目覚めよ!

文明批判と心の探求と

目覚めよ!-15



理想といっても理想なんてものは普通の人間には其れを垣間見ることすら難しいものだ。

理想どころか現実には理想とは正反対の方向へ向かって歩んでいっていることがほとんどだ。

そんな中でも今ある幸せを、今ここにある何がしかの幸福感を愛おしく抱き、そこに感謝して生きるという生き方は確かにある。


なぜなら元々幸福なんて相対的に感じられるもので、今貧乏で病気でおまけに孤独で客観的にはとても苦しい状態にあるのだとしても、たとえばそこで我は今日この美しい地球という星の上に生きて居られて、このすがしい地球上の空気を呼吸することが出来おまけにこんなに美味しい御飯を頂 くことさえ出来た、もうこんな幸せったらない、我は本当に今日幸せであった。

などと思うことも幾らでも可能なのである。

対して我は金持ちで健康でおまけに人望があり、つまり誰から見ても幸せで事実幸せそのものである。アア、我は今本当に幸せである。

などと思うことも幾らでも可能である。

が、その両者の幸せにおける実感上の幸福度は実は同じ位のものなのかもしれない。

いやむしろ前者の幸福感の方がより深いところで得られている幸福感でさえあるのかもしれない。


私は自称詩人なのであるから、もしそうであるのならば前者の方の立場となることを欲する者でもある。

つまり並みの幸せでは全く面白く感じられない。

並みの幸せとは金力や名声や健康や生活の安定といった並みの人間が普通に欲するところのものである。


だが努力に努力を重ねてそれらを得たにせよ、それらは本当の幸せではないのである。

それらが本当の幸せではないということを私に教えてくれたのは文学と宗教の力によるものであった。

だから文学と宗教は私にとっての精神の師である。


でも文学は精神的に病気の方向でそんなもの読んだってちっとも役には立たないぜ。

その通りである。

世の中の諸にとって実効的、即効的な力を持たないものだからこそより深い面を突いていくのである。


より深い面ー真理、真実、実相ーなどなど。

そういう方向性を向いているものが文学であり哲学であり宗教なのである。


並みの幸せとは、凡夫=一般人が最も執着し易いものだ。

誰しも並みの幸せを求めてやまない。

だが並みの幸せを求めることで実はほんたうの幸せを求める方向性を自ら放棄しているのだ。


そのことに気付いた宮澤 賢治はかって自行化他の実践に勤しみ東北の農民の為に奔走した。

自行化他=自利利他=「本当の自分の利益は他の人の利益」との意。


これは大乗仏典となる維摩経の中にある言葉だが、そこでは「自分の利益は他の人の利益」なのではなくあくまで「本当の自分の利益は他の人の利益」であるとされている点に注意して頂きたい。

その本当の「自分の利益」とは何か、という部分なのである。

またその利益というところを幸福という言葉に置き換えても良さそうである。


すると、本当の「自分の幸福は他の人の幸福」ということになる。

ところが「本当の自分の幸福」とは、我が金持ちで健康でおまけに人望があり、つまり誰から見ても幸せで事実幸せそのものである、という状態とは実はかけ離れたものであるということを誰も教えてはくれない。

そのことを教えてくれるのはただ文学であり哲学であり宗教であるのみなのだ。



この世の表層でのみ通用しているあらゆる価値観がそのことを教えてはくれないのである。

たとえば仏教の立場からその「本当の自分の幸福」ということを論ずれば、それはむしろ我が金持ちで健康でおまけに人望があり、つまり誰から見ても幸せで事実幸せそのものである、という状態を捨てていくべきところにそうした本当の幸福の花が咲くのである。

そこにまるであの白蓮華のような清い美しい花が咲くのである。


私は前回、囲われた群れから孤立することを嫌い、欲望を抑えて、利他的に努める性質のことをニーチェが「畜群」として批判していたことを最後に付け加え書いた。

然し欲望を抑えて、利他的に努める性質の全部が悪い訳ではないことだろう。

邪な欲望を抑えて利他的に努める性質はむしろあの白蓮華のような清い美しい花を咲かせるのである。
                                                                                                                           2013/05/02