目覚めよ!

文明批判と心の探求と

ウーロボロスは永遠でかつ無限か


ウーロボロスとは、おそらくは真理の模式図なのであろうと考えられる古代よりの象徴のひとつである。


ただしわたくしの理解ではコレはまず限定されし世界を如実に示すものだ。


世界の限定性を指し示すものだと云える。

それと似た解釈にキリスト教グノーシス主義に於ける物質的世界の限界の象徴説がある。

「物質世界の限界を象徴するものとされた。これは、環状の姿は内側と外側とを生み出し、そこに境界があるととらえたため」Wikipediaより



他にも以下の様な様々な解釈がある。

「死と再生」「不老不死」などの象徴
始まりも終わりも無い完全なものとしての象徴的意味
相反するもの(陰陽など)の統一を象徴
人間精神(プシケ)の元型
循環性(悪循環・永劫回帰)、永続性(永遠・円運動・死と再生・破壊と創造)、始原性(宇宙の根源)、無限性(不老不死)、完全性(全知全能)Wikipediaより



然し循環性や永続性または無限性と云っても、コレはこのやうな図つまり概念として指し示して居るものであるに過ぎないのだから実際には循環でもなければ永続でもなくましてや無限でもない。


なんとなれば永続や無限と云うことは概念化出来ないものだ。

概念化即ち言語化、図式化し得るものは限定物に限られる。


ただし相対的な意味での無限と云うことは指し示すことが可能であるし事実としても其れはあり得る。

其れは謂わば限定ー分解と云う有限性ーの中で相対的に感ぜられる無限としての相である。

要するに分解され限定されて居る我我が其の分解され限定されて居る世で仮に見ることだろう無限としての相のことである。



つまりはウソの無限性のことだ。

其の嘘の無限性を表したのがウーロボロスの象徴である。



同時に其れは物質的世界の限界の象徴をも表す。

何故なら其の自分の尾を呑み込む蛇とは物質的世界の象徴そのものなのだから。

ところが、其の蛇以外の空間と云うか余白の部分、実は其処が極めて重要なものなのである。


要するに何も無い部分、此の部分の存在が逆に存在性の限界を指し示しても居よう。

即ち蛇を描くと蛇で無い余白の部分が自然と生じて仕舞う。

其の余白とはじゃあ一体何なのだろうか。



つまるところ、其の余白の存在自体が物質的世界の限定性を如実に指し示して居る。



神または佛、其のやうな完全であり永続し無限でもあり得るものは実は存在して居ない。

絶対的なものが此の世には居ないと云うことである。

其れは根本としては存在するがむしろ其の故に此の世には居ないのである。



根本的にアチラの世界のものなので我我には認識することが出来ない。

代わりに我我は変なものばかりを認識するやうに謂わば限定的に創られて居るのだ。



其の我我の限定性が歴史の中で垣間見て来た世界の実相を図案化したものが此のウーロボロスの蛇である。

つまり限定されし文化、文明に下された直観的な真理の模式的な解釈が此のウーロボロスの図である。




さて、コレはどこぞの教師の方が書いて送って来られた年賀状に書かれた図なのだそうな。

此処には世界の大きさ即ちスケールに対応したウーロボロスの図が描かれて居る。


さすれば、世界はこんな風に大が小に連なりかつ小が大に連なる円環的な構造物なのやもしれぬ。

と云う事は、其のスケールつまり大きさと云うものはさほど意味の無いことだとも言えるのではないか。

大きいものは小さいものと無関係ではなく、また小さいものは大きいものと連なって居り一種無限的な円環構造を形作って居る。



ただし其れは真の意味での無限にはならないのである。

何故なら蛇には余白の部分が生じて仕舞うのであるからそうはならない。

けだしあくまで限定性の上から見れば其れは無限的展開である。



また完全でもない訳だ。


完全と云うのは、概念化出来ない領域にあるのであって、謂わば論理的解釈や言葉の壁の向こう側に在るものなので完全なのである。

従って元々不完全な我我には解釈の及ばない範囲のことである。




尚、華厳経には此のウーロボロス的な世界解釈が述べられて居る。

曰く、一即他、他即一。華厳経

即ち小が大でありかつ大が小でありひとつが全てでありかつ全てがひとつなのである。



そして時間などに関しても過去や現在や未来と云うやうに分けるのではなくーそうは云っても分けられたやうに感ぜられる時間をー全体の時間として捉えそうした区別を超えていく。


即ち瞬間が永遠であり永遠が瞬時である。



概念的分別はさうしたありのままの世界を認めないが、むしろ其処こそが認識の誤謬であり倒錯の世界観に捉えられし現実を指し示す。


其れに対し目覚めた認識とは、あくまで一即他、他即一でありかつ瞬間が永遠であり永遠が瞬時なのである。




ちなみにわたくしは幼い頃よりすでにこうした不思議な世界観を感得して居た。

いや、そうではなくむしろ誰でも生まれたばかりの頃はそういうのが分かる心的状態にあった筈だ。

即ち理窟以前の力でそういうのがパッと分かって居たのである。



ところが分別が、其の分別による諸の教育がそうした天才的直観を抑え込んで仕舞う。

特に女にモテたいと思うとすれば、余程に此の天賦の才を抑えて現実に奉仕するー要するに俗化するー作業が是非必要となる。

対して女人禁制にすれば、もうまるで宮澤 賢治かわたくしのやうにもなれる。


必ずやそうなる。其処は保証しておくとしよう。



もうスッカリ女人禁制で仏教のことなど是非静かにご研究なさってみて下さい。

さすればわたくしのやうに必ずや上品な人間になれる。


それにしてもあー、どうも腹が減ったな、サア、カレーでも食うとするか、ギャオー、モリモリモリモリ、ブオー。

嗚呼、つひ屁が出たな、其れも妙にデカい屁が。





ウーロボロスには果たして始まりも終わりも無いのか。

また不滅なのであるかどうか。


いや、然し、其れは違う。

違うのである。

何故なら全ての認識には限定性がある。



認識から世界は生まれるゆえ、或は認識と世界の生成とは無関係ではない故に其れは始まりも終わりも無いのではなく不滅なのでもなくタダ縁起の理に支配されし限定そのものなのである。

ただし其の限定性の中でウーロボロス程自由な世界観はない。

畢竟其れが概念的に規定されし限定的な解釈であるにせよ其れは自由である。


特に観念的な自由を、観念の戯れとしての自由を満喫する為には其れは充分に魅力のある思考だ。



ちなみにかの一高生の藤村 操が飛び降りし華厳の滝とは此の華厳宗より名付けられたものである。

華厳の滝とは折りしも夏休みらしい話題であるが、此処から飛び降りるのは矢張りどう考えても怖い。

其処からして観念もまた戯れに過ぎないのであるからして、観念の追求の果てに思い詰めて仕舞わぬやう酒色に溺れて置く方がまだしも健全なのやもしれぬ。


ところで華厳の滝は女人禁制なのでしょうか?

と云いますか女人禁制のところは今何処にあるのだろうか。

まあ依然としてわたくしの頭の中だけはまだまだ女人禁制です。

其れも野良猫の母ちゃんとだけは親密になりましたので完全ではないのですがね。