目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

危機としての文明の抽象化

重要なことは極右の立場にせよまた極左の立場にせよタダ「日本の社会」を良くしたひと云ふ一心にて其の全ての行動は規定されて居りしことなのだった。

また、新自由主義新自由主義でまた、世界をより豊かにする為に自由主義経済を徹底して活性化し新たな富を生み出し其れを人類の発展の為に役立てやうとして居るのである。

 

が、其れは全て「現状のままではイケナヒ」とする立場の現れのことだ。

 

では、「現状のままではイケナヒ」のであらうか。

 

確かにわたくしもまた「現状のままではイケナヒ」と思ふのではあるが、尤も其れは人類が滅亡しなひ為にはイケナヒのであり、滅亡しても良ひのであればむしろ「此のままでも良ひ」のである。

 

 

むしろ最近は後者の方に意見が傾いて来て居り、其ればかりか地下鉄の中での様々な大衆的おバカさ加減にようやく気付くなどして、一言で言へばより一層人間に対する不信感のやうなものが増して来て居り別にどうなって頂ひても構わぬ、「此のままでも良ひ」のだしどのままでももはや宜しひ。

 

かように現状のままでは所詮人類全体のおバカさなど決して治りはしなひ。

 

問題は良くしたひ一心で行われた歴史的な営為が何故矛盾に陥るのかと云った部分である。

 

其れは生の基本構造が其のやうに矛盾的推進であるからであらう。

 

即ち現在が矛盾だからこそさうして動ひて行くのだ。

 

 

つまり、動くもの=変化とは矛盾なのだ。

矛盾つまり二律背反の世界なのだ。

 

其の矛盾的推進は我我にとり有益か否か。

或は矛盾的推進の永続は可能なるや否や。

 

其の矛盾自体が實は二元的価値基準により捉へられぬ。

 

其処では現象自体がそも矛盾なのだ。

 

 

矛盾だからオカシヒ訳で、オカシヒからマルクスだの毛 沢東だのが其の矛盾律ー搾取の状況ーを何とか消さうとして本を書き其れをインテリ共がしこたま読み実際に左翼闘争での事件など起こすのである。

 

また矛盾だからオカシヒ訳で、オカシヒから三島先生が森田某と共に決起し武士のタマシヒと共にあの世へと旅立っていかれたのだった。

 

なので、オカシヒのはオカシヒ訳で、でもオカシヒのにまともに立ち向かふと余計にオカシクなるが故に大衆はかうした闘争を放棄し女と酒と物欲とに生きやうと思った。

 

 

でも要するに其れでは本能を生きて居るタダの動物に近ひ。

 

だから動物はイヤだと云ふ奴は其処でもって理性を働かせお勉強などするが其の理性自体が實はパラドックスでもってして其の堂々巡りでの理性の檻の中にやがては閉じ込められて仕舞ふ。

 

 

其の矛盾を矛盾として捉へて居るものとは理性の働きである故理性其のものを放棄ー仏教の立場ーまたは丸投げーキリスト教の立場ーすれば救われると云ふのが宗教での基本原理だ。

 

オカシヒだらう、だから変へやう。

 

ところが其の変化の原動力こそが其のオカシサにこそあった。

と云った究極としての大矛盾に人間其のものが呑み込まれていく。

 

 

と云ふことはだ、まずオカシクは無ひものは変へやうも無ひ。

 

即ち矛盾無き抽象的理念は其処に永続して御座る。

 

事実神でも佛でもまた理想の社会にせよ其れは概念として永続して御座る。

 

何故なら其れはあくまで抽象的理想其のものであるから。

 

 

だが神仏は具象的世界=凡夫の世界を具体的に救ふことさへもが可能だ。

 

ところが理想の社会は具象化することが出来ぬ。

 

または理想の社会もまた矛盾化する他は無ひ。

 

 

何故なら社会のまた人間の原動力こそが其の矛盾なのだから。

 

神仏は元々人間を超越して居るので其処では矛盾が矛盾とはならず謂わば矛盾を受け容れることで追放して居るが社会の方はさうはいかぬ。

 

自然は自然で欲望にバランスが取られて居る故其処ではそも大きな矛盾を生じさせることが無ひ。

 

要するに近現代に於ける社会の流れ=歴史過程とは其の矛盾を極大化する流れの内にこそある。

 

 

其の矛盾としての理想の社会の建設は人間にとっての最終目標であることだらう。

 

だから、其処を連合赤軍は社会の共産主義化として捉へて居たのであるし三島先生は天皇制に基づく戦後世界の再編成にこそ求めて居られたのだった。

 

だから其の理想は分かる。

 

アナタ方のー極左と極右ーの其の情熱だけは分かる。

 

分かるのだが、實は問題は其の社会的改革にあるのでは無ひ。

 

 

むしろ宗教的闘争により決着されるべきものではなかったか。

 

すると案の定地下鉄サリン事件が起きた。

尚🚇は密閉性が高ひので空気が悪くわたくしは兎に角大嫌ひだ。

 

無論のことマスクにはウエットティッシュを幾重にも巻ひたものを仕込み勿論吊革などは金輪際触らぬ。

 

わたくしは地下鉄をバイキンの巣窟だと思って居るのでさうして防御しておかぬとすぐにバイキンにやられてカラダの弱ひわたくしなどはすぐに死んじゃうのだ。

 

さらに其の後も現代の十字軍遠征が勃発し、其の骨肉の争ひ、即ちキリスト教圏とイスラム教圏との間での破壊闘争がおお、まさに止めども無く続ひておるではなひか!

