普段から私は直観のようなものが利くので二元性こそがこの世の秘密を解くカギであり宗教はその二元論を脱して一元化するための試みだと前々から申していました。
ところで神仏と云うのは二元的世界において言葉でもってして無理に捉えた一元化の様なのでそれが本当の神仏であるのかどうかは分かりません。
そこを信仰により言葉を超越した状態でもって創り上げていくことこそが愛であり慈悲でもある訳です。
もっとも慈悲と云う言葉には愛や幸福を乞い願うという現世利益的な面よりも現世での利益に打ち興じている凡夫の様を否定的に哀れむという意味が強く感じられます。
幸福と云っても仏教における幸福は勿論生でも死でもなく心の世界における永遠の浄福を得ることの筈ですのでまずは現世利益的な現状を否定していかないと絶対的な肯定へは進めないのですから。
私は、仏法をはじめとする真理の為の教えとは絶対的な肯定の世界を形創るものだと考えて来ています。
それが二元的展開のこの世界では元々無理なものをあえて構築していく作業だと捉えているのです。
この構築の試みについてここ数年の間考えを巡らせてまいりました。
構築とは、生きることです。
対して破壊とは、死です。
生きることは構築の試みであり、本来ならば破壊を避けてそれを行うべきものです。
前近代までの人間の営為はまさにそれだったのでしたが、近代以降の人間の行いは須らくが矛盾化し構築の為の破壊を、すなわち過分に生きることの為のおびただしい死の蔓延を招くに至った。
そしてどんなに学問や技術の領域が進んだとしても、この自己矛盾自体は避けられない。
そのことに気付いた時、私はこの自己矛盾とこそ闘うべきだとの結論を得ました。
元来否定の方に傾き易い心の性質を抱えた私ーおそらくはマイナス思考なのでしょうーは、だからこそそこで生の構築の意味と価値を真に知る者だとも云えます。
本質的な意味としての生の構築はあくまで無意味なことでもあり、同時に矛盾化することで破壊そのものでさえある。
だからこそ仏法は構築を捨て去り逆に脱構築していくのでしょう。
まさに精神の上での断捨離とでも云うか、それこそ感覚も思考も鎮静化しそこから脱していくことで中道の境地を目指すのでしょう。
矛盾そのものを滅していくのですね、そこで。
でも私のやっていることはあくまで闘いなのです。
だから私は得られないことだろう涅槃を得ようとしているのではなく破壊とだけ闘っているのです。
破壊は、確かに自己の中にも起こり得ます。
私の中の破壊は、私自身がそれを願うことで起こしているのではなくあくまで周りが引き起こしているのです。
そんな風にあえて自我に捉われ闘いつつー結局は自分との闘いに帰結するのでしょうがーその闘いに敗れたとしてもその闘いの事実だけは残る。
むしろその敗北の記録化をこそわたしは願い望んでいる者です。
あの宮澤 賢治のようにそれを記録化したいのです。
一方でプラスのエゴ化ではなくマイナスのエゴ化の過程でその生の負の側面の大きさに押し潰され喘いでいるのが正直な今の私の姿なのだと云えます。
でも解脱もまたマイナスー否定ーから発し究極のプラスに至る過程なのだとかって私は述べたことがありました。
大きなもの、大きな狂い、大きな破壊については、元より一筋縄ではいかないものばかりです。
けれど私はその大きなものとだけ闘います。
よしんばそれがあくまで自己の中の大きな欲望の投影であるに過ぎないにせよ、常にそれと闘っていなければ生を構築することの意味を指し示すことが出来ないからです。
虚の構築は、あくまで虚の構築であり、そこでの自我の捉われも、その自我に基づいた闘いもすべては虚の試みであり謂わば虚妄の分別としての記録です。
ですがそうした犠牲者のようなものもまた必要なのではないでしょうか。
分かったような振りをして実は何も分かってはおらずあらゆる魔の働きと闘おうとはしない今の仏教のあり方に私は常に違和感を感じています。
尚私がパートナーを希求しているのは、このままではじきに破壊されてしまいかねないからです。
闘いの果てに自身が破壊されてしまいかねません。
それは自分で自分を破壊に導くとも言えそうですが、同じ破壊が齎されるものならば私は闘いつつそうされたいとも強く願います。
何せ長生きしないと仏との縁もすぐに切れてしまいますから少なくとも私の場合は長生きすることを目指すべきです。
ちなみに私の仏教観には大乗仏教への不信感というものもどこかに根強くあります。
真理は大衆には決して理解されず僧の中でもさらに特殊な心性の持ち主の為のものだと云う思いが強く私にはある。
だから皆成仏などは出来ないと思っているのです。
だったらそれぞれの機根に応じた仏道修行のあり方があるのではないでしょうか。
そして私は私なりのやり方で仏法の上での枢要な哲理に目覚めていったのでした。
だから今私には分かっています。
私達の生の目的も、煩悩の煩悩たる由縁も、そして煩悩が破壊を齎す様も全てがくっきりと見えています。
それらは確かに観念化により見えて来たもので、謂わば観念よりでの仏法の把握です。
だからそれは真の意味での真理の把握ではなく謂わば矛盾化する把握の仕方なのです。
でもそれは私が生を苦しみ足掻くことで築き上げた直観の産物で机上の空理空論に類するようなことではない。
なので悩みこそは気付きの母胎です。
目覚めることは、悩むことから齎されること。
ただし悩むことで破壊され得ることがままある。
もっとも悩まないことで破壊され得ることもまた大きくあることでしょうが。