逆に云えば破壊なき建設を為すことの出来ぬ哀しい生き物が人間なのだと申すほか御座らぬ。
其の破壊の現在を履行する為に生まれた、或は生きて居るのが我々人間なのであろう。
ゆえに人間の持ち得る現在とは元々幻想そのものであり、其れが幻想であるからこその現在なのである。
つまるところ、我々は其の幻想以外を生きることが許されて居ない。
まあここまで行きますと一種の性悪説であり人間への不信が最も長じた思想となろうかと思われるが其れでもわたくしはこうした考え方にも大きな価値 があるように思うのである。
何故なら近代とは正の思想、前向きの思想、上昇思想のみを支柱に据え突き進んで来た何ものかであったからなのだ。
されどわたくしはあえて其の逆をここに示す。
其のことで考え方の幅を広げ考える其の時の芯または根っこを創ろうとして居るのである。
即ちあくまで前者に依拠すれば、須らく近代型の思考でしか此の世を捉えられなくなるのである。
無論のこと其れが一種の洗脳なのだ。
つまるところ、近代に於ける思考とは其の様に非常に範囲の狭い其れなのである。
其の範囲の狭さ、たとえば合理的な決めつけ、効率的な世界解釈からの余白、余分な部分の少なさが現在の社会の閉塞状況を生んでいるものとわたくしは考える。
其れに対して非合理的な決めつけをあえてして来て居るのである。
最も大きなところで、人間が或は文明がゴチャゴチャと破壊の道を邁進していくこと自体には実は何ら問題が無いのだと言えよう。
人間とは元々そういうものなのでそのままでむしろ自己実現をして居るのだと考えられよう。
然しそのままでは彼等は其処に非常な苦しみを与えられるだろうことが避けられぬ。
それこそ地獄界、餓鬼道に墜ち其処で長きに亘り苦しまねばならぬので出来れば其れは避けた方が良いことだろう。
宗教とはまさに其の本源の部分での罪を対象とする何かなのである。
ゆえに宗教があってもなくても良いのではなく、宗教は其の人間の行う罪過に対する戒めでありかつ同情そのものなのである。
負の思考、後ずさりし立ち止まる思考、非上昇思考は常に二元的にならざるを得ない現象の世界に於いて元々は機能していたものと思われる。
たとえば前近代に於いて其れは成立して居た筈である。
なので前近代に於いてはたとえば悪魔祓いの儀式、様々な形での清めの作法、妖怪や魑魅魍魎の類の跋扈に対する備えなどが是非必要であった。
ところが近代に於いてそうした意味での悪魔や妖怪の類は死に絶え、其れにつれてお清めの必要も必要とならなくなっていく。
そうした負の領域への攻撃こそが近代の為した一側面なのだと言えよう。
つまるところ、近代はそうしたマイナスの領域との戦闘を行って来たのである。
そしてやがて近代は其れ等の全てを葬り去る。
近代合理主義がマイナスの領域を滅し去る其の様を近代以降の人類は目の当たりにして来た。
然し果たして本当に其れで良かったと言えるのだろうか。
其れ等はむしろあって当たり前のものではなかったか。
Wikipedia-悪魔
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94
二元化されし現象世界では対立する両極の要素が必然的に生じる。
神と悪魔、仏と魔、というように其れ等は自然に分かれ出でて仕舞うのである。
そしてそもそうした分解であり矛盾でもある両極性の範囲の内に生きなければならないことこそが苦である。
従って宗教は其の二元性を超克する為にそれぞれに努力して来た訳だ。
キリスト教に於ける悪魔は神の反意者のことでありつまりは神とは反対の本質を持ちし何ものかのことだ。
一方で仏教に於ける魔はむしろ内面的な要素を指してそう呼ばれることが多い。
其処では謂わば外部に存在する魔障よりも内部に存在する魔障こそが問題とされ得るのである。
つまるところ、人間の内部にこそ其の悪魔が存して居るのである。
ということは、其の魔の反対の仏というものも矢張り同様に人間の内部にこそ存在して居るのである。
だから仏様の像ー仏陀はそうしたものを一切認めなかったーを拝むのは意味のない行為であり其処をあえて拝むのであれば自分の心の中の仏を拝むべきなのであるが、残念なことに我々凡夫の心の中には仏が顕在化されて居る訳ではないのであるから拝もうにも其れが拝めない。
よって拝むのではなく、まず自らの心を律し仏の心に少しでも近づくような努力を重ねることこそが大事なのである。
仏教に於ける魔とはほとんどそうしたことである。
外部に存在する悪魔と戦ったりするのではなく自分の心の中に巣食う魔の妨げとこそ闘うのである。
其の妨げとは、本来仏道修行の妨げとなるもののことだ。
であるから、其れが拝金主義や過分な物欲を煽る思想、過分に安楽を求める思想、過分に合理主義の思想なども皆其の仏道修行の妨げとなるもののことだ。
であるから近代思想の多くは仏教にとっては魔の領域の思想ということになる。
其れは魔だ、魔。
近代よ、まさにお前こそが逆に其の魔だ!
