目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

愛とは何かーⅡ


畢竟愛とは矛盾に於ける構築なのだとも言えそうです。

矛盾があるから本当は構築しても意味がない。

無意味な構築が其処に生じて仕舞う。


でも生と云うものは元々そういうものなんですね。

生は錯誤であり不完全なものです。

もし完全だったら存在化する必要がなくよって苦しむ必要がない。


ゆえに生とは苦しみでありまさに自己化による自己矛盾過程です。



楽しみじゃないかと言う人があれば私は以下のように反論します。

それこそ愛も財産もあらゆるパワーも此の世には保存出来ない。

我我自身がデータと一緒で虚の集積なのであるから勿論自分自身も保存出来ない。

諸行無常なのが世の実相なのであらゆる現象に拘ること自体がそも誤りなのだ。



でも子供つまりは子孫は保存出来るじゃないですか?


いいえ、保存出来ないことの集積が時間的に積み重なるばかりです。

逆に子孫繁栄は苦を増幅させる為の悪の行いです。


善の行いとは、精神の上で全てを捨て去り人間じゃないものになることです。

人間であることに拘るのがおそらくは一番良くない。


では紛争地帯にでも出向いて今すぐ死にましょうか、或いは自殺しますがどうでしょう。


どうぞご自由に。

死んでも構いませんが原始仏教の考えでは其れはおススメ出来ることではない。


謗法と云うよりも菩提ー悟りーへの道を今生に於いて閉ざすと云う意味で悪趣を生じる行いです。


ですが其れ以上に悪いのは此の世を楽しむことなのです。

愉しんで生きると輪廻転生の因縁に深く捉えられいつまでもどこまでも苦の世界へ生まれ直す羽目に陥る。



対して、

人間なんか嫌いだ!

女などバカだ!

人間は臭いし汚いわでもうちっとも良いことなんかありゃしない。


我はもう限界なんでたった今死ぬ、もう死んじゃう、死んじゃうぞー。


だからどうぞご自由に。

何せ今人間には自由がありますから何されても良いのです、別にどうということは御座いません。



アル中やヤク中になりたければなればいい。

輪姦フェチとなり凌辱の限りを尽くしたり不倫に身を浸してもう何もかもがドロドロ、ぐちゃぐちゃの心に成り果てても構わぬ。



その代り人間の行為には必然としての罪障が刻まれていきます。

然し其の罪障とは、自然界には生じないものなのです。

たとへば動物は輪姦しようが殺し合おうが其処に罪は生じませぬ。

犯しまくろうがブチ殺そうがバリバリ食おうが其れは大いなる理性の導きにて行われて居ることであり其処に罪が問われることはない。



然し、人間は罪深い生き物です。

罪があるから人間がある。

人間でないと罪はない。


だから人間を辞めるべきなのです。



従って、

人間なんか嫌いだ!

女などバカだ!

人間は臭いし汚いわでもうちっとも良いことなんかありゃしない。

もう人間など辞めて猫か犬かアメーバかナメクジか一輪の花にでも生まれ変わりたい。



と云う認識こそが実は正解です。


であるから、人間であることに価値はありません。

人間でないことの方により価値はあります。

然し、価値とは常に相対的なものです。

人間でないことの方が価値の絶対化が図れより望ましい訳ですが、人間であることにより虚の価値が創れないものでもない。



だから所詮は虚の価値です、虚。

此の虚が、人間界の本質である。

自然界は、虚が本質である訳では無く結果的に虚となるだけのことだ。



さてこの虚、つまりは虚の構築に於いて重要な役割を演じて居るのが愛です。

愛は矛盾であり其れ自体が残酷なものでもある訳ですが矛盾としての推進力たり得るものが実は愛だけなのです。



また愛はバカですからつまりは盲目的な信心と云う事ですからバカだからこそ生きていけると云う事が確かに云えます。

一方天才は頭が良いですから兎に角難しいことばかりを考えて居ますが往々にして華厳の滝から飛び降りたくなり大抵はすぐに死んで仕舞います。



其の盲目的な信心と云うのは女の子宮の奥まったところにドロドロと渦巻く生への情念のやうなものです。

其のドロドロが潔癖な天才には耐えられないものに感じられますが天才または藝術家または学者またはアスペルガーの人が生きる為にはあえて此の愛の花園へ、ドロドロと渦巻く冥き情念の世界へ飛び込んでいかなくてはならぬ。



