目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

問題の最終形としての二元的対立の遡行現象



悪とは何かと問えば其れは謂わば分解のことであろうと今わたくしは考える。

分解とは限定のことであり、限定されると長さや広さの区別、即ち大きさの区別、それから男女や動物と植物、というようにあらゆる区別が生じて仕舞うのである。


のみならず観念領域も分解ー限定ーされ、其れがたとえば言語と言語以前のものというように領域の区分を生じて仕舞うのである。




従って悪とは分解である。


分解とは限定である。


ゆえに存在とは分解であり限定であるところでの悪である。



その悪を存続せしめんと欲する心すなわち愛こそは悪の根源である。




ただし誤解無きように言えば、これはあくまで哲学的な思考に於いてそう結論づけられるものなのであり、あくまで現実的には前回語りし如くに愛とは存在にとっての継続であり信仰であろう筈のものなのである。




つまるところ善悪の区別とはあくまで其の様に相対的なものとなる。



時代や文化により、或は理性の分解度の段階により善悪の区別は屡入れ替わったりして仕舞うのである。



たとえば理性の分解度が一重である自然の自己矛盾過程に於いては、其処でむしろ弱肉強食で食うか食われるかなのは善である。

其れは大元の理性的システムー自然の合理的システムーがそう規定しているものなのであくまで悪だとは言えないのである。



然しこと人間の社会ともなれば、たとえば宗教や様々な規範、法律の上などからこれはいけない、あれはいいといったように論理的な分別が生じて仕舞う。

尚これは理性の分解度が二重である文明の自己矛盾過程となるので、より純粋に近い理性の履行である自然の自己矛盾過程よりも一段劣った形での理性の履行過程ともなろう。


このように人間の生きる範囲とは実は高級なものでもなんでもない。

だから近代の思想が目指した人間の高級さなど完全なる幻想である。





よろしいでしょうか?

謂わば分解により複雑化しているものこそが劣ったものなのである。


限定により無辺の世界から離れ顕現するものこそが瑕疵性そのものであり負債性そのものなのである。




分解すなわち限定されしことで、時間さえもが其処に生じることとなる。


時間とは悠久ー永遠ーに対する限定であり、謂わば瑕疵性そのものであり負債性そのもののことなのである。


時間が流れると、必然的に劣化が起こる。


事実原子核は崩壊する。


また陽子崩壊でいつかは宇宙が消滅するものともされている。




即ち劣化は存在の、或は宇宙の宿命なのである。




また悪とは分解ー限定ーである。




ところがあくまで自然は悪ではない。

なんとなれば自然に於ける理性の分解が軽い分、謂わば其処で冥落せし理性は顕現することなく従って自然の枠内で自らを悪として裁く根拠には欠けていよう。



だからより分解されし、またより限定されし理性こそが悪を生み出すのである。


すると、悪があれば善というものがまた必然的に其処に生じざるを得なくなる。



即ち悪魔が居れば神が居ることとなり、仏陀が居れば魔もまた必然的に其処に生ずるのである。


其の様な二元性というものは、存在の必然であり観念の必然である。



しかしながら存在の必然としての二元性は、其処に劣化は生じさせても破壊を生じさせることがない。

されど観念の必然としての二元的対立は、劣化ばかりか破壊そのものへと至って仕舞う。




このことを平たく言えば、自然もまた劣化するが其処に破壊を生じせしめるようなことはないということだ。

対して人間の観念は理性としての分解度が高い分より不完全でありより瑕疵性、負債性に彩られて居るということである。



つまるところ、其の二元性の瑕疵、負債が何か問題となるのは人間の領域であり、しかも文明が進むにつれ劣化乃至は破壊が甚だしくなりまさに地球上の時間で僅かな間に自然及び人間を自ら葬り去るということである。


従って今我々が直面して居る問題とは本当はそうした非常に大きな領域での問題なのである。



ところが今人類はそうした大問題を捉えていくだけの精神の力に欠けて居る。

近代以降、人間の思考が偏狭化し大きな思考を為すことが出来なくなって仕舞ったのだ。




悪とは分解ー限定ーであり、限定されし存在とは悪である。

あくまで本質的には其の様なこととなる。




ちなみにこうした世界観を持つのはかって存在した思想、宗教にむしろ普遍的に見られるのだとも言えよう。





Wikipedia-グノーシス主義
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9%E4%B8%BB%E7%BE%A9


定義[編 集]

