「philosophy(愛知)というのは、まさに《死の練習》なのであって、真の愛知者というのは、できるかぎり自分のプシュケーをその身体から分離解放し、プシュケーが純粋にそれ自体においてあるように努める者だ、とする[2]。そして愛知者のプシュケーが知る対象として提示されるのが《イデア》である[2]。
似像つまり仮象と云うべきものが、我我の腐って居るー狂って居る認識ーから実在だと認識されて居ることこそがそもそも誤りでのことです。
だからほんたうに在るものは無いものなのであり、逆に在るものこそが無いのであり従って我我は其の夢物語ー仮想の現実ーを在ると信じ生きると云う誤った信仰のさ中にある。
其れぞ邪教の類なのやもしれませぬ。
恐るべき邪教の只中に其の深みに嵌り込みどうあがいてもすでに抜け出せない。
ですからわざわざ宗教など持ち出さずとも人間は皆邪教の類の信者です。
其のイデア乃至真理または太一の状態に対する謗法者です。
そも人間の認識はおかしいので金だの財産だの女だの賭け事だの、他ありとあらゆる犯罪に対していたく興味を持ち、つまりは心の根が性悪そのもので限りなく欲望の追求を、其のドロドロの欲望の追求の今を生きて居りますが無論のことそんなことばかりして居ると早晩地獄に堕ち、其の地獄には諸の鬼やら血の池やら針の山やらと色んな物が出て参りますが勿論そんな様はタダの象徴的な事物であるに過ぎず実は地獄とはズバリ内面での大きな苦に苛まれて居る様のことです。
まあ其れは個々人の認識の階梯に於いてそれぞれの苦のあろうこうとかと思われるが、どうも現代の苦とはそうしたこと以上に社会的な意味での悪からの苦が齎される。
どうも其処が問題である。
人間が社会一丸となり犯罪に勤しんで居る其の様を、我我文の徒はどうも黙って見て居る訳にもいかず其れでどうしても一言述べてみたくなる。
「イデアの理論によれば、感覚することができる世界は実在するものでなくイデアの射影であると考えられた。個々の感覚を理性によって把握することによってのみ実在するイデアを認識することができると論じている。」以上より引用
「プラトンにとって知識とは常に存在する普遍的なものでなければならないが、それは実体であるイデアの世界にあり、この現実の世界は仮象の生成流転する世界であって永遠に存在するものはなにもない。したがって、知識も決して師や賢者が一方的に教授できるものではなく、弁論術による対話を通じてようやく到達できるものである。プラトンの著作が対話篇という形をとり、その結末がアポリアを呈示する形で終わっているのは、このようなプラトンの思想を反映したものである。プラトンによれば、物の本質は、感覚によって把握することはできず、物のイデアを「心の眼」で直視し、「想起」することによって認識することができるのである。」 以上より引用
感知し得る世界の本質が虚の認識であることはかのプラトーンにより論じられて居ました。
対する概念としての真の認識はイデアの直視でありまた「想起」による認識であった。
「人間は事物をじかに知るのではなく、観念を通じて間接的に知る、とし、観念なしでは、ものごとについては何ごとも語りえない、とする考え方である[2]。この認識論的な意味でもidealismは(西洋では)近代特有の思想である。」以上より引用
このidealismが形而上学的な方向に進むと、「事物は意識内にだけ在るものであり、存在するものはつきつめると精神とその様態としてのideaにつきる」とする説(唯心論)となる。唯心論ほどまでに先鋭化すると、唯物論と対立することになる[3]。」以上より引用
最も重要なことは人間の認識、人間の認識対象が極めて狭いー限定されて居るーと云うことではないかとわたくしは思う。
まあ屡言われて居ることではありますが所詮人間は全てを知り得ないと云うことでしょう。
でも私には最近強い違和感が感ぜられるのです。
最近其の辺の子供とか女共とかが物凄く威張ったりして居るのですね。
即ち何も分かって居ない馬鹿共がかえって威張りくさって居る。
コレはもはやゆゆしきことです。
もうまるで変だ、なって居ないことだろう現象だ。
私は人類は此の辺りから滅びの坂を転げ落ちていくのではないかとどうもさう思って仕舞います。
バカつまり無知で無明の輩は矢張り無知で無明の輩らしく常にしおらしくして置くべきなのではないか。
