目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

自然の中にふしだらな性の営みなどというものはない


少し調べてみましたがミトラ教ゾロアスター教キリスト教グノーシス派、マニ教、ひいては東方の救済宗教すなわち弥勒信仰、ないしはその太陽神としての性格から大日如来にまで大きく影響を与えるまるで諸宗教の源流のようなものですね。

またプラトーンの哲学の立場にも関連があるそうで、かつミトラ教としての教義の形成時にはインド哲学ウパニシャッドか?-の影響も受けているとされていたりもします。


そうした意味でも宗教は面白いです。相互に貫入したりまた排斥しあったりで常に論理的な展開にはならないのが面白いところだと思います。


尚私の場合はかなりに自己本位な思想を展開しておりまして、最近は専ら存在の限定性からも人間の自由や諸権利は規定されてしかるべきであるとの視点から合理主義に対する批判を強めて来ておりました。

そして性が合理化されるつつある現在はその規定性を失ったもの、それもかってのように大らかなものになっているのではなくただふしだらなものになっているだけである。


性が商品化され、浪費される、そうした性の貶めが精神の破壊を招くと述べたばかりです。

だから私にとって破壊を行う敵は合理主義なのであって、破壊者とはその合理主義を現に今推し進めつつある文明なのです。

確かに神仏の展開はこの世において普遍的にみられるものですが、私の場合は他力救済への契機としてそれを受け取るのではなく、あくまで自力としての規定性つまるところ理性の働きで神仏に没入していくことを理想としています。

しかしその理性ほど矛盾的なものもなく、事実近代とは理性の自己矛盾過程であり宗教の自己矛盾過程なのだと思われます。-キリスト教の自己矛盾過程ですがー


その矛盾自体は仏法でしか乗り越えられないもののようにも思われます。


最終的には我を滅し去る、言葉をも思考すらも滅し去る法における方向性がもはや人間にとっては唯一の希望であり前向きであるものの筈です。


私は自然を神仏の一次的分解の過程であるとしており、対する人間はそれに加え二次的な分解ー言葉の世界による観念的分解ーを受けているものだと前々から述べて来ております。

ゆえに自然そのものは神そのものではなくあくまで神意が含まれたところでの苦界ー畜生道ーでしかなくそのままに信仰の対象としては考えていないのです。

それは尊重しかつ常に敬うべきものではありますが神仏そのものの現れではないとそう捉えるのです。


それは考えるというよりは自然の中に身を置くことでそう直観してきたのです。


そして存在とは存在しないものの限定ー分解ーであり不具性、瑕疵性を有するもので永遠であり完全である神仏ーとりあえずはーとは自ずから異なるもの、元より不完全でその不完全さに見合った形での矛盾を履行していくものであるとの結論に至りました。


その限定とは空性のことでもまたあるわけです。

限定された実体のない幻をさもあるがごとくに感じているわけです。


ですので私にとっての洗脳とは近代以降の合理主義による洗脳のことなのです。

性の自由化、合理化の流れも当然そこに含まれております。


私は元来性は罪深いものであるとも先日書きました。

性が自己保存つまり自我への固執であることを免れることは出来ず、また常見に傾いた合理的な性の形は人間の精神のバランスを破壊するがゆえに罪深いのです。


私は古代の文明における性的なおおらかさと現代の性的なふしだらさとは別物であるとそう捉えて来ています。

そして覚者は、それこそ禅宗だろうが浄土宗だろうがもはや拘るものがないので妻帯しても飲酒してもよい、そんなことは本質としての問題ではない、などと考える大乗仏教としての考え方にはどうしても不純なものを感じてしまうのです。


私は初期の経典に述べられているような釈迦自身の言葉とおぼしき性的なものに対する戒めこそが仏教にとっては大事だとむしろ考えて来ています。

仏教が存続してきたのはそうした部分を変化させ拡大解釈し謂わば大衆に迎合してきたからに他ならない。



ただし、個人的には生きるためには性の矛盾に是非染まっていかなければならないとそのようにも思っています。

第一自然の中にふしだらな性の営みなどというものが存在しているわけではなく、むしろそれは常に美しく神々しいとさえ思えるものばかりです。

そうした意味ではまさに性は嫌らしいものでも何でもなくまさに神から与えられた神意としての表れなのです。


ですが現代的合理的に性を割り切るべきではないとあくまで私はそう考えるのです。

ゆえに女に触るものは皆地獄へ墜ちるのだから心してそれを行え、というようなことを前々から述べてきております。



私が性をそのままでは肯定出来ないのは元々生への執着が観念的には弱いからなのかもしれませんが、それでも肉体的には大いに煩悩に悩まされる方かと思われその点での不均衡もまたずっと悩みの種だったのです。

でも性を否定すると即生の否定に繋がることもまた事実です。


私は昔から生における低空飛行なので、それこそエネルギーを注いでやらないといつ墜落してしまうかも分からないような部分さえもがあるのです。


兎に角エネルギーをと思い職場で年上の還暦の女性を口説いておりますが何せこんな人間ですのでなかなかうまくいかず思うようなエネルギーの補充もままならない毎日です。

いずれにせよ心の内側どころか外部に振り回されてばかりいますのでなるべく早く棚山で瞑想をして来たいところです。