目覚めよ!

文明批判と心の探求と

この世は良いのか悪いのか

Wikipedia-秘教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%98%E6%95%99

仏教でいう「顕教的」なものの対義語が密教つまりは秘密仏教のことである。

密教には自ずと秘儀性や神秘性が挟まれて来て居て初期仏教の教えとはまるで別物のようになっていったという経緯がある。

然し宗教を、特に仏教を体系的に学んでみる為には欠かせない分野ではある。


個人的には密教は多分にキワモノ的な仏教である感が否めないのだが、我が国では最澄空海が中期密教を伝えて来て居るので意外と縁の深い教えともなって居るのである。

とは言っても、最澄が日本に伝えたのは中国の仏教である天台教学である。

ちなみに空海が伝えた真言密教では大日如来という一種のスーパー佛様が出て来て仕舞うので私はどうも馴染めないというかはっきり言って心から信頼することが出来ない。

対する天台宗では仏はあくまで法華経の本尊である、久遠実成の釈迦如来なのであるからつまりはお釈迦様のことなのである。

だから一応は信頼出来る。たとえ初期仏教ほどは信頼出来なくとも。


尚、浄土宗には阿弥陀如来というこれまた一種のスーパー佛様が出て来て仕舞うので私はどうも馴染めないというかはっきり言って心から信頼することが出来ない。

私の場合はそうしたスーパーなものは一切要らないから仏教の開祖としてのお釈迦様の教えだけを心から尊敬しておりますということである。

そしてそれは信仰というよりも尊敬なのである。

特に釈尊の頭脳明晰なところには心より痺れて仕舞って居ります。


Wikipedia-天台宗
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97

ただし我が国に於ける天台宗、それも比叡山延暦寺の果たした役割はとても大きなものがあった。

当時の仏教の総合大学の機能としての、その仏教的叡智の総本山としての役割は矢張り尊敬に値するものなのである。


特に日本の天台宗の開祖最澄の人格は高潔かつ謙虚ないかにも思慮の深い学僧としての人柄が忍ばれるもので、私が釈迦の次に尊敬して居る僧侶がこの最澄でありまた日本の曹洞宗の開祖である道元なのである。

天台教学はもう二十年位前に少しだけ囓った覚えがありますが残念ながらそれももはやうろ覚えのものとなって仕舞って居る。

それでももう一度学んでみたいという気にさせるだけのものが其処にはあったということだけは確かなのである。


ただし今回私が述べてみたいのは仏教の話ではなく、仏教以外での秘教的な側面を持った宗教のことなのである。


たとえば十年位前のことだったか、西洋思想または宗教にグノーシス主義というものがあることを知りネット上で調べていたことがかって私にはあった。

Wikipedia-グノーシス主義
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9%E4%B8%BB%E7%BE%A9

この思想または宗教は先に挙げた秘教のひとつとして数えられているものである。

ー1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った古代の宗教・思想の1つである。物質と霊の二元論に特徴がある。普通名詞としてのグノーシス古代ギリシア語で認識・知識を意味する言葉であり、グノーシス主義は自己の本質と真の神についての認識に到達することを求める思想傾向を有する。

グノーシス主義において一般的に認められるものは、「反宇宙的二元論(Anti-cosmic dualism)」と呼ばれる世界の把握の仕方、世界観である。反宇宙的二元論の「反宇宙的」とは、否定的な秩序が存在するこの世界を受け入れない、認めないという思想あるいは実存の立場である。


グノーシス主義は、地上の生の悲惨さは、この宇宙が「悪の宇宙」であるが故と考えた。現象的に率直に、真摯に、迷妄や希望的観測を排して世界を眺めるとき、この宇宙はまさに「善の宇宙」などではなく「悪の宇宙」に他ならないと考えた。これがグノーシス主義の 「反宇宙」論である。

宇宙が本来的に悪の宇宙であって、既存の諸宗教・思想の伝える神や神々が善であるというのは、誤謬であるとグノーシス主義では考えた。ここでは、「善」と「悪」の対立が二元論的に把握されている。 善とされる神々も、彼らがこの悪である世界の原因であれば、実は悪の神、「偽の神」である。しかしその場合、どこかに「真の神」が存在し「真の世界」が存在するはずである。
悪の世界はまた「物質」で構成されており、それ故に物質は悪である。また物質で造られた肉体も悪である。物質に対し、「霊」あるいは「イデアー」こそは真の存在であり世界である。