ところがまあそう決めつけては仕舞わないところが仏教流の中道主義なのである。
然し根本の部分での近代思想と仏教思想の相性は全くよろしくない。
ただし結果として正の思想、前向きの思想、上昇思想であるのは仏教も同じことである。
もっとも其の前に仏教は人間に於ける全てのやる気をそいで仕舞う。
実は原始仏教に於いては其れが徹底して居た。
こんなことまで何でいけないのだと思わせる程に人間の生活の上での全部が全部いけないのである。
実はSEXがいけないとか、そういうレヴェルの話ではないのである。
実は花の香りを嗅いで楽しむなどということももってのほかのことなのだ。
生まれつき上品なので私なんぞは花の香りを嗅いで楽しむことが趣味で、其れで街中でも人目を憚らずクンクンと其れを道端などでいつも嗅いで居るのであるがあくまで其れも本質は魔の行為となるのである。
尚、極論を言えば、家族を持つこと、親子間の愛情を育むなどといったことも本来の仏教の教義に照らし合わせれば其の全てが魔の行いである。
以前にも述べさせて頂いたように、本来の仏教の教えとは一般的な人間の常識とは乖離したものである。
乖離したものであるからこそ、其の教えに従い戒律を守れば成道即ち仏となることが可能なのだ。
このように仏教に於ける魔とは所謂愛の反対の概念のことをそう指して云う訳ではない。
仏教に於ける魔とはむしろ其の愛のことなのである。
愛があるからこそ、此の世の全てに執着しもし、無常であり無我である此の世の実相を曲げて捉え、其の無価値であり苦そのものである牢獄の世を愛することとなって仕舞う。
仏教は、かの釈迦は、其の過ちを決して繰り返さぬ為に法を説いたのである。
されど其の法は余りにも過激かつ理解され難いものだった。
だから釈尊にしてからもが説法を始めることに対し二の足を踏んで居たのである。
一般に対してはほぼ理解されないことだろう真理をあえて此の世にばらまくことに対して釈尊といえども多分に躊躇があったのである。
ちなみに後の世に大乗仏教が興ると慈悲という概念が確立された。
この慈悲ということは愛ということにも近いと思われがちである。
然しながらこの慈悲という言葉、実はかなりに恐い内容の言葉なのである。
其れは憐れむということなのである。
愛するのではなく、あくまで憐れむ、哀れに思うということなのである。
誰が誰に対して憐れむ、哀れむのかといえば、仏や菩薩から見た場合の我々凡夫、または餓鬼、畜生道にある者、地獄に堕ちて苦しむ者、などに対する憐れみなのである。
要するにお前らの心が其処まで低いから其れに見合った低い所で未来永劫に亘り苦しんでいなければならない、其れが兎に角可哀想である、といった意味なのである。
本来の意味での仏教に於ける魔とは、無明から生じるところでのむしろ一般的には是とされるであろう喜ばしいことが指されそう呼ばれて居ることが多い。
であるから仏法とは非常識であり、謂わば仏とは其の常識に対する魔なのである。
わたくしが以前仏とは魔だと述べたのは、あくまでそうした意味でのことである。
我々の常識乃至は無明性からすれば仏の心というものは其のすべからくがまるで魔そのもののように見えて仕舞うのである。
然しながら無論のこと仏とは真に魔ではない唯一のものなのである。
即ち仏とは魔の反対で、二元的な一方の極のことだ。
ただし、より正確には仏教では其の様に二元的に対置される仏というものを設定しない。
二元性の極としての仏を設定すると、最終的にはあの二元論での闘争へと、其の二元的対立の世界そのものを設定することとなり仏の常住性を確保することが出来なくなる。
云うまでもなくキリスト教に於いては其の二元性の世界ー善と悪即ち神と悪魔とのーが成立して居るがゆえに必然として終末論を抱え込んで仕舞うこととなった。
いずれにせよ、この様に魔の領域とは魔の反対の意味を持つ概念の設定でこそ生まれる。
従って魔の領域を排斥して仕舞うことは出来ない、現象界に於いては其れが不可能なこととなる。
然し現象界に於いて心理的に魔の領域を排除していくことは可能だ。
其れが神に繋がるか、或は仏への機縁を持つかということとなろう。
この様に宗教は人間存在が存在する由縁での最終の段階を受け持って居る。
ゆえに宗教は要るか要らないかという低次元での話は必要なく個々人でどのような宗教を選んでいくかという話に尽きて居るのである。
ところが現代の日本人の多くは必ずしもそうは思って居ないことだろう。
其れが合理主義文明を進めた戦後民主主義が遺した最大の汚点であろう。