目覚めよ!

文明批判と心の探求と

利己を離れた闘いとは?


現代社会の抱える自己矛盾領域は、丁度人間の欲望の限りがないことと同じ様に増殖を続けていく。



尤も人間の欲望に限りがないのは実は当たり前のことで、元々そうした低級な生命体であるからこそ其処を道徳的即ち宗教的に規定しておかなくてはならなかった訳である。



ところが近代の思想は其の限定を、人間が当然に弁えておかなくてはならない低級であることの自覚を取り払って仕舞った。


無論其の故に人間は近代的な社会を成立させ得其処で楽園を築き謳歌して来た。


何を?


自己本位な今を。



だからほんたうのほんたうは今此の瞬間瞬間に於いて人間は地獄の歩みを続けて居る。


地獄への歩みなのではない。


今此の瞬間こそが地獄そのものなのだ。



此の自己化の過程こそが近代に於ける典型的な特徴である。


つまるところ、近代以降人間は自己の内部をのみ生きて居るのだ。



と云う事は其処には神仏など存しては居ない。



神仏が居ないのであるから、自己の欲望に極めて正直で居られる。


神仏は死んだのではなく、人間が自ら自己以外の彼方へと追いやったのだ。



神仏が本当は居るのに、居ないことにした。


だから大欲望の実現を目的とする資本主義も、また性の解放も、はたまた諸の人権思想も其の聖なる領域による戒めを受けて居ない。


のみならず其の怠惰を治す為の共産主義思想も其の聖なる領域による戒めを受けて居ない。



其のやうに理想は即矛盾化するのが此の世の習いである。


矛盾化するから、結局は地獄になる。


今がたった今が須らく地獄化する。



其れも究極的には論理は矛盾し言葉は矛盾し現在が矛盾化する。


即ち人間は生きるに値しない何ものかであることからは免れ得ない。



だから本当は人間ではない方が良い。


と云っても無生物にはなかなかなれないものだろうからアメーバとか植物になった方がまだしも悟れるのではないだろうか。



いや、アメーバとか植物は結局進化して人間になろうとしているのやもしれず其の点ではまさに自己矛盾の根本因である。



では何になるべきかと思うが結局何ものにもなれないので人間らしく此の観念の牢獄に閉じ込められて居るほかはない。


尤も観念は分解なので其れ自体では悟れないし放棄することも出来ない。



つまり行動することが出来ない。


ところが行動するものには観念が無い。



此の二元性こそは、現象の世界の闇の秘密である。


二元化即ち分解されることこそが生の秘密そのもののことだ。



故に生とは不真面目でふしだらなものなのである。


どんなに聖人ぶって居て俺は一流大を出たぞとか言って居る奴等に限って頭も悪い。


しかもふしだらなことこの上ない。



此の大元での分解の危険性が分からぬのに分かった振りをして居るインテリ層の頭の中の危険度は最高レヴェルである。



ですから私と議論などしても誰も勝てる筈がない。


何故ならそもそも私は負けて居るからです。


即ち誰よりも頭が悪くしかも低級でしかも生きるに値しない人間と云うものに生まれついて居るのであるからこれはもう最悪の人間である。



そう云う最悪の似非詩人なので誰も此の精神の領域に寄ってこれやしない。


此処まで来て仕舞って居るので何処までも行け、しかも何処へも行けないのだ。





さて、そんな私が今問題として捉えて居るのが人間共の抱える利己主義のことだ。


近代とは利己主義の過分なる増殖であり科学とは其の利己的な領域の拡張装置である。



だから科学が生み出すものには利己的な癖がある。


尤も元来生命とは利己的なものである。


其の点では無機物などと比べるとより罪が深い。



ただし、其の盲目的な利己性即ち本能による利己主義の発現は全体性による規定を受けて居る。


全体として成り立たない利己的領域は其処で結果的に遮断される。



だから其処には法による規定、即ち言葉による規定以前での利己への限定が存して居る。


かっては其の力を神仏になぞらえてそう呼んで居た訳だ。



近代以降の法秩序による全体的規定は一見其の限定に似たものであるかのように感ぜられるが其れそのものではない。


のみならず利己的領域は其の法秩序に反しない限りむしろ無限に増殖していくのである。


たとへば人権の重視、平等の重視、利益の追求、などに於いて其の利己的領域は無制限に認められていく。



然し誰でも少し考えてみれば分かるが、果たして其の人権や平等や利益は此の地球上に無制限に認められ得るものなのであろうか。



そんな、アンタ、そんなまさに幼稚園児でも分かるやうなことが何故一流大を出た所謂利口な人々に分からないのだろう。



