目覚めよ!

文明批判と心の探求と

世界はあるのかそれともないのかⅠー実在論的転回ー


西欧の齎したところでの近代の価値観が至上のものであるとはなかなか考えられないものです。

特に東洋の思想に精通すればする程にさうも思われて来よう筈。

なのではあるが、所詮は近代の枠組みから何事も考えていかざるを得ない点こそが近代の齎したところでの矛盾であり呪ひなのでもある。

従って必然的に思想そのものが近代化されて居る訳です。

近代化と云う普遍性の中に其の思想も組み込まれて居やう。


近代化と云うものは遡れば宗教改革ルネサンスや中世の神学、さらにはキリスト教の勃興、ギリシャ哲學に至るまで関連づけられようからコレはもうとんでもないものです。

近代化とは謂わば歴史の必然であり同時に歴史の必然としての終末観なのでもあらう。

其の近代の終焉としてのポスト・モダンとは其の必然としての歴史の流れとしての近代的な自由及び民主主義が普遍化され世界を覆い尽くしていく価値観のことでもある。


然し其処にはそれこそ必然としての矛盾が組み込まれて居る。

其れは諸価値の崩壊ーニヒリズムの蔓延ーであり其れに伴う人間の精神の破壊である。


無論のこと其の部分の予測はかのニーチェこそが正しかった。

或いはかのオルテガは其れを正しく予見して居たのであります。



資本主義によるグローバリズム相対主義による多様な価値観ー絶対的価値の喪失ーは逆に現代的抑圧=ポスト・モダンとしての抑圧から齎されるものだ。

良いのか悪いのかと云う基準で云えば近代もさらには近代の終焉も共に悪く其れは進歩のやうで居てシンポではなくむしろ破壊である。

物質的には富むが心が貧しくなりつつあるので東洋的価値観からすればまさに其れを破壊と呼ぶのである。


尤もさういうのをこそキリスト教が考えないといけない訳ですが宗教は長く続くと俗化して次第に志を失うものである為次第に其の内部が腐りつつあることも否めないことでせう。

其れ以前に仏教などはもっともっと生きるか死ぬかで、其れもどうやって今後飯を食っていくかと云う実に切実な現実上の問題にまで切迫して来て居ります。



以前から申して来て居りますが所詮近代とは其の破壊の為の時代であるに過ぎない。

ではいいところは何も無いかと云えば病気は治るわ海外旅行が出来るわ飽食も出来るわ姉ちゃんは選り取り見取りだわで一見良いことだらけのやうにも見える。


がどうも本質的には良くない、むしろ其れは破壊だ。

破壊としての破壊が連なる終末観だ、即ち神の怒りだ、神の怒りに触れたカドで早晩人類は滅亡だ。

などと云う結末も大いに考えられやう。

なので其の近代の正体につき長々と此処で暴いて来たのであります。



ひとつには近世以降の欲望に於ける限定の解除と云うことが炙り出されて来た。
近代の本質とは其の欲望の解放にこそある。

其の欲望の解放に向かい人類史は即ち近代思想の流れは歩んで来た。

即ち此の世は酒池肉林を達成する為の格好の場だ。
だから其れをシンポしながら成し遂げれば良い。

勿論此のシンポなるものは思想をも巻き込んで居るのであります。

形而上学→カントによる認識論的転回→実存主義構造主義脱構築主義→新実在論としての実在論的転回

と云った具合に。


然し西洋思想は其のいずれもが誤謬を含んで居る。

ただし西洋思想が悪いものだなんてわたくしは一言も述べて居ない。

西洋思想は其の折々で欠くべからざるものとして機能して来て居り確かに不完全ではあるがそれぞれに立派なものです。


謂わば人類史の必然として其処に燦然と輝くものばかりだ。
ただしあくまで西欧近代としての歴史過程として其れは機能して来たものだった。

されど近代の侵略は我我東洋人をも巻き込みつつ着々と進んでいきます。

我我は近代による合理化に抗し切れずつひに近代の一員としての死を迎へるのだらうか。


我我は其の臨終の時をただ座して待つのみなのか。



ポスト・モダン思想の問題点は所謂相関主義に陥ることである。

ただしコレは釈迦の時代からすでに展開されて居た相対主義にも似ており当然に釈迦は外道として其れを思想的に否定して居られる。

ところで確実なもの、絶対的なものはあるのか其れともないのかと云う問題程哲學的な問いはない。


換言すれば有るか無いか、また在るか無いかと云う問題が宇宙で一番の大問題である。

即ち君は居るか、または女は居るか、と云う問題がサイコーに難しい哲學上の大問題だ。



つまり我は居るか、そして女は居るかー別に女でなくても良いが君に興味のあるのは常に女だらうーと云う問題こそがまさに哲學上の最高難度での問題だ。

さうボクは居ます、と君は言い張るが其のボクとは何か?

