目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

トマス・モアの「ユートピア」思想


Wikipedia-トマス・モア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%82%A2

このトマス・モアという人のことですがかっては官僚の最高位である大法官まで出世しておきながら宗教上の立場から国法に反対し結局はあのロンドン塔に幽閉された後に斬首刑に処せられて居ります。



Wikipedia-ユートピア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%94%E3%82%A2_(%E6%9C%AC)

トマス・モアはこの「ユートピア」という有名な著作の作者でもあります。

尚この著作は現実世界への批判、風刺の書であると共に観念上の理想世界を描いたものでもある訳です。

其の内容を吟味してみると確かにこれは理想的な人間の社会について書かれたものです。


逆に言えば人間は馬鹿ばかりではないのですから歴史上理想世界について言及された思索や思想というものは幾つもあったことだったのでしょう。

たとえば老子に出て来る小国寡民制なども其のひとつの理想世界だったことでしょう。

でも其れが実現し得ないということなのです。

考え得るのではあるが、あくまで実現することは無いのであります。



其処では謂わば観念と現実との違い、其処に含まれし自己矛盾性のレヴェルの違い、自己矛盾性の次元の異なりということがあろうかと思われます。

つまりあくまで観念のレヴェルでは理想は成り立つのです。

然し現実と云うのは真理領域が掻き乱され落とし込まれて創られて居る牢獄、乃至は地獄のようなものですので其処に純粋に理想が顕現することはない。


現実とはこのように一種腐った所ですので其処に喜んで生きて居る人間は皆腐って居てどうしようもない奴等ばかりということになります。

其れでは困るのでかって釈迦はこの牢獄の世界から解脱することを勧められました。

対してイエス・キリストは神への信仰の確立により救いの世界へと旅立つことを義務付けられた。


要するにこのままでは此の世はすべからく腐って居るんです。

其れが智慧ある認識から導かれるところでの真の認識なのです。

対して此の世を良いものであるかのように考えて来た近代以降の人類の認識こそが完全なる誤謬の筈です。


これまでにも何度も私は語りましたが、人間の精神活動とはむしろマイナスから出発すべきものなのです。

二元的対立が課せられし自己矛盾世界を乗り越え安定化して文明を存続させるにはそうでなければならないのです。


其れで、腐って居るからこそ、其の一方には理想も生まれる訳です。

無論真の意味での理想とは謂わば理想では無い理想のことで普通につまりごく当たり前に理想であることなのですが、現象世界では其れは無理ですので理想もまた二元的に分かれて仕舞うこととなります。


