目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

戦後体制を反省するー参ー


現代の日本社会が直面しつつあるニヒリスティックな状況とは謂わば何処にも問題が存して居ないと云う問題のことである。


其れはそも何処にも問題が問題として成立して居ないと云うことである。


逆に戦前の日本のインテリ層は近代と云う時代を悩みに悩み抜いて来た。



然し豊かさの蔓延した今、其の虚の豊かさの蔓延した今に於いて、人々は悩みを悩みとして直視することなくただ瞬間の快楽の追求を、利己的な今だけの満足に組み入れられ其れのみを無限に追求する悪魔のやうな存在となりつつある。


そして彼等は言う。


其れも決まって同じやうに言うのだ。


曰く問題など何処にもないのだと。



むしろわたくしには其れだけが問題である。


人々は何故其のやうに悩みを放棄したのだろうか。



わたくしが日本人の精神のあり方を疑うのは其の一点に於いてのみだ。


かっては精神の所持者であり得た筈の日本人の心のあり方は何故かくも楽観主義に陥りつつあるのだらう。


楽観主義と云うよりも現実主義でありより現金な思考と云うことである。



元より其の現ナマ化は近代に於ける限定の解除の思想より必然的に生じるであらう合理化による帰結である。


しかしながら、今の日本人の思考はまた其れとも異なる特殊なものである。



謂わば思考の喪失であり悩みの喪失なのだ。


本来ならば人間とは悩むものである。


事実かのデヴィッドボウイにせよジョンレノンにせよ西洋人のミュージシャンの癖にトコトン悩んだのである。



ところが今や日本人は悩んで居ない。


まるで悩まなくても良い、悩むことがさも恰好悪いことのやうに思って居る始末だ。



此の日本人総おバカ化は一体何処から齎されしものなのだろう。


だから其れは日本人の観念領域の破壊が何処かで生じたと云うことなのであらう。


何処でどう壊れたものかは知らんが、兎に角いつの間にかそんな幼稚園児並の心にすり替わって仕舞ひもはや誰もが自分の得にならぬことには手を出さない、子供を叱らない、また年寄りを労わらない、兎にも角にも自分の範囲のことばかりを考えるやうな、実に実に醜いそして腹黒い心性の持ち主ばかりになっちまいました。


そして常に自分が偉い。



確かにわたくしも自分を偉く見せたい。


第一元々利口なのでより利口に見せたい。


いやほんたうは元々馬鹿なのであえて利口に見せたい。


でも限度は知って居る。


主体と客体の範囲に於ける利口と馬鹿の区別が実はつきやうのないことをよーく分かって居る。




で、悩みはある。


常に悩む。


馬鹿だから悩まざるを得ない。



確かに真理領域は其の悩みを否定する。


悩みなど何も齎すことはなく、そして過去に煩わされてはならないと其処ではそう説かれる。



然し、どうも違うのではないだろうか。


現代の日本人の悩みとは、ズバリもう何も悩まなくなったことそのものなのではないか。


そして過去の悩みすらをも思い出せなくなったことではないのか。




つまるところは、真理に於いて規定される生の悩みの放棄は現代の日本の風潮とはまるで重ならないものだ。


さういうことではなく、原始退行し幼稚園児並になって仕舞った日本人の精神性こそが救われないのである。




救われない精神とは、究極的に現ナマ化するのである。


即ち其処で据え膳はハイハイと食ひ、殴られたら殴り返し、其れも倍返しし、そんな風に兎に角Hそのもので金が欲しいばかりのことだ。




Hなことは元々女が好むことなのでいざそうなれば歯止めなど効く筈がない。


つまりは日本の社会は総H化、総エロ動画化されたのである。



だから国会議員だらうが僧侶だらうが教師だらうが皆其の犯罪的逸脱行為の信奉者だ。


尚信奉者と云うのは我慢がならない、歯止めがないと云った意味での事である。



H化=女性化=非観念化される社会だと云う事だ。


其は肉体化であり非精神化であり一種極度に現実化された社会だと云う事だ。


尚此の論理は、子宮思考による本能的論理である。




だから日本の社会には今厳密な意味での観念領域が存在して居ない。


抽象的な論理は須らく非現実の世界へと押しやられ其の子宮思考の齎す論理のみが表面上の社会の流れを形作るに至った。



ところが、西欧近代に於ける合理化の帰結としての合理思考が其の現実化と結託しもはや過去へは戻れない今を、其の子宮の奥の闇の今を、まさに其の善なる悪魔としての子宮の奥底の闇を開闢させて仕舞ふ。


