目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

霊肉二元論につき考える


さて霊と物質の対立という根源的命題は遥かギリシア世界より人間に突き付けられて来しものである。

そしてかっての宗教や哲学ではこの物質の次元での追求乃至は放逸がむしろ戒められて来た経緯があった。


近代以降、特に現代にとって問題なのはそうした戒めが根こそぎ失われて仕舞ったところにこそ存して居る。

つまるところ、我々現代人は物質への瑕疵性、其れに依存する後ろめたさのようなものを悉く無くして仕舞ったのだと言えよう。

何故そうなるのかと言えば、其れは近代以降の主流の思想となりし合理主義的進歩史観、数的秩序の世界観が人間の思考を制限乃至は狭隘化したことにより其の形式が顕現したのである。


さてかのキリスト教に於いては、霊肉二元論としての世界観がまず展開される。

即ち人はパンのみにて生くるものに非ず、つまるところ人間は物質的に満足したとしても其れだけでは決して幸せにはなれない、本当の幸せを求めていく為には精神的な希求こそが大事である。

ということになろうかと思う。


この霊と肉の対立は、神と悪魔との対立とそのままに置き換えることが出来よう。

とすれば、此の世はまさに其の神と魔との対立の場そのものなのである。

また其れが二元的対立の極であると云うことにもなろう。


我々が生を受けて居るこの世界は実はそうした修羅場のことなのである。

然し哀しいかな、我々凡俗の者はそうした捉え方をすること自体が難しい。

何より拒否反応が起こって仕舞うからなのである。

自らに与えられし本能という自己矛盾性の上での。


逆に我々はまず第一に此の世が良い所であるとそう信じ込んで居たいのである。

然しながら、其れは明らかに盲信、迷信、誤謬の類であろう。


なんとなれば世界一流の宗教は皆そうは捉えて来て居ないからなのである。


例えば仏教に於いては此の世は厭うべきものとしてまず規定されて来て居る。

よって此の世が良い所であるなどという考えは其れ即ち邪教の考えである。



我々はそうした腐った場に生を受けて来て居るのであるから基本的に謙虚な存在でなければならない。

なのに近代はあえて其の邪教の部類に心を預けて来て仕舞った。

其れももう長くそうして来て仕舞ったのだ。



さて、この、キリスト教に於ける二元的対立の必然的帰結として禁欲主義というものが出て来ようことかと思われる。

其れで、この禁欲主義について批判する考え方が現代社会には充満して居るのだとも言える。

が、禁欲主義というのはひとまず意味のあることであると私の場合は個人的にそう捉えて来て居る。


現代のニヒリズム的帰結から諸の宗教上の価値が批判されることが多いのだが、では其のニヒリストたる現代人はそも禁欲に就いて、はたまたこの根源的な二元的対立に就いて考えてみたことがあるのだろうか。

私は謂わば逆ニヒリストで現代的な価値観こそがすべからくマイナスなものだと考えて居るので現代人の言いたいこと、言って居ることなどには聞く耳を持たないことにして居るのだ。


この禁欲ということは、かっての宗教にはむしろ普遍的に発生する重要な概念である。

其れを問わないようにしてむしろ意図的に消し去ったのは近代以降の思想の特徴であるに過ぎない。




霊肉二元論は善悪二元論としての側面も併せ持って居る。

つまり、其れは霊=善でありかつ肉=悪であるという構造に帰結する。

そしてこうした二元的対立がそも誤りであるという指摘は近代以降普遍化されたものであるようにも見受けられる。


然し本当にそうなのだろうか。

二元的対立は、無論のこと最終的には超克されなければならぬ問題である。

だが聖を希求すれば同時にまた魔をもが希求されよう。

善を希求すればまた同時に悪もが希求されるのである。


思考の天才を目指せば狂人にもなり得るのであるし、より完全に生きたいと欲すれば逆に病気にもなり得るのである。

ゆえに二元的対立は、事実である。

其れは真理ではないが、現実の様なのである。


事実釈尊も最初は苦行を行いこの二元的対立の超克を試みられたのであった。

然し禁欲主義のみでは真理は成らなかった。

成らないからこそ中道へと至られたのである。



即ち其の過程をこそ見よ。

ゆえに私は悪を厭い神を希求するキリスト者に於ける二元性を否定する者ではない。




さてもう少し現実的な話をすれば、我々に与えられし本能領域での愛、つまり性愛、肉親としての愛、郷土愛、国家への愛、などの全てが利己的で自己矛盾的な呪いをかけられたものであるに過ぎない。


