目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

皆様は今日も充分に緊張して居られましたか?


司馬氏は続けて、日本人の公意識がかの武士道から醸成されたものだと述べられて居る。


確かに日本人は公の意識の世界にこそ生きているように見受けられる。

其処では兎に角公の場、全体の場こそが大事なのである。


此の公の意識は、矢張り儒教だの仏教だの、それから神道などの宗教観から齎されしものなのだろう。

仏教に限っても、無論のこと其処では個の欲望を抑え仏の心になっていくことこそが最終目的である。


だから其処では個を主張することはない。

むしろ自己を忘れ、また時には自己を犠牲にして仏道修行に励んでいくのである。


然し、仏教でも原始仏教、其れも最初期の仏教というものは意外と個人主義で要するに森の中で自分で自分の心を律しまさに自分だけの力で悟っていく のである。

正直わたくしはそうした個人主義仏道修行には非常に惹かれる。


私自身の心理的性質が内向的なので皆で一緒に修行しましょうと云われてもそんなものは是非御免こうむりたいのである。


私は独りで居ることが性に合って居り、だから必然として其処は個人主義と言うか個を中心とした生き方にならざるを得ない。


そうかと言って団体行動が取れない訳でもない。

ただそういうのが限りなく苦痛であり、実は其れは幼稚園児の頃からそうだったのである。



だから人にはそれぞれにそうした生まれ持った性質の違いがあるのだ。

そういう孤独性の野郎は、それでも人には見えないものを見たり感じられないものを示したりすることも出来よう筈。


だから皆同じではいけないんだ。

其れにわたくしの場合は其の内向の度合いが並ではないから其れは其れで良いんだよ。


己の持ちあわせし突き抜けて仕舞って居る部分はむしろ伸ばしていった方が良いのだろうさ。



ただし修行の仕方自体が個人主義であれあくまで仏教に於いて個人主義ということはあり得ない。

何故なら最終的には個を滅し去るのが仏道修行の目的なのだからこそ。





其の日本人の公意識は、確固とした倫理観やある種の潔さを生み出して来たのだ。

そうした部分は武士道の精神から培われたものだと司馬 遼太郎氏は語る。


然し、そうした日本人の美徳が即欠点に繋がって居ることもまた事実なのである。

要するに個を抑圧することだろう公意識の重圧から日本人は免れ得ないのである。



つまり、常に日本人は緊張状態にある。

其の精神の方にこそ圧力がかかって仕舞って居るのだ。

この緊張状態こそが可成に危ないものだと個人的には見て居る。


何故ならわたくし自身が其の典型的な緊張野郎だからなのだ。

わたくしの緊張状態などは度を越して居り、其れはもう少年時代の頃からまさにそうだったので実は齢五十に達した時にはすでに老人の域の疲労度に達 して居たのである。

其の様に精神が物凄く疲れるということだ。


つまりは精神的にストレスがかかり過ぎて居ります。



だからそういうクソ真面目な日本人はいざ切れる場合に物凄くひどいキレ方をして仕舞う。

羽目を外す其の外し方の調節も下手なので兎に角滅茶苦茶になっちまうんだよ。


其のキンチョーの齎す多大なストレスから解放される為にわたくしは詩人とならざるを得なかった。

いざ詩人になれば思い切り世の中を斜に眺めることが許される訳で、其れでもって一挙に現実をバカに出来もし尚且つ精神を遊離させ宇宙空間へと解放することさえもが可能だ。


さて、ストレスの多し日本人は近代に至りつい精神を暴走せしめて仕舞った。

元々クソ真面目なので個よりも公が大事、つまりは個よりも家族の方がより大事、また個よりも村や町の方がより大事、また個よりも郡や県の方がずっと大事、はたまた個よりも神国である日本国が一番大事、なのは当たり前のことなのである。



すると、其処で心理的に段々緊張の度合いが増していく訳なのである。

やがては緊張に次ぐ緊張で、もはや自らの思考を成立させることすら適わなくなる。


すると、結局は最もデカい制度つまりは国家の言いなりに動くロボットへと化していく。

かって日本人はそうして精神を暴走せしめて仕舞った。


が、実はわたくしの場合かの大東亜共栄圏という思想は決して悪くなかったとそう睨んで来て居るのである。


私は単なる左翼では無く其れ以前にまず脱近代主義者なので、大東亜共栄圏なる思想が欧米による近代に於ける侵略主義に対する一定の効果を上げて居たものであった其の事実をこそ評価する者である。