どう考えても私にはそう思えてなりません。
「対象というものは、主観に与えられたか主観に本有的に備わっている観念を材料や形式として主観の働きによって構築される現象である」
と云うカントを始めとする観念論の説に従えばまさに主観こそが認識としての対象を生み出していくのである。
と云う事は主観なくば認識としての対象もない。
だとすれば、寝て居る時や死んだ時は認識としての対象がそも無い。
だから有ると云う事は大変ややこしい問題なのです、實は。
で、主観が認識としての対象を生んだにせよ其れは真の意味で在る訳ではないのですね、コレが。
ですので、何度も申して居りますが、
有るものは無く、無いものだけが在る。
存在とはそうしたことです。
なので認識としての対象も仮にあるだけのことでほんたうのほんたうには無いと云う事にならざるを得ない。
だから自然も女も金もフェラーリも實は皆ウソコキの事物であり多分間違いなく無い、皆嘘のウソの大ウソの上塗りでの認識上の産物である。
では此の今腹が減ったと云う現実を一体どうして呉れるのだ。
事実今ワシはきわめて腹が減り、或いはムラムラとし実は女に触りたいのだが其処をどう解釈するのだ。
これ程に大きな本能としての求めを、それこそデカいデカい此の獣欲の発現を哲學者共は一体どう説明するのだ。
いや、其れは確かに凄いことです。
貴男様の其の欲望のデカさだけは凄い。
されどウソコキ、其の一言に尽きるのであります。
即ちアナタの欲はアナタが自分で創り出して居る欲です。
其れからついでに言いますと飯も女も皆ウソコキでほんたうのほんたうは貴男のみが其処に居られる。
つまりはおまへだけが其処に居る。
此の世界につまり君が認識し得る世界に居るのは君だけだ。ー所詮は孤独な君だけだー
ただし、虚の構築物である現在がア・プリオリな形式ー先験的な形式ー=人間の認識のあり方に於ける論理的な先行性にて規定されて居る可能性が高い。
左様に認識の主体としての主観が生み出す対象其れ自体が観念的構築の所産であるに過ぎない。
だから主観つまりは意識のある状態でこそ全ては形作られて居やう。
まさに札束も別嬪の女も黒猫も全てが其の対象としての認識の所産であるとそう考えられる。
ですが当たり前のことではありますが寝て居る時には其の全てが消えて無くなります。-夢とかそういうことを抜きにすればー
また死ぬと多分其の全てが消えて無くなります。-臨死体験とかそういうことを抜きにすればー
つまり人間は死んだら終わりです。如何にもコレも当たり前のことながら。
死ぬまでにやることとして、より望ましいのがむしろ内面を磨き込むことでせう。
人間は何よりそうした限定者ですので目に映ずる世界には実はさして大きな意味や価値は無く大事なことは認識の主体としての主観のあり方を正すことだけだ。
言うまでもなく仏教に於ける修行こそが其の認識の主体としての主観のあり方を正すことだ。
「事物は意識内にだけ在るものであり、存在するものはつきつめると精神とその様態としてのideaにつきる」とする説(唯心論)」
元より認識の主体としての主観に認識されるものは無いのであり有ると云うのは其の意識内にだけ有るのである。
其れが無いと云う事は自分ー自己として認識される意識ー以外には何も無いのであり、と云う事は無論のこと札束も別嬪の女も黒猫も其の全てが本来無いのである。
だからほんたうのほんたうに有るのは主観の認識だけである。
ところが其れも実は無い。
何故なら分離ー分解ーされて居るからである。
イデア乃至は真理または太一の状態に対しては其れは存在して居ない。
なので存在とは分解である。
また時間とは分解である。
さらに意識とは分解である。
分解=限定である。
だから人間とは限定である。
そんな限定の者こそもっともっと謙虚に生きるべき。
二十世紀を席巻した唯物主義がそんな人間の本来あるべき姿を見失わせて仕舞った。
結果次第次第に人間は悩まなくなりまさに刹那ー今だけーの快楽に溺れるやうになる。
誰がと云うことではなく、現代では誰もが其の風潮の餌食になって居る。
合理思想と云う名の元に構築されし脱観念化が。
決してなしてはならぬ精神の合理化の末の破壊の為の破壊が。
誰あろう観念論の対概念としての其の唯物主義が人間の主観としての認識を深く蝕むに至った。
だから考えないよりは考え過ぎて狂い死ぬ方がまだマシといふものよ。