なのでもはや本質的に日本国は暗い。


まさに真っ暗くらだ。




其処で提案だが、とりあえず女性活躍担当の大臣と云うのをもう止めて頂きたい。


そして是非女を規定していかう。


即ち18時以降に女は出歩くべからず。


そして御飯の炊き方及び味噌汁の作り方につき是非學ぶべし。


次に股を開くべきところで股を開く。



此の三点のみで充分だ。



此の三点が改革されれば必ずや日本国は其の子宮思考の暗闇から脱し少なくとも欧米諸国並みに悩むこと即ち観念化して物事を考えられるやうになれる。


だから其の闇をばまず放逐せよ。


其の闇の力がまさに今日本の社会を壊さうとして居る。





だから其の日本人総おバカ化はちょいちょいと女のあり方を変えるだけで治るのである。


ニヒリズムニヒリズムでも、其は女の現金化と近代主義が日本国に於いて強固に結びついて成った虚無なのでたとへば其れは御飯の炊き方及び味噌汁の作り方ひとつを學ぶだけでも充分に其の闇を晴らすことも出来やう。



然し股の締まりの良さ云々の件は可成に難しいと言わざるを得ない。


コレは多分究極としての日本が抱える問題であるのやもしれぬ。



股の締まりの良さを復活させることだけはもはや無理なのかもしれない。


尚股の締まりの良さ=悩みで、対して性の解放=悩み無き様、である。




日本社会の問題点とはどうも此の悩み無き今の蔓延にこそ存して居やう。


さうした意味での精神のニヒリズムに陥って居るのだ。


対して米国は全く異なるタイプのニヒリズムに陥って居る。



米国は元来宗教的な秩序基盤を持った國だが、急進的な近代的改革で其の秩序が崩壊する危機を経験した。


ゆえに今逆に宗教の復興がジワジワと行われつつあるやうだ。

宗教の復興=道徳的、倫理的規定の復活である。



然し日本国に於いては価値や規範の喪失を再構築する力に元来欠けて居る分其の虚無的な闇の力の蔓延を許し易いことだらう。


宗教的な意味での規範力の曖昧さが逆に現実化、つまりは現在化に拍車をかけ観念領域を放逐するー無価値化していくーのである。



またかってはあれだけの強靭さを誇った精神力が次第次第に希薄化して来て居る。


まさに其処からも生への+の意志ばかりになりまさに欲望への歯止めの無い状況を生み出すに至ったのだ。


其の状況を一言で述べると一億総おバカ化=一億総悪魔化と云うことである。



先にも述べたが、一般に女は生への疑いを抱かないものなのである。


其の生への疑いを齎すものこそが理性の力である。



女性化し現実化された日本社会は生への疑いを持ちやうがないと同時に其処で決して理性化出来ない。


理性化出来ないので何でもが幼稚化し全てに意思決定を行うことが出来ない。



其れでは理性的な判断をして居るやうでいて実は本能による闇の支配を受けた決定へと導かれて仕舞ふ。


さういうのは欧米社会が陥るニヒリズムとは本質的に異なるものだ。



まさに其処にこそ今後の日本社会の陥るニヒリズムとしての危険度の高さがある。


だからまずは御飯に味噌汁を確りと用意し、


それから良妻賢母の復活をば目指す。


さらに夜は出歩かないこと。




おそらくはスーパーコンピューターでも決して言わないことだらう此の三点こそが日本型のニヒリズムに深く蝕まれつつある日本社会を救う処方箋としての真面目な内容だ。



然しもう少しだけ真面目に言えば、むしろ観念化すること、男性化して役立たずを認めるー昔の男は全部が全部立派な日本男児ばかりではなく役立たずでもってロクでもないやうな男性もまた多く居たのであったーこと、其れから飲む、打つ、買うの価値の再認識により子宮思考と近代主義が結託したところでの生命至上主義及び現ナマ主義を改めたとへばやり逃げの価値をも再評価することが大事だ。


其のやり逃げこそが子宮思考のアンチテーゼであり、また役立たずの価値こそが近代的価値へのアンチテーゼでもある。



つまりは役立たずとしてのやり逃げだけをしておくべきだ。


さすれば日本社会を覆う虚無の闇から逃げおおせることさえもが可能だ。


言うまでもなく逃げるところはかの観念世界のみだ。



ちなみに今回の論は佐伯先生とはまるで関係ないものとなりました。


自分で言うのも何ですがこれだけ真面目そうにふざけたことを言って居るところはおそらく地球上でここだけだ。