さて歴史はまた思想は何故一通り学ばねばならぬのかと言ふことである。
あくまで個人的には以下の見解による。
まずは其の幅広ひ学びにより何事にも動じず自律的な意見表明を成すことが可能だ。
最終的には其れは人間としての精神のあり方を磨くことにも繋がらう。
其処では所謂深く考へることの可能な理性的な領域が拓けて来る。
但し理性は絶対では無く万能なのでも無ひ。
むしろ理性が邪魔となりむしろ破局に導かれて仕舞う場合すらある。
即ち理性的に過ぎると往往にして素直では無くなりことによれば人間味を失ふことにもなりかねぬ。
が、理性無しだと其れではおバカ大衆其のものに成り下がる。
おバカはイヤだと云ふ自己批判さへ出来なくなって仕舞ひ精神の自立性を其処に失ふ羽目にもならう。
だから一言で言へば利口過ぎてもダメでまたバカでもまた余計にダメなのだ。
此のやうに此の世の全てはまさにバランスなのだ。
大昔に釈迦が述べたやうに弦のバランスが整って初めて楽器から良き音色が奏でられるのだ。
但し其のバランスは其のままで居るだけでは決して気付けぬ。
いや、其のままでほんたうは良ひ。
なのだが、観念的に其れを納得しやうとすると矛盾が邪魔をして余計に分からなくなる。
さうした認識構造を持つものこそが人間の観念なのだ。
なので其の神と自然には縁の無ひ人間の悩みにつき詩人はずっと述べ続けて来た。
人間とは其のやうに悩むべき存在なのだ。
さうして怒る存在なのでもある。
元より神と自然にはまた佛には怒りなどは無ひ。
では何故人間だけがかうして怒れる存在なのだらう。
誰しもおかしな事件などには怒りを感ずることであらう。
其れは単なる憎悪の怒りでは無く理性による怒り即ち義憤なのだ。
だから全部怒りを無くすことなどは人間には出来ず事実たとへ宗教界でも怒りが全滅されて居る訳では無ひ。
確かに怒りが無ければまた苦も無くまた苦に至る因も滅せられやう。
だが其れはあくまで仏法としての理想がさう指し示すもので現実には此の世は苦と闘争と矛盾とに苛まれし世界なのだ。
だから其処でタダ笑って過ごしてなどは居られなひのだ。
もうコレでヨシ、ヨシと惰性で流されていくしかなれなひものと相場は決まって居らう。
が、聖者は其処で思想的闘争もしなひばかりか理性的にさへまるで考へてなど居なひ。
聖者はすでに考へること自体を放棄して居る故もはやほとんど何も考へたりして居なひ。
かと言って其れは赤子や幼稚園児のやうに何も考へて居ないと云ふ訳には非ず。
むしろ思考の果てに思考其れ自体を放棄して仕舞って居るのだ。
逆に言ふと考へること以前に考へること自体を放棄して御座る人々とはまるで違ふ。
思想もまた放棄して仕舞った時点でバランスを失ふものである。
其処では其のバランス自体を失ふのであるから、思想にまるで触れやうとしなひことは精神自体を失ふことに等しひ。
思想を学ぼうと思ったら、なるべく極端なものの内容を両極に於ひて常に確認しておくべきだ。
其の幅広ひ視野こそが理性を磨くことに繋がるのだ。
でも今や思想など時代遅れだ、まさにダサひものの典型でありそんなことよりはやるべきことが沢山あらう筈。
ところが其処で即物的に全てを捉へる立場に追い込まれやうものなら人間の精神は容易に堕落する。
即ちそんな精神無き人間に成り下がって仕舞ふ。
であるからこそ教養もまた身に付けねばならぬ。
但し御勉強が過ぎると次第に精神としてのバランスを欠くことにもなりかねぬ。
故に其のバランスを取ることこそが人間にとっては最も難しひことなのだ。
思想に於ひても、また宗教にせよまさに其の通り。
権力と人権保護の観点に於ひてもまさに其の通り。
男女の違ひに就ひても、また伝統と革新の相剋の問題にせよまさに其の通り。
金持ちと貧乏人の対立に於ひてもまさに其の通り。
全てはバランスの問題であり、其のバランスを究極として普遍化すると釈迦の説きし概念=中道へとやがて行き着く。
だからこそ其れが真理なのだ。
たとへば此の世に於ける両極は理解し合へずのみならず反目し合ふ。
たとへば思想に於ける極左と極右の立場は当然のことながら反目し合ふ。
ところが男女は互ひに互ひを本質的には理解出来ず反目し合ふ筈なのに何故か逆にくっついていく。
つまり♂と♀は何故かくっつくやうに最終的にはさう設計されて居らう。
其処にあへて抗ふ仏教のやうな宗教も大したものだとは思ふがとりあへず大乗の方は世俗化されし教へなので其処でもって別に結婚するなとは勧めて居らぬ。
結婚すると何故か子が出来やうが、其の子が諸悪の根源なのか其れとも未来への橋渡しなのかいずれにせよ其の解釈もまた最終的には個としての選択に委ねられて居る。
其の♂と♀がくっつくことには普通の人はむしろ疑問など持たぬものだが理性勝ちな人程其処に疑問を感じて仕舞ひもう中学生位の頃から其のことで悩みアスペルガー気質の鬱病と診断されたりもするのである。
また極左と極右の立場の違ひなど余計に分からず第一其処で左と右の思想の優劣などまるで分からずしかも其れが近年に至りさらに分かり辛くなって居りむしろ其の思想以前での自己放棄により思想は毛嫌ひされまた同様にややこしひ宗教なども毛嫌ひされるに至りおバカさん達をもしや増殖させて来て居るのではなひかとわたくしの場合はつひ心配して仕舞ふ。
だから考へずに放棄するのではなくしてまずは一通り考へてから選択して頂きたひ。
結論などはむしろどうでも良く思想無し宗教無しと云ふ思想的立場を貫くことでも無論のこと宜しひ。
何でも良ひから兎に角何故♂と♀はくっつくのか、何故極左と極右の立場は反目し合ふのだらうと云ふことをまずはじぶんの頭でもって考へること、まさに其こそが真の學問ぞ。
極左と極右の立場を理解する為には多くの御勉強が必要とならうがもはや面倒臭ひので何かアニメとか映画などでもってパッと分かるものが何処かにありませぬか?
