目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

日本人はほんたうに利口なのか


其の日本人の潔癖というのは、理性がち即ち理性の働きが強いといふことでもあるのです。

つまるところ個々の日本人は充分に理性的です。



しかしながら、全体になると日本人は一気に非理性的になります。

此の性質が発揮され戦後日本国は先進国の一員となれたことでしょう。


即ち目的に対して理性をかなぐり捨てて進んだので高度な経済成長が可能となりました。



でも、ほんたうは其処でも是非理性的に考えておくべきでした。

経済成長で打撃を被ることだろう里山としての日本の豊かな自然や日本人の精神のあり方などに就いてもっと考えておくべきでした。

これだけ頭が良く優秀ー世界で頭脳が優等生なのは日本人と独逸人だけです-な民族なのにそうした大事なものを滅ぼすに及んだのはズバリ日本人の全体主義が其れを行って居たのです。



事実日本人は世界から称賛されて居ることが多い。

其れに今では寿司は言うに及ばずラーメンまでもが世界中で大人気だ。




わたくしは、先の大戦での日本の過ちは其の全体性の部分に因がある筈だと睨んで来て居ります。

ただ、其れが誤りであったかどうかは其処でより注意深く吟味していく必要がある。



第一欧米諸国は皆其の帝国主義をやって居たのですから亜細亜で唯一其れを行いし日本国ばかりが非難される謂れなどない。



日本は亜細亜の統一を考えて居ただけなのでして、事実其のお蔭で亜細亜の植民地化が終焉したという面も否めない。

問題は其の近代の拡張主義即ち力の論理を日本独自の解釈で解体出来なかったところにこそある。

つまり日本は自らを近代化し強国化することでしか其の覇権争いに終止符を打つことが出来なかった。



そんな訳で、其の日本の全体性の暴発は日本の歴史としての必然であり運命でもあった訳です。




問題は、其の全体性がこれから何処へ向かうのか、ということでしょう。

おそらくは引き摺られていくのだと思われます。

近代の奉ずる進歩主義に引き摺られて、其処に日本の精神としての味付けは出来ずにただただPCの或はロボットの、または新幹線の、はたまた諸の進化へと勤しんでいくことでしょう。



でも其処に日本の精神は存して居るのでしょうか?

昔かの京都学派が、此の日本の精神論を組み上げ当時の軍部に進言して居たのですが其れはまるで理解されずそれどころか捻じ曲げられ軍国主義の理論的根拠とされて仕舞いました。




でも事実此の国では其の精神、こそが今問われて来て居る。

だが此の精神、こそが厄介である。

兎に角厄介である。



で、精神といふものは、基本的に小さい範囲でこそ正常に働くものなのである。

たとへばイデオロギー、宗教、信条、などは基本的に小さい範囲でこそ正常に働くものなのである。



ところが独逸第三帝国大東亜共栄圏、世界の警察思想、などは皆其の範囲を違えた拡張主義である。


此の拡張主義こそが近代の本質である。

近代はだから、危うい、破滅主義である、とんでもなく危険で否定しておかねばならぬ思想である。



要するに全体主義である。

近代とは全体主義である。

其の全体主義から破壊即ち不幸が生じる。



なのでファシズム近代主義、即ち抑圧と解放といった図式には還元されない悪の力が近代という時代の根には潜む。

だから其れが全体主義なのである。



尚、今、民主主義と自由主義という近代主義の展開は全体主義化して居る。

なので近代主義=正義の味方だとはとても言えないのである。

むしろ其れこそが悪である、悪役。




ところが洗脳されし精神にとって、其の民主主義と自由主義はもうほとんど神である。

神であるかの如きに恵みと恩寵を我我に与える力である。

だが其れが錯覚なのだ、妄想なのだ、そして洗脳なのだ。



だから理性的決着としての民主主義と自由主義のはびこりようはすでに全体主義の域に達して居る。



なので其処に投じた石、かのイスラム主義からの疑問としての意志は是非尊重されるべきであるとそう言うているのである。


どだい民主主義と自由主義は神などではない。

ただ其れを神だと信じ込んでいるだけのことだ。



だから大きい方の領域で信仰などして居てはいけない。

ズバリ言えば其れが間違いの元なのだ。



信仰は、小さい領域でこそ行うべし。

即ち其れが文化としての宗教である。

いざ其の理を違えるともう大変なこととなる。



其れが現在の世界での展開なのである。





ところで日本人は規律正しく倫理に培われた素晴らしい民族なのだろうか?


確かに世界から日本人の精神性の高さは絶賛されて来て居る。

だがわたくしは違うことを言いたい。

むしろわたくしは自分の中の日本人をトコトン批判してやりたい。

もう立ち上がれない位にうちのめしてやりたい。



第一日本人はもはやかの武士道なるものを見失って居る。

即ち自決、することの美学をもう誰も顧みようとして居ない。

でもわたくしは人が見ないものを見たいという変質者なので此の武士道には大きく興味があるのだ。



其れに最近は下の方での犯罪が目立つ。

ごく最近は医師が淫行で逮捕される事案が目立って来て居る。

医師、教師など、お勉強の方が出来て下のことを抑圧して居る人々に限り余計にJKに対してはムラムラして仕舞う。



然しどう考えてもおかしい。

そんなふしだらな小娘共をつくり上げて仕舞ったのはどう考えても戦後の左翼教育自体が腐って居たのである。

いや、それだけではなく医師と教師を狂わせたのも何もかも、武士道が、かの武士道が廃れ日本人の精神性が地に落ちたからこそそうなっちまったのだ。



かように腐りつつある日本の精神性に関して、ひとつ本腰を入れて論文でも書いてみたいのだけれどあいにく我に其れをして居る時間はない。




然し其の分を、暫く此処で考えていくことにした。

果たして日本人は莫迦なのか、それとも利口なのか。

また良い人なのか、其れとも悪い奴なのか。

エロいのか、エロくないのか。



其のエロに就いてはおそらく日本人のエロは世界的に見れば大したレヴェルではない筈だ。

何故なら西洋のエロはもうとんでもなくエロいと断言出来る。

わたくしが見聞きした限りではそうなのだ。



然しわたくしはエロくはない人間なので、日本人が何故利口なのかといふ点につきより興味がある。


ただ往々にして、利口といふことはむしろ苦しいことである。

知性とはズバリ苦である。

苦そのもののことだ。


仏教とは其の知に起因することだろう苦を滅することの為の教えである。



だから日本人は苦しい。

かっての同盟国の独逸人なども可成に苦しいことだろうがほとんど同じ程度に日本人も苦しい。


つまりは共に頭が良い。

良過ぎる。

其れでもってして苦しい。



苦しいのだが何でこんなに皆普通に労働に勤しみ共同体へ溶け込み初詣をしつつも葬式は坊主に任せて居るといふ点がなかなか理解出来ない。

究極的には、個よりも全体の方が偉い、上だという思想が日本人の根本の精神だとすればわたくしに限れば其れが気持ち悪いものにも思われてならない。