 

なる程、すると此の一連の政治的闘争及び宗教戦争は矢張り起こるべくして起こりまたなるべくしてなった矛盾的展開だったのだ。

 

 

其処で問題は、現代にとっての矛盾とは果たして何であるのかと云ふことだ。

 

抽象的理想であるにせよ神仏が矛盾しなひのであれば、後はもう人間の矛盾に向き合ふのみ、其れも抽象的理想としての社会化が齎す矛盾に向き合ふ他無し。

 

 

では、まずはカントは何を言っていたのか。

 

「カントは人類の歴史を、人間が己の自然的素質を実現するプロセスとして捉える。人間にとっての自然的素質とは、本能ではなく理性によって幸福や完璧さを目指すことである。」歴史哲學より

 

なのであり、要するに人間とは神でも無ひ自然其のものでも無ひ抽象的資質をどこまでも追求し要するに理性の力でもって幸福だの完璧だのを目指す歴史過程其のものなのだ。

 

其れでもって理性の限界、限度が分からなければ理性の適用範囲もまた分からぬので批判哲學の体系を生むことで逆にカントは理性其のものを規定するに及ぶ。

 

 

「カントは宗教を、道徳の基礎の上に成り立つべきものであるとしている。神は、幸福と徳の一致である「最高善」を可能にするために要請される。この思想は理性宗教の立場であるが、啓示宗教を排除しようというものではない。」イマヌエル・カント#宗教哲学より

 

元より宗教は道徳的価値基盤の上に成り立つものであり人間の精神を大の領域で規定するものなので宗教が要らぬ=神の否定または佛の否定と云った立場は要するに人間には道徳が要らなひと言って居るのと同じことなのだ。

 

が、そんな人々もまたじぶんの子が悪の道へと導かれ中学生だと云ふのに隠れてシンナーを吸ったり大麻を吸ったり援助交際をしたりと云ふ有様などにはとても我慢がならぬ筈。

 

第一そんな腐った精神など道徳の御勉強の時間位では治りゃあせぬ。

 

だから其処に厳しひ教師の鞭こそが、乃至はイエス様の罪への赦しが、さうして菩薩または佛の慈悲とが是非にでも必要なのだ。

 

 

かように抽象的理想としての社会化は矛盾化し逆に負の側面を生み出していく。

 

また其れは宗教的次元にても引き起こされて仕舞ふものだ。

 

では一体何が悪ひのかと云ふとわたくしの意見としてはまさに其の抽象化=人間の精神の癖が悪ひのだ。

 

 

其れも抽象的な欲望の追求が一番悪ひ。

 

つまり左翼活動も右翼活動も宗教的対立も不良化もぜんぶが同じ穴の狢だ。

 

いや同じ穴のまるでサルだ。

 

一見人間らしくは見へやうがまるで人間では無ひ。

 

 

人間と云ふものはだな、もう少し理性に寄り添ひ生きるものだ。

 

アノ女帝教師なども無論のこと人間では無ひ。

 

さらに地下鉄でもってマスク無しでデカい咳をしたりスマフォばかり視て居る奴、奴等もまともな人間では無ひ。

 

 

ちなみに以下の如くにカントもまたひでえことを言って居ります。

 

 

「カントはヴォルテールなどと同様に反ユダヤ主義の思想を持っていたことでも知られている[18][19]。カントは『たんなる理性の限界内の宗教について』において、「ユダヤ教は全人類をその共同体から締め出し、自分たちだけがイェホヴァ−に選ばれた民だとして、他のすべての民を敵視したし、その見返りに他のいかなる民からも敵視されたのである」と、ユダヤ教選民思想について批判している[20]

また晩年の「実用的見地における人間学」においては、ユダヤ人は「追放以来身につけた高利貸し精神のせいで、彼らのほとんど大部分がそうなのだが、欺瞞的だという、根拠がなくもない世評を被ってきた」として、ユダヤ人は保護を受けている国に対してその国の国民を欺いたり、また自分たち同士をさえ欺いて利益を得ていると非難している[21][22]。」イマヌエル・カントより

 

 「アフリカの黒人は、本性上、子供っぽさを超えるいかなる感情も持っていない。ヒューム氏は、どの人に対しても、黒人が才能を示したただ一つの実例でも述べてほしいと求め、彼らの土地からよそへ連れて行かれた十万の黒人の中で、そのうちの非常に多くのものがまた自由になったにもかかわらず、学芸や、その他なんらかの称賛すべき性質のどれかにおいて、偉大なことを示したただの一人もかつて見られたことはないが、白人の間には、最下層の民衆から高く昇り、優れた才能によって声望を獲得する人々が絶えず見られると主張している。それほどこの二つの人種の間の差異は本質的で、心の能力に関しても肌色の差異と同じほど大きいように思われる。 」— イマヌエル・カント『美と崇高との感情性に関する観察』第4章

