元より変化は社会に不安定を齎し未来を切り拓くやうで居て逆に未来への可能性を閉ざすのだとも言えよう。
然し人間は常に未来への可能性を信じ文明を築いて来た。
其処で文明は生にとってのマイナスの要素を悉く滅し去って来た。
ゆえに文明とは生の合理化過程そのものだった。
生の合理化過程自体は無論のこと成功して来たのである。
事実我我の生はいまや豊かなものとなりつつある。
されど此の豊かさは必然としての犠牲を生み出す。
其の犠牲とは精神の崩壊である。
ニヒリズムに蝕まれたままでの我我の豊かさは真の豊かさではない。
真の豊かさとは無論のこと心の豊かさのことだ。
常に変化を求められ一刻たりとも油断出来ない社会、まさに気を許せない社会、何か大きなものに心を委ねられない社会は悪い社会としての典型だ。
そして大きな欲望、其の革新力による限定の解除の働きこそが我我の心のあり方を蝕んでいく。
そして其れは徐々に行われていく。
所謂精神の病とは異なり其れは心が悪魔のやうに変わっていくと云う事だ。
其のやうにならなければもはや生きられないと云うことである。
大方の革新勢力は此の原理がそもまるで分かって居ない。
近代と云う至上の価値に寄りかかり其れがさも正しいことのやうに思い込んで居る。
だが考えてみればすぐに分かる。
果たして過去に於いて我我は不幸せだったのだらうか。
無論決して不幸せではなく、貧しいながらも或は病に倒れながらも大元の精神に於いてむしろ幸せであった。
だが今は本質的には幸せとはほど遠い社会が現出して来て居る。
あくまで表面的には豊かでかつ幸せなやうに見える。
が、精神にとっての表層と本質は違う。
表面的な繁栄はむしろ滅亡を招くとさえ言い得る。
かって人文の知が指し示したこととはさうしたことだった。
表面的、現実的ー現世利益の上でーに世界を捉えれば捉える程に其の傾向に深く蝕まれて仕舞ふ。
合理主義の悪いところは、其の本質としての破壊を隠蔽し表層的に満足されるに足る現在を創り出して仕舞ふことだ。
本質ー深部ーとしての破壊は我我をして徐々に蝕んでいくだけに気付きにくい。
だから人間は自らが善なる存在であると自己認識した上で悪魔になっていくのである。
其の構図は今後も変わらず、おそらくは文明が破壊し尽くされる時まで変わりはしない。
そして人間とは反省の出来ない生き物である。
何せ欲望が大きいので元より反省など出来はしない生き物なのだ。
日本の戦後体制の問題点はさうした精神の危機を極大化する形で受け入れて仕舞ったことだ。
従って日本の戦後体制を築いて来しインテリ層の知的能力は極めて低いレヴェルに止まって居たとさう申す他はない。
元来米国は急進的なピューリタニズムとしての精神の土壌を有して居り、其処ではかのプロテスタント福音派に代表される宗教的なラジカリズムや市場原理主義、さらに建国の理念としての個人主義的な自由や平等の実現、さらには幸福追求の理念が強固に形成された国家である。
そして民主主義、自由、平等、豊かさ=幸福の追求こそが文明の目的でありあらゆる価値の最上位に位置するものとして捉えられて居る。
神がそのやうな価値を等しく与え其の恩寵に応へる為に国家があり民主主義、自由、平等、豊かさ=幸福の追求を全世界に拡げなくてはならない。
などとも。
が、其の米国流の世界革新思想が即世界中に通用するとは思われない。
事実、技術革新などしなくともまた経済発展などしなくとも幸福度の高いブータンのやうな国家さえある。
其れも東洋の宗教を主とすることで其のやうな幸せな國を形作って来て居る。
其処からして米国の此の急進的かつ独善的な思い上がりはまさに人類にとっての危険思想そのものだ。
ただし米国の全てが悪い訳でもない。
第一米国にはゴルフコースが完備されているゆえ其処だけはいい。
我等は英語を解さぬのにどれだけ米国の店や個人と萬年筆の売買をして来たことか。
が、ソコは気持ちで通じるのだ、あくまで気持ちで。
アイニードアペンとか何とか適当に言っておけばフランクな米国人は皆親切に対応して呉れる。
稀に取引上のトラブルなどあった場合にはオオアイムソーリーとか何とか言って置けば其れも何とか通じる。
ゆえにあえて英語は学ばなくて良い。
さうして気持ちをぶつけやう、其の一心をこそ。
無論のこと何せ同盟国なので大抵の場合米国人は日本人には親切である。
英国人はさほど親切ではない感じがするが伊太利亜人なども可成に日本人には親切である。
無論コレもかって同盟関係にあったことが大きく影響して居やう。