謂わば其れ等こそが呪縛されし愛なのである。


其の呪縛されし愛に従い行動する全てのことが本質的には利己的なものとならざるを得ない。

本能的な愛とは左様に利己的であり、ゆえに其れは自己矛盾性そのもののことに他ならぬのだ。


其の自己矛盾性こそが存在の存続を破壊する魔そのものなのである。

つまり、良かれと思い愛することが逆に破壊を引き起こすのである。

其れが魔であり、だから魔とは愛でもあるのだ。ー低いレヴェルでの愛によるー


だから其れこそが恐いのである。

だから幽霊や妖怪が恐いのではなく、そうした自己矛盾性が仕込まれた存在である人間こそが最も怖くしかも邪悪なもの=魔そのものなのである。



1.良かれと思い子供を甘やかす→まさにとんでもない子にして仕舞う

2.良かれと思い本能的な愛を撒き散らす→世界を破滅の淵に陥れる

3.良かれと思い神仏を愛する→結果として宗教戦争は起こり得るが少なくとも1.や2.のようなことにはならない。


真の意味で愛するということは、むしろ厳しいこと、常識とは逆向きのことである。

其処であえて本能を抑え、性愛によりかからず、神仏への愛に目覚めること。

其れこそが真実の愛である。




尚今回はキリスト教のことを語って居るのであえて愛について語りしが仏教に於ける愛は本質的にはむしろ愛などではないことをしかと見定めておく必要があろう。


然しながら、キリスト教に於ける究極の愛が神への信仰を貫くことであり即ち其処に於いては愛が一元化され利己つまり矛盾性を離れるという点に於いて其れは最も純粋な愛を語りしものとなる。

対して仏教では己を滅し切り仏に対する愛さえも滅し切るところに於いてこそ自らが仏となるという究極の愛の一元化が成されるのである。

あらゆる愛を滅し去るところにこそ愛無き全き愛を得るのである。




対する近代の愛とは、まず性愛であり其れがつまりは獣性のことである。

そして近代に於ける愛とはすべからくが利己愛にきざすものである。

近代とは理性的な世界ではないとかって私は述べたのだったが、其れを精神レヴェルで言えばまさにそうしたこととなる。


近代とは野蛮世界のことでありこのまさに獣のような獣性に基づき構築されて来し利己性ばかりが肥大した何ものかである。



其の様に愛の加工法が異なるとは云えキリスト教に於いてまた仏教に於いて性愛の追求が否定されて来て居ることこそは重要な事実である。

尚、単純に我が子を愛する、妻を愛する、家族を愛する、ということも皆其の性愛に於ける範疇での愛であり利己愛そのものであることだから其処を勘違いしていてはいけない。


真理領域の思考は往往にして常識的思考とは異なる。

単純に我が子を愛する、妻を愛する、家族を愛するのではなくまず神仏に対する愛乃至は信仰を確立した上でそうした本能領域での愛をより小さくしていくべきなのである。



尚、かってイエスキリストはまさに厳しい規定でもって愛の世界につき諸に言及されて居る。

「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。」マタイ5章28、29節


これは、非常に厳しい教えである。

何故こんなに、これほどまでに厳しくする必要があるのだろうか。

ところが仏教、其れも原始仏典を読んで居ると全く同じ位に厳しい性愛観というものが出て来るのである。ー其の部分の引用はまた後日にー



兎に角非常に厳しい。

エッチに対して厳しい。

そしてこれは現代の風潮とは真逆の動きなのである。


皆様はここで是非何故そんなことになって居るのかということにつき考えてみる必要があろう。

エッチ大好きですべからく姦淫化した現代社会での風潮と違うもの、正反対のものをこそしかと見定めておく必要がまたあろうといふものだ。


私が思うには、矢張り生の負債性ということを鑑みた場合に、手放しに生命の誕生、生の盲目的構築ということを喜べない宗教としての前提的立場が存して居るように思うのである。

