目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

精神の重み


ともあれ世界はこうしてグダグダになりながらも動いていく。

次第にヘロヘロとなりながらも、そして何が何やら分からなくなりながらも動いていく。


理性と本能、欲望と抑制、過去と現在、対立と協調、破壊と建設といった二元的要素のごちゃ混ぜの状態でもって動いていくのだ。

だが厳密には其処に過去は無い。

ましてや未来も無いのだ。


我々に有る時間とはひとつ現在のみなのである。

現在という理性的限定、幻影の中にしか我々は住して居ない。


さらに真の意味での建設も無い。

建設とは破壊ではないのであるからして、其処に真の意味での建設は為されて居ないのである。


この様に無いものばかりであるのに、何故か我々の生活は豊かである。

所詮は見せかけの豊かさなのかもしれないのだが、それでも一応は豊かである。


豊かだからこそ、楽しい。

其れもまた一応は事実である。


でも事実は真理とは違う。


たとえば宗教が真理を説くものであり事実を追うものとは異なるのは其処にしかるべき理由があるからなのだ。

何より宗教は物質的享楽に浸ることを厳に戒めて来た。


単に物欲にとどまらず性欲つまり自己保存力や権力欲つまり自己拡大力などにつき戒めて来た。

何故なら欲望には必ずやエゴの影がつきまとい、欲望の成就はエゴの成就、エゴの確立に繋がるからなのである。


一旦エゴを確立すれば、此の世の全てをエゴ化することなども実は簡単だ。

其処では全ての価値観がエゴを中心に回るからまさに世界はエゴたる自分のステージともなり得るのだ。


然し人間とは弱いもので、エゴを中心とした世界観の確立にはやがて歪が生じるのである。

そしてやがては其れが精神の破壊にも繋がろう。

いや、そうした世界観の確立からこそ、破壊という行為そのものが引き起こされるのであろう。


つまるところ、破壊とはエゴである。

世界を破壊するものは、エゴへの固執でありエゴへの固執は、精神の破壊さえをも齎す。



だが人間の歴史とはまさに其の様なエゴの追求の歴史でもあった。

同時にエゴの抑制の歴史でもまたあった。


エゴを抑制しようとして来たのは、言うまでもなく人間に於ける精神の働きだった。

精神とは観念であり、観念とは分解である。


この分解されし限定ということこそが我々の真の姿なのである。

分解とは統合、統一の反対で、限定とは全体性ー統合性ーや永遠性の反対の様である。


つまるところ、人間とはそんな不具者であるに過ぎない。

ではあるが、ではあるからこそ人間とは精神的な存在でなければならないのである。


今現に成しつつある諸の破壊を止めて叡知に達する為には心を律して時間を止め常に精神的な存在でなければならないのである。



然しながら精神とは理知性の生み出しし幻影である。

観念もまた、本当の本当は幻影に過ぎないのである。


人間とは其の幻影の精神を本当の精神だとして生きるべくプログラミングされし者のことだ。


何故なら精神とはそも分解なのだから、元々其のままでは真の精神性ー真の理知性ーへ至ることなど叶わぬ。

其のままでは神仏のー精神的なー段階へ達することなど出来ないのである。


わたくしは宗教とは其の橋渡しを行うものののことでありまた道標のことでもあろうと考える。




宗教で問題とされて居るのはあくまでそうした精神の問題のことである。

対して俗世間ではまさに其の精神の領域こそがおざなりにされて来て居るのである。


ましてや精神を考えることなく、つまり精神には触れ得ずかつ触れることをあえて捨て去り歩んで来たのが近代以降の物質文明の基本構造である。

勿論其の中でも精神らしきものを論じて来ては居た。


ただ、其れは精神そのものを論じたのではなく単に精神の分解を行って来たのである。

事実として分解されし精神のさらなる分解を、近代以降の科学的思考が受け持って来ただけだったのである。


  

たとえば精神とは、必然として其処に何か重いものを宿して居るものである。

其の何かとは矛盾ー非合理性ーであり言語には分解され得ないことだろう言外での何かでもあろう。


そんな非合理的なもの、または言語以前の統一性のようなものから背を向けただ一心不乱に合理的統一性を求めたのが近代の思考の主柱である。

合理的統一は、そんな非合理的なもの、または言語以前の統一性のようなものを根こそぎ破壊する。




事実近代化が進みし戦後に於いて人間の精神の重さが消え去っていったようにも見える。

かっての人間はー現代に対しては近代の、また近代に対しては前近代のー重い人間が多かったように見受けられる。


かっての哲学者、詩人、音楽家などは確かに皆重い。

対して今の哲学者、詩人、音楽家などは確かに皆其れに比せば軽い。


何で軽いのだろうか?

精神の重さが消えて無くなって仕舞ったのだろうか。


いやいや、それでも、各個人、個人レヴェルでの精神に抱えられし苦悩の総量は決して軽くなってなど居ない筈なのである。

苦しみと申しますか、個が抱えし苦悩の重さはむしろ増して来てさえ居るのである。


なのに何で軽いのだろうか?

