目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

「人口論」が予言せしこと


理性とは分解であり同時に鏡という客観性を形作るものそのものなのでもある。

また其れが自らの馬鹿さ加減を映ずる鏡のことなのでもある。


理性があれば上だというものではなくむしろ顕在化された理性こそが下にあるものなのだ。

何故なら理性そのものは分解されないだろう筈のものなのだから。

謂わば顕在化しないー限定され得ないー理性こそが本物の理性なのであろう。


人間が手に入れる理性とは其の様に常に不完全なものでしかない。

其れも謂わば分解され易い理性であるに過ぎないのだ。ー二次分解過程としての理性ー



分解され易いから、エゴー本能領域ーの影響を受け其処から知恵を失っていき易い。


知恵を失うと理性は逆に暴走する。

暴走した理性はあらゆる対立、あらゆる破壊を生じて仕舞う。


即ち暴走する理性は本能それ自体よりもずっとタチが悪いのである。

本能はそれ自体限定的なのだが、暴走する理性は逆に本能の限定性を解いてしまう。



近代とは其の暴走する理性の時代であった訳だ。


理性とは本来完全なる抑制でなければならない筈であるのに、いかんせん其処で人間が我がものとすることの出来た理性とは不完全でしかも鏡化ー自己矛盾化ーして仕舞うものであるに過ぎなかった。


たとえば神仏は自己を客体化して、また自己以外の範囲を客体化して認識する必要が無いが人間は理性の不完全さにより其のことを成し遂げて行かざるを得ない。


分解されし理性によりそうしていく他ないのである。


分解されし理性から必然として知恵の部分が抜け落ちていくとやがて其の理性が名ばかりのものともなり最終的には嘘の理性、偽の理性へと転化して いって仕舞う。

嘘の理性、偽の理性とはまさに本能が理性の皮を被った状態で存在して居るまでのことだ。


本能が理性の名の元に暴れ出すそんな下品な様のことなのだ。

現代の苦悩とはそうした理性の自己矛盾性から齎されて居る。



ゆえに理性的であろうとする程にむしろ理性の範囲から外れていく。

あらゆる思考と行動が本質的には理性的ではなくなっていくのである。



我々人間が持ち得る理性とは常にそうした負債性、瑕疵性に彩られし不完全な理性のことだ。

不完全な理性は、不完全な文明を生み出しやがて其処に自己牢獄化した世の様を生み出していく。


よって不完全な理性の齎す文明の在り方は必然として破壊を免れ得ない。

破壊は不完全な理性が成し得るだろう唯一の行いである。



破壊なき理性の成立は、然しながら、非常に困難である。

何故なら不完全な理性の目的とは破壊にほかならないからなのだ。



さて、このようにして必然としての破壊的帰結、自己矛盾性の拡大の時代を迎えて居る現在の我々ではある。

我々が時代の要請に応えて居るだけでは世界は破壊され虚無化していって仕舞うのである。


ならば一体どうすべきなのだろう?

不完全な理性の檻の中に閉じ込められ、こうしてただ黙って世界の破壊と虚無化の様を見続けて居るだけで良いのだろうか。



この問いに対する答えもまた、思考の立場により様々である。


あくまで科学的には、其の不完全なる理性の檻の中でもがき続け最終的にはソフトランディングとしての終結を受け容れるより手が無いのである。

其れは滅茶苦茶になり滅ぶのではなくなるべく穏やかに終わりの日を迎えましょうといったものである。


確かに現実的にはそうせざるを得ないと云ったところである。


何故なら抑制の機能を欠いた理性にはもはや多くを望み得ないからなのである。

宗教や他の精神的な分野から齎されし知恵の部分はもはや復権を望むべくもない。


逆に智慧が足らないことからこうなって仕舞って居るのであろうから、其処で、すわ智慧を持ちましょう、形作りましょうなどと云ったにせよそんなことはほぼ不可能に近いことなのだ。


要するに最高で安楽死する、其れが出来るか否かだ、ということとなろう。


でも安楽死するには遅きに失して居るような気がしないでもない。

ですがやる気だけは持って居る方が持って居ないよりは良いことだろう。


であるから今後の理性の在り方はすべからくこのソフトランディングとしての終結を目指すようなものであるべきだ。


だから博打経済はもう要らないのであるし、環境破壊などの智慧無き理性の暴走ももう要らないのである。

其れからかのマルサスが説きし人口論を今一度学び直してみることだ。



Wikipedia-人口論
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E8%AB%96


人口の原理[編集]

