目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

「無思想の思想」が持つ危うさ


先日NHKスペシャルの方であの司馬 遼太郎氏の日本人論が二回に分けて放送されたようで、わたくしも其の一回目の方を本日ようやく視ることが出来た。

司馬氏の日本人観には日本人の好奇心の強さということと無思想の思想云々といった部分が出て来る。


其の好奇心の強さということは、裏を返せば現状に対する幻滅、否定の度が強く存するということである。

元々日本人の精神性が高いことつまり頭が良いこと優秀であることに其の現状に対する幻滅の理由が存して居るのではなかろうか。


そして頭が良いのに実は馬鹿だから現状の豊かさと幸福の様を見抜けず節操なく近代化へ走ったのだと言えなくもないのである。

現実的な意味での技術や考察力などは明らかに優れているにも関わらず見えて居ないのである、この国の豊かさとある種の脆さが。




其れはあくまで我が国の自然が其の様なものだということなのである。

其れにつれて其の豊かで脆い国に生きる我々も豊かでしかも脆くならざるを得なかった。


だから其の馬鹿の部分とは日本人の脆さそのものでもある訳である。


第一元々日本のオリジナルの文化というものは存在せず、其れ等は大和王権の成立乃至は武家による政権の発足、または近代化といった歴史の流れの節々ごとに其のオリジナリティらしきものの部分を破壊され続けて来て居たのである。

要するに厳密には日本の文化とはそんな非連続の破断面を幾つか持ったものであるに過ぎず、大昔から今に至るまで其の節々ごとに再構築されし新文化をそう呼んで居るに過ぎず其れは決して此の二千余年に亘り継続して培われて来たものなどではない。


ただ、日本人が誇って良いのは其の時々の構築力、建設力が極めて優れて居る点である。

つまりは技術力と其の根底にある現状の分析力、現実的な認識の力の方にこそ長けて居るのだと云えよう。




然し反面日本人は元々思想を構築する力には欠ける。

特に大きな世の中の流れの捉え方、より大きな意味での生の捉え方などに対しては弱いことだろう。


ただ、日本人は繊細である。

物事の捉え方自体が繊細で几帳面、所謂真面目である。


でも日本人の中でも最も繊細で几帳面かつ真面目な詩人であるわたくしなどはいつもこう思ったりする。

几帳面とクソ真面目など其処に何の面白みも無い、そんなの全部砕いて捨てちまえ!

繊細だと云ったって繊細により必ずしも真理が身につくというものでもない。


むしろ繊細だからこそ分かりにくいこと、知り得ないだろうことが多くある。


謂わば繊細はスケールの大きさには欠けるのである。

この様に物事には必ずプラスの部分とマイナスの部分とがある。



だから司馬氏の云ったように無思想の思想を持つ民族としての日本人には正の部分としての順応性、加工力の高さとは裏腹の負の部分としての思想の根っこの無さ、脆弱性が潜んで居るのである。


事実晩年に司馬氏は日本人の精神が無感動体質になることを頻りと危惧されて居たそうである。

そしてまたこの部分こそがかの三島 由紀夫氏が惧れて居た部分そのものなのでもある。


司馬氏の語った如くに日本人には無思想という思想があるのだとしても、少なくとも其れは近代という思想を世界に押し出す必然のある時代と本質的に合って居ないことだけは確かなのである。

だから其の体質は必然として曖昧さをそして一種の薄気味悪さをも世界へ振りまくこととなって仕舞う。

また自分の宗教つまりは仏教や神道に対して何も知らないといったレヴェルでの思想の減退をも招いて仕舞いがちだ。


たとえば神仏習合といった宗教の上での寛容な思想に対しても、其れは一歩間違えばどちらつかずに陥り、尚且つ複雑化して余計に宗教に対する無理解を推し進めていくことにも繋がろう。

事実、三島 由紀夫氏が、そして司馬氏が恐れて居た日本人の無感動体質、無機的人間振りは特に此の21世紀に於いて極まって来て居るようにも感ぜられる。



良く云われるように元々、日本の宗教観は多元的な精神世界を形作って来て居たのだろう。

其れは近代という時代を内発的に生み出しし西欧世界が一元的な世界観、宗教観の上に構築されたものであることとは正反対の様である。


だから元々日本の宗教観とはアニミズムから派生したところでの多神教なのだと考えられよう。

然し、明治以降は近代国家となりし我が国は其の多神教の国家としての意見を世界に対して訴えて来ては居ないのだ。

まだ一度もそんなことは為されて居ない。


まるで、其の多神教であること、どっちつかずであること、精神が曖昧模糊として居ることを恥ずかしむかのように精神の世界ではむしろ小さくなって来て居たのである。



ではあるが、武士道や禅の精神といった日本の精神の分野が世界に広く知られるに至ったこともまた事実なのである。


なのでそこのところでのギャップのようなものがむしろ拡大されて見えて来て仕舞うのである。


其れで最終的には一体此の国の精神とは何なのだろう、本当に此の国に精神はあるのだろうか、妙に精神振って居るバカは一部に居るにせよだ、本当の本当の意味での日本の精神を此処に是非見せてお呉れよ。


などと懇願されると、かっては企業戦士達がすぐに其処に現れ、此の我等が築きしコレがコレこそが祖国日本の愛社精神です、などと歪んだ形での愛国心を見せつけるのであった。

愛国心と云えばとても危ない思想のように左翼の方々は捉えがちなのであるが、わたくしの場合は脱国家主義者であるにも関わらず郷土愛精神というものを最も重視して居るのである。


ただし、其の愛の対象となる統治システムのスケールが異なるのである。

第一郷土愛を、また親族、肉親への愛を持たずして其れで果たして人間と呼べるものであろうか。


だから愛は現実上は是非必要なものなのである。

現実を推進する上では是非必要なものなのである。


然し其の許される範囲は郷土愛までである。



何だか話があちこちへ飛んで居りますが、兎に角日本人の精神の根本には柔軟性があり其の力を元手に文化と文化、文明と文明を融合する力があるということであろう。

然し近代に於ける、或は未来に於ける其の力の発揮は可成に難しいものと考えざるを得ない。


何故ならまず何より現在の日本の精神には纏まりが欠けて居るからなのである。

のみならず、其の精神自体が破壊されつつある。


日本人は今日本の精神につき語るだけの余裕も無ければ厳密には其の能力すら無い。

何故なら日本の固有の精神に対しての無関心振りがもう長く続いて来たからなのである。

だから事実として三島 由紀夫氏が、そして司馬氏が恐れて居た日本人の無感動体質、無機的人間振りが特に此の21世紀に於いて極まって来て居るようにも感ぜられる。



でもこんな暗い終わり方はイヤですので最後に少しは希望的観測の方も述べておきましょう。

確かに今日本の精神と云うよりも日本人の精神性、其の道徳観や倫理性が世界的に高く評価されて居るということもまた一方にはある。


そして其の傾向は或は近代という狭い領域でのエゴの闘争の世界を脱していく契機ともなり得るものなのかもしれない。


然し其れもエゴを抑えて団体行動をするといった危険と裏腹なのだから多少割り引いて褒めておく必要があろう。