グノーシス主義とはつまりは二元論としての物質界を否定的に捉え、対しての霊或いはイデアーの世界こそが真の存在であるとして其処に到達するー物質としての存在を脱してーことを目指した思想ないしは宗教だったのだろう。
尚私はこうした立場も基本的に有りだろうと今考えて居る。
何故ならこの世界はそのままではパラダイスでなどあり得ないからなのだ。
実際いつまで経っても貧富の差は激しく社会的に人間は不平等で、特にこの近代社会に於いては人間は物質的に深く縛られているとでも言うのか、カネ、モノに対する執着が甚だしく人々は自己矛盾的なエゴイズムの世界をより深く掘り下げつつ生きて来て居るといった有様なのである。
つまり人間存在の心理特性は近代以降特に汚れに充ちたものとなりつつありアノ白蓮華の清い花などとは真逆の穢なーい毒花を咲かせて居るばかりなのである。
だからこそこうして世界中で様々に問題が引き起こされる。
そうした問題とは実は人間の心の内部から引き起こされて居る問題なのである。
其れは最終的に社会制度の問題でもなければ、経済の問題なのでもなく、ましてや政治の問題なのでもない。
つまりは人間存在の普遍的な心のあり方としての問題なのである。
そしてそれは時空を超えて常に其処に横たわって居る問題なのである。
其れを解決するために宗教という人間の全体の心の専門家である分野が遥かな過去より存在したのである。
だからこそ私は人間存在にとっての宗教の力の必要性を第一義的に捉えて来て居るのだ。
あのニーチェはかって宗教の力が形骸化した近代世界のことを所謂畜群が闊歩するニヒリズムの世界として正確に予見して居たのだ。
実際に最近はもう何が何だか分からないような心理的退廃や大きなエゴの対立が横行する世の中となって来て仕舞って居る。
それがもはやインテリ層の知的抑止力をも超えて仕舞って居り、たとえば作家や詩人であっても自己の想像の範囲を超えて仕舞うかのような現実に直面せざるを得ないこととなっているのではなかろうか。
もはやそうした一種歯止めのきかない心理的領域に現代文明は歩みつつあるのかもしれない。
丁度近代科学の生み出した自然の加工力とその加工力による諸の破壊に歯止めがかからないのと同じくして、文明社会が抱える心理的な病についてもそれにもはや歯止めをかけることはかなわないのかもしれない。
そこで、だ。
そこで私はむしろ過去の文明ー人間ーの心理的な傾向のことを調べて居るのである。
一体何がこの人間存在に是非必要であったところでの精神のタガのようなものを外して仕舞ったのだろうか?
勿論ポストモダニストとしてそのことを述べればそれは科学技術への盲信や唯物論的な世界観への盲従ということとなろうかと思う。
然しそれだけではないのだ。
それだけではなく、それ以前に、宗教的なものへの関心の無さ、つまり自己を根本的に規制するものに対する強烈な拒否反応が現代人の心根の部分に巣食って居るのである。
それは具体的に言えば自分は自由で偉いと思い込んで居る近代的な自我の意識である。
また世界はその自由で偉いー諸の権利に支えられてー己が闊歩し得る最良の自己の発現の場なのである。
今現代人は誰もがそのくらいの意識を持って毎日生活している筈である。
そうでなくば、この狂おしいまでに忙しい現代の一日を個としてこなしていくことなど出来はしないのである。
さてそれではグノーシス主義のことに戻ろう。
グノーシス主義では物質が悪いのだから世界も悪いのであって、であるからこそ精神の実在性、純粋性のようなものに立ち還ることを目指せば世界全体も良くなるとそう考えたのだろう。
なおこれは所謂観念論という哲学の領域に一種似て居るものである。
Wikipedia-観念論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E5%BF%B5%E8%AB%96
こうした物質界を悪玉と捉えるものの見方はある意味で非常に精神的ー宗教的ーなものの見方なのだと言える。
対して近代以降のものの見方は明らかに唯物論ー非精神性ーの方に傾いて来て居る。
それを平たく言えば、モノとして或いは力として感じられるものにこそ価値があるという考え方である。
