昨日興正寺へ出向きとりあえずは拝観しつつも所々で手を合わせ諸を祈願してまいりました。
実は自転車で二十分ほどで行け家からは近いのですがここ15年ばかり出向くことがありませんでした。
さて自分の運命と申しますか縁起されている今を変えることは容易ではないと思われますがそこは出来得る範囲で何かをしていくほかない訳です。
尚陰陽の合一と云いますか精神的次元と物質的次元の統一化はある種理想ではあるのでしょうが自分の考えでは全部自己矛盾化するので現象化することすなわち現世は地獄そのもので理想ではない状態、分解され分離されまともではない不具性ないしは瑕疵性の発露であるに過ぎないとそう捉えます。
でも胎蔵界と金剛界の結合は現世で束の間の理想ー大元ーを顕現させることなのかもしれません。
もっと俗的には、女が居ないと男は様々な面で生きにくくなってもいきます。
女性器と男根のくっつきこそが生のエネルギーである訳ですが、現象として現れた世界で其れを行いその生きる意欲のようなものに惹きつけられている分縁起の構成要素により深く捉えられ輪廻する羽目にも陥ることでしょう。
でも反対をやらないと生きられないので私は今性を否定している訳ではありません。
何よりそれは生のエネルギーですので、私の様に観念化の度が進み苦しんでいる人間にはむしろ大事なことのような気も致します。
尤も現実はもっと簡単なそれこそフィーリングのような部分で動いていて基本動物的でもある女を口説くのはむしろその部分が功を奏する訳です。
まあ私には生きないことよりも生きることの方がより難しいのだとも言えます。
それも物心両面にわたりそうなのです。
私は今合理主義が其の女性器と男根の健全なくっつきを阻害し性を破壊すると述べております。
性の破壊は生の破壊のことなので時の経過と共に性は合理的に欲望のドレイ化されそれ自体がやがて破壊され尽くしそれと同時に生自体も破壊され得ます。
それと共に高度な情報化は非本質的な言葉の領域を拡張させ其処に惑わされる大衆は衆愚化しそればかりか白痴化し人間以下のものに成り果てていきます。
そんな訳で私は今未来に於ける人間の地獄絵図を見詰め続けて来ております。
それゆえ生命力が弱ってまるで寒山拾得の如くに人からはむしろ軽んぜられる存在になりつつあります。
それでもって事実として底の方まで行っておりますのでー観念のー、これはもう神仏にお縋りするほかはないと思い伽藍を巡り奥の院まで足を運び大日如来にもご挨拶して来たところです。
仏教は元来潔癖であり理想論でもある訳ですが、現在は大乗的に現世利益化されカネや権威権勢と手が切れない状態に陥っているのかもしれない。
所謂末法の世ということになりましょうが、以前詳しく調べてみたところではこの末法思想に確たる根拠はなくさほど気に病むようなことではないようです。
結局末法だろうが何だろうが人間は縁起された今と云う時空を生きそして死んでいくことしか出来ない訳です。
でも昨日の縁は私にとってとても有意義なものでした。
興正寺は広大な敷地でまさに山のさ中に伽藍が配置されている感じでした。
八事山 興正寺 境内と参詣のご案内
自然歩道さえもがあり、そこはまさに清浄なところで文明は云うに及ばず、或いは仏教なんていうのも自然の汚れなき様には及ばないのかな、などとも思わせられました。
自然はそのままで神なのであえて仏教は要らず、その神の座から転落したところでの人間のみが仏教と云う名の清浄世界を模倣して創っただけなのだとそうも思いました。
奥の院には不動明王の御堂もあり其処で色々と祈願してみたりも致しました。
俗な願いは愛染明王の方が良いかとも思いましたが、私は何故か不動明王のお姿が好きなのでそうしてみましたのです。愛染明王像 東京・国立博物館
不動明王は恐いから好きなのです。
恐いということは何かから何かを護っている訳です。
その何かというのはおそらくは仏縁を阻害する魔の働きのことでしょうが、ひょっとすれば今や文明としての魔の働きから仏法を護っているとも言えそうです。
残念だったのは、千燈祭という、灯篭を点けて護摩を焚き読経すると云う恒例の行事が十月の最初の土曜に終わっていたことです。
勿論それには是非訪れてみたかった。
尚、興正寺は今本山の方と金銭がらみの問題でもめているらしく、そのことは家の近辺の人は大抵知っています。
名古屋・興正寺を家宅捜索 利益不正流用問題で地検、背任容疑
全く生臭い話ではありますが、そんな現実とは別に都会の山の中にある古刹を訪れ仏にご挨拶しておくことは充分に意義のあることです。
自然歩道さえもがあり、そこはまさに清浄なところで文明は云うに及ばず、或いは仏教なんていうのも自然の汚れなき様には及ばないのかな、などとも思わせられました。
自然はそのままで神なのであえて仏教は要らず、その神の座から転落したところでの人間のみが仏教と云う名の清浄世界を模倣して創っただけなのだとそうも思いました。
奥の院には不動明王の御堂もあり其処で色々と祈願してみたりも致しました。
俗な願いは愛染明王の方が良いかとも思いましたが、私は何故か不動明王のお姿が好きなのでそうしてみましたのです。愛染明王像 東京・国立博物館
不動明王は恐いから好きなのです。
恐いということは何かから何かを護っている訳です。
その何かというのはおそらくは仏縁を阻害する魔の働きのことでしょうが、ひょっとすれば今や文明としての魔の働きから仏法を護っているとも言えそうです。
残念だったのは、千燈祭という、灯篭を点けて護摩を焚き読経すると云う恒例の行事が十月の最初の土曜に終わっていたことです。
勿論それには是非訪れてみたかった。
尚、興正寺は今本山の方と金銭がらみの問題でもめているらしく、そのことは家の近辺の人は大抵知っています。
名古屋・興正寺を家宅捜索 利益不正流用問題で地検、背任容疑
全く生臭い話ではありますが、そんな現実とは別に都会の山の中にある古刹を訪れ仏にご挨拶しておくことは充分に意義のあることです。
尚奥の院の裏側には中京大学があり、ここは物凄く偏差値が上がった大学として有名ですがそれ以外にも浅田 真央ちゃんが卒業し室伏 広治選手が准教授を務めていたことでも知られています。
中京大学の女子学生の何人かが、何と女人禁制となっている筈の奥の院の敷地の中を堂々と通り過ぎてー近道になっているらしいーいきましたがあるいはこれも御時勢なのでしょうか。
奥の院では大日堂の階段の横に猫が二匹居てのんびりそうにしていて羨ましかった。
是非私もこんなところに住める猫になってみたいところでしたが、常に現実は厳しく人間であることからは誰も免れることが出来ません。
ちなみに女の家がこの興正寺から歩いて五分のところにありますので是非呼び出して共に散策してみたいところではあります。