善と悪、真の神と偽の神、また霊と肉体、イデアーと物質と云う「二元論」 が、グノーシス主義の基本的な世界観であり、これが「反宇宙論」と合わさり「反宇宙的二元論」という思想になった。

一方はグノーシス主義キリスト教とは別個の、オリエントに起源を持つ「東方」の宗教であるとし、その非キリスト教(異教)的側面を強調する姿勢である。もう一方はグノーシス主義キリスト教内部の異端、あるいはギリシャ哲学に影響を受けた宗教哲学の出発点としてキリスト教史のなかに位置づけようとする姿勢である。今日では、グノーシス主義キリスト教とは別個の宗教思想であると考える立場が主流である。ー上記より引用ー


それにつけてもこの秘教的な思想ないしは宗教こそは面白いものです。

グノーシス主義においてはまず宇宙つまり物質的世界が悪だと捉えるのですがその点こそが非常に面白い。

「反宇宙的二元論」によればこの宇宙とは畢竟否定的な秩序の顕現に過ぎぬものなのだから世界を認めず受け入れないという全くの否定的な立場を取っています。


前々から私は近代という時代につき屡考えて居たのでしたが、其処でまず不思議だったのが西洋起源の思想や宗教が前向きにーつまり肯定的にー世界を捉えるものばかりであることにまず大きな違和感を感じて居たのだった。ー確かにキリスト教は必ずしも現世を前向きに捉えてはいないのだが、終末を経て民が神に救われるという点に於いてはむしろ究極的に前向きな宗教であるー

というのも古代印度思想などはそれこそ輪廻に繋がれて居る生命はみな不自由な苦しい立場にあるのだからそうした境涯を脱していくことをまず思想や宗教の目的としていた訳で、その点で仏陀となるという解脱の概念は何も仏教の専売特許であった訳ではなく他の思想や宗教も当時はみなその解脱することを究極的には望んで居たのだった。


然し例のデカルト以降、近代的な分析型の価値観というものが組みあがりしかも何だか知らないがいつのまにかこの世界は合理的に解釈でき特別に出来の良い人間の知性力でもって自然を加工していけばいつかは神にも等しい存在となれよう筈だ、我々が住まうて居るこの世はそんな人類の夢を実現するに足る素晴らしいところだ、などという妙に身勝手で思い上がったかのような一方的な世界観を形作っていって仕舞った。
 
 
つまるところ近代の思想ではグノーシス主義とは全く逆に此の世は良いところなのです。

そこは人間の力がどこまでも発揮できる所、まさに神に近づく為の階段を一歩一歩登っていくことの出来るところである。

現代人にとってそんな魅力的なところが悪かろう所である筈はない。


然し大昔にはそれとは真逆の世界観を持った思想が多く存在していたのである。


確かに現世を否定的に捉えているという点でこの宗教は東洋思想的です。

でもどうあろうと、兎に角大昔の思想や宗教は屡この世界を否定的に捉えていたということが私には一番引っかかる部分なのです。


そうしたものが、段々と消えていったか、或いは勢力としては弱くなりやがて秘教的な扱いを受けるようになっていった。

まあそれでもキリスト教や仏教でも本来のところは全く現実的な教えではなくまさに秘教のようなものなのでしょうが。

対してあのイスラム教の教義の方が遥かに現実的であり世俗的な世界の捉え方をしている宗教のようです。


キリスト教や仏教も元はそのように悪いかまたは受け入れがたい現世から救われたり脱出していくという教えなのです。

現世利益とか子孫繁栄とか人類称揚とかそうしたことを行うための教えでは根本的にない筈です。


人間はそのままではダメだから心を入れ替えて信仰せよ、或いは心を入れ替えて修行せよとはっきり宣って居ります。

然し現代人はそんな事は我関せずで毎日お金を稼いだり子供を育てたりとそんな風にあくせくとしながら生活の方をやって居ます。

きっとこの世が悪いところかもしれないという思想や宗教が意図的に社会から抹消されていったからなんでしょう。


だからもはや誰も知りません。この世がそんな悪いところかもしれないなんていうことは。