其のやうに今や日本人は世界中から良い人々だと思われて居て其処は悪くはないのであるがいかんせん日本社会に於ける諸の不文律、矛盾的展開の様が色濃く噴出しつつあるゆえとても心安らかでは居られないのである。
このやうに問題は日本の社会そのものにあることが次第に炙り出されて来た。
即ち戦後体制の理論的支柱としての自由民主主義、人権主義、乃至は平和主義が皆矛盾化して現代の日本社会に於ける未来無き様、どうにかしないといけないと云うのにどうにもならないと云う状況を現出せしめて来て居る。
其の矛盾領域として捉えられるもののひとつに日本人として守るべき文化、守るべき価値観の喪失がある。
即ち日本と云う國の大前提としての価値及び規範の喪失である。
尚是はまさに大問題である。
日本人にとっては、実は地球温暖化や資源確保の為の国際競争、或いは国家財政の破綻の危機、などの大問題などよりも遥かに大きな問題である。
尚此処でも先にニヒリスティックな我が国の現状につき述べたが、其のニヒリズムとは元来欧米の進歩史観から必然的に齎される破壊の過程でありかの神國日本にとっては本来ならば余り関わりの無い歴史過程だった筈だ。
しかしながら、日本国はすでに其の轍を踏んだのだ。
明治以降の近代化の帰結として其のニヒリズムを世界で最も顕著に経験しつつあることだらう。
と云う事は真の意味でのニヒリズムはかって我が国に於いて経験され得なかったのだ。
明治期に於ける近代との超克の闘い、そして大正期に於ける諸の文化的格闘、さらに昭和に於ける帝国主義の破綻と戦後に於ける米国主導の元での経済的な繁栄、これ等の歴史過程に於いて真の意味でのニヒリズムを経験したことなどかってなかった。
だが其れから150年もの時を経て今ようやく其の虚無の内容を身に沁みる形で体験せねばならなくなった。
なんとなれば生にとってのマイナスの要素を悉く捨て去ると云う文明の推進原理そのものが実は合理的思考に傾き過ぎた矛盾の大きい思考である。
生の合理化過程は我我にとっての現実を豊かに彩りはするが実は其の反面としての精神の闇の領域をより拡大させていくのだ。
左様に合理化はやるべき領域とやってはならない領域とが存する。
左翼系の思想には限らず限定の解除、其の合理化過程としての人間の生の拡大、巨大化を是とする思想は須らく誤りでありかつ倒錯の思想である。
今後ニヒリズムは我が国の精神的な秩序を深く蝕んでいくことだらう。
其の精神の破壊はたとへば国家が三等国であり貧乏国家であることよりもより苦しひことだ。
たとへ一等国であり豊かな国家であれ自分でちゃんと全てを行うことの出来ない国家こそは滅びる國である。
近代主義信奉者のバカ共は其の辺りのことにまでまるで考えが及ばない。
ゆえにインテリバカだと其の様をわたくしは貶して来て居るのだ。
近代主義信奉者はまた自然と合理的な価値こそが偉い価値だとさう思い込み易い。
が、偉い価値など実は此の世には存在して居ない。
謂わば其処で偉ひと思い込んで居るだけなのであり第一価値といふものは其れを信じた時点で矛盾化しまさに紙屑のやうなものに変わって仕舞ふ。
逆に言えば確かに保守に固執すること自体が其の紙屑を信じると云うことだ。
だが、戦後体制は誤って居たのだから其の逆を考えるしかない、むしろ逆を。
其処で何が誤って居たのかと云うと、かのニーチェのことをスッカリ忘れて居たと云う他はない。
左翼も右翼も皆其の重要なしかも最重要のキチ外學者が云ったことにまるで気付いては居なかった。
だからニーチェと云うのは右も左もとっくの昔に飛び越えて居る天才なのであーる、つまりは大天才のこと。
無論のこと天才とは理由があって狂気に至るのである。
東洋の國としての近代国家日本はニヒリズムにむしろ最も深く苛まれていくことだらう。
其の表面の粉飾は、あくまで合理的に構築されし粉飾はやがて表層の物真似を吹き飛ばし本質へと、即ち国家と国民のたましひへの刃として自刃を迫るに至る。
だからこそ日本国は今そのやうな抜き差しならぬ状況を突き付けられて居る。
事実全てが連動し集合的な無意識に溜め込まれていく。
ゆえにひとつひとつの逸脱行為を決して甘く見ていてはならない。
ちゃんと政治をしましょう。
ちゃんと免許を返納しやう。
ちゃんとニヒリズムのことを考えやう。
ちゃんとニーチェを供養しやう。
兎に角ちゃんと反省しろ。
戦後体制のみならずまず自分のことを反省しやう。
即ち私が悪いから日本が悪くなりました。
だからもう人間では居られない。
即刻動植物のいずれにか生まれ変わりたい。
其の位の反省力が無いと日本の戦後の反省など成ろうべくもない。