目覚めよ!

文明批判と心の探求と

ザルドスから学ぶ愛と性


言うまでもなく人間にとって一番難しいことが欲望を抑え込むことです。

適度に欲望を充たしまた過分な欲望を断ずることがまず何よりも難しい。


欲望とは実は抑えられないものなのです。   

ですのでこれまでにも何度も欲望に負けた文明が滅んで来て居ります。



つまるところ、文明は欲望との関係に於いて其の寿命が決まります。

存在の世界の理として、大欲望に捉えられた愚かな文明は短期間で滅びるべくして滅んで居る。



近代文明がいけないのは、其の大欲望を大欲望として見られなくなって居ることこそにある。

即ち少々の事には目をつむり、兎に角目先の欲を、其の大欲望の成就を願い我我は此の三百年間を生きて来た。


其れでかの宮澤 賢治のやうに潔癖なことをいきなり言い始めるとソイツこそがキチ外ではないかとそう思う訳です。

然し、狂って居るのは残念ながら近代文明の方でせう。


狂った文明は狂った現実を生み出しまさに短期間で滅ぶに至る。

未来が無いと云うのに未来があると思い込み、間違いばかりだと云うのに正しいと思い込み次第次第に追い込まれていく。



誰もが大丈夫だ、必ずや此の文明は結果を出して呉れる筈だ、より良い未来を約束して呉れる筈だ。

とそう思い込んで居りますがおそらくは其の期待値こそが間違いだ。


文明は非常にヤバいものなのであり実は理性でもって常に監視しておかねば暴走するものだ。

其の監視役こそがインテリの役目ですが今や理系インテリはすでに半分頭が狂って居り自分が何をしでかして居るのかと云う事も他の事ももう何も分からない。


丁度大衆が不倫だの淫行だのに慣れて仕舞い、嗚呼、今日もまたどこぞの先公が淫行で逮捕されたか、今日もまたどこぞの芸能人または議員が不倫で逮捕されたか。

ー無論のこと不倫だけでは逮捕されませんがあえて逮捕して置いた方がよろしい、是非逮捕しておくべきである。-



其れと同じことでつまりは慣れ、此の慣れと云うもの程恐いものはない。

つまりは欲望に突き動かされ悪いことばかりして居ると其の悪を悪として認識出来なくなって仕舞う。


いったん非行に走ると万引き、援助交際、恐喝、リンチ、殺人ともうとめどなく人間じゃない世界へと引き込まれ揚句に刑務所にでもたたきこまれるのがオチだ。



欲望中心の文明も実はコレとまるで同じことです。

文明が万引き、援助交際、恐喝、リンチ、殺人を好んで行ったことで地球と云う此の宝石のやうな星が犯され乱され今まさに殺されかけて居る。


つまり文明=非行といふことになる。


非行文明は一体何処まで悪でアル中やヤク中またはギャンブル中毒、或いはアブノーマルSEX中毒に好んで陥ろうとして居るのか。



第一要らぬものばかりで一杯だ。


便座の暖房機能、まずコレが要らぬ。

それからカーナビ、無論コレも要らぬ。

スマートフォン、コレはもう絶対に要らない。

それにあんな役立たずのお掃除ロボットも要らぬ。

不倫と淫行も勿論要らない。

サーモスタット、実はこれも要らぬ。


昔のトースターは普通にパンが焼けたが今のは途中で切れて仕舞うのでパン一枚を焼くのに10分以上かかる。

また今のガスレンジは途中で切れて仕舞うのでまともに調理することが出来ない。

さらに今の冷蔵庫は壊れるとしゃべるので其の壊れた冷蔵庫がうるさくてかなわない。



兎に角もっと普通にしろ、普通に、普通でいいんだ、要するに凡でもって常で沢山だ。



悪の文明ももういい加減其の悪の道から足を洗わないととんでもないことになって仕舞うぞよ。

もうそれこそ皆が犯罪者の群れとなりおまけに心も皆悪魔で神仏から見放されし極悪生命になってしまうぞよ。







さてザルドスに於いて意味化されたのが性=生の筈でした。

性こそが生命にとっては希望であり力である。

其れは矛盾的な包容力でありかつ矛盾的な推進力である。



何故なら生=矛盾なので、性もまた矛盾でしょう。

其の矛盾そのものから力を得て居るのが我我凡俗の徒です。


然し宗教は一度まず凡俗であることを否定します。

