目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

マニ教のこと-1

 
 
グノーシス主義とは実に面白い思想であり宗教である。

どこが面白いのかと言えば、謂わば即物的、現実的ではないところが面白い。

対して近代という時代はその即物性や現実性がより堅固に構築された世界なのだと言える。


つまり、そこを平たく言えばカネ、モノ、チカラがものを云う時代が近代の世界観なのである。

だからどんなに立派なことを言って居てもたとえば一文無しで無一物で無名だとすると誰も振り向いては呉れない世界のことなのである。


観念力がその唯物論に負け続けて来て仕舞うとでも言うのか、兎に角そんな一種精神性を欠いた世界であることが近代の価値観の特徴なのである。


然し人は本来もっと観念力の方を大事にして居たはずではなかったか?

特に日本人ならば其の事に思い当たる節もあるのではなかろうか。


武士は食わねど高楊枝
http://kotowaza-allguide.com/hu/bushiwakuwanedo.html

ここで良い方の意味に解釈すれば、武士は精神で生きて居るので貧しさなんかにへこたれていないということである。

逆に現代人の我々はほとんど精神では生きて居ないのでたとえ貧しくはなくともあらゆる誘惑に弱くかつあらゆる逆境にすぐへこたれて仕舞う。



それは勿論この私もそう。

私は自分が武士のように高潔な魂の持ち主だなんてこれっぽっちも思って居ない。

皆様と全く同じように精神の方がもうドロドロなのである。

ただその精神がドロドロなのを一体どうしたら治せるのかなあと常日頃から思って居るだけなのである。


要するに近代という時代は理性的にスマートな世の中をつくって居るようでいて実は精神的にドロドロで低級なものばかりを追い求めていく社会を形作って来て仕舞って居る。

第一理性なんて云ったって一体何が理性なのやら、時代としての精神性が基本的に崩壊して居るというのにそもそこで何の理性だと宣うのだろうか?



そして現実的であるということは必ずしも良いことではない。

なぜなら現実ということは限定である。

対して空想的ないしは観念的であるということは非限定の方向へ進むということでもある。


現在化ー現実化ーが進むとエゴの対立がより顕在化し収拾がつかなくなる方向へと進んでいく。

そのようにエゴの対立が深まると様々な破壊が必然的に引き起こされることとなる。

エゴの解放はそのように世界の破滅をもたらすことだろう。


エゴの解放は精神性の減じた世界に於いて甚だしくなる。

よって精神性の確立こそが現代社会にとって急務のことともなろう。



さてどうもこの精神性の確立ということが近現代の思想、風潮を立て直すに最も大事なことであるように思われて来た。

無論のこと、その立て直しには宗教の力が一役買って呉れなくては大いに困る。



Wikipedia-マニ教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E6%95%99

グノーシス主義の流れを汲む宗教がマニ教である。


このマニ教、少し調べてみると矢張り非常に興味深く面白い。

個人的に一番面白い点は、基本的に東西融合の宗教である点だ。


上にもあるようにグノーシス主義ユダヤ教及びキリスト教ゾロアスター教ミトラ教、仏教や道教などから影響を受けかつそれらを摂取、融合した思想だとされて居る。

こうした真の意味でのグローバルな宗教がかって存在して居たとはまさに驚きである。

しかも今日でも、中華人民共和国福建省においてマニ教寺院の現存が確かめられているとあることからも消滅した宗教ではなくかろうじてではあるが現存して居る宗教である。


Wikipedia-マニ教ー東方宣教とその影響
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E6%95%99#.E6.9D.B1.E6.96.B9.E5.AE.A3.E6.95.99.E3.81.A8.E3.81.9D.E3.81.AE.E5.BD.B1.E9.9F.BF

こちらを具に読んでみると実に面白い。


その教義の方はグノーシス主義の影響を色濃く受けたものでかの反宇宙的二元論的なもの、さらにゾロアスター教からの影響での善悪二元論ないしはギリシア哲学に於ける二元論の流れが組み込まれて居るとされて居ります。

然し結局はこのマニ教の場合も物質の世界を忌避、否定し、対して霊的なもの、つまり精神的なもの、ないしは観念的な世界を重視することで始原の宇宙への回帰を目指しそこで救済を得ようとして居るものである。


尚、この秘教中の秘教であるとも考えられるマニ教では極端な禁欲主義がとられているという点が特に興味深い。


Wikipedia-マニ教ー教団と戒律
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E6%95%99#.E6.95.99.E5.9B.A3.E3.81.A8.E6.88.92.E5.BE.8B

マニは悪からのがれることを説き、そのためには人間の繁殖までをも否定したとされているがこれはあくまで聖職者だけのことだったのだろう。

然し、仏教をはじめとする古代の宗教は必ずしも人間の繁殖を許容して居た訳ではないのである。

ーただし仏教も世俗の衆生に対して生殖を否定して居た訳ではない。あくまで僧侶ー沙門ーに対しての生殖を否定して居たのである。ー

されど近代教ーかの芥川 龍之介によればそれは生活教というものに当たるのだそうだがーに於いては人間はほぼ無制限に増えていっても良いことになって居る。

すなわち人間は自然を従えし善き存在でありやがては神にも近づいていく程の存在なのだそうである。

一体この薄汚い出来損ないの動物のどこが、この醜い心の動物のどこが神にも等しい存在であるのか私には皆目分からないのだが兎に角そういうことになって居るのだそうだ。
 
 
それから以上にもあるようにマニ教の聖職者は「真実」「非殺生・非暴力」「貞潔」「菜食」「清貧」の五戒を守り、厳しい修道に励むことを期待され、肉食も飲酒も禁止、殺生も植物の方でさえ禁じられて居たそうである。

其処で所謂清浄で道徳的な生活を送ることが要求されて居たようである。

尚宗教というものは、本来ならばそうしたものなのである。

それは厳しいものである。

甘いものではないのである。


かってはこうした厳しいものがこの世に結構多くあった。

このマニ教の戒律のように或いは仏教の戒律の如くに、または所謂武士の魂といったもののように、色々と精神的に厳しいものが世の中にはあった。


然し、近代教はその精神的な厳しさを大事なところに於いてむしろ失くして仕舞った。

そしてまた変なところでより強力な精神的な苦しみを付与して呉れるに及んだ。


つまるところ、人間存在が精神的に自らを律するという点ではそれをほとんど全部とっぱらって仕舞った。

それなのに近代以降の人間存在は不平等や戦争や恐慌や離婚や金欠といった諸の塗炭の苦しみと縁することの頻度が増したのである。

ゆえに近代社会とは自ら大きく苦の増す方向へと舵を切った社会なのだと言える。

それも精神的に自ら進んでその舵を切ったのである。