1966年4月にイタリアメッ シーナ大学グノーシス主義研究者たちの「国際コロキウム(シンポジウム)」が開催され、そこでグノーシス主義とは何であるかと いう学術的な定義について一つの提案が行われた。これを「メッシーナ提案」と通称する。半世紀近くの時を経てグノーシス主義に関する研究も進展したが、グノーシス主義を語る上でメッシーナ提案は研究者たちの共通基本認識として前提となる。
この提案では、紀元2世紀から3世紀頃のキリスト教グノーシス体系を「グノーシス主義(Gnostizismus)」と定義し、より広い意味での「秘教的知識」の歴史的カテゴリーを「グノーシス」と定義した[1]。 この提案によれば、「グノーシス」とは「グノーシス主義」を「典型」とする非常に範囲の広い意味を持つことになり、これはハンス・ヨナスが提唱したように、「精神の姿勢・現存在の姿勢」であるという解釈が概ねにおいて承認されたものである。マニ教や、カタリ派ボゴミール派などは当然として、それ以外にも、時代や地域を越えて、「グノーシス」は人間の世界把握の様式から来る宗教または哲学思想として普遍的に存在するものとの考えが示された[2]
しかし必ずしもこの定義が定着したわけではなく、一般に「グノーシス」ならびに「グノーシス主義」という言葉は同義語として用いられており[3]キリスト教「異端思想」としてのグノーシス主義を「キリスト教グノーシス派」と呼ぶことが多い。したがってこの記事では広義の「グノーシス」 について、「グノーシス主義」という用語で説明する。
物質からなる肉体を悪とする結果、道徳に関して、2つの対極的な立場が現れた。一方では禁欲主義となって顕われ、他方では、放縦となって現れる。前者は、マニ教に見られるように禁欲的な生き方を教える。後者は、霊は肉体とは別存在であるので、肉体において犯した罪悪の影響を受けないという論理の下に、不道徳をほしいままにするタイプである。4世紀の神学者アウグスティヌスがキリストに回心する前に惹かれたのは、前者の禁欲的なタイプであったと言われる。

反 宇宙的二元論[編 集]

グノーシス主義には様々なバリエーションがあるものの、一般的に認められるのは、「反宇宙的二元論(Anti-cosmic dualism)」と呼ばれる世界観である。反宇宙的二元論の「反宇宙的」とは、否定的な秩序が存在するこの世界を受け入れない、認めないという思想あるいは実存の立場である。言い換えれば、現在われわれが生きているこの世界を悪の宇宙、あるいは狂った世界と見て、原初には真の至高神が創造した善の宇宙があったと捉える。
グノーシスの神話では、原初の世界は、至高神の創造した充溢(プレーローマ(Pleroma))の世界である。しかし至高神の神性(アイオーン)のひとつであるソフィア(知恵)は、その持てる力を発揮しようとして、ヤルダバオート(Yaldabaoth)あるいはデミウルゴス(Demiuruge)と呼ばれる狂った神を作る。ヤルダバオトは自らの出自を忘却しており、自らのほかに神はないと いう認識を有している。グノーシスの神話ではこのヤルダバオトの作り出した世界こそが、我々の生きているこの世界であると捉えられる。

宇宙論
グノーシス主義は、地上の生の悲惨さは、この宇宙が「の宇宙」であるが故と考えた。現象的に率直に、真摯に、迷妄や希望的観測を排して世界を眺めるとき、この宇宙はまさに「善の宇宙」などではなく「悪の宇宙」に他ならないと考 えた。これがグノーシス主義の「反宇宙」論である。
二元論
宇宙が本来的に悪の宇宙であって、既存の諸宗教思想の伝えるや神々が善であるというのは、誤謬であるとグノーシス主義では考えた。ここでは、「」と「」 の対立が二元論的に把握されている。善とされる神々も、彼らがこの悪である世界の原因であれば、実は悪の神、「偽の神」である。しかし その場合、どこかに「真の神」が存在し「真の世界」が存在するはずである。
悪の世界はまた「物質」で構成されており、それ故に物質は悪である。また物質で造られた肉体も悪である。物質に対し、「霊」あるいは 「イデアー」こそは真の存在であり世界である。
、真の神と偽の神、また肉体イ デアー物質と云 う「二元論」が、グノーシス主義の基本的な世界観であり、これが「反宇宙論」と合わさり「反宇宙的二元論」という思想になった。


Wikipedia-グノーシス主義より抜粋して引用







ーこの提案では、紀元2世紀から3世紀頃 のキリスト教グノーシス体系を「グノーシス主義(Gnostizismus)」と定義し、より広い意味での「秘教的知識」の歴史的カテゴリーを「グノーシス」と定義した[1]。 この提案によれば、「グノーシス」とは「グノーシス主義」を「典型」とする非常に範囲の広い意味を持つことになり、これはハンス・ヨナスが提唱したように、「精神の姿勢・現存在の姿勢」であるという解釈が概ねにおいて承認されたものである。マニ教や、カタリ派ボゴミール派などは当然として、それ以外にも、時代や地域を越えて、「グノーシス」は人間の世界把握の様式から来る宗教または哲学思想として普遍的に存在するものとの考えが示された[2]。ー

