目覚めよ!

文明批判と心の探求と

高僧の不倫ー弐ー


元々あらゆる論理は矛盾化するものですが悩みとして其れは理性により捉えられやう筈です。

ですが何らかの理由で理性が機能しなくなれば全ては欲望の丸出し状態とならざるを得なくなる。

理性が欲望の丸出しを嫌うのはあくまで理性にとっては其れが我慢ならないからだ。

ところが理性そのものにより規定されるべき現実が実は存して居ない。

理性は観念を形作る領域のことで未来を切り拓く力ではない。



ここからしても観念=過去=経験則である可能性が高い。

即ち理性的な人は必然として理性を生きざるを得ないが、実は其処には現在及び未来が含まれて居ない。

現在及び未来を創造するのは逆に非理性的な子宮の奥の闇の流れでせう。



生を否定したとすれば無論のこと其の本能力に遭遇することなく生を終えられますが惜しいかな其処で生自体を抹消したことにはならない。

ゆえに本能力は否定することが出来ない、何故なら理性と本能は表裏一体で現れて居るものだ。

あくまで理性は理性でそして本能は本能なのですが、それぞれが関連しあって現れて居るものなので本能を否定すれば理性もまた否定されます。



と云う事は女のバカを断罪しかつ否定し男性の理性の優位ばかりを肯定することはかえって自滅への道を転げ落ちていくことだ。

ですので、中道とは結局さうしたことなのでしょう。

対概念を共に否定はするのですが最終的には否定に寄って立つことをしない。


ただし、其れは理性にて否定に至らないこと、即ちただあるがままに本能を肯定して生きることとは違う。

さういうのはまさに餓鬼であり畜生道である。

ただ、其の畜生道と云うものをよーく考えておく必要が御座います。



動植物界は一種清浄な世界なのであり、其処に悩みがあらうが無かろうが須らく迷いからは離れて居る。

確かに動植物界にも悩みはあるものと思われますが、つまりは全体論的な規定でもって其れは完結されて居り其処で破壊が生じることはない。



問題は人間と云う理性と欲望の混交体、此の宇宙一ややこしい存在が普通に生きて行くだけでやがては全部を破壊し尽くして仕舞うと云う事のみ。

であるからこそ宗教的な領域がどうしても必要でした。

特に理性的に規定された欲望が是とされて仕舞うこと程恐ろしいことはない。

でも近代とは其の欲望の理性的規定そのもののことです。



ゆえに自然界に於いては元々どんな理性的規定も必要ではない。

彼等は元々大いなる理性=大自然の摂理により規定され切って居ます。

だから清浄で尚且つ美しいのです。

尤も理性の眼からすればとんでもない野蛮さを持ち合わせて居る世界でもまたあるのです。



然し残念ながら人間には迷ひがあります。

迷ひ=悪魔の働きだとも言えそうだ。

でも悩み=悪魔の働きだとはわたくしは捉へて居ない。



何故なら悩むのは、当たり前です。

悩んで死んだら、其れも当たり前のことです。

悩まずに生きて居るのは悪魔だけですのでそちらの方がよりタチが悪いです。

とあくまで其のやうに捉えるのです。



ですので、問題は其の人間の迷ひだけです。

何を血迷ったのか、かうしてわざわざ此処に彷徨い出て来て居る人間の低級さ、無知であり無明である様こそが其の迷ひの内容そのものだ。



生は智慧に対する反逆の過程であり、理性にとっての苦痛の過程でもあるがむしろ本能や無明である様にとっての癒しの過程でもある。


生は病気である、とかのマックスヴェーバーはかって述べたがさうした認識に辿り着けるのはまさに一握りの人々のみ。

俗人にはまた俗人としての生=性への信仰が存して居りましょう。



ただし、分かって居る人は分かって居るなりに生=性を構築して来て居ります。

大元の部分ではすでに生自体を理性化=合理化して居るので悪魔のやうなものには手を出したりは致しません。


と云う事は分かって居ない人は分かって居ないなりに生=性を構築して来て居り其の様やまさに無知であり無明そのものなので実際とうの昔に地獄へ堕ちて居ることだらう。




ああ、わたくし?

