目覚めよ!

文明批判と心の探求と

精神の保守と革新


私は究極の保守主義者なので同時にまた究極の革新派でもあり得る。

究極の革新とは出来れば此の世から永久に離脱したいー無論のこと仏教の教えに基づきーという旨であるが究極の保守とは逆に現在が永遠であっても構わないと考えて居る点にこそある。


さて一体どっちなのだということであるが、どちらにせよ我々不完全な人間はそうした揺らぎの範囲内で生きて居る他はないのであるから其の意味では随分保守的で何かつまらないものに規定されて仕舞っても居る。

然しながら人間というものはほとんどが其の何かつまらないものになり切って生きて居るものなのである。


人間どころか社会の方までもが結局は其のつまらない何かとして動いていくのである。

対して近代はつまらないものではない何ものかに従って生きようとして来た何かであった。


近代は人間を祀り上げ何か偉い者にしたのであり、其のことにより神的な領域への進化を自ら促すという試みでも其れはあった。

然しながら実際には一神教に於ける神は科学技術や数的思考の向こう側には居ない筈であり、其れこそ其の逆にかってのイエスのように断食をしたり内なる悪魔と闘ったりすることで成り立っていくものなのである。


つまり、この近代の狂騒の果てには本当は神など居ないのだ。

ドンドン科学の方を進めて、其れで神が出て来るかと云えば其処には金輪際神などおわして居ないのである。


基本的に神仏とはもっと純粋かつ謙虚なものである。

近代的な思考が見失ったのは其の神仏という絶対存在に対する謙虚さであり宇宙や存在に対する謙虚さである。



さて昨今の現実界の様子を窺うに、其処で一体何が保守なのやら、また何が革新なのやらサッパリ分からないといった面がほの見えて来る。

第一今自民党が行って居ることが果たして保守と呼べることなのであるかという段になれば其れはむしろ革新のことそのものであろうとの懸念が生じるのである。


保守政党であれば、究極的には民つまり国民を大事にした方がやがては国を富ますこととなりそれが国家安泰に繋がることともなろう筈だ。

然し新保守主義とのたまう新自由主義路線は圧倒的多数の庶民を苛め抜きどこまでもいたぶり続ける。

庶民はもうゴルフの練習に行く金も無いのだし結婚だって出来やしない。


格差は拡がる一方で権益にしがみつく奴らが私腹を肥やして居るだけである。


ただひたすらに此の世の地獄の様を耐え、其れでもって宗教にでも縁をして解脱することを夢見て居ること位しか我々には出来やしない。

まあ、其れでも良い。

其れが真の保守である。


究極の保守とは、国家や共同体や妻や子を守ることではなく自分自身を守ることである。

だから私はまず究極の保守主義者であると言ったのである。

即ち其処では所謂個人主義が保守性を獲得し保守政党の標榜する全体主義が革新性を獲得するのである。


新保守主義は、近代の宿痾としてのグローバリズムによる外圧から選ばざるを得なかったという革新の部分でもまたある。

然し国民を疲弊させる革新はやがては国を立ち行かなくして仕舞う。

だから現在自民党が行って居る政策程自己矛盾性に充ちたものはない。


それと、革新政党である筈の共産党にも大きな自己矛盾性が仕込まれて居る。

第一共産党は何故民主的な憲法を順守せよなどと謳って居るのだろうか。

やがては一党独裁でいくのが共産党の党是ではないのだろうか。



実際今の日本に於ける保守・革新は「現在の体制」に対して保守・革新なのではなく「戦前の体制」に対して保守・革新ということなので実に話がややこしくなる。

一体いつまで70年も前の大戦のことを基準にして色々考えたりして居るつもりなのだろうか。

私などはもうこの21世紀のことしか考えて居ないのでそんな大昔のことにはてんで興味が無い。


私が考えて居るのは、日本の保守派や革新派が共に抱え込んだ自己矛盾性のことだけである。

またあらゆる政策、あらゆる国家の行動に付随することだろう自己矛盾性のことだけなのである。

またひいては人間のあらゆる行動に本質的に含まれる自己矛盾性のことだけなのである。



勿論自民党は良い日本の国をつくろうとしてやって来て居る筈なのである。

共産党共産党で、良い形での理想の社会の実現を目指して頑張って来て居る。

なのに共に其れは成らないのである。




其れは何故かということだけを私は考える。

だから其れが自己矛盾的な存在である人間存在の問題そのものなのである。


そう言って仕舞えば身もふたもないように思われるかもしれぬのだが、そうではなく其のレヴェルで根本の解決をはからねば治らない問題なのであえて其れを取り上げるのである。

主に宗教のレヴェルに於いて其れを取り上げ、人間の精神を修復することにつき考えるのである。


人間の精神を修復することは、ひとり宗教家の役割ばかりなのではなく、我々のような文学や哲学の方面の方々、他の藝術家や学者などの役割でもまたあるのだ。




其の自己矛盾性はより小さくしていくことが可能な筈である。

宗教はまさに何千年にも亘り其の領域のみを対象として来た。

然し近代は其の試みを自ら閉じる方向へと舵を切ったのである。


其処に気付いた我々はもはや声高に叫ぶほかないのである。

かって叫ぶ詩人の会なんてのがあった筈だがまさにそんなものなのである。




大事なことは、確かに守ることである。

其れも国家や体制や天皇なんていう大層なものをものを守る訳では無く我々一人一人の分限を守って居る他はないのである。


だが守ることから、利己愛が生まれる。

利己愛から、自己矛盾性そのものが開闢する。


左様に守ることこそが無明の淵源である。

然し我々は其の愚かさの中に生きるほかないのである。


つまり、保守こそは無明である。

然し革新こそが革新であるとはまた限らない。


革新による保守性は事実共産党が示して居るばかりでのことだ。




何にでも自己矛盾性がある。

存在とはそうした呪われた存在である。

二元的対立が物と概念の隅々にまで入り込んで居る。


其れが精神を苦しめるのである。

精神を苦しめるものと対決したい。


四十年も前に私はそう思った。

精神を苦しめるものを緩和する方法には二つがある。


一つは自らの精神を守ることである。

一つは自らの精神を守らないことである。


宗教は主に後者の方法につき語って居る。

利己愛を離れた精神の在りかを其れは提示する。


そしてこのことを行うのは、ひとつ宗教の世界のみである。

政治の世界、科学や技術の世界、其の他諸の現実的諸関係のほとんどがこのエゴの超克とは無関係な領域に繋がれて居る。


また文學や藝術は其の精神を外側から見つめ描いて居る。

わたくしをも含む其の自己矛盾性を客観的に正直に描き続けて来たのだ。




守ることは、愛である。

愛することが、保守である。


けれど其の愛はとても昏い。

なぜなら愛は自己の確立を促す。


自分を守ることが、やがては対立と破壊とを齎す。

そのことがこのエゴに刻まれし矛盾そのものである。


愛こそが刀となり他を殺める。

ゆえに利己愛を離れなければならない。

こうして人は利己愛により存在し、利己愛により滅びる。


我々はそうしたつまらない存在である。

つまらないままにここにこうして居て、つまらぬままに保守であり革新であり得る。


こうしてあるがままの保守性とは我々の本義である。

然し保守の中には永遠はない。

永遠は革新の中にしかあり得ない。


守らないものこそが何か新たなものを生み出すのである。


精神の保守は逆に破壊を齎す。

精神の革新こそが根本の生まれ変わりを齎すことだろう。