ご要望に応へ探してみたところありました。
其れがコレです。
例のアマゾン プライム・ヴィデオにて現在視聴出来るものです。
兎に角此の二作品を視るだけで其の立場の違ひが良く分って参ります。
ですが兎に角疲れます。
視るだけで精神的にヘトヘトになりませう。
特に連合赤軍が仕出かした事件の記録の方は長ひ作品なのでしかも後半からは残虐シーンの連続なので兎に角酷ひものです。
が、此の二作品は史実に基づくものなのです。
此の頃思想的展開として何がありどんな結末に至ったかと云ふことを史実を元にしつつ世に指し示した記録のやうなものなのだ。
一番良ひのは此の二作品を連続でもって視ることです。
然し其れでは精神にとっての負担が大きひ故二日連続で視る位が或はベストなのやもしれぬ。
さて問題は此の二つの思想的展開が70年代の初めに連続して起きて居ることです。
何故其れが連続して起きて居たのか?
即ち日本社会は六十年代より其の思想的展開としての安保闘争に大きく揺れて居りました。
即ち右派勢力と左派勢力に限らず国民全体をも巻き込んだところでの政治的闘争が繰り広げられて居たのです。
然し安保闘争も三島事件もあさま山荘事件も今や遠ひ昔の出来事となりました。
安保闘争の頃わたくしはまだ幼稚園児で、三島事件やあさま山荘事件の頃は小学生~中学生でした。
わたくしにとっての思想的展開はいまだ未来の霧の中にだけありあくまで現実として其れ等に遭遇した訳ではなかった。
其れでも大きな鉄球のやうなもので山荘がブチ壊されて居たのをTVでもって視た覚へがあります。
尚イデオロギーとしての思想的矛盾は此の極左と極右の立場を俯瞰することで次第に個にも見へて参ります。
とは言へ確かに其れは実体験としての矛盾では無くあくまで記録としての時代の表情を其処に追ふことにしかならぬ。
ですが、其れも現在としての矛盾的政治状況を察する為の一助とはなりませう。
尚三島事件と一連の左翼闘争には本質的に似通った部分さへもがある。
其れは東大全共闘との討議にて三島先生御自身が述べて居られることでもありますが、まさに思想的な立場は正反対であるにせよ其の社会の矛盾に対する向き合ひ方の真摯さは同様だったと云ふことに尽きて居る。
要するに立場の右左に関係無くかっての日本人はまともに社会のあり方と向き合って居た訳だ。
ですが、果たして今は一体何に向き合って居るのでせう?
もしやもはや何ものにも向き合ってなど居なひのではなひだらうか。
逆にわたくしは其の無思想性のやうなものにこそ薄気味悪さをさへ感じて仕舞ふ。
また多くの日本人は宗教にもまた無関心です。
いや、ほんたうは無関心でも無ひのだがもう兎に角面倒だから見ないフリをしつつ日々を過ごして来て居るのだ。
つまるところ精神的に面倒なものはもうイイ。
そんなもので精神的に疲れるのはもうイヤだからたとへばエロな話の方へと是非振ってお呉れ。
エロならば金瓶梅-特徴とかカリグラ-醜聞だとかそんなものを詳しく調べてみれば幾らでも出て来るものであらうに。
が、思想が極端に寄ると死人が出易くなることはほぼ間違ひなからうからまだしもエロの方が平和で良ひのやもしれぬ。
が、逆にエロの方がずっとタチの悪ひ性質だとさうも言ひ得るのやもしれぬのだが。
何故ならじぶんにとり正しひと思われる思想を追ひ求める精神の向きこそが一種潔癖なものであらう筈なのだから。
アノ楯の会の三島 由紀夫と極左の立場を奉じたインテリ学生達は其の意味では同じ穴の狢であった。
左様に物事は真剣過ぎてもロクなことにはならぬ。
だから何かに命を賭けるとかそんなことは此の際全部もう止めておくべきだ。
革命の為に命を捧げるだの天皇の為に命を散らしますだのそんな抽象的願望を具体的に実行して一体何の為になるのだ。
所詮そんなものは社会への奉仕であるに過ぎずそんなことよりもむしろ個としての理性を磨き続けていくことの方が余程に大事だ。
何故なら思想は右に寄り過ぎてもまた左に寄り過ぎても結局矛盾化するからなのだ。
其の矛盾化の温床こそがむしろ思想なのであり故に思想の限定化が必然として其処には要求されていく。
ほんたうは思想も宗教もそんな限定物なのであり其れにより影響を受ける部分がまさに限られたものであるべきなのだ。