わたくしは元来地獄の仏教徒ですのでむしろ其の地獄界ばかりを行き来しであるからこそ仏の世界、清浄な世界の実在を信じてやまないところがある。

事実わたくしは生まれつき感度が高過ぎてそのゆえに苦労せざるを得ず、其れでもって幼少のみぎりよりずっと精神的な世界に必然として組み込まれて居ましたゆえ地獄も極楽もすでに見て来たやうにも思ひます。


其れも精神的な格闘と云う意味での地獄であり極楽でしたね。




さて矛盾そのものである生を成り立たせる性、コレは元来悪いものとして否定すべきものであった筈です。

なので女こそが其の生及び性の推進者としての善なる悪魔であるとさう申して居た筈です。


ところが他方では性が良きもの、イノチを形作る源としてのまさに愛のやうなものだとの解釈が成り立ちます。

何故かと云えば概念には必然としての両義性が生ずるからです。

愛欲は其のやうに両方の意味でしか規定することが出来ない。



お利口やバカと云った概念もまた須らくがさうです。

即ちお利口はお利口そのものとして規定することが出来ない。

また莫迦莫迦そのものとして規定することが出来ない。



ところが愛欲は自然界に於いては全肯定され得ます。

即ち自己保存の為の動植物の欲望は全肯定され得ます。

何故なら其れは概念ではないのです。

謂わば純粋な本能であり、神から与えられたところでの余分なものの無いところでの性規定です。

なので其処にはそも迷ひなどない。



あくまで全体論的な理性による規定が彼等を御し性を浄化して居ます。

しかるに人間の性はどうしても醜いものになり果てて仕舞う。

つまるところ其れは概念としての性の履行に過ぎない。


だから必然として汚れて仕舞う。



どうも汚れて居ない性と云うものは人間界では実現するべくもないやうだ。

だから人間の性とは常に汚いものです。



なので其れを悩んで居ます。

理性が其れを汚いと悩むので悩まざるを得ない。

まあ其れも人により大きく違いがあることでしょうが。



逆に性がさも美しいことのやうに思って居る人さえもが居ます。

或いは至極普通に当たり前のこととして感じられて居るだらう幸せな人々も居られやう。


ただ、さういうのはハッキリ言って本能領域に寄り過ぎて居ます。

本能領域に寄り過ぎて居ると多分地獄に堕ちやう。

まあ地獄に堕ちずとも畜生道には堕ちます。

でも人間界よりも遥かに畜生道の方が神にはより近くなりましょう。


人間と云うのは神にはなれないものなので実は佛になるしか他に手がない生き物のことです。

ですが現代人に限ればもはや佛になる可能性はほとんどゼロです。



なので聖者になることを目指していく他ない。

ところが其の聖者になることよりもより良いだらうことが畜生道に堕ちることです。

あくまで成仏を前提としない限りでは畜生道に堕ちること自体は悪いことではありません。



第一其処では何も考えずにやり逃げすることが出来ます。

畜生界ではやり逃げは犯罪ではない。

ですが人間界ではおそらく犯罪者扱いされましょう。

なのでやり逃げは同意の上でか或は結婚してからやるべきことです。



結婚してから給料を一銭も家計に入れずやり逃げをし永遠に姿をくらます自由は人間の男性に等しく与えられし重要な権利です。


されど自然界に於いては其のやり逃げは普通です。

おお、こんなに健全な性秩序も他に無い。



だからどちらがいいですか?

どう考えてもわたくしは動植物に生まれ変わる方が良いです。

どだい人間などやって居ても悟れる筈などない。

おまけに苦しむだけ苦しんでその挙句に病気にでもなりおそらくは六十五歳位で死ぬんです。

そんな悩みだらけ苦悩だらけの生き様よりも余程美しいではありませんか、其の動植物の生と性は。



其の穢れて居ない性、コレこそがひとつの鍵です。

人間の性が美しく感じられないのは其の性自体が迷ひの産物であり矛盾そのものでもあるからなのだ。



ではどう此の性の汚さを乗り越えていくのか?

無論のこと普通そんなことは誰も考えて居りません。

誰しも発情期にさしかかると結婚しすぐに子供をつくったりも致します。


ま、其れは其れで意味のあることでしょうが結果的にそうはならない人々も今は社会に溢れて居ります。

つまるところはコレも一種の合理化の帰結なんでしょう。

悩み多き人間の性規定に対してより強く理性が反発して居る可能性がまた高くある。



でもわたくしの場合は其れともまた違いますね。

即ち元々考えるべきものではない性を考えざるを得ない立場に追い込まれて居るやうな気がしないでもない。



さて其れでは性をどう捉えていくべきなのでしょうか?