まずマルサスは基本的な二個の自明である前提を置くことから始める。
  • 第一に食糧(生活資源)が人類の生存に必要である。
  • 第二に異性間の情欲は必ず存在する。
この二つの前提から導き出される考察として、マルサス人口の増加が生活資源を生産する土地の能力よりも不等に大きいと主張し、人口は制限されなければ幾何級数的に増加するが生活資源は算術級数的にしか増加しないので、生活資源は必ず不足する、という帰結を導く。
人口は制限されなければ幾何級数的に増加するという原理は理論上における原理である。風俗が純潔であり、生活資源が豊富であり、社会の各階層における家族の生活能力などによって人口の増殖力が完全に無制限であることが前提になっている。この理論的仮定において繁殖の強い動機づけが社会制度や食料資源によって一切抑制されないならば、人口増は現実の人口状況より大きいものになると考えられる。ここでマルサスは米国において、より生活資源や風俗が純潔であり、早婚も多かったために、人口が25年間で倍加した事例を示し、この増加率は決して理論上における限界ではないが、これを歴史的な経験に基づいた基準とする。そこで人口が制約されなければ25年毎に倍加するものであり、これは幾何級数的に増加することと同義である。
生活資源は算術級数的にしか増加しないという原理は次のような具体的な事例で容易に考察できる。ある島国において生活資源がどのような増加率で増加するのかを考察すると、まず現在の耕作状況について研究する必要がある。もし最善の農業政策によって開拓を進め、農業を振興し、生産物が25年で2倍に増加したという状況を想定する。このような状況で次の25年の間に生産物を倍加させることは、土地の生産性から考えて技術的に困難であると考えられる。つまりこのような倍加率を指して算術級数的な増加と述べることができる。この算術級数的な生活資源の増加は人口の増加と不均衡なものであると考えられる。[1]

貧困の出現[編集]

次にマルサスはこのような人口の飛躍的な増加に対する制限が、どのような結果をもたらすかを考察している。動植物については本能に従って繁殖し、生活資源を超過する余分な個体は場所や養分の不足から死滅していく。人間の場合には動植物のような本能による動機づけに加えて、理性による行動の制御を考慮しなければならない。つまり経済状況に応じて人間はさまざまな種類の困難を予測していると考える。このような考慮は常に人口増を制限するが、それでも常に人口増の努力は継続されるために人口と生活資源の不均衡もまた継続されることになる。人口増の制限は人口の現状維持であり、人口の超過分の調整ではない。
このような事実から人口増の継続が、生活資源の継続的な不足をもたらし、したがって重大な貧困問題に直面することになる。なぜなら人口が多いために労働者は過剰供給となり、また食料品は過少供給となるからである。このような状況で結婚することや、家族を養うことは困難であるために人口増はここで停滞することになる。安い労働力で開墾事業などを進められることで、初めて食料品の供給量を徐々に増加することが可能となり、最初の人口と生活資源の均衡が回復されていく。社会ではこのような人口の原理に従った事件が反覆されていることは、注意深く研究すれば疑いようがないことが分かるとマルサスは述べている。
このような変動がそれほど顕著なものとして注目されていないことの理由は歴史的知識が社会の上流階級の動向に特化していることが挙げられる。社会の全体像を示す、民族の成人数に対する既婚者数の割合、結婚制度による不道徳な慣習、社会の貧困層と富裕層における乳児の死亡率、労賃の変化などが研究すべき対象として列挙できる。このような歴史は人口の制限がどのように機能していたのかを明らかにできるが、現実の人口動向ではさまざまな介在的原因があるために不規則にならざるをえない[2]

その後[編集]

マルサスの悲観的な予言にも拘らず、マルサス以降人口爆発が起こっており、特に先進国では食糧不足も起こっていないため、マルサスの予言は外れたようにみえる[3]
このような結果をもたらしたのは科学技術の発展により、農作物の生産量やその輸送方法が劇的に改善したからである[3]

なかでも、ハーバー・ボッシュ法などによって化学肥料が発明された事の役割がきわめて大きい[3]

Wikipedia-人口論より抜粋して引用



「動植物については本能に従って繁殖し、生活資源を超過する余分な個体は場所や養分の不足から死滅していく。人間の場合には動植物のような本能による動機づけに加えて、理性による行動の制御を考慮しなければならない。」