ところが普通は、産めよ、増やせよ、はむしろ良いことなのであり、それこそ男根や女陰というものはむしろ祀られて居たりもして目出度いものだという或は生命力の象徴であるという習俗や習慣、考え方なども広く世界には存して居る。




が、其れは一人前の宗教の役割ではない筈だと私は考えて居る。

一人前の宗教は、自己矛盾性に連なるものを徹底的に否定していくべきなのである。

本能領域に於ける利己愛の発現を最大限に抑圧していくべきなのである。


仏教とキリスト教は共に其の事を成し遂げて来て居る。


つまり、性欲という最も根源的で本能的な欲望の中にこそ最大の自己矛盾性としての利己愛の世界が封じ込まれて居るのである。

だから其の利己愛の世界を超克していかなければ必然的に世界は愛と愛との対立を齎し即ち其れこそが魔の齎す破壊につき動かされた世界へと転化して仕舞う。

そして最終的には愛の対立の世界が破壊されるに及ぶのである。




愛、其れこそが、この美しげな言葉こそが実は破滅への序章であり本質的破壊を齎す魔の別名でさえあったのだ。

一流の宗教の世界は、其の人間の本質的命題をこそ対象として展開されていくものである。

精神のレヴェルに於いて、其の利己愛のうちに潜んで居る魔による破壊と闘うのが宗教である。

特に愛に於ける最も低い次元である性愛とはどこまでも闘っていく必要があろう。


だからイエス仏陀も、決して本能的な人間の生産を認めて居る訳ではなかったのだ。

ちなみにあの熱心な法華経徒でありし宮澤 賢治は、生涯童貞を貫いたそうである。

其れどころか女に触れるということ自体ほとんど無かったのではなかろうか。


現代人はそうしたことをナンセンスだとしてむしろ笑うのかもしれない。

だが何か清いもの、清らかな心を保ち一般人とは異なるものの見方をする為にはそうしたことがむしろ是非必要である。

どこまでも女まみれでは絶対に宗教詩人なんかにはなれないのだ。



以上愛にも色々あるが本能的愛としての情欲の部分をイエスキリストや仏陀は非常に厳しく戒められて居たということにつき述べさせて頂いた。

人はパンのみにて生くるものに非ず、とあるように人間は精神の世界の清らかさを希求せずば真の意味で幸福にはなれないのである。

其の幸福は科学技術による物質的恩恵や合理思想による割り切り型の思考では決して得られない全的な幸福の部類のものなのである。




ちなみにこの清らか、という言葉ほど今死語になりつつあるものもない。

現代人からはこの精神の清らかさが全部消え去って仕舞った。


そして最近聖書を再読してみたわたくしはこの清らかという言葉乃至は概念が其処に於いて屡語られて居ることを知り愕然としたのである。

何故なら原始仏典にはまずこの清らかさということが何より語られて居るからなのだ。


勿論キリスト教の場合にはー神と連なる為にー霊的に清らかになることが望ましい訳であろうが仏教では霊でもない肉体だけでもない仮象としての自分自身が徹底的にこの世の諸要素を厭うことにより清らかとなるのである。

然し結果的には共に情欲をもって女を見ることが大罪だとのたまうのである。

おそらくはこのストイックさ、禁欲の様こそが精神の浄化の方へと繋がっていくのだろう。


だからエッチと精神はバラバラでは金輪際ないのだ。

矢張り真面目な人は放逸な性欲の成就を認めず其の反作用として精神の方向を磨いていくのである。

いや、真面目というよりも、聖と魔とを共に希求する者はそうした方向を向かざるを得ないのであろう。