近代科学はそうしたモノまたは力の分析にばかり膨大な労力を費やして来て居る訳で、しかしながら、現代社会は其処でそのことにかまけて人間の心の方の大問題について余り考えて来なかったのではなかろうか。
ところが本当は人間の心の方の問題の方がずっと大問題なのである。
たとえばあのアインシュタインは晩年に人間の心の醜さについて屡触れるような発言をしていたそうである。
科学上の真の天才と呼ばれるような人にしても最終的にその面だけが大問題として捉えられていたというそうした話のオチなのである。
数式や物理法則は謂わば人間の心の問題には蓋をして進むことしか出来ないのである。
そして事実、今世界では国家レヴェルでのエゴの対立の問題、社会レヴェルでのエゴの対立の問題、また自然と人間存在との自己矛盾的な対立の問題などが噴出してそれこそ収拾がつかなくなって来て居る。
それらの問題の根っこに横たわるのは畢竟その人間としての心のありようの問題なのである。
だからこそ本当の本当は問題の根はひとつで、それが人間の心の醜さを如何にして浄化していくかという部分に尽きて居るのである。
尚、私が今あえてグノーシス主義のような秘教的な見方を述べて居るのは、その教義の通りに物質界は悪だからそれには余り与せず物ー肉体も含めてーを全部捨てて仕舞えなどと言って居る訳なのではない。
ただそうした考え方もかっては色々とあったということだけを述べておきたかったのである。
近代主義の発信する典型的な考え方、それはすでに我々の脳裏に深く刻まれて居り我々は一種それに洗脳されつつあるであろうことも否めないことだろう。
然し本来ならばものの考え方には大きく幅があるものなのだ。
物質的な豊かさや便利さを追求すること、或いは社会が間断なく進歩し過去を切り捨てていくこと、または人間の心の中をしかと見据えることなく外面的な作用ばかりに気を取られていること、そうした近代の常識の愚を其処に悟り知ることの為にこうした秘教的なものの見方があるのではなかろうかと今私は観ずるのである。
尚私はこうした立場も基本的に有りだろうと今考えて居る。
何故ならこの世界はそのままではパラダイスでなどあり得ないからなのだ。
実際いつまで経っても貧富の差は激しく社会的に人間は不平等で、特にこの近代社会に於いては人間は物質的に深く縛られているとでも言うのか、カネ、モノに対する執着が甚だしく人々は自己矛盾的なエゴイズムの世界をより深く掘り下げつつ生きて来て居るといった有様なのである。
つまり人間存在の心理特性は近代以降特に汚れに充ちたものとなりつつありアノ白蓮華の清い花などとは真逆の穢なーい毒花を咲かせて居るばかりなのである。
だからこそこうして世界中で様々に問題が引き起こされる。
そうした問題とは実は人間の心の内部から引き起こされて居る問題なのである。
其れは最終的に社会制度の問題でもなければ、経済の問題なのでもなく、ましてや政治の問題なのでもない。
つまりは人間存在の普遍的な心のあり方としての問題なのである。
そしてそれは時空を超えて常に其処に横たわって居る問題なのである。
其れを解決するために宗教という人間の全体の心の専門家である分野が遥かな過去より存在したのである。
だからこそ私は人間存在にとっての宗教の力の必要性を第一義的に捉えて来て居るのだ。
あのニーチェはかって宗教の力が形骸化した近代世界のことを所謂畜群が闊歩するニヒリズムの世界として正確に予見して居たのだ。
実際に最近はもう何が何だか分からないような心理的退廃や大きなエゴの対立が横行する世の中となって来て仕舞って居る。
それがもはやインテリ層の知的抑止力をも超えて仕舞って居り、たとえば作家や詩人であっても自己の想像の範囲を超えて仕舞うかのような現実に直面せざるを得ないこととなっているのではなかろうか。
もはやそうした一種歯止めのきかない心理的領域に現代文明は歩みつつあるのかもしれない。
丁度近代科学の生み出した自然の加工力とその加工力による諸の破壊に歯止めがかからないのと同じくして、文明社会が抱える心理的な病についてもそれにもはや歯止めをかけることはかなわないのかもしれない。
そこで、だ。
そこで私はむしろ過去の文明ー人間ーの心理的な傾向のことを調べて居るのである。
一体何がこの人間存在に是非必要であったところでの精神のタガのようなものを外して仕舞ったのだろうか?