ハッハッハッ、そんなものは元より誰も答へられはせぬ。

ボクは認識の主体です、とか何とか訳の分からぬことをもし答へたにせよそんなものは存在の有無の証明にはまるでならぬ。


たとへば原子は素粒子で出来て居ますが其の素粒子は存在するのですか?

と言われても其れに答へられる理学者など何処にも居らぬ。

けれどもかうしてクドクドと文明を貶しておる自称詩人のみは此処にしかと御座る。


さうだまさに自称詩人の文學的才能だけが其処に花開いて御座る。



其の主客の対立の論理は要するに二元的対立の構図なれど、其の二元的対立から必然として生じる形而上学の構築をわたくしの場合はむしろ重視する。

即ち男性は男性らしく女性は女性らしくあれ、さうして神仏は確かに其処におわし世界はむしろ観念の構築の場である。


要するに観念論の世界観へと戻りたく思ふ。

シンポを遡りシンポ以前のカントへと戻るのだ。

カントはあくまで理性的に潔癖だった。

さうして理性の限界を指し示すことで物自体の居場所を理性的に示した。



さて年末年始は風邪でダウンしたこともあり現代の哲學の状況を俯瞰しつつあれこれと考へ続けて来て居た。

其処で得られた結論とは、現在哲學はむしろ強く希求されつつあったと云う事実である。


   
其処で所謂新実在論の旗手としてのマルクス・ガブリエル氏の哲學を具に検証してみた。

言うまでもなくなく彼の思想は21世紀に対応する新たな領域でのものだ。

結果其処では共感と云うか同調出来る部分も多々あった。

が、思想の傾向性としてはむしろわたくしの限定思想とは逆の向きを有しても居る。


ちなみに一般向けの哲學書としては異例のベストセラーとなった『なぜ世界は存在しないのか』と云う書籍は持っては居るがまだ読めて居ない。

だからまだ其の理解が至極適当な段階に留まる。


でも何処が違うかと云うと世界=全体性の実在を否定する21世紀の思想は結果的に神仏の存在をも否定して居る処が違ふ。

ただし一方でガブリエル氏は「精神」を重視し宗教の意義にも触れて居るやうだ。


わたくしの場合は逆に全体性の実在を肯定し同時に神仏の実在性を肯定する、つまりは絶対の領域をあへて其処に強固に構築していく。

さうした古い価値観に対しては部分の意味性、局在する意味の実存性を実在ー実存ーとして捉える点ではまさに「限定」的に多様な思想なのだらう。


尚思想史でのシンポの流れとして普通全体性の実在は否定されていかざるを得ないことだらう。

全体性とはまさに超越論的な認識なので要するに其れを認めた時点でカントの理性批判の構図へと舞い戻って仕舞ふ。



其れで彼の述べるやうに「世界は存在しない」と果たして言えるのであらうや。

勿論わたくしの場合は「それでも世界-全体性ーは存在する」なのである。

「それでも地球は回って居る」と言って死んだガリレオとは勿論また違ふ訳ではあるがまあ一種の殉死乃至は殉教の場としてもむしろ世界はあって貰わないと困る。

また彼は世界史などと呼べるものはないとも仰る。



或いはポスト・モダンが否定した時間の観念に近いのだろうか、其れとも其処で時間の観念自体を否定して御座るのか?


ちなみにマルクス・ガブリエル氏は昨年来日され日本で色んなものを見聞きしていかれたようだ。

大阪大学で例のアンドロイド研究の現場などもご覧になったようだが明らかに其の種のものには懐疑的であるようだった。

其処は流石に独逸的に潔癖である感じだ。

どうもまさに独逸的に潔癖な理性の持ち主なのではないだらうか。


さて戦前の西田 幾多郎の哲學との類似点が指摘されたりもして居るガブリエル氏の哲學である。
京都大学を訪れ対談をした後に例の哲學の道の界隈も散策されて居たようだ。


ちなみにガブリエル氏の盟友であるとされる哲學者フェラーリス氏は伊太利亜人である。マウリツィオ・フェラーリス
すると新実在論の根底には日独伊の知の連携が張り巡らされて居るやうにも感じられるのであるが実際其処はどうなのだらう?


まさしくコレはかの三国同盟の復活と言えぬでもない。「仲良し三国」

或いは其処で仲良し三国が鬼畜シンポ主義をば蹴散らし真理へと至る其の過程を今まさに繰り広げて居るのではないか。


尚ガブリエル氏を感覚的に評せば其処は如何にも独逸人らしく物事の捉へ方が真面目そうで嫌ひではない。
何せわたくしは真面目な人が好きなのでたとへ哲學者でも生真面目さが見える人の方がより分かり易いことだらう。

さて世界が存在するかどうかよりももっと大事なことが或はあるのやもしれぬがとりあえずは本を読んでみないとほんたうに世界はないのかどうか分からない。

世界があろうがなかろうが今まさにコレがオレでコレがオンナだと考えられて居るアナタ様の其の実感こそが正しひと云う可能性さへないでもない。

然しさういうのはまさに哲學的には否定されるので其れが何で否定されるのかと云う事をまた次回から考へてみたい。