚級の認識からするとそのやうに全ては罪深くなる。
では何故無いのに在ると感じて仕舞うのだろうか。
でも其れがまさに一般として大衆としての認識であり常識である。
逆に其れなくば生きて行くことことすらままならない。
と云うことは、我我は生き易いやうにまさにそう分解ー分化ーされ切っていよう。
或はまさにそのやうに確りと限定されて居るのである。
其の限定から離れる為には先に述べし認識上のコペルニクス的転換を行わなければならない。
其の認識上のコペルニクス的転換を人間に対して強いるものが宗教である。
だからなのか宗教は人間に対しロクなことを云わない。
人間が嫌がる限定的論理または罪に対してばかり説くのでもうまるで嫌になって仕舞う。
されど其処では真理を説いて居る。
文明乃至人間ータダの人間、つまり自然児としての人間ーはそのままで真理に達することなど出来ない。
其れは不可能なのである。
不可能だから、別に真理を説く領域が要るのである。
ところで宇宙は有限なのですか、其れとも無限なのですか?
と問われたらわたくしの場合はこう答える。
認識が曇った人々の宇宙は常に無限でありしかも可能性や欲も其処で無限化される。
認識が正された人々の宇宙は常に有限でありしかも可能性や欲も其処で限定化される。
つまり宇宙は客観視し得るものではない。
元々其れは無いものだから、常に心的領域と相互作用し生成、消滅を繰り返す。
されど無限に其れが行われるのではない。
逆に其れが無限ではないからこそ生じて居るやうに見えるのだ。
其のやうに限定的かつ相対的に規定され虚のものでしかあり得ないのが此の世の実相である。
即ち無いのに、在る。
あくまで在るやうに見えて仕舞うのである。
錯覚であり誤謬である其の現象と云う認識の曇り。
此の認識からたとへば文明が生まれる。
其の文明が科学的な分析を世界に対し行う。
すると其処に宇宙の始まりと終わりが見えて来た。
ところが其の始まりと終わりは其の人間の認識と無関係ではない。
または極微の世界で、其の認識は現象を規定する。
また極大の世界で、其の認識は現象を規定する。
ここからしても現象世界は色心不二の曠野である。
そして大は小に連なりかつまた小は大に連なりしかも在ると見ることであり無いと見ることでない世界である。
そして少なくとも其れは無限の欲を撒き散らすところではない。
のみならず認識の誤謬に寄りかかり偉そうに生きて居られるやうなところでもない。
よって無限はない、ないよ、無いんだよ。
無限の可能性!とは良く申しますが其の無限とは全くの嘘の無限のことだ。
生を喜ぶ欲のみが
地獄という現在を形作る
無限でもない
生でもない
ただ誤った認識のみが
それを行う
限りないものは限りなく重く
限られたものは限りなく軽い
その罪の重さと軽さ
生を選び取る眼は常に明るいが曇っている
だが死人の眼のなかにその曇りがないように
生を捨て去った心のなかにはもはやどんな曇りもない