勿論ポストモダニストとしてそのことを述べればそれは科学技術への盲信や唯物論的な世界観への盲従ということとなろうかと思う。
然しそれだけではないのだ。
それだけではなく、それ以前に、宗教的なものへの関心の無さ、つまり自己を根本的に規制するものに対する強烈な拒否反応が現代人の心根の部分に巣食って居るのである。
それは具体的に言えば自分は自由で偉いと思い込んで居る近代的な自我の意識である。
また世界はその自由で偉いー諸の権利に支えられてー己が闊歩し得る最良の自己の発現の場なのである。
今現代人は誰もがそのくらいの意識を持って毎日生活している筈である。
そうでなくば、この狂おしいまでに忙しい現代の一日を個としてこなしていくことなど出来はしないのである。
さてそれではグノーシス主義のことに戻ろう。
グノーシス主義では物質が悪いのだから世界も悪いのであって、であるからこそ精神の実在性、純粋性のようなものに立ち還ることを目指せば世界全体も良くなるとそう考えたのだろう。
なおこれは所謂観念論という哲学の領域に一種似て居るものである。
Wikipedia-観念論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E5%BF%B5%E8%AB%96
こうした物質界を悪玉と捉えるものの見方はある意味で非常に精神的ー宗教的ーなものの見方なのだと言える。
対して近代以降のものの見方は明らかに唯物論ー非精神性ーの方に傾いて来て居る。
それを平たく言えば、モノとして或いは力として感じられるものにこそ価値があるという考え方である。
近代科学はそうしたモノまたは力の分析にばかり膨大な労力を費やして来て居る訳で、しかしながら、現代社会は其処でそのことにかまけて人間の心の方の大問題について余り考えて来なかったのではなかろうか。
ところが本当は人間の心の方の問題の方がずっと大問題なのである。
たとえばあのアインシュタインは晩年に人間の心の醜さについて屡触れるような発言をしていたそうである。
科学上の真の天才と呼ばれるような人にしても最終的にその面だけが大問題として捉えられていたというそうした話のオチなのである。
数式や物理法則は謂わば人間の心の問題には蓋をして進むことしか出来ないのである。
そして事実、今世界では国家レヴェルでのエゴの対立の問題、社会レヴェルでのエゴの対立の問題、また自然と人間存在との自己矛盾的な対立の問題などが噴出してそれこそ収拾がつかなくなって来て居る。
それらの問題の根っこに横たわるのは畢竟その人間としての心のありようの問題なのである。
だからこそ本当の本当は問題の根はひとつで、それが人間の心の醜さを如何にして浄化していくかという部分に尽きて居るのである。
尚、私が今あえてグノーシス主義のような秘教的な見方を述べて居るのは、その教義の通りに物質界は悪だからそれには余り与せず物ー肉体も含めてーを全部捨てて仕舞えなどと言って居る訳なのではない。
ただそうした考え方もかっては色々とあったということだけを述べておきたかったのである。
近代主義の発信する典型的な考え方、それはすでに我々の脳裏に深く刻まれて居り我々は一種それに洗脳されつつあるであろうことも否めないことだろう。
然し本来ならばものの考え方には大きく幅があるものなのだ。
物質的な豊かさや便利さを追求すること、或いは社会が間断なく進歩し過去を切り捨てていくこと、または人間の心の中をしかと見据えることなく外面的な作用ばかりに気を取られていること、そうした近代の常識の愚を其処に悟り知ることの為にこうした秘教的なものの見方があるのではなかろうかと今私は観ずるのである。
グノーシス主義的に世界を解釈すれば、宇宙の存在そのものが無知を背景にしているとされるため、宇宙には秩序も法則も存在はするが、結局のところはそれらは善き秩序や法則ではなく本質的には悪影響しか持たらさないものである。
したがって、宇宙に存在するものはすべて邪悪であり、人間の肉体もそのように悪いものである。
ただ、人間の中の霊だけが本当の意味での神とつながる存在だとされる。が、同時にその霊は宇宙という巨大な牢獄、人間の肉体という牢獄に閉じ込められているのである。
そしてこの霊を解放することこそがグノーシス主義の目標となるのである。
然しこの思想、何だか仏教にも似て居る感じが致します。
仏教は元々この世を苦の集積であると捉えて居る訳です。
人間にとっての正ではなく負の要素の集積の場です。
しかもそれは物質的にもまた精神的にもそうなのです。
だから先祖供養とか子孫繁栄なんて云うのはそれは本来の仏教の役割ではなく本来の仏教の目指すところとはそれすなわちこの苦に充ちた世界からの自分自身の脱出のことです。
