目覚めよ!

文明批判と心の探求と

内面と闘うー仏弟子としてのキアヌ・リーヴスー


元より人間は価値観に基づき生きて御座る。

ところが其の価値観こそがまさに曲者だ。

価値観が対立すると兎に角腹が立つ。


たとへば夫婦喧嘩、離婚の原因とまず成り得るものが其の価値観の相違である。

が、概ね女の価値観は低次元のものに過ぎずほんたうは其れにまともに向き合わない方が良い。



価値観とはあくまで自分で創るものでありそもそも人がどうのこうのと云うものではない。

ところが其の価値観を理性的に磨けば磨く程に逆に生き辛くもならう。

つまり人は事の本質を基軸にして生きていくと実は様々な悪、また様々な俗な価値観と対立せざるを得なくなる。


わたくしのブログの内容は其の聖なるものと俗なるものの闘争と云うか対決と云うか本質的な対立関係をありのままに描いたものだ。

そして其れは実は普遍的な闘いなのでもある。

藝術家の眼差しはむしろ古来より其の闘争をこそ見詰めて来た。


だが其の闘争自体をドキュメンタリーとして描く人などまず居ない。

だって恥ずかしいでしょう。

そんな恥部を拡げて見せて居るかのやうなことはたとへ藝術家であれしたくはない。


ただしそんな内面の闘争になど興味のないのがむしろ凡俗の人々としての常なる世界なのだ。

だからわたくしは其れが羨ましいと以前より正直に述べておる。


凡なるものは本質的には其の価値観が腐って居らうがどうであらうが生き抜いていく力に充ちて居るので逆に眩しく見えるんだとさう正直に述べておる。



さて其の腹が立つと云うのは普通宗教ではご法度である。

逆に腹を立てるな、ー価値観の相違をー受け容れて全てを赦せなどとも云われて居る。



だがそうであるならばまず宗教自体が他の宗教に対して寛容にならねばなるまい。

何故なら宗教とは実は普遍化することの出来ない精神の領域なのだ。

哲學的に突き詰めて考えてみたところわたくしの結論としてはむしろさうなった。


さらに云えば何でもさうだが、普遍化すると云う事は実はリスクが極めて高くあることなのだ。

ところが精神の癖としてはむしろ其の普遍化することをこそ望む。

ゆえに宗教は例外なく皆普遍化したがる。

然し其の価値観の普遍化こそが対立を生み宗教をして破壊に至らしめるのだ。


まさにどんな価値観でも其の普遍化こそが対立を生み対立する双方を同時に破壊に至らしめる。

なので価値観に基づく言葉は最終的には矛盾化し破壊のみを齎すことだらう。

最終的に其の価値観の対立による破壊を回避する為には逆の意見を受け容れる他はない。



だが普通正反対の価値は絶対に受け容れられず第一キリスト教にしたってイスラム教や仏教を全部受け容れられるとでも仰いますのか。

勿論受け容れてなどないでせう。

どだいかの十字軍にせよ異端審問にせよ他の教えを受け容れられないからこそ引き起こされたものばかりじゃありませんか。


第一そんな不細工な女房の腐った意見などまともな男性なら聞き入れられず馬鹿者!とでも大声で叫び家庭崩壊へと至るのが必定です。

ですので最終的には人間は無制限に他の価値観を受け容れることなど出来ない。

むしろわたくしは其の限定性にまさに正直であれ、確たる限定性に於いてこそ価値の主張を行うべきであるとさう考へるのです。

で、小さい範囲での意見の対立や衝突により破壊が引き起こされるにせよ其れは常に限定的なものとならう筈。


其れこそバカ女の価値観と対立して離婚に至るにせよ国家は破壊されないのだし宗教にせよ破壊されることはない。



だから精神こそはむしろ普遍化せず。

むしろ精神こそが普遍化との相性の極めて悪ひものなのです。

心的現象とは左様に普遍化するに至れば必ずや破壊を齎すもののことである。





「あなたの自宅がどれだけ大きくても、乗っている車がどれだけ見栄えがよくても、銀行口座の残高がどれだけ大きくても関係ありません。,,私たちの墓の大きさは同じです。謙虚に生き続けましょう。」ーキアヌ・リーヴスの言葉ー

   

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尚彼がこんな限定の思想に至ったのはおそらく女との関係に於いてまさに様々な経緯があり其れがいずれもうまくはいかなかったことによるものだらう。


おまけに死産により自分の子を亡くしても居る。

尚是は一見不幸せな生涯のやうにさへ見える。

然し仏法に於ける価値観と凡夫の価値観とはまさに真逆なので其れに照らし合わせる限り彼の人生は決して不幸せなものではない。


大金持ちとなりながら何故彼にはかうした謙虚さを備えた生への価値観が築かれて居るのだらう?