其れでは其のひとつの理想につき具に見て参りましょう。



「島は当初、半島だったが、コミュニティの創設者ユートパス王により15マイル幅の水路が掘られ、本土から切り離されることになった。島には54の町があり、それぞれに約6,000戸が住んでいる。首都アーモロートは、三日月形の島のちょうど中央に位置している。各家庭は30戸ごとにグループ化され、「 Syphograntus 」( Styward )によって管理される。Styward は10グループごとに、「 Traniborus 」( Bencheater )の監督下に置かれる。それぞれの町の町長は、Bencheater の中から選ばれる。各家庭には10~16人の大人が生活し、家庭や町の人口が均等になるよう配置しなおして人数調整する。島の人口が過剰になったときには、本土に植民地が用意される。また、こういったユートピアの植民地にいったん入植した本土在住者も、希望すればコロニーを出ることができる。 人口不足になった場合は、コロニー入植者は呼び戻される。
ユートピアでは個人資産の所有は認められておらず、人々が必要とする品々は倉庫に保管される。家々のドアにも鍵は設置されておらず、住む家も10年ごとの輪番で決まる。島で最も重要な仕事は、農業である。男女共に農業を学び、2年間田園地帯に住んで農耕に従事する義務がある。これに並行して、全ての市民は、織物業(女性中心)、木工業、鍛冶、石工など他の重要な商業を少なくとも1つ、学ぶ義務がある。これらの商業は意識的に簡素化されている。例えば、同じデザインのシンプルな服を全 ての人々が着用し、凝った服を作る業者は存在しない。健康な市民には勤労の義務があるため、失業は根絶され、労働時間は最短となっている。 人々が働かなければならないのは一日につき6時間だけだが、多くはそれ以上働くことも厭わない。モアは、自身の考えたユートピア社会の中で、 行政当局や聖職者には学者を採用し、人々の初期教育に当たらせている。他の市民も全員、余暇の時間に学習に勤しむことが奨励されている。
奴隷ユートピアでの生活に必須であり、全ての家庭に2人ずつ配置されているという。奴隷は、他国出身のこともあれば、ユートピア出身の元犯罪者のこともある。元犯罪者は、金製の鎖に繋がれている。金はこの国の国有財産の1つで、犯人を拘束したり、寝室用便器のような上品でないものに使ったりするなど、市民は金を嫌悪し、質素な価値観が損なわれないようにしている。財産にはほとんど重要性がなく、諸外国から必需品を購入したり、互いに戦う国家を買収するために役立てるだけである。行いがよい奴隷は、定期的に解放される。
ユートピアの革新性には、他にも重要なものがある。医療費の無料化などの福祉制度、国家も認める安楽死、既婚の聖職者、離婚の他、婚前性交渉に対する罰則は生涯の独身生活、姦通の場合は身分を奴隷に落とされた。食事は地域の食堂でとり、配膳の仕事は輪番で家ごとに回された。全員が同じメニューを食べるが、ラファエルの説明では、老人と行政官によい食べ物が回されるという。島内を旅行するには許可証だけでよいが、許可証なしが発覚すると、1度目は猶予されても2度目には奴隷に落とされるという。加えて、弁護士は存在せず、法はあえてシンプルに制定されているために全員に理解されており、善悪の判断に迷う必然性がない。
島には、太陽崇拝、月崇拝、惑星崇拝、祖霊信仰唯一神教など複数の宗教が布教されているが、それぞれは他の宗教に寛容である。無神論は許されてはいるが、国家に対する脅威と見なされ、彼らだけは軽蔑されている。なぜなら死後の天国も地獄も全く信じていない 者には、ユートピア共産主義的人生を共有しようとする理由もなく、自身の利益のためには法をも破るからである。無神論者は、追放はされないまでも、自分たちの誤った信条について聖職者と討論し、間違いに気付くようにすることが奨励される。ラファエルによれば、自分が伝えたことによって、キリスト教ユートピアに浸透し始めていたという。ユートピアの宗教は他宗教の信仰にも寛容で、1度の祈祷式でユートピア住民の全てが出席する。
……しかし仮に、彼らが間違っていたり、政府がもっとしっかりしていて、もっと神の意に適う宗教があれば、彼らは主の御心について知りたいと思うだろう。
恐らく、今日的な感覚でいえば、女性には社会的平等が与えられていない。妻は夫に服従し、家庭の仕事に従事するよう制限されている。わずかな数の未亡人のみが聖職者になっている。全員に徴兵義務がある一方、女性はまだ男性より下位に置かれており、月に一度、夫に自分の罪を懺悔する。しかしユートピアで女性に振り分けられる役割は、現代の見地からみて、よりリベラルだといえるかもしれない。ユートピアでは、ギャンブル、狩猟、化粧、占星術は全て禁止されている。」



なる程、この理想社会も矢張りと言うべきか、共同体が連なる小さな世界のことのようです。

もっとも此処はユートピア島という島なのですからそうした小さな世界のことで世界全体のことを云って居る訳ではないのですが。
尚希望すれば其のコロニーからの出入りなども可能なようですから其処は私が考えた理想社会とも全く同じです。


個人資産の所有が認められて居ないそうですので一種の共産制社会ですね。

おまけに農業重視とのことですので其処ではまさに素朴で簡略化された人間の暮らしが実現されるだろう。
また失業が無く労働時間が最短とのことですからなるほどこりゃ楽だ。


ところが奴隷は居るとのこと。

人権や平等概念が完備されて居る世界ではない訳ですがかえって其れゆえに現実味があります。
其れから女性は家事に従事し夫に服従せよとのことで全く良いことを言って居ります。