Wikipedia-グノーシス主義より抜粋して引用




存在そのものが悪、宇宙そのものが悪であるとする考え方は古くから存在して居ります。

たとえば原始仏教などは明らかに其の系列での思想となりましょう。



ただしより正確には原始仏教に於いて存在や宇宙を悪そのものとして捉える訳ではなく、そうした存在や宇宙に観念的に囚われ其処で苦を受けることだろう現象を繰り返して仕舞うこと自体が悪であり魔のことなのであります。


ですので原始仏教に於ける修行の目的とはそうした謂わば観念上の悪を滅ぼす為に存在や宇宙そのものを肯定することから離れ、かつ否定することからをも離れ其処に二元的な超克を達成していくということとなりましょう。


この様にあくまで仏教に於いては自らの心を律し正していくという内面的な作業こそが全てなのです。


なので社会の罪深さや過ちが其処で問題とされる訳ではないのです。



社会とは元より無常の世のひとつのピースでしか過ぎない訳ですので、其処に拘泥して内面の上での修行がおろそかになってはそれこそ本末転倒だということとなる。

つまり社会が無常なのはむしろ当然のことであり、また其れがどんな問題を含んで居るにせよ其の問題を解決することよりも先にまず内面の抱える問題を解決していく必要があるのです。



ですので極端な話、現代文明が自滅の方向性へ進んでいようがいまいが其の様なことは仏教に於ける本質的な問題ではないのです。


また仏教に於いては人間が孤独であろうがあるまいが其の様なことは仏教に於ける本質的問題ではないのです。


仏教に於ける本質的な問題とは、個々人が自らの心を律し正していきまさに其のことにより此の無常の世の二元的対立を乗り越えていくことです。

或は観念上の二元的対立さえをも滅していく、自ら忘れ去っていくということです。


然し其の二元的対立は、たとえば事故による脳の損傷や死により拭い去られることのない心理的な業の部分なのです。


だから其の心理的な業は脳が壊れてもまた死んだとしても決して消え去るというものではない。


次回生まれ変わる時に、同じレヴェルでの心の状態でまたどこか他の世界に生まれ変わるということです。


ちなみにわたくしなどはもうこんなに生臭い人間界は御免ですので次回は是非植物にでも生まれ変わらせて頂きたいものです。

ーだが食虫植物などには矢張り余り生まれ変わりたくはない。出来ればユリのようなま白き清き花になってみたい。否。矢張り蓮の花になりたい。泥の池の中からにょきっと出て真理を語ることだろうま白き清き蓮の花になりたい。ー





対してグノーシス主義に於ける反宇宙的二元論は、キリスト教の異端の説として十分に通用することだろう一種の凄みを持って居ります。

曰く、この宇宙こそは悪の宇宙である。

然し原初には善の宇宙があったのだと。



どだいキリスト教自体が現在の世界というものを悪魔の支配することだろう失楽園後の不完全な世界であるとそう考えていることでしょう。

だから此の世は一度是非滅びる必要があるのです。


救済の為の、新たに創出されし神の王国にて初めて信仰を確立せし民が救われるが為なのでしょう。




とすれば近代の大矛盾というものは元々キリスト教の教義の範囲内のことであるとも言えそうです。

元々キリスト教的世界観に於ける一種の解体過程こそが近代科学の出現に連なっていったのでしょうから其れもむべなるかなといったところです。



さて、問題は、そうした宗教の提示する二元的対立が近代に至って根本的に自己矛盾化して仕舞ったところにこそあります。

善と悪、或は仏と苦、仏と魔というように近代以前には定型化されて居た筈の二元的対立が質的に変わっていったかのようです。


面白いのは其処で精神と物質、自然と人間というように二元的対立により大きくそしてより具体性を与えられて現代の苦悩が形作られて来て居るといった部分です。



たとえば言うまでもなく現代人はひどく豊かにはなりましたがまるで精神の方をどこかに忘れ去って仕舞ったかの如くです。

また言うまでもなく近代以降自然は破壊し尽くされ、其れに反するかのように人間のみが繁栄を続けて来て居ます。


まるでかのギリシャ哲学の世界に遡るかの如く何か根本のところでの二元性の対立の質の変化の問題が生じて来ているのです。






謂わば二元的対立の遡行現象のようなものが其処に生じて来て居るのではなかろうか。


そして其の問題こそは文明にとって或は人類にとって謂わば最終段階での問題なのかもしれません。

要するに其れ等の問題こそが自らに突き付けられし最後の問題なのではなかろうか。


ですので謂わば其れはすでに宗教の範囲を超えて仕舞って居る問題なのです。

謂わば宗教などではもはや太刀打ち出来ないことだろう大問題が近代以降噴き出て来て仕舞って居るのだ。