ところで日本国の精神と米国の精神は元々全く違うもので同じになど出来る筈のないものだ。
米国はそもそも革新の國、其れもむしろ急進派としての革新の國なのだ。
何故なら英国に於ける急進的革新勢力が新天地としての米国へ渡り其処で新たに國を拓いたからだ。
ですが日本国は伝統のある国家で本来ならばそんな革新など御免被りたい國でもある筈だ。
だから共産化は元よりあらゆる改革が嫌ひな筈の國である。
其の癖意外と性事情に関しては過激と云うか解放されて居た。
何故なら日本人にとって性行為こそが神の領域のものそのものであったからだった。
さういうHな国民性もまさに困ったものだ。
おまけに大乗仏教はまさに性規定が緩いから近代的な意味での性の逸脱行為を止める手立てが何処にもない。
さういう意味での性的破壊が今後我が国に齎されるであらう可能性は高くあらう。
で、普通日本人にはイデオロギーつまり思想的な信条と云うものが無い。
どだい宗教観からしても曖昧模糊として居りこうです、とかああです、と云った断定的な観念的主張に寄って立つことをしないので其処はたしかに寛容と云えば寛容だ。
なので逆に日本人はイデオロギーを主にして生きて居る人のことを内心差別して居やう。
即ちバリバリの左の人や右の人達のことをもうまるで白い目で見て居やう。
だが、果たして其れで良かったのか。
どうしてかと云えば、今日本国が存して居るのは近代的な枠組みそのものだからなのだ。
だから近代と云うのは主体としての個の確立であり、其処で自分の考えをしかと持ち其れに基づいて行動する或は意見表明をする場としてのことなのだ。
なのでおそらく其処にこそ日本国が抱える固有の精神の問題が存していやう。
で、わたくしはかくの如きに意見がハッキリして居るが意外とそんなところには拘って居らずむしろ全体論としての文明としての諸の過剰性による破壊の部分にだけ興味がある。
革新と保守、此のイデオロギーとしての二大対立がどうあれ共に近代的な原理に刺し貫かれて居ることは事実であり、つまりは其処でどちらへ転んでも破壊を齎していくことには変わりがない。
だからそんなことよりももっと純粋に哲學上の問題で悩んで居たい。
つまりはショーペンハウアーの方へこそいきたい。
が、とりあえずは現実的な意味としてのリベラルの抱える問題のことをしつこく論じて居るのである。
「リベラルという病」の中で山口 真由氏も言及して居られるのだが大きな政府を目指すかそれとも小さな政府を目指すかと云うことは最も分かり易い保守と革新の区別の仕方である。
対してリベラルとしての民主党は基本的に政府が格差を是正することで平等な社会を実現するべきだとの謂わば個の維持の方に傾いた考え方だ。
ところが日本のリベラル政党としての民進党にはさうした一貫した流れがなくかつ矛盾した政策決定が成されて居ると云う。
即ち大きな政府を目指すかそれとも小さな政府を目指すかと云うことに関して政策上混乱して居るのである。
しかも自民党と云うもの自体がまさに良く分からないものである。
それこそ極右勢力から穏健なリベラル勢力までをも包括する幅広い考えの寄せ集めとしての政党だ。
事実自民党は労働環境などにつき近年リベラル的な政策を掲げしかも其れを実行して来ても居る。
だから日本国の民主政治にはそも一貫した主義主張の流れがない。
それでも保守としての自民党がリベラル政策を実行すれば結果としてリベラル政党は要らなくなる訳で或はそのうちに二大政党制自体が崩れるのやもしれない。
左様に日本国は元々イデオロギー的な核のない國である。
だから米国とは其の寄って立つ精神ー思想ーの基盤がまるで違う。
そればかりか英国でさえもが違う。
英国は近代の親玉でもあり多分もっとドライなのであらう。
然し日本国はあくまでウエットだ。
どちらかと云えばウエットにHだ。
だから派閥による冨の再配分としての政治を行って来て居り、しかも其の体制には官僚組織が強固に絡んでも居た。
なので結果的に常に平等な社会で居られた。
少なくとも米国のやうなとんでもない格差に悩むことなどなかった。
ところが其れをあへてぶち壊した奴が居り其れがかの変人小泉 純一郎である。
だから、米国の保守派==普通に革新派=自由主義者なのである。
反自由主義としての英国の保守とは其れは違う。
尤も、米国の革新派=急進的な革新派でもあるが。
いずれにせよ日本人の感覚による政治思想と西洋人の感覚による政治思想はまず根本的に異なる。
日本人の場合は元々イデオロギーなどどうでもよいのである。
ただし本来的に其れは反合理主義的な理念に寄って立つところでのものだ。
何故なら元々日本には神仏がおわしたからである。
神仏とは一神教の神でもなく合理主義でもないものである。
ところが其の神は八百万の神とはまるで違うものなのだ。
尤も米国と日本国に於ける保守と革新の差異で同じやうな部分もまたある。
まさに其れは理性を信じるか否かと云った部分である。
本質として言へば革新とは、理性にて人間の社会を変えていこうと云う考え方である。
対して保守とは理性など信ずることなく自然または神仏の智慧に寄りかかり社会を維持していこうとする考え方のことだ。
其処ではこざかしい人智などにより社会などまともに変えていけはしないとさう固く信じても居やう。
尚わたくしは理性の力を信じる。
信ずるが其れは神仏を或は自然の偉大さを再確認する為の知恵のことだと考える。
なので一見合理主義ではあってもまるで合理主義ではない。
むしろ知恵の足らないところを、其の理性的展開に真の知恵がないところを何よりも危惧し同時に其れを批判する者でもある。
矛盾する理性が齎すことだらう破壊に対して警句を発することだけが元よりわたくしにとっての真の仕事である。