目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

死んだらどうなりますか?


死んだらどうなりますか?



まず存在するとはどういうことかと云う事ですが存在するとは存在しないと云う事との対概念です。


だから概念があって初めて存在するのであり、概念の無い段階で存在するものの存在を確認することは出来ないのでカントの述べたやうに物自体は知り得ないのである。


存在とはそうした意識の上での分離、分解だと私は捉えて居りだから正確には存在するもの自体のことを概念的に証明する方法はありません。



ただし意識の上での対概念としての実体ー實在ーを予測することは可能です。


なので意識の上での分離、分解される以前の何ものかこそが其の実体のことである。


ところが意識、実はこれこそが存在しないものです。


いや存在するのかどうかと云う事を定められないものである。



何故なら分離されて仕舞って居るからです。


分離するから生じるのでありところが分離するー生じるーことによりもはや実在性は欠けて仕舞うこととなる。


或いは実在性を確定し得なくなることだろう。



在るものと無いものの区別は概念つまり意識より生じる。


意識とはそのやうな分離の過程なのでとりあえずは存在しないとすることも出来やう。


 


いずれにせよ意識が生ずるから分別が生じ其の生じると云うこと自体が二元的分解、対立の世界を生じさせる。


逆に意識が無いと分別は生じず二元的分解、対立の世界を生じさせる因縁も其処には無くなる。



其の分解と云うのは在るものを無くし無いものを在るやうに感じせしめる意識の癖のやうなもので有情ならば多かれ少なかれ持ち合わているものだろう。



其れでは其の意識こそが全ての大元ですかと問われれば確かにそうである可能性が高く何故なら寝て居る時死んで居る時に通常の意味での意識は無い。


ただし其の意識こそは分離され生じて居るものなので大元でのものとはまるで別物である可能性が高い。



そこでかのプラトーンなどは完全で普遍的なイデアの世界のみが実在すると考えて居ました。


謂わば其れが不完全で有限の意識世界との対概念としての世界観です。



のみならず個物の本質としてのイデアが存在する世界をイデア界と呼び人間の魂の働きのうち理性は不死なるものとしてイデア界に存在しかつイデアを認識するとした。



さて其の魂とは意識の働きと言い換えても良いのかもしれない。


だとすると理性による認識の働きは永遠的普遍的に実在する訳です。


即ち意識の働きは永遠的普遍的に実在する訳です。



其れは神の認識による世界なのかもしれないし理性の楽園としての世界なのかもしれない。


其処を踏まえた上でプラトーンは「肉体は魂の牢獄」であるとも言って居る。



ですが果たして本当に「肉体は魂の牢獄」なのだろうか。


結論から申しますと逆に「魂こそは肉体の牢獄」なのかもしれません。



要するに此のイデア論に於いては魂=意識の方が肉体=物質よりも上位に置かれて居ります。


が、全的な状態ー完全なる状態ーから分離させるのはあくまで意識の働きです。


其のやうに不完全化、瑕疵化、二元化させるものこそが実は魂の方である。



なのでわたくしの場合はプラトーンの逆を言いたい、逆を。


即ち魂としての意識が自らわざわざ分離して不完全化、瑕疵化、二元化させた物質世界を生じさせ物質を其処へ閉じ込めて居る。


とも言えそうです。


悪いのは多分精神即ち意識の方でコレが悪いから一種無垢な物質界をボロボロにしていって仕舞う。



魂即ち意識が悪い奴でとても其れが永遠的普遍的に実在する良いものだとは思えない。


永遠的普遍的に実在する悪いものだとむしろ考えた方が話の辻褄が合うやうにも思われるがどうなのだろう。



そして実は仏教では普遍的概念は認められずかつ永遠の物質などと云うものも認められはしない。


永遠的普遍的に実在しないものが現象界そのものなのであり、其の現象には魂即ち意識の働きさえもが含まれて居ります。


現象とはあくまで仮の姿であり実在性に欠けるものとして捉えられて居る。



ただし其の不完全性に縛りつけて居るのは誰あろうあくまで自分である。


即ち我が我のみが此の腐った現実に自らを縛り付けて居るのである。




さて其処で問題は意識ー魂ーとは何ですかと云う事になる。


魂は不死ですか、それとも限定されたものですか、と云う事になる。



其の問いに対する答えは、西洋と東洋の思想で異なります。


プラトーンに代表される哲學やキリスト教を始めとする西洋の思想では普通魂は不死です。


然し東洋の思想では必ずしも不死であるとは説かれて居ない。



第一釈尊の説法では魂の問題に関しては触れようとして居ない。


尤も魂即ち意識のあり方が悪いから存在して仕舞うのだから其れを正せと仰せになって居るばかりです。



個人的には意識ー我ーに拘る癖のやうなものから意識が生じまた其れを無いのに在ると見做しのみならず物質界をも巻き込んで錯誤の今を生きて居るのだと考えます。



其の意識の癖のやうなものには段階がありそれこそ癖の強いものから弱いものまで様々あり其の度合いに応じた世界を生きなければならないが無論のこと成仏出来れば其の苦の階梯からは解放されやう。



そんな訳で霊肉二元論のことにつき本日は考えて来て居ります。


ですが霊肉二元論の枠内で考える限りそれこそ善悪二元論の話とならざるを得ず必然として二元的世界の対立からは逃れられない。



霊肉の区別も或は善悪の区別も共に虚妄の分別に過ぎないので其れを元にして二元的世界の対立からは逃れられない。



ところで物理的に在るか無いか、また霊的に在るか無いか、と言えば意識レヴェルのあり方で認識の仕方が異なって来る。


其処で私はむしろ無い、無いけれども在る、と云う其の意識の癖のやうなもの=人間の心の未熟さ、性悪さのやうなものだけは在る。


この場合つまるところ愚かさ=バカさ加減のみが真に実在する。



其の無知無明の様からこそ生が開闢して居る。


と考えて来て居ります。




其れでもし死んだら魂ー意識の流れーはどうなりますか?


