目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

五十にして天命を知らず

覚醒剤所持の校長、専門は音楽…校歌作曲も

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140510-00050031-yom-soci

3Dプリンタで拳銃密造-大学職員を神奈川県警が逮捕

最近所謂お堅い職業に就いて居る方々が、其れもまさかと思われるような肩書きの方々が法を犯して逮捕などされるに至って来て居る。
お堅い職業に就いて居る方々ー私自身も現在そうした職種に就いて居るーは、プライヴェートな時間を持った時に大きく羽目を外して仕舞う傾向があるということを聞き及んだ覚えがある。
然し、上記の最初の方の事件は一体世の中どうなって居るのだと誰しも思う筈なのである。
よりによって定年を間近に控えた小学校の校長先生がこんなことをする筈がないと常識的にはそう思われる筈だからなのである。

然し私はこの事件に関して全く驚いて居ないのである。
むしろ起こるべきして起きた事件だろうとそう思って居るのである。

其れは単なる個人レヴェルでの倫理観や道徳観の喪失ということではなく、もっと大きな社会的な自我の方のあり方に関わって居る問題であろうと私は見て居るからなのである。
其れは個人的な問題というよりは、もっと社会的な問題である。

皆様も昨今このような事件が多いことに対して何かがおかしいとそう感じられて居る筈なのである。

其れで私は最近職場で同僚の大学の先輩とこの種の事件について良く議論したりもして来て居る。
其処で屡話題にのぼるのが、昨今の五十代の人が犯す犯罪の多さについてである。
最近五十代の人が手を染めたとされる犯罪が頻発して来て居る。

先輩は還暦が間近で、私は丁度五十代半ばにさしかかって居る。

其れで自らが属して居るこの世代のことをことあるごとに私たちなりに考えてみて来て居るのである。
其処でひとつの結論めいたものとして浮かび上がって来たことは、今の五十代は昔の五十代とは異なり大人になり切れて居ないということなのである。

実際に、我々は本当にまだ子供である。
勿論全部が全部子供だとは言えず、また個々の心の中でもむしろ非常に大人になって居る部分やまだまだ子供のままである部分などが交錯して居て一概にそうとも言えないのではあるが、それでも我々今の五十代があの-五十にして天命を知る-というような境地からはほど遠いところに生きて居るであろうことは想像に難くない。

其れから我々五十代には離婚経験者が結構多い。
たまたまなのかもしれないが、私の知り合いの五十代の人は其の約半数の人が離婚経験者である。
また其れに加えて私のような独身主義者も決して少なくはない。其れが昔よりはずっと増えて来て居るということである。

私は其の今の五十代のある種精神的に未成熟なところがこうした事件に現れて来て居るのではないかとそう考えて居る。
今の五十代は戦後の充実した教育を受け、あの高度経済成長を子供の頃にタイムリーに経験し得て来ても居り、其の上さらに社会的に安定しかつ経済的にも豊かな青年時代を送って来て居る世代なのだが、其の割にはどこか精神的に脆い部分さえもがあり、しかも今皆が皆幸せかというと決してそうではなく、私の周りに限れば皆結構大きな悩みを抱えつつ生きて来て居る人々が多いようにさえ見受けられる。

ところで我々五十代の人間が体験した其の大きな社会的自我の中にはおそらく宗教という観念の領域が欠けて居たのではなかったか。
私たちは若い頃宗教には全く無関心で、学生の頃などは兎に角良い車に乗ってカノジョ達と遊び回ることだけを考えて居たのであり、また其れだけに留まらず我我の先輩世代である団塊の世代学生運動の世代であったのとは全く異なり、社会と本気で格闘することなしに青年時代を送って来た、或いは社会闘争の失敗から初めから社会の側に取り込まれて仕舞って居た世代、所謂ノンポリ世代としてのある種の芯の無さ、思想の無さ、反骨心の無さこそが今の五十代という世代の典型的な特徴ではないかと思われるのだ。

若い頃から車だ趣味だ女だのにうつつを抜かし、つまるところ遊ぼほうけて来た我々は自分の子供が大学を出る程の歳になっても自分自身が本質的にはまだまだ子供だったという、そうした実に奇っ怪なそしてまた情けない話のオチなのである。
勿論其処まで遊んでは居ても一方ではもう少し人生を真面目に捉えて様々に勉強しておくべきだったのだろう。
ところが社会はそんな我我に次々と玩具を与え続けて来たのである。
其れも十代、二十代、三十代位まではずっと。

マンガ、アニメ、アイドル、クルマ、サーフィン、スキー、ゴルフ、トレンディーなファッション、ポパイ、ブルータス、マハラジャ、 ジュリアナ、バブルの頃の土地転がしのやり方、などなどを。
其れ等は人間存在に節度を教える為のものでは元々なかったゆえ我々は若い頃に節度など全く学んでは来なかったのである。
いや、我々が其れを望み選んだのではなく、社会の側が当時其のように生きることを何よりも望んで居たのである。

もう君たちは何も考えなくて良いのだ。
其の代わりに遊ぶものだけは幾らでも与え続けていってやる。
だからあの全共闘世代のように社会に反旗を翻す必要などもう何処にもありはしないんだ。
そして社会に対していつも素直であれ従順であれ、ただひたすらに良き子であれ。つまりアホであれ。
 
いや、車やスポーツやマンガや流行誌などのすべてが其のあほだなどとは全く思って居ないのである。
ただ、我々は本気で何かと闘うということを、或いは社会に対して真面目に何かを捉えて考えていくということの芽をおそらく社会的に摘み取られて仕舞って居たのである。
そんな我々五十代が今大人でなど居られるハズが無い。
無論のことすべてを社会の責任に帰することには無理があることだろうが、そうした社会構造ー社会的自我ーはかって確かに存して居て、其処に宗教などという何だか大仰で格好悪くてかび臭いものの入る余地などは全くなかったと言っても良かったのだ。