「人口増の継続が、生活資源の継続的な不足をもたらし、したがって重大な貧困問題に直面することになる。」



元より人間には動植物とは別次元での理性による抑制システムの構築が不可欠なものとなる。

なんとなれば人間は動植物とは違い自然という完璧な統御システムー一次分解過程としての負債=現象ーの内側に生きて居ないものなのだから。


人間が生きて居るのは二次分解過程としての現象であり、従って其処には自然の枠組みによる統御が半分位しか効いて居ないこととなる。

其の半分というのは主に天災による制御性のことである。


実際に我々日本人も近年大震災や火山の噴火などといった自然災害に向き合うこととなって来て居る。

のみならず今後は地球温暖化が齎すだろう大災害を目の当たりにしていかなければならぬことだろう。


其の中に、最も現実的で切迫した災禍として考えられるのが実は食料問題なのである。

確かに科学は今後も食料をより安定的、効率的に生産し続けて行くことだろう。


然し、其れはあくまで地球上の生態システムの十全な機能に寄りかかったものであることを考えておく必要があろう。

やがて温暖化は海洋の酸性化により海の生態系を破壊し、同時に陸上の生態系の疲弊と破壊による食糧の生産性の著しい減退を齎すことだろう。


いざそうなった時に現在のように工場生産方式で野菜など沢山出来るかと言えば其れは甚だ疑問なのである。

第一其の様に生態系が破壊されし状態で安定した電力供給など出来よう筈もないのである。

要するに、食うことは人間の力だけでは絶対に出来ないということなのである。


食うということは其のすべからくが自然からの恩恵である。

恩恵ということは、其の恵みの部分には手出しが出来ない、或は手出しをしてはいけないということなのである。


何に対して?

つまりは自然に対してである。


この当たり前の、まさに誰でも分かる人間が生きることの上でのごく基本の抑制の部分の考えであり摂理をこそまさに近代は見誤って仕舞ったのである。

近代とは前近代的なあらゆる枷、壁のようなものを全廃していこうとした試みであった。


理性を分解し鏡化された世界を作り出すことにより、其のことが可能となった。

物質はこれ以上ないまでに切り刻まれ、また其れは宇宙の果てまでそうされていったのである。


然しながら、其れは単なる分析知の集積である。

自然に対して不必要に手を出してはいけない、手を加え過ぎてはいけないという、この大原則、実は元も大事な部分である其の大原則を其処に省みることがなかった。


だから其れこそがバカの様そのものだとわたくしは述べて居るのである。

利口つまり全い理性の形とは、決して其の様な歪なものではない。


前近代的なあらゆる枷、壁とは、実は逆に人間を守る方向性を持ちしものでもあった。

だから本質的に自らを防衛せず、あらゆる災厄の前に身を投げ出す方向へ舵を切ったのは誰あろう、この私たち自身だったのである。


近代が望みし自由や豊かさや快適さの裏側にはそうした暗部が拡がって居たのである。

我々は今其の暗部にこそ生きて居るのだ。



尚、貧困の問題が顕在化して来るのはまだまだこれからのことなのである。

真の貧困ということは、最終的には地球の破壊から齎されるものとなる。


もはや地球の破壊は免れ得ず、そして人類の精神の破壊の方も同時に免れ得ない。

わたくしには地球の破壊を食い止めるだけの力など元より無く、其れで人類の精神の破壊の方を何とか食い止めようとこうして日々あがいているばかりなのだ。



上にもあるように近代の人口爆発以降に食糧不足が引き起こされなかったのは科学技術のお蔭である。

近代以降の人類は自ら掲げし近代主義の実現の為にあらゆる労苦を厭わず食糧生産の上での収量を上げて来たのだった。


然し其の努力の底にも生態系の安定という前提的要件が存して居たことを忘れてはならない。

つまり科学技術のお蔭ではなく本当の本当は自然から前近代の時以上に余分に頂いて居ただけだったのである。


これまで人間が何とか生きて居られたのは全部自然のお蔭である。

まさに自然様のお蔭で我々はこうして日々喰って居られ、それでもって毎日せっせと子作りに励みかつ会社に出向き仕事らしきこともこなせるのである。


無論のこと人間の至らぬ部分にはそのうちに鉄槌が下されようが、其れでも尚自身の根本の部分での瑕疵性には気付かず我々は日々を歩んでいくことだろう。