要するに人間の思うやうな価値と云うものは無価値です。

ですから認識が間違って居る訳です、そもそも人間は。


認識が間違って居るからこそ無価値の世界に価値を保存しようとするのですが其の行い自体が実は無価値です。



人間とはそのやうに間違って居ることをあえて行う宿命を与えられた生き物です。

でもって、愛と云うものもそのやうに間違って居ることをあえて行うと云う作業のことです。


愛とは或いは天才または藝術家または学者またはアスペルガーの人など特殊な人を救う為の救護院です。

何故なら天才または藝術家または学者またはアスペルガーの人などは心理的な負担が常人とは異なりとても大きい。



即ち其処には死が真近にあるのです。

其処に詩があるのと同時に死が成立し易い。



ですから愛は地球を救うのではなく特殊なものを救う為にこそある。

さて愛は人間を救うのでしょうか。

救うのじゃなく逆に苦を増幅させていくと云うのが釈迦の結論です。



お釈迦様ご自身には愛など無くて、あるのはただ此の悪い世界へわざわざ生まれて来る我我凡夫の罪障の深さを慈悲の次元で哀れまれて居るばかり。

ですが皆死んで仕舞うと仏道修行が出来なくなるのでとりあえずは生きていかなければならない。

ところが特殊な人々は頭の良さ乃至は心の清さが仏陀に近いので救われなければならない人々なのだ。



ところが放っておくとすぐに死んで仕舞う。

だから自転車にでも乗って体を鍛え兎に角長生きして仏道修行に勤しむべき。

ーただし自転車に乗ってスマフォをやるバカは此の度の女子大生のやうに御婆さんを轢き殺す恐れがあることをよーく理解しておきませうー



でも一般人は実はそう長生きする必要はなくむしろ早く死んだほうが次の生には何かと役に立つことでしょう。




さて愛と云ってもキリスト教の説く愛はまた別物です。

たとへば惜しみなく与える愛、無償の愛と云うことが良く其処で語られて居たり致します。

キリスト教は仏教其れも原始仏教と比せば遥かに構築主義ですのでまさに其処で愛を理想化して説く訳ですね。

だからキリスト教に於いては愛こそが救いであり真実であり信仰そのものです。



其処までいかなくても、たとえ仏教徒の日本人であっても、愛と云うのは何となく大事なものだと云う事は分かりますよね。

事実愛のある生活がどれほど潤いに充ちたものであることか。

ですのであくまで非仏教徒の立場に立つと愛は大切なものなんです。



と言いますか、事実此の西欧近代型の社会に於いては愛がどうしても不可欠なものになってきます。

個人主義でしかも能力や競争を重視する近代的な社会では愛なくばまさに殺伐としたものとなり易い訳です。



それから昨今のやうに道徳や倫理観の破壊が齎される合理主義の行き過ぎた社会ではもう全く潤いも何もあったものじゃない。

搾取や虐待やブチ殺しや輪姦が蔓延する此のおぞましい世界に一体何処から潤いを移植すべきなのでしょう。



ですから其れは女の股、もうこれしかないのであります。

女の股のさらに其の奥の、まっ暗くらの闇の渦。

其の情念の渦の中から愛が生まれ死が生まれ、はたまた矛盾が生まれ天才が生まれる。


要するにあの釈迦にしてからもが矢張り女の股の間から生まれて居ります。

其の股の間、秘処、秘密の花園

ソコにこそいやらしい何かがあり、其れが其れこそが此の悪い世の中に我我を生み出す原動力となったものだ。


ではなく、其の奥に拡がる無限の情念の闇にこそ我我のバカさ加減の淵源がある。



嗚呼、結婚したい。

秘密の花園にひどく興味がある。


のではなく、兎に角愛にひどく興味がある。


それと云うのも、実はこれまで、ひどく愛の無い生活をして参りました。

屡仏典に学び座禅を組む毎日でしたが、ふと気付くと周りには誰も居らず、ただ仏教の知識と社会科の知識とマニアの知識がごちゃまぜになり頭の中を渦巻いて居るばかりです。



おお、花。

此の一輪の花が今のわたくしのパートナーだ。

頭の良いわたくしがよりによって何故こんな孤独をかこつことになったのか。


いや頭が良いのでそうなった。

潔癖過ぎるのでそうなった。


ではあえてバカになろう。

そしてふしだらに生きてみよう。

いや、でもそれはイカン。



ならばとりあえずは愛の意味を考えてみよう。

そして女の股の間の奥に潜む闇に就いて深く考えを巡らせてみなければならぬ。




ちなみに今日TVを視ていたところ面白いことが語られて居ました。

其れはズバリ長生きする人は小太りの人でしかも脂肪を摂って居る人だそうです。


世間の常識は間違いで、日本人は特に脂肪の摂取を控え過ぎて居り逆に早死にの領域に入り込んで居るのだそうです。ー桜美林大学の先生によればー


尚、此のことは実は私もそう感じて居ました。

どちらかと云えば私は小太りで脂質も屡摂りますがむしろ低血圧気味で糖尿病にもなっていない。

そして非常に体が若いです。-実は顔も若いです。お肌もまるで女みたいにキレイで。-

特に六十五歳以上になったらトンカツの脂の部分をむしろ好んで食うべきです。ー無論牛の脂よりも体に良いですー


然しあくまで仏法の上では凡夫は余り長生きしない方が良いのかもしれませんのですが。