苦悩自体が消えて無くなって仕舞ったのだろうか。


苦悩自体が消えて無くなった訳ではなく、どうやら捉え方が変わって来て居るようだ。


たとえば過去にはラジオ思考、TV思考から始まり、今はさながらネット思考ということになろうか、客観的で合理的思考が主観の苦悩を追い越して其れをも客観視させて来て居るのである。

だから戦前に流行ったような哲学的主観や思想の胚胎と構築は流行らないのだ、いや其れの成立すら危ぶまれて居る。


勿論作家や学者の方々は今でも随分難しいことを論じて居られる。

謂わば其れ等は今でも十分に重い思考である。


然し今一般の人々の思考は概ね軽い。

或は生の重さの減少に比例して思考の重さの方も減少して来て居るのやもしれぬ。


思考の重さが減ずれば、其れは即精神の重さの方も減少していくこととなりはしないか。

実際に現代人はすでに思考を放棄しつつあるのではないか。


そして考えないことこそが現在化するということなのである。

過去を振り返り重く考えることは、連綿として続く人間にとっての時間と対峙することである。


ところが現在は其の時間を含まない。

現在に成り切って仕舞うと過去や未来は失われて仕舞うのである。


思考が軽いということは、其の様に望ましいことではない。

すなわち精神は重い方が良いのである。


かのベートーヴェンショーペンハウアー並に重い方が良いのである。


精神が重いと、必然として其処に宗教の段階ー精神としてのーが発生する。

無論のことたとえ無神論であるにせよ其れも宗教の段階としてのひとつの立場である。


然し現代人の抱える精神の欠乏とはそうした立場上の問題ではないのである。

其れはそも宗教の段階まで考えることがかなわぬ思考力自体の減退である。




思考力自体を失い、謂わば其の生が軽い。

限りなく軽くなりし生は、人間をして家畜化していくことだろう。


家畜化されし人間は、より思考力を失う。

そうした悪循環が、人間の精神の重さを浸食していくのだ。





さてかってTVなるものが出現した時、これでは「一億総白痴化」するとまで言ったのが当時社会評論の方で知られた大宅 壮一氏である。

Wikipedia-一億総白痴化
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%84%84%E7%B7%8F%E7%99%BD%E7%97%B4%E5%8C%96

Wikipedia-大宅壮一
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%85%E5%A3%AE%E4%B8%80


マスメディアによる人間の思考の操作或は人間の思考力の減退の推進ということは、ある程度まで実際に存在することとわたくしは思う。

でも現在のように多様化したマスメディアは人間の白痴化そのものを推進させるのではなく、むしろ個々が選択するメディアの内容と時間により白痴化が推進される筈だとも考えて居る。


要するに情報は今や選択する時代となり、それこそネットやTVの上でも大学の講義並にレヴェルの高い思考を其処に要求されるような選択もまた可能なのである。

それにマンガなどにしても純文学並に質の高い内容を持った作品が幾つも存在して居る。


個人的にはそうした選択なのであれば白痴化されることなどはないと考えて居る。

其れでも以前にも述べた通り、書籍から得られる知識なり考え方には其処にある種の含みの部分ー謂わば非合理領域のことかー、それこそページの余白に漂うことだろう言外での知恵のようなものを感じることが屡なのであり、従ってわたくしは五年位前からまた書籍による知の可能性の探索を再開し今に至って居るのである。

本を読んで居る時の方が、レヴェルの高いネット配信やTV放送の上で考えさせられることよりも何かしらゆったりと構え、しかもより深く思考を巡らすことが出来るような気がしたので再びそうして来て居るのである。



ちなみに十代、二十代の頃わたくしは多くの本を読み、其れで目が悪くなり其の時以来ずっとメガネ男なのである。

其の頃読んでみた本に大宅 壮一氏の子息である大宅 歩氏の『詩と反逆と死』という一冊があった。

Wikipedia-大宅歩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%85%E6%AD%A9


当時この本からインスパイアされる部分が大きく、其れで今でもこうして確りと本の題名と著者名を覚えて居るのである。

其の内容の記憶はともかくとして其処で精神的に大きく揺さぶられたということなのだろう。



一億総白痴化」という言葉は現在ではほとんど死語となったが、逆に今私がこの言葉を使わせて頂くなら昨今若い人達が夢中になってやって居るコンピューターゲームの方にこそ使ってみたいと思って居る。

もうあれこそは人間の精神を根こそぎ壊すことだろう破壊者そのものである。


あんなものやって居て一体何が楽しいのだろう。

私にはああいう世界が理解出来ないのであんなものは一切やらないのである。


かく言うわたくしも確かに昔はインベーダーゲームや麻雀ゲームに嵌り当時各所にあったゲームセンターなるものに入り浸って居たことさえあった。

其れが二十歳前後のことだったかと思う。

当時数学の得意な高校時代の友達が居て、この人と一緒にインベーダーゲームでの必殺技というものを開発したりもして居たものだったが、其れでも元々精神の基本が文學であり哲學でもあることだろうわたくしにとっては其れが重要なものとなろう筈もなかったのだ。


この友人は後に精神に変調を来たし揚句に準禁治産者となって仕舞い、まことに残念なことに今は音信不通となりしが彼が独特に頭の良い人であったことだけは確かなのである。



いずれにせよ、人間の精神の重みというものは矢張り真摯に学ぶことから形作られるものであろうとわたくしは考える。

宗教なんてのは、其の精神の重みとむしろ真正面から向き合う精神の領域なのであろうからむしろ一番重みが加わることだろう分野のものなのだ。




そうした重量級の精神の領域から遠ざかりつつある現代の一般的な思考が限りなく軽くなりつつあるのは自明のことなのである。

嗚呼、そう云えば軽薄短小などという言葉も現在は死語となりつつあるのかもしれない。


思い切り皮肉を込めて言えば、世界全体、文明全体が軽薄短小化したのであろうから、あえてこの言葉を持ち出す必要もなくなったのだろう。


蛇足ながら、わたくしの知り合いの宗教家の方ー日々密教系の修行に勤しまれて居る方であるーなどはTVやラジオの類は自身から一切遮断して居られるそうである。

新聞の方はどうだったか知らないのですが、いずれにせよそうした大衆的に洗脳される要素を排除しておかないと在家でもってまともに仏道修行していくことなど能わない。