死んだら意識は無くなりますよ、多分。


だから現象世界に於ける二元的対立はTVを消した時のやうに全て消え去ります。



でも其の無知無明としての意識の癖のやうなものはどこまでも続いていく。



まあ神にも救われずましてや佛にもなれないのですから、そうしてどこまでも続いていく他御座いません。


すると、まさにこれぞ意識としての永遠の存在なのでしょう。



そしてキリスト教では魂は不死であると考えられる。


尚魂の不死説はプラトニズムからの流れです。





「魂は不死である。したがって魂は、この人生が過ぎ去ったとしても、再び生まれ変わるだろう。もしそうであるならば、ひとは自分の魂をたえず配慮しなければならない。なぜなら、人間のすべてを支配するのは魂であり、魂をよりよいものへとみがきあげていくことが各人にとって大事だからだ。」
「世界はたんなる事物の集合体ではなく、第一に意味と価値の秩序として存在するのであって、事物としての側面はその秩序に従う。それゆえ哲学が特に考えなくてはならないのは、意味と価値の秩序のもつ本質である」



実は釈迦が輪廻転生説を認めていたかどうかについては諸説あり確定されては居りませんが成仏=涅槃=輪廻も転生もしない世界観のことですのでこと解脱に於いては輪廻転生説が前提になって居た方が分かり易い。


然し上でのやうにプラトーンはほとんど仏教のやうなことを述べて居ります。


仏教の目的とは其れ即ち色心に於ける浄化です。


より穢れなきものへ心と躰を磨き上げていくと云う事ですのでより良いものへとしていくと捉えても良いと思われる。


ゆえにかキリスト教の世界観もまさにそうした善悪二元論に沿い価値観としての善を構築していく訳です。





輪廻転生説は古代には普遍的にみられた思想でした。


現在の私の捉え方からするとこれぞ合理思想とは逆方向での生の捉え方なのでしょう。


尚合理思想とは「今」が良ければそれで良いと云う考え方のことです。



今寂しいのでつひ不倫をした。


今金が欲しいのでつひ援助交際をした。


今腹が立つのでつひ家族を五人殺した。


今もっとスーパーになりたいのでつひアンドロイド化する。


今生きたいので兎に角病気を根絶し自分の臓器を再生しながら生きていく。



ですが、本来ならば過去や未来との繋がり、或いは公序良俗と云うものがあろう筈です。


其れを反古にして、目先の欲望の成就のみを追求してやまぬ合理思想の考え方は誤りです。


また病気にさえ意味があります。


人体と云う自然にさえ改変の手を加えそうまでして長生きして其処に意味があると云うのか。



即ち其れは加工品になっちゃいます。


今や性も肉体もまた精神の作用でさえ加工品です。



合理的加工が施された人間じゃない人間の生をすでに我我は生きて居ります。



さてプラトーンの思想は単純なやうで深みがありなかなか良い考えだと最近の私はさう捉えて来て居ります。



そして問題は兎に角此処にかかって居ります。


即ち無知無明としての意識の癖をどう治していくか。


いざそうなると人間は何度も生まれ直して「魂をよりよいものへとみがきあげていくこと」こそが生の目的とされるのです。



つまり人生の意味とは遊びではなく修行の為だと云う事になる。


其の修行の場に於いて不倫や援助交際はあってはならない。


また尊属殺人やアンドロイド化や再生医療はしてはならないことです。



修行、つまりはアノ永平寺での厳しい修行、此の修行こそが甘やかされた現代人にとっての一番怖いことです。


さらに女中奉公や丁稚奉公の辛さ、コレもまた現代人には耐えがたい艱難辛苦であるからこそむしろ自ら志願して其の辛さを是非経験してみるべきだ。



さらに兵隊さん、ありがたう。


其のやうに国防の仕事、或いは治安維持の仕事に頑張って居られる方々や学校の先生を尊敬して居ずしてどうする。



先生やお父様お母様は決してトモダチなどではなくましてや平等ではなく有無を言わさず殴られたとしても決して逆らえないまるで神仏のやうな方々だ。



第一其のふしだらな生活を改めよ。


悔い改めよ、汝等が回心せねば近く世は滅ぶぞよ。



元より魂などはあってもなくても構わない。


あくまで私はキリスト教徒ではなく仏教徒ですからね。


然し魂の浄化、コレだけはもう永遠に続けていく必要があらう。



其のやうに心の浄化を人生の目的となす思想こそが正しい思想であり認識である。


対して世を乱す合理的思想は犯罪者の思想であることをしかと知るべき。




で、死んでどうなるかと云う事であるが無論のことまだ死んでない我にはとんと分からぬことである。


けれどどうも生は繰り返すのではないかとの予感のやうなものを感じて居る。


だとすれば生は今生限りではない。


さすれば心を正しより真面目に生きねば来世は最悪ー犯罪者の巣窟ーの世界に生まれかねない。



限定されし生に対概念としての死が生じる。


意識自体に生死はないが、死ねば意識は停止する。


意識は物質との対概念で、其れ自体は善でも悪でもないが浄化ー反劣化ーとしての目的を持つ。



合理化されし悪の文明に於いては、一般に魂の浄化が困難である。


ゆえに知らず知らずのうちに心の悪魔となり易いだろうからよーく気をつけておきなさい。


いざ文明に毒されて心が腐るともはや治りませんよ。