目覚めよ!

文明批判と心の探求と

私にとってのアニミズムとは

Wikipedia-アニミズム
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%9F%E3%82%BA%E3%83%A0

Wikipedia-汎神論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%8E%E7%A5%9E%E8%AB%96
Wikipedia-汎心論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%8E%E5%BF%83%E8%AB%96


私の母方の祖父が在野の仏教研究者であったこともあり、私自身も何かと仏教とは縁が深くかっては仏教系の宗教団体に属し活動して居たこともありま したが現在はより純粋な意味での仏教を遡及しつつ原始仏教徒であることを自認して来て居ります。

そうは言いましても、こんな風に物欲まみれの近代的サラリーマンの一人として普通に生活して居りーただし妻は居りません。出来れば無い方が良いことかとも思われますが本当のところは老後のパートナーとして一人だけ今考えて居るところです。ーますので厳密には私の場合は汎霊論、汎神論といった、所謂 アニミズムの崇拝者ではなく仏教的な世界観を信奉して居る者です。


ただし、仏教には如来、菩薩の見地から見たところでの生きとし生けるものへの所謂慈悲の境地というものがありこの部分はアニミズムなどとも一種通 じる部分があるのではないかと個人的に考えています。

あくまでそれも上に示しましたような汎心論的な傾向に於いてそうなのだろうと思います。でも本質的には仏教は汎神論や汎霊論とは無関係のものなのでしょう。


それからもっと素朴な、つまり観念的傾向から離れた部分では自然のあるがままの姿がただただ美しくかつ愛おしいといった部分が確かにあります。

仏教は人間の心の境地の階梯を指し示すものですがそれ以前に自然はただあるがままに美しく心から尊敬出来る存在なのでもありましょう。

謂わば考える以前に神聖であり完全でありーあくまで存在としてはー、在ってまた無い?ものなのでもあります。

そうした意味ではー仏教を一旦離れたところに於いてはー自然はまさに神の如くに神々しく完璧な秩序を保ちかつ美しいです。

そう云わざるを得ないといったところです。


そして其の部分から言えば私は確かにanimistでもあり、だから仏教徒でありかつanimistでもあるという何だか訳の分からないー矛盾するー立場に住して居る者なのです。


そして私は近代という合理性重視の時代自体への批判者でありそうした時代風潮の推進に何より危惧を抱いて居る者です。

物質主義、即物的思考に傾きつつある現代文明を貫くであろう精神性の貧しさの部分を痛烈に批判してみたいと常に思って居ります。

然しそうは言っても物質への欲望の呪縛から逃れるなんてことは生半可なことではない訳でありまして、それであくまで自分の場合は酒や女には手を出 さぬ代わりに読書やらペンやら鉱物標本で心を慰めて来たといったところです。


ところが仏教でも原始仏教ほどのレヴェルともなりますと、これはもう徹底的にこの世界への執着、愛着、撞着を滅していくことが修行の内容となりますのですから本当の意味で生半可なことではありません。

だから長年私が心を慰めて来たところでのペンやら鉱物標本といったものへの執着なども一切認められない訳です。

本質的には認められないが、つまり本質的には否定していなければならないが一応目の前に映じて居る生を成り立たせるであろう様々な要素を逐一否定 していく訳にもいかない訳です。


だから現実の自分はそれらのものへ欲望を大いに投影している訳ではありますが実は拘って居ない、たとえば石の標本は結構な数を集めるが最終的にはそれらともお別れとなるのが世の常ですので絶対に自分のものであるなどとは拘泥せずに最終的には適当に人に呉れてやったりするのが理想なのでしょ う。

現実的にはそこまででもなかなか難しいのではありますが自分が納得出来る最低限のレヴェルまでやったら後はもはや何でも宜しい、そこまで行けばど うなっても構わないという位の気持ちでやって来て居りますが結局は其れも欲望の成就を目指す行為にほかならず仏の智慧のレヴェルからすれば明らかにダメ出しされる行為であることに過ぎないのでしょう。

ただ、自分なりでの欲望の縮小化ということは屡考えるところでのものです。

大きい欲の成就よりはより小さい欲の成就で満足する、つまりは小欲知足といった境地でしょうか、そんなものが自己において成り立っていけば最高なのでしょうが現実的にはこちらの方もなかなか難しいのだとは云えます。


ですが難しいからこそ其の部分で頑張らないといけないのだろうと思います。

近代という時代は確かに皆が頑張る時代なのだと思われますがどうも其の頑張りようがどこかおかしい。

頑張らなくてもよいようなところに皆が群がって頑張ってみたりして居る訳ですからーそれこそー自然とどうもおかしくなっていって仕舞う訳です。

つまるところ、近代という時代が齎す欲望を肥大化する傾向性は人間をして真の幸福へと導くようなものではない。

其の逆に欲望を鎮静化、小型化していかなければすぐに地球全体のバランスは壊れていって仕舞います。


其の欲望の鎮静化、小型化というのは、欲望の否定ではなく欲望の緩やかな解放であり制御でもあるのです。

元々欲望を解放してやらねば生きられないという馬鹿な人間にはもう其の方法しか残されて居ないことでしょう。



さてK様が述べられた通りに、人間は石ひとつでさえまともには作れない訳です。

人間に作れるものはむしろ余分なもの、余計なものばかりで、自然界の生み出す全き秩序や無垢清浄の美しさなんてのは夢のまた夢のようなものです。


また鉱物の結晶もその設計図は無の中にある、とも仰いましたが、其の部分の理解は私には少々難しいところです。

ですが無から有が生じるという、其の創造の御業が宇宙を形造って居るということも矢張り確かなことなのだろうと思われます。


そして其のこと自体に問題が含まれて居るものとは私は考えて居ないのです。

其の存在化するということ自体が自己矛盾性を孕むものであるにせよ、存在化させる業自体に問題がある訳では全くないのです。

問題があるのはあくまで人間存在の心の在り方の方です。

こんなに静謐で美しい自然を前にして其れを敬うことも忘れただひたすらに自然を収奪し心の赴くままに欲を貪るーそれこそ自分自身の業に捉われてー 人間存在の心の在り方の方です。


とは言いましてもまあ、先にも申しました通りに私の場合も石に対する欲望は全開で突き進んで居るのではありますが。

ただ、其の欲望は私なりに小さい、云わば意図的に抑えられて居ます、其れは自分なりに制御されて居ります。

それでもイカンと如来が仰せになるのでしたら、其処はもはや致し方ありませんのですけれども。