キリスト教、特にカトリックは性の齎す快楽に対しては否定的です。

勿論仏教でも最終的に性は否定される。

いや、否定ではないが結果的に性は超克される。



何故なら性を否定すると云うか少なくとも無関心にならなければ仏の方向へは決して進めないのです。

逆にある人が性的な力に充満しているとすれば、まさに其れは勘違いのことであり謗法そのもののことです。



つまるところ世間で考えられて居る価値観と真理領域に於ける価値観は真逆であることが多い。


ですから脱世間化ー超俗ーする装置としての宗教の役割が其処に生じて居るのである。

なのではありますが普通誰もそんなことなど考えず普通に生き普通に性の営みを繰り拡げて居ります。

何故なら我我は動物であるに過ぎないからです。



言うまでもなく動物であるとはそうしたことでしょう。

しかしながら近代以降我我は其の動物であることに自ら異を唱えて来て居る。



其処で近代は述べます。

我我はすでに半分位は理性化ー合理化ーされしサルである。

だから動物そのものではなくしかしながら理性そのものでもない。


動物であることを抑えたいのは所詮人間の性のようなものなので仕方が無いことだと言えば仕方が無い。

ですが果たして其の合理化により性は本質的に解放されていくのでしょうか。



其の性の解放とは、宗教的にはあくまで抑えられた欲望に於ける欲望の成就のことであった。

たとえ性的な事象に対してはお堅いカトリックであっても或は仏教でも、性そのものを否定する訳ではなく其処で過度な性的な欲望の追求を戒めて居るだけである。



ところが合理化による性の捉え方にはまさに合理的な欲望の追求の理念が塗り込められて居る。

そして其の合理的な欲望の追求の理念こそが性そのものを破壊するに至る。


元より半分位は理性化ー合理化ーされしサルにとって、性はタダの欲望のはけ口であるに過ぎない。

性こそが生命の存続の上での儀式として神聖なものであった時代とは質的に異なる領域に落とし込まれて居る。


要するにそうした貶められし性を我我は生きていかざるを得ない。


けだし問題は、半分は動物である人間にとりいまだ性は未来であり希望であると云う点にこそある。

だが其処で私は性を否定する訳ではない。



ただ合理化による性のあり方がおかしいとそう述べて居るばかりだ。

其の性の合理化そのものがおかしいのであり性自体がおかしいと言って居るのではまるでない。


合理化してはいけないことをあえて満遍なく、そして節操なく合理化するに至る近代と云う社会構造自体が誤りだと述べて居るばかりだ。



だから私はザルドスに於ける性の復活を否定しない。

性の復活により生き残りし神人間達は生きる力を授けられた。

元より生きる=性でありまた食う事であり寝る事である。



然し半分は生きる=悩むことであり老いることであり死ぬことだ。

半分は理性を生きざるを得ない人間には生のそして性のマイナスの側面に気付いていかぬ訳にはいかない。




さて、以上に於いて私は人間にとっての性の抱える問題につき其の全てを述べたつもりです。


生きることは即性であり其の成就は本能の履行となろうがこと人間に於いては其れが理性に於ける性の解釈を必然的に含むと云う点。

従って自然界での性の履行は緩やかな破壊ー変化ーを生じせしめるに留まるが人間の社会に於ける性の履行には必然としての破壊が組み込まれると云う点。

おまけに其の破壊力は近代以降最高速度に達していやう。



元より性は矛盾だがサルとしての人間にとっての其れは矛盾どころか生きる上での希望であり未来である。

然し性を矛盾として捉えざるを得ない理性的存在としての人間にとっての其れは逆に破壊であり貶めであり悪そのものである。



ところが合理化の度が進んだ社会領域では性は否定されずむしろ其れが欲望の拡張の対象として肯定されていく。

平たく言えば性がストレス解消の道具、鬱屈する理性の為の解放の場と化し矛盾化していく。



何故矛盾化するのかと言えば、性が快楽の道具化されることで性自体の目的が理性化されて仕舞うからだ。


性の理性化?