其はまさに仏縁にて築かれし謙虚な姿勢なのだと言い得ることだらう。

ちなみに仏教では生に於ける成功や子孫繁栄の様をまずは否定してかかる。


此の世で成功したり子孫繁栄をはかることが愚かなこととして認識されー無価値化されー否定されるに至るのだ。

基本認識=基本での価値ーとしてはあくまでさうなると云う話である。

然し生の価値を全否定してかかる訳ではない。


全否定すると同時に逆にマイナスの価値の肯定に陥り成仏への機縁を失うー仏道修行の場そのものを否定して仕舞ふーこととなり其れにより謗法の方向を生じせしめて仕舞ふからだ。


されど成功したり子孫繁栄をはかることは仏法の上では必ずしも望ましいことであるとはされて居ない。

むしろ独身でもってしかも貧乏で野たれ死ぬ位の方が望ましいのだ。



とは言ってもここまではまさか大乗の御坊さん達は言わないことだらう。

其れが何故良いのかと云うともう一度生きようとする意欲のやうなものをむしろ打ち消していくほうが仏法上はあくまで良いからなのだ。

むしろ消滅する方が良いのであるから此の世に長く深くは縁しない方が良い。


たとへばホームレスさん方とか、さういう貧しひ生活である方がむしろ望ましく生そのものへの執着を断ち易いのである。

ただしもしもホームレスになったとしても常に欲望がギラギラして居り隙さへあれば豊かな生活をしたひと願って居るやうではダメなのだ。

即ちどんな境涯であるにせよ小欲でもって知足し、成功したり子孫繁栄をはかることを願わない心であることこそが仏法に於ける元々の価値観なのだ。



だから元より其れは凡なる世界観、価値観のものとはむしろ逆方向での価値観そのもののこと。

だが大乗仏教へと移り変わり仏法に於ける価値観も多分に不純化しまた大幅に俗化されるに至った。

従って此処日本に於ける大乗仏教の価値観は総じて其の初期の仏教に於ける生に対する潔癖さを保つものではない。


それどころか今では世俗化が過ぎ大乗仏教の未来が危ういものにもなりつつある。


勿論大衆には大衆としての仏法が必要で大乗仏教はまさに其の世俗の為の仏教である。

然し今此処に至り其の価値観をこそ是非見直しておくべきだ。

何故なら価値観が違へば全ては別ものとなって仕舞ふのだから。



大乗仏教は初めから厳密には純粋な仏教とは呼べずむしろ色んな宗教や神の寄せ集めとしての慣習文化的な宗教であるに過ぎない。

ではあっても一方では純粋な仏教としての本質にまるで無関心であった訳ではない。


然し戦後此処日本国での大衆の価値観は純粋な仏教に於ける其れとはかけ離れていって仕舞う。

だから仏法が生の守り神か何かのやうにおそらく今大衆は捉えて来て居ることだらう。



でも其れは違うんだ。

本来ならば仏法は立派な暮らしや子孫の繁栄の為にあるのではない。

また立派な墓に入ろうと云う価値観などまるで無意味なのだ。

さらに言えば長生きさへもが意味なきこと。


確かに長生きして悟れ消滅出来るのであれば其れもひとつの仏法上の価値だがまずはさうはならぬので長生きなど実は仏法上の障りでもまたある。


また女、是は常々述べて居るやうに出来れば縁しないことの方がより良い訳であり、たとへばむしろオカマの人で子孫が出来なひことの方が仏法上はより望ましい。



なので大金持ちで男前のキアヌ・リーヴスではあるがあくまで彼はキリスト教徒ではなく仏教徒なのでむしろ嫁が来ない方が良いのでありしかも財産は皆映画の裏方さんやホームレスの方々にバラ撒いておくことこそがまさに正解なのだ。


だから彼はむしろ幸せだ。

もはや女には懲りて居るのだし第一其処まで変わって居ると次第に女が寄り付かなくなる。


だがまさに其れが幸運だ。

其のやうな幸運に恵まれたからこそ彼の奉ずる価値観は此のやうに清く、しかも美しい。

だが変な女が寄り付くと其の価値観そのものが汚されて仕舞ふ。



だから常々申して居るであらう、仏法の上では常に女は魔物なのである。

けだし価値観の違う女は魔物ではない。

さういう女は淫蕩な悪魔ではない。


たとへ淫蕩であれもはや子は産めずしかもデカい家に住みたがらずかつ豪華な墓に入りたがらぬ女ならば其こそはまさに仏弟子じゃ。

其のやうな女ならばむしろ理想的である。

だからキアヌ・リーヴスも其のやうな伴侶を得ることこそがより望ましひ。



かやうにキアヌ・リーヴス仏弟子なので価値観が凡俗からは少し離れて居り変わった人にもつひ見えやうが真実はまるで逆だ。

まるで彼は半分位聖人であるかのやうだ。

其の聖人は価値観が脱俗して居り金への執着だの子孫繁栄だの立派な墓だのそんなものにはまるで無頓着なのだ。

さらにはもはや女には興味が無い可能性さへもがある。



もしさうであるのならばより彼は幸せだ。

さてそんな幸せな彼の価値観が一体何処で形作られたと云うのか?


其れはまさに此処で創られたのだ。

かように若かりし頃彼は仏陀を演じたのだった。




さて画像はまさにコレぞ降魔成道の場面である。

悪魔の娘である女共が釈迦の悟りへの道の邪魔をしやうと媚びを売りしなだれかかりまさに誘惑して居るところだ。



だから其処に女が居る。

尤も何処にでも女は居る。

そして決まって誘惑して来やう。

然し真理を志す者は悪魔の振り撒く色香になど決して惑わされてはならぬ。


女共よ悪魔よ、即刻退散せよ!

わたくしの心はもはや汝らに惑わされたりはせぬ。


かように仏陀を演じた彼はまさに其の運命としての仏弟子を引き受けることと相成った。