どう捉えていくべきなのかと言われても、此処までで長々と説明して来たやうに性の理想=美しき性とはズバリ自然界に於ける性である。

対する人間界の性は基本的に汚れて居り謂わば迷うべき根拠のある性である。



だからこそもう大いに悩んで居て良い訳です。

悩んで居て子などつくらない方がむしろまともだと云う事です。

元々人間の自己保存に関する欲は二元化しつつしかも矛盾化するもので考えれば考える程に汚れたものに思えて参ります。


なので其処までの理性をお持ちのアナタはむしろ幸運の持ち主なので子作りなどに励む必要は元よりありません。

ただし動物としての本能領域を即否定するに至るほどの強固な理性的基盤=利口さをお持ちの方は生き抜く為にむしろ逆方向を向くべきである。



即ち女の方をこそ見よ。

しかも女の股の間のことを常に想像するのだ。



するとアナタ様の理性には若干の曖昧さが付け加えられやう。


其の曖昧さこそが実は大事じゃ。


理性とは常にキチキチのものなので其の位に緩くしてやらないともはやアナタは死に至って仕舞う虞が大きくある。

とは云え理性の無い方が常に女の股の間のことを想像するとなればこれはもうほんたうにえらいことになる。

即ち左様な妄想は即刻止めて下され。



ですのであくまでわたくしやアナタ様のやうな理性の権化、知的かつ潔癖である特別な部類の人、兎に角あらゆることを理詰めで考えられる人、そんな方に限りHなことを際限なく妄想する自由が許されて居る。



だから其のやうに人間の性の規定は知的レヴェルにより違ふ。

ハッキリ言って違うのである。



なので人間の性の規定は個々人の理性的能力に見合ったものであることがより望ましい。

であるから人間の性が汚く見えて仕方がない人は理性勝ちなのであえて女の尻を追う事だけを考えていくのである。


人間の性が清浄だと誤ってさうカン違いをして居る人は変な信仰に毒されて居るゆえ地獄に堕ちる可能性もまた高いがせいぜい二、三人子作りをした揚句に畜生道へ堕ちれば逆にもっともっと幸せな性を営むことが出来やう。



然し両者ともやり逃げなどすることのないやうに。

ただし合意の上で、また婚姻をなした上でやり逃げをすることは可である。



其のやうに本質としての人間の性は悩みであると同時に迷ひであり決して幸福な性の営みだとは言えないものだ。

何故かと云えば理性が邪魔をして性を汚いものとして規定するから全的に其れが清い世界のものとはなり得ないのである。



なのでむしろ逆方向をやる。

性の方向を向けない理性的な方にこそ是非ピンサロなどへ通って頂きたいものだ。

性が善きものに感ぜられる鈍感な方の場合はむしろ欲望を抑えていく。



さすれば人間に於ける性の規定はまずは上手く行くことだらう。




さて元より仏教は此の人間の性の規定を中心の課題として取り組んで来て居る。

性の規定は人間の心の規定でありまさに重要な、おそらくは最も重要な人間にとっての心の規定となるべきものだ。


とは云え、性ほど御し難くかつ逸脱し易い領域もまたない。

性は存在に直接関わる現象だからこそ其のやうな究極的な心理的選択が常に突き付けられて居るのである。




ちなみに性を自己規定出来ないのであればおそらくは五十年以内に大乗仏教は滅びることであらう。

其れは大乗仏教が仏法に於ける根本義を長きに亘りなおざりにして来たことへの仏罰が下されると云うことである。


仏教とは寺の存続がどうのこうのとか、墓がどうのこうのとか、また教義がどうのこうのとか、さうしたことではまるでないのである。

要するに自己規定が成ってこその仏教である。



でも我我はあくまで在家者なのだから、それこそピンサロへ行こうが変な妄想ばかりを抱いていやうがとりあえずは自由である。

ただし人間の性とはあくまで不自由なものであることを今回わたくしはしかと示した。



其の不自由な性であることを忘れて男色を楽しんで居たり或は密教系のまさに異常な性的逸脱に走ったりと云うかっての日本の仏教界の性に於ける乱れ振りは明らかなる謗法であり破戒である。

従って僧侶の性的逸脱は在家の信者と異なりほんたうの地獄へと真っ逆さまに堕ちるものと心得よ。



でも理性的な君は助かる。

いや助かりはしないのだが、少なくとも其処には咎めなど無い。

たとへ性がまるで肥溜めのやうに思え生涯異性のア○コを見ないで終わるにせよ其れは其れで実に立派な仏弟子としての君の性だ。


そんな君はかの元薬師寺管主などより遥かに偉い。

あの世では必ずや佛様が頭を撫でて下さることでせう。