結局私は近代とはバカの巣窟だと思って居り其のばかを莫迦として正直に糾弾していこうとたった今決意した次第である。



利己的領域の増殖は、何より不毛を生み出していくことだろう。


其の不毛とは精神の不毛のことである。


元来精神とは、全体的なものである。


其れも全体主義と云う事ではなく、所謂全体論のことである。



其の全体性が欠けた利己的な追求は、元々地獄に堕ちて居るほかはない人間を余計に地獄の底へと堕とす。


つまりは二重に地獄へと堕とす。



さてそれでは二重に地獄へ堕ちると一体人間はどうなるのだ、一体全体どうなって仕舞うのだろうか。


即ち其処で、金融工学人間性を無視した利益の追求を行い其の結果経済が滅茶苦茶となり失業者が街に溢れホームレスばかりになりやがては其の半分位が自殺し残りは強盗、略奪、レイプの常習犯となり社会が崩壊する。


また、AI開発を推進するキチ○×科学者、経営者共はAIが利益を極大化して呉れることを常に期待しあー、兎に角儲けだ、豪邸だー、酒池肉林の豪勢さだー、お前等貧乏人みたく下等な生ではない、もう俺の生は神の領域にある、オレの性もまたもうやりたい放題だー、女などもう幾らでもどうにでもなる、上等な生活、スーパーアブノーマルな欲望の成就がいまし此処に出現せり!



このやうに狂った社会、近代全体主義を標榜する社会に於いて心の正常値を保つことはことさらに難しい。



さて、それでは、不純な異性交遊のなれの果てはどうなるのであろうか。


無論のこと、其の不純な異性交遊のなれの果てに人類は滅亡する。


ふしだらさの蔓延の果てに人類は皆性奴隷となり滅ぶのである。


しかも其れとは気付かないうちにそうなっていく。



即ち不倫位は何でもない、教師が淫行で逮捕される位はもはや何でもない、旅行で韓国や台湾、乃至は東南アジアへ行きつひ悪いことして来るのは仕方がない、盗撮する位は是非大目にみて呉れたまへ、あのねーちゃんがどうにも気になるが100メートル位は後を付けて歩いてみたい。


そのやうな小さな姦淫の積み重ねがやがて大きな破戒のうねりとなり社会の性道徳を麻痺させ教師や僧侶や牧師の頭の中でさえも狂わせて仕舞う。




つまりは大欲望と小欲望は共にタチが悪い。



第一君等インテリは皆自分が正しいとそう思い込んで居ることじゃろう。


然し君の其の考えこそが間違って居る。


たとへば、



私は高等なリベラル思想の持ち主で平等主義者でありかつ平和主義者である。



アホたれ、自由とか、平等とか、平和とか、そんな空虚な言葉を金輪際口にするんじゃない。


自由とか、平等とか、平和とか云ってれば其れで自分は利口と認められしかも世界は安泰で万事が上手く行くとほんたうにそう思って居るのか此の似非インテリ等めが。



ほんたうのインテリと云うものはだな、兎に角闘うのだ。


謂わば自由の齎す虚と闘う。


平等の齎す虚と闘う。


そして平和の齎す虚と闘うのだ。




即ち近代的な欲望の追求であり成就であるものは全体性を欠く破壊的な欲望の追求なのである。


此の近代の本質である破壊につきしかと気付くのだ。


まさに其れこそが生きた思考であり批判なのである。







尚辺見 庸氏は私の尊敬する闘う作家の一人である。



「大震災で大きな被害を受けた石巻市出身(両親も)ではあるが、あふれた「耳障りのいいことばだけがもてはやされ、不謹慎と非難されそうな言葉は排除される」言説に強い違和感を覚え、口を閉ざした。それを破ったのは「語ってはいけないものを語ること」を意識した「フィズィマリウラ」の詩(『眼の海』所収)だった。彼は次のように言う「悲劇にあって人を救うのはうわべの優しさではない。悲劇の本質にみあう、深みを持つ言葉だけだ。それを今も探している」と[3]。」以上より引用


全く同感である。


「語ってはいけないものを語ること」でしか現代を語ることは出来ないことだろう。


現代にはうわべだけの優しさや共感が蔓延して居るが、そうした言葉を語る心の本質は利己的でありかつ欲望にまみれたものなのである。


現代には悲劇が屡繰り返されて居るが其の悲劇を引き起こして居るものは自然ではなく人間の心である。


其の利己的な心を諌める言葉を我も探し続けて来たのだと思う。



本当のもの程心地良くは感ぜられないものだ。


優しいなにかとは常に欺瞞や偽善に充ちているものだ。



人間の多くは自らを安全なところへ避難させてから初めて言動をなし得る。


然しそのやうな言葉や行動は所詮利己主義の範疇を出ないものだ。



こんな風に厳しさのある言葉に出遭いたい、利己的な領域を離れた言葉に常に自らを重ね合わせて居たいものだ。