ただし、天皇制というものは結果的に強力な個の抑圧を推進させて居たことだろう。

権威が強ければ強い程其の権威に屈する者をより強く抑圧するのである。

よって当時の絶対的な権威である天皇制は少なくとも個の精神の存立自体を阻害して居たのである。


だから謂わば、あの戦争とは日本人の精神の傾向が生み出しし必然の道程でもあったのだ。


其れは偶然そうなったものでもなく、日本人ー軍部ーの頭が一時的におかしくなり引き起こされしものでもないのである。

日本人の公意識が、其のクソ真面目さが、まずは個を捨てて全体に奉仕致しましょう、兎に角皆でそう致しましょう、さすれば必ずや国は栄え町や村は栄えよう、ひいては貴方の家族、親類縁者も皆安泰で万々歳だ。


という全体主義性に培われていしものであることは確かだ。


よって日本に於けるあの近代化も、そして軍国主義も、全ては必然のことだったのである。

元々其の精神性自体が全体主義の国なのだからして、そうなることはまさに当たり前のことなのである。




だが、幕藩体制の頃までは厳密には全体主義だとは云えない。

いや、確かに全体主義ではあったのだけれど、其の及ぶ範囲が藩の単位にとどまって居たのである。

だからこそ鎖国下での日本国の繁栄が、日本という纏まりの上での真の意味での独立性と多様性の確保が為されて居たのである。


ちなみに幕藩体制を築いた祖である家康公は無類の本好きであったそうである。

そうか、あの徳川 家康こそは読書三昧が大好きなインテリ爺さんであった。


尚わたくしは最近かの徳川 家康こそが真に尊敬に値する歴史上の人物であるとさえ考えて来て居ります。





さて、一旦切れると手に負えなくなりがちな真面目で誠実な心性を持つ日本人は器用なようでいて実は可成に不器用です。

一見柔軟性に富んで居るかの如く見えるが、其の実は頑固で融通が利かず、利口なようで居てー事実可成に皆様優秀ですがー根本の所ではむしろ馬鹿なのかもしれません。


要するに意外と一元化されて居ない心性の持ち主としての集団なのかもしれない。

むしろ心理的に両極性のある民族なのだとも言えそうです。



だから其の真面目な日本人がいざ乱れると物凄い乱れ方をして仕舞うような気が致します。

実際真面目な人が酒や女やギャンブルなどにいざ嵌りますと、これはもう歯止めが効かずにとんでもないことになっちまいそうです。


わたくしも何より其の真面目ですので、なるべくそうした悪趣の類を遠ざけて生きて行きたいところですがハッキリ申せば将来のことなど自分でも分かりません。


真面目でストレスを感じ易く癌などにもかかり易い日本人は、まずは精神性を取り戻した上で是非癒しの趣味を持つことなどが肝要かと存じます。

其の精神性の部分は、主に東洋人としての思想をあえて再確認してみることで取り戻すことが出来よう。

また近代文明の提供する諸の癒し以上に自然から与えられる癒しには大きな効果がある。



以上のように日本人の持つ公意識は日本人の精神性に緊張を強い其の緊張度の高さが日本人の高い倫理性や道徳観を形作って居る。

然し其の美徳としての裏側には個としての思想の欠如や柔軟な発想の不足といった負の部分が拡がるのである。



司馬 遼太郎氏は其の負の部分についても熟慮されていたことだろう。

何故なら晩年司馬氏はこんなことを言われて居たそうである。


曰く、立憲国家は人々個々の強い精神が必要だが戦後日本にはまだまだ其れが出来て居ない。

よって日本人の一人一人が確かな個をつくり上げる必要が是非ある。


一方で司馬氏は戦後民主主義を肯定的に捉えて居たことで知られた作家である。

が、わたくしの場合は其の限りに非ずで、むしろ戦後民主主義に対して否定的な見方をして居るのではありますが、こと司馬氏の日本人論の部分に関しては其のほとんどの部分が当たって居るのではなかろうかとそう思うのである。