福祉制度が充実し老人は大事にされ法律はシンプルに制定されてと限定的な世界の中で諸要素が実に上手く配置されて居ます。

宗教は複数が認められそれぞれが他の宗教に対して寛容とのこと。
キリスト教が侵略を開始し始めて居る感じが無きにしもあらずですが其処は不問に付すとしてとりあえずは悪くはない精神世界の様です。
そして悪い遊びも禁止で不道徳な行いも厳しく処罰されるとのこと。


だからこれはもう確かにひとつの理想世界の体現です。


このように人間は観念上理想の世界を描き出すことには成功して来て居ります。

なのに何故こうはなっていかないのだろうか。


結局は其処が問題です。

問題とは其の矛盾性にこそあります。

元々生命とは其の自己矛盾性を孕んだもののことを云いますが、自己矛盾性が増大する方向へ舵を切った存在こそが人類なのだと考えられます。
其の矛盾性は小さい方がより好ましい訳ですが実際には究極の自己矛盾化過程である人間存在は逆に大なる矛盾化の方向へと其の歩みを進めつつあります。


考えの方では理想世界を描き出しておきながらー其れも何千年、何百年も前にですーむしろ其れとは逆の方向へ好んで歩んでいくことだろう人類。

こりゃもうアホの典型である訳ですが特に近代以降は大の問題ー真理や理想に関する命題ーに関して不感症になった人類には自らの行動が全く見えて居りません。



Wikipedia-自然法
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95

ところでこのトマス・モアの「ユートピア」思想は自然法と自然状態が善である証明として書かれたのだそうです。

  1. 普遍性:自然法は時代と場所に関係なく妥当する。
  2. 不変性:自然法は人為によって変更されえない。
  3. 合理性:自然法は理性的存在者が自己の理性を用いることによって認識されえる。
Wikipedia-自然法より引用


自然法」とは、事物の自然本性から導き出される法の総称である、などとも書かれて居ります。

ですがこれはなかなか難しいところを含んだ考え方です。
自然法法源としての神や理性などという言葉も出て参りますがこの辺りも西洋の考えと東洋の考えではまた違うようにも思われて来るのです。

西洋思想は兎に角まず一神教の神や其の神から人間に授けられたところでの理性というものの働きが重要視されて居ります。
でも東洋ではたとえば神など居ないにしても確かに仏は居るんです。


理性による分析力が無くとも自然の怖さを知り自然に対する畏れというものはあるんです。


其の普遍性と不変性と合理性というのは自然自体の属性ではないのではないか。

自然というもの自体が、非現象的完全ー完全なる一元化ーからの零落であろう筈です。
よって現象世界には元々普遍性も不変性も合理性も無いのであります。


其のようには分けられないということなのです。

混然一体となってー謂わば腐ってー存在して居るのがこの現象世界の真の有様なのです。
よって此の世には普遍化すべき何ものも無く不変であるべき何ものも無く理性的であるべきどんな根拠も無い。

要するに普遍化や不変は逆に理性により実現されるものではないのです。
また此の世をあえて普遍化し不変とする必要も無いということなのです。

現代文明は近代の思想によりこの普遍化や不変ということを理性に基づき成し遂げようとして来ましたが其の試みは現在ほぼ行き詰まって来て居ます。
其の様や普遍化し理性化することで逆に不安定化して仕舞ったというところなのでしょう。


だから逆に世界を特殊化し非合理性の領域をある程度認めていく必要があるのです。

トマス・モアはこの「ユートピア」に於いて理想的な世界を描きましたが実はこれも多分に西欧文明の必然的進化過程を描き出したものです。


私は普遍化し得ない特殊性のある社会の連なり、栄枯盛衰があり不変ではない歴史過程の方がより自然なものであるように思えてなりません。

そして何より理性だけでは成仏することが出来ないのです。


釈尊は大変に頭脳明晰な方だったことでしょうが、理性の限界のような部分にはもう初めから気付かれて居たのではなかったか。