一体其れは何のことか。


元より性は理性にとっては小汚い何かであるに過ぎない。



たとへば高校時代に数学の出来る頭の良い友人が居ました。ー結局頭が良過ぎて彼は精神病院とかにも通って居ましたが最終的には準禁治産者となりもはや音信不通ですー

彼がたまに言って居たのが、ボクは好きな彼女にHなことなんか絶対出来ないよ、何故なら大事な彼女なのだから。

と云う事でした。



実は私も当時は其の論理と言いますか気持ちが良く分かって居たのです。


でも其れから私には色々と経験があり、今ではむしろ好きな彼女だからこそHなことをするべきである、其れが男性の役割であり性の本質的な解放だ。


などとも思うようになりましたが同時に好きな彼女以外には絶対にそんなことはすべきではないとそう強く思うやうになりました。



ですが現実としての女というものは矢張りと云うべきかもうほとんど動物なのでもありましょう。

動物だから動物で、むしろ観念よりも肉体、其れもアノ子宮の奥の闇の闇みたいなものが実は女としての考えさえをも支配して居り、其処からしてもそんな動物ですもの、幾ら綺麗な顔をして居てもまた女神様のやうなスタイルでも実は皆同じ、所詮は皆同じなのが女の本質で御座いまして、同じといふことは違いが分からないので其れは観念では無く所詮本能の所産である。


だから本能のままに好きな女を触ることは全然怖いことではない。

要するに動物を愛撫するのと同じことだ、其の動物を。

かと言ってかのT大統領のやうに大勢の女を手籠めにすることが神の名の前に赦されていやう筈はない。



まあ個人的には女の動物力は自分には是非必要であると考えて居ります。

何せ此処までの観念人間ですので、其れこそつひ思い詰めてキチ外にならないやう兎に角女の尻のひとつ位は常に追い求めていくべきであるとさう思っても居るのです。



動物としての本能力を理性にて制御すること、其れこそが人間に与えられた使命かと思われますが実は今社会構造的に其れが難しくなりつつある。

逆に愛無き快楽の営みが幅を利かせる世の中となっちまいました。

ですが本来ならば性は是非愛に貫かれたものでなければならない筈です。


ついでに教師または日教組に対しての一言。

近代主義の履行上性を教えると言うのなら其の前にまず愛に就いて教えていかずしてどうする。


だから愛です、愛。



でも愛とは何だ?

愛とは生老病死のことです。

ゆえに仏法の上では其れは苦を生ずる素因としての絶対的認識のことですが、キリスト教では絶対的な神と連なりし認識に於いて其の苦を相対化するに至ること。


要するに神を信じた上での愛こそが真の意味での認識となります。

また神を信じた上での性こそが真の意味での性となりましょう。



無論真理の上では絶対的認識に寄りかかることを避けねばならない。

なので最終的には性も愛も仏法の上では滅し去られる。


でも所詮サル人間は仏になどなれない。

キリスト教の説く苦の相対化、つまりは抑制された上での性愛の肯定は現実的な意味での世界の推進を担っていくことでしょう。



ザルドスで展開された愛と性の問題はそのままに現代社会が直面する愛と性の問題なのでもある。

結局ゼッドはコンスエラと云う伴侶を得むしろ人間としての生老病死の世界を選びました。
ーすでに神人間となっていたゼッドでしたが理性による楽園の構築をあえて行わず限定の生を共に歩むに至るー


二人して彼等は生老病死即ち愛の世界を滞りなく履行していった。


そして子が産まれ成長しやがて外界へと旅立っていった。
夫婦は共に老い、共に白骨化し、岩に其の絆としての手形を遺した。

つつがなく生き、つつがなく老い、つつがなく死する、愛とはそういうことなのだろうと思います。
また其のやうな愛を成り立たせることの出来る社会をこそ是非望みたい。

変な欲望まみれでの社会をつくって居るようでは実際ダメだ、皆が必ずや崇高な愛を貫くに至る社会を築かずして一体どうする。