ただし仏教に於いては自己の精神を磨いていくことは可能だとされて居る。
勿論肉体を律することもまた必要ではあるが、本当に大事なことは自分のものの見方を律しつつ変えていくことこそにある。
その点で神と連なることでの霊の開放を主張するグノーシス主義と精神の解放つまり明知による解脱を目指す仏教とは似て居る部分がないとは言えない。
ただし仏教では霊などというものは全く問題にして居りません。
そうした存在の有無について一切問わないというのが本来の仏教での立場なのです。
霊魂だとかあの世であるとか地獄などいう概念と戯れて居るのは後の変わって仕舞った仏教のことで釈尊はそうした意味のない戯の論議をすることを戒めて居られた程です。
尚、物質的な世界がそのままでは必ずしも良い世界ではないであろうことは何となく私には感じられないでもない部分です。
なぜなら物質は限定物に過ぎないので本質的に解放された存在ではあり得ないです。
もっとも生命も限定品ですので本質的に解放された存在ではあり得ないです。
だからその限定された同士で仲良く万年筆など愛でて居ることなどはたとえば可能かとは思われますが、それも畢竟精神の方が限定を離れていくにつれ物質の価値が無意味化されていき最終的には物質の意味が解体され精神にとっての意味をなさなくなることだろう。
またグノーシス主義での宇宙の存在の背景に無知あり、とする考え方なども非常に面白いですね。
仏教では衆生をそのままでは無明の生き物であると捉えて居ますが少しそれにも近いような考え方です。
要するに+思考ではない考え方ですね。
ちなみに仏教がプラスの思想だと思ったらそれは違って居て、仏教はむしろ究極のマイナス思考から入り最終的には究極のプラス思考ー思想ーに転じていく教えのことなのです。
この世は苦の集積ーマイナス思考ーだが体と心を律することで明知に至り最終的には解脱するー究極のプラス思想の完成ーということとなります。
したがって、宇宙に存在するものはすべて邪悪であり、人間の肉体もそのように悪いものである。
ただ、人間の中の霊だけが本当の意味での神とつながる存在だとされる。が、同時にその霊は宇宙という巨大な牢獄、人間の肉体という牢獄に閉じ込められているのである。
そしてこの霊を解放することこそがグノーシス主義の目標となるのである。
然しこの思想、何だか仏教にも似て居る感じが致します。
仏教は元々この世を苦の集積であると捉えて居る訳です。
人間にとっての正ではなく負の要素の集積の場です。
しかもそれは物質的にもまた精神的にもそうなのです。
だから先祖供養とか子孫繁栄なんて云うのはそれは本来の仏教の役割ではなく本来の仏教の目指すところとはそれすなわちこの苦に充ちた世界からの自分自身の脱出のことです。
ただし仏教に於いては自己の精神を磨いていくことは可能だとされて居る。
勿論肉体を律することもまた必要ではあるが、本当に大事なことは自分のものの見方を律しつつ変えていくことこそにある。
その点で神と連なることでの霊の開放を主張するグノーシス主義と精神の解放つまり明知による解脱を目指す仏教とは似て居る部分がないとは言えない。
ただし仏教では霊などというものは全く問題にして居りません。
そうした存在の有無について一切問わないというのが本来の仏教での立場なのです。
霊魂だとかあの世であるとか地獄などいう概念と戯れて居るのは後の変わって仕舞った仏教のことで釈尊はそうした意味のない戯の論議をすることを戒めて居られた程です。
尚、物質的な世界がそのままでは必ずしも良い世界ではないであろうことは何となく私には感じられないでもない部分です。
なぜなら物質は限定物に過ぎないので本質的に解放された存在ではあり得ないです。
もっとも生命も限定品ですので本質的に解放された存在ではあり得ないです。
だからその限定された同士で仲良く万年筆など愛でて居ることなどはたとえば可能かとは思われますが、それも畢竟精神の方が限定を離れていくにつれ物質の価値が無意味化されていき最終的には物質の意味が解体され精神にとっての意味をなさなくなることだろう。
またグノーシス主義での宇宙の存在の背景に無知あり、とする考え方なども非常に面白いですね。
仏教では衆生をそのままでは無明の生き物であると捉えて居ますが少しそれにも近いような考え方です。
要するに+思考ではない考え方ですね。
ちなみに仏教がプラスの思想だと思ったらそれは違って居て、仏教はむしろ究極のマイナス思考から入り最終的には究極のプラス思考ー思想ーに転じていく教えのことなのです。
この世は苦の集積ーマイナス思考ーだが体と心を律することで明知に至り最終的には解脱するー究極のプラス思想の完成ーということとなります。