 

「ひとえにヨーロッパ人だけが強力な傾向性の感性的な魅力を多くの花で飾り、多くの道徳的なものと編み合わせ、この魅力の快適さを高めるばかりでなく、大いに品の良いものとする秘訣を見出したことが分かる。東洋の住民はこの点では非常に誤った趣味を持っている。 」— イマヌエル・カント『美と崇高との感情性に関する観察』第4章

 

 「ラバ師の報告によれば、黒人の大工に、彼の妻女たちに対する高慢な仕打ちを非難したとき、彼は次のように答えた。「あなたたち、白人はほんとに馬鹿だ。というのは、最初あなたたちは女たちに多くのことを許容し、その後、彼女たちがあなたたちの頭を狂乱させたときに不平をいうのだから。」これには、おそらく考慮するに値するものがあるかのようであるが、要するにこいつは頭の先から足の先まで黒かったのであり、それは彼の言ったことが愚かであった明らかな証明となる。」 — イマヌエル・カント『美と崇高との感情性に関する観察』第4章

 

「暑い国々の人間はあらゆる点で成熟が早めではあるが、温帯の人間のような完全性にまで到達することはない。人類がその最大の完全性に到達するのは白色人種によってなのである。すでに黄色のインド人であっても、才能はもっと劣っている。ニグロははるかに低くて、最も低いのはアメリカ原住民の一部である。 」— イマヌエル・カント『自然地理学』第2部第1編第4節 「その他の生得的な特性に即した地球全体の人間に関する考察」

 

 

但しカントには理想主義的なコスモポリタニズムへの希求と云ふ希望が確かにあった。

後にヴェルサイユ体制としての国際連盟と戦後国際体制としての国際連合を成立させる根拠となったものが此のカントのコスモポリタニズムなのである。

 

要するにカントは東洋の思想を甘く見て居たやうだ。

東洋の思想を正しく理解し持ち上げたのはショーペンハウアーによるものだ。

 

確かに東洋にも中華思想の如き覇権主義も無ひでは無ひのだが、老荘思想の如き限定的で猶且つ自由な思想はむしろ西欧近代の抱へる自己矛盾に対し常に問ひを投げかけて居やう。

また仏教としての諦念もまた其の唯物主義としての西欧近代思想への問ひかけを無言のうちに発して居るのだ。

 

カントは日本人につき日本人は極度の強情にまで退化しており、沈着、勇敢、死の軽視といった点で「アジアのイギリス人」といって良ひなどとも述べている。

 

日本人が基本利口であることをおそらくカントは見抜ひて居たこととは思ふが、鎖国と云ふ限定の思想の素晴らしさ、其処での優れた点を無抜けなかったのはまさに彼の落ち度であったと言ふ他は無ひ。

また以前にも述べさせて頂ひたがコスモポリタニズムもまた意義無きもの、つまりは誤りなのだ。

 

かのアインスタイン博士をはじめまた宮澤 賢治をも含め誰しもがコスモポリタニズムに擦り寄るものだが世界政府樹立は事実上不可能なのだ。

 

 

カントは人間として生まれ持ったー自然としてー抽象的資質を最大に開花させることで人間の幸福や完全性はいつか達成されると見做して居たことだらう。

 

但し理性の働きは其れこそ自然に限定されて居りしかも社会に於ける抽象的開闢が矛盾を最大化することなどには流石に考へが及ばなかったのではなひか。

 

人間が人間として抽象的に規定される現在を生きて行かざるを得ぬことはむしろ人間にとってはごく自然なことだ。

 

なのだが、其れはあくまで諸要素に於ひて均衡が図られて居たことだらうカントの生きた時代までだったのではなかったか。

 

 

其の後人間は遥かに豊かになって行ったが其の反面としての大きな危機を抱へ込むこととなった。

 

其の危機は世界大戦や核の脅威として現実化し我我の命を常に脅かし続けて来た。

 

だが現在我我が抱へる危機とは其のやうな社会的負債では無ひ。

 

いや、確かに社会的負債であり歴史的な崩落なのだが其れはもっともっと大きな危機でありあへて言へば其れは自然からの報復なのだ。

 

自然から報復を受けるやうな精神的内容を近現代の社会があへて好んで歩み続けて来たのだった。

 

其のやうな抽象性をあへて好んで社会は選び取り我我をして其の抽象性の奴隷となして居るのだ。

 

 

其の抽象度の高ひ、さうして観念的に何処までも合理化されし世界観はたとへばグローバルに文明の危機を普遍化していく。

 

此処からも何故世界が一つになってはイケナヒことなのかと